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2013.04.24

【文学の勉強】 国木田独歩の書いた戦争。

 小説家の国木田独歩(くにきだどっぽ。一八七一年八月三十日~一九〇八年六月二十三日。満三十六歳没)は、いつくつか小説に「戦争と庶民」を描いています。

 きょうまでに読んだものではつぎのようなものです。

 『置土産』

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/42198_34793.html

 『号外』

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1055_15939.html

 『酒中日記』

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/332_43412.html

 ちなみに国木田独歩と戦争との関係ではウィキペディアにはつぎのようにあります。
 〈1894年、『青年文学』に参加。民友社に入り徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となる。この年起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加し、弟・収二に宛てた文体の「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となる。
 帰国後、日清戦争従軍記者・招待晩餐会で、日本キリスト教婦人矯風会の幹事 佐々城豊寿の娘・信子と知りあう。熱烈な恋に落ちるが、信子の両親から猛烈な反対を受けてしまう。信子は、母・豊寿から監禁されたり他の男との結婚を強要されたという。独歩は、信子との生活を夢見て単身で北海道に渡り、僻地の田園地帯に土地の購入計画をする。〉
 〈1904年、日露戦争が開戦すると、月1回の発行を月3回にし、『戦時画報』と誌名を変更。戦況をいち早く知らせるために、リアルな写真の掲載や紙面大判化を打ち出すなど有能な編集者ぶりを発揮し、また派遣記者の小杉未醒の漫画的なユニークな絵も好評で、最盛期の部数は、月間10万部をこえた。また、戦争終結後のポーツマス条約に不満な民衆が「日比谷焼き打ち事件」を起こすと、わずか13日後には、その様子を克明に伝える特別号『東京騒擾画報』を出版した。
 1905年5月の日本海海戦で、日露戦争の勝利がほぼ確実になると、独歩は戦後にそなえ、培ったグラフ誌のノウハウを生かし、翌1906年初頭にかけて、新しい雑誌を次々と企画・創刊する。 子供向けの『少年知識画報』『少女知識画報』、男性向けの芸妓の写真を集めたグラビア誌『美観画報』、ビジネス雑誌の『実業画報』、女性向けの『婦人画報』、西洋の名画を紹介する『西洋近世名画集』、スポーツと娯楽の雑誌『遊楽画報』など。多数の雑誌を企画し、12誌もの雑誌の編集長を兼任した。 だが、日露戦争の終結後、『近事画報』の部数は激減。新発行の雑誌は売れ行きのよいものもあったが、社全体としては赤字であり、1906年、近事画報社の社長の矢野龍渓は社の解散を決意した。
そこで独歩は、自ら独歩社を創立し、『近事画報』など5誌の発行を続ける。独歩のもとには、小杉未醒をはじめ、窪田空穂、坂本紅蓮洞、武林無想庵ら、友情で結ばれた画家や作家たちが集い、日本初の女性報道カメラマンも加わった。また、当時人気の漫画雑誌『東京パック』にヒントを得て、漫画雑誌『上等ポンチ』なども刊行。単行本としては、沢田撫松編集で、当時話題となった猟奇事件・臀肉事件の犯人・野口男三郎の『獄中の手記』なども発売した。〉

 『相弟通信』は、ここにあります。

 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888943/1

 黒島傳治『明治の戦争文学』が参考になります。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000037/files/45454_35421.html

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