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2013.04.25

【資料集】 高知県の各小学校の記念誌にみるアジア太平洋戦争 注・順次書き入れています。最終更新・二〇一三年五月四日。

 西から東へ、記念誌が手に入り次第書き込んでいきます。

 【いの町立伊野小学校】

 伊野小学校創立百周年記念事業実行委員会『伊野小学・開校百年記念史』(伊野町立伊野小学校内事務局。昭和五十三年三月二十日)

 ・昭和十七年三月卒業の石川康道さんの文章から

 <『気をつけ!!頭(かしら)、中(なか)!!』

 昭和十六年、戦時中の朝礼である。小笠原校長が真中の壇の上で戦闘帽をきりりとかぶり私達に答礼の為[ため]、挙手の礼をしながら、眼鏡の奥で眼光が鋭く光っていた。

 冬の寒い朝、窓ガラスを一杯に開け、上半身裸になり、タオル又[また]はタワシで体中を赤くなる程の冷水摩擦で体を鍛えたものです。

 国民服の下はランニングシャツ一枚で、靴下などは無かった。素足に下駄、階下は階段は素足のまま、それが当然の事で贅沢[ぜいたく]は敵だったのです。>

 【香南市立岸本小学校】

 岸本小学校創立百二十周年記念誌編集委員会『宇多の松原 岸本小学校創立百二十周年記念誌』(岸本小学校創立百二十周年記念事業実行委員会。平成七年十二月九日)

 ・年表から

 一九四三年

 「干し草・桑の皮はぎなどの奉仕活動をする」

 「この頃、宇多の松原を切って輸送船を作り、飛行機用の松根油を取る」

 ・「前庭の忠魂碑」の写真が載っています。

 ・昭和九年元日に校庭の「国旗掲揚台落成式」をやったときの写真と解説が載っています。

 「校長先生が壇上で児童に訓示を行っています。来賓席には紋付の羽織・袴姿のいかめしい、町の有志の方々が並んでいます。」

 「戦前、戦中の軍国主義教育の基盤をなす皇国史観の高揚に日の丸、君が代の果たした役割は大きかったといえます。そういう意味から国旗掲揚台は必須の施設だったのです。」

 ・昭和十七年度卒業の門脇若夫さんの文章から

 <昭和十六・十二・八・大本営陸海軍部発表「本八日未明、西太平洋上において……」真珠湾攻撃です。小学生[国民学校生]でも、こりゃえいやろか?とショックでした。(中略)流れるは軍艦マーチ。マレー沖海戦・・プリンス・オブ・ウェールスとレパルスを海の藻屑に。緒戦の勝利にわれら小国民は有頂天になりました。>

 ・昭和十七年度卒業の畠中治水さんの文章から

 <私は「欲しがりません。勝つまでは」の合言葉の中で戦時教育を受けた一人であります。今想い出すと、待ちに待った修学旅行も中止となり学校生活と家庭生活も段々と厳しさを増す時期の事だったと思います。>

 ・昭和十九年度卒業の足立秀茂さんの文章から

 <当時の先生方は随分とご苦労された事と思います。授業に、食糧増産と、空襲対策に、又進学補習は夜間、灯火管制下で電球に丸い傘を付け重い布を巻き空襲警報に耳を澄ましての学習でした。>

 ・昭和十九年度卒業の濱田弘英さんの文章から

 <(前略)戦争中に在学した私達は出征兵士を送り、英霊となられた父や兄を迎え激動の中の国民学校の生活でした。>

 ・昭和二十二年度卒業の瀬川武彦さん(旧姓・近森)さんの文章から

 <授業中に突然鳴り出すサイレンの音、「ブウー、ブウー………」。空襲警報発令であります。机の上はそのままにして、いつもは走ると叱られる板張りの廊下も、この時だけは只[ただ]無我夢中で走り、土間でわら草履[ぞうり]をはくやいなや石の階段を一気に駆け下り、運動場西隣りの芋畑に飛び込む。やがて上空をアメリカのB29爆撃機が物凄[ものすご]い爆音を響かせながら西の方へ飛んで行きます。しばらくすると「ブワー」とサイレンの音、空襲警報解除です。胸をなで下ろしながら再び教室へ……。この様な状態を毎日繰り返し、それも次第に回数が多くなりました。

 学校から帰ると萱[かや]刈取りに香宗川の堤防へ、また桑畑に行き切ってある桑の木を集めてその木の皮はぎ、萱は軍馬の飼料とし、桑の木の皮は軍服の材料にするとのことでした。課せられた量を学校に持って行くのが宿題の代わりのようなものでありました。

 夜は夜で黒い布で囲った電燈の下で過ごしていましたが、度々の警報発令で、防空ごうの中で夜を明かしたこともあります。次第に状況が悪化し、ついに隣近所の人達と夜中に山奥へ疎開いたしました。煙を出してはいけないという事でご飯を炊く事が出来ず、炭火で煎[い]った米を食べた事は今でも忘れません。

 三月十五日、父戦死の報。(後略)>

 【奈半利小学校】

 奈半利小学校創立百周年記念事業実行委員会『那波の里』(昭和五十五年九月十八日)。

 ・奈半利小学校創立百周年記念座談会での昭和十九年度卒業生の西野撰さんの発言から。

 <昭和十四年入学で、個人的には一年、二年はあまり記憶にないですが、三年生の時、戦争が始まりました。高等一年の担任の信清先生は世界情勢をよく話してくださった。戦争が始まって三時間位した時、生徒は運動場へ出てラジオを聞き、アメリカの軍艦を二隻イギリスの軍艦を一隻沈めたという事を聞いた。又、戦争もきびしくなった時は、家で食べている御飯を検査され、白米は禁止、麦とイモを混ぜたものを食べるようにと言われた事、又、新校舎のあたりへ防空壕を掘った事等が思い出される。勤労奉仕、戦争型運動会、空襲、疎開先での終戦、その後、進駐軍が来たこと等、激動の少年時代でした。>

 ・「昭和十七年度体操風景」の写真に二枚掲載されていますが、下のものはほふく前進の訓練のようです。

 ・「昭和十九年度手旗信号練習風景」の写真も掲載されています。

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