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2013年5月

2013.05.01

【短歌】 若くして がんがさらった べっぴんの……。 

 若くして がんがさらった べっぴんの ブログ見ている 一年半か

 時われに 優しかりしか 老いの身で 勉学はじめて 六年になる

 

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【文化財学の勉強】 「周知の埋蔵文化財包蔵地」とは。

 「周知の埋蔵文化財包蔵地」について、インターネットでさがしたら、ここにわかりやすい説明がありました。

 http://www.re-words.net/description/0000000963.html

 以下の文化財保護法の以下の条文で規定されています。

   第六章 埋蔵文化財

 (調査のための発掘に関する届出、指示及び命令)

 第九十二条  土地に埋蔵されている文化財(以下「埋蔵文化財」という。)について、その調査のため土地を発掘しようとする者は、文部科学省令の定める事項を記載した書面をもつて、発掘に着手しようとする日の三十日前までに文化庁長官に届け出なければならない。ただし、文部科学省令の定める場合は、この限りでない。
 2  埋蔵文化財の保護上特に必要があると認めるときは、文化庁長官は、前項の届出に係る発掘に関し必要な事項及び報告書の提出を指示し、又はその発掘の禁止、停止若しくは中止を命ずることができる。

 (土木工事等のための発掘に関する届出及び指示)

 第九十三条  土木工事その他埋蔵文化財の調査以外の目的で、貝づか、古墳その他埋蔵文化財を包蔵する土地として周知されている土地(以下「周知の埋蔵文化財包蔵地」という。)を発掘しようとする場合には、前条第一項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日前」とあるのは、「六十日前」と読み替えるものとする。
 2  埋蔵文化財の保護上特に必要があると認めるときは、文化庁長官は、前項で準用する前条第一項の届出に係る発掘に関し、当該発掘前における埋蔵文化財の記録の作成のための発掘調査の実施その他の必要な事項を指示することができる。

 (国の機関等が行う発掘に関する特例)

 第九十四条  国の機関、地方公共団体又は国若しくは地方公共団体の設立に係る法人で政令の定めるもの(以下この条及び第九十七条において「国の機関等」と総称する。)が、前条第一項に規定する目的で周知の埋蔵文化財包蔵地を発掘しようとする場合においては、同条の規定を適用しないものとし、当該国の機関等は、当該発掘に係る事業計画の策定に当たつて、あらかじめ、文化庁長官にその旨を通知しなければならない。
 2  文化庁長官は、前項の通知を受けた場合において、埋蔵文化財の保護上特に必要があると認めるときは、当該国の機関等に対し、当該事業計画の策定及びその実施について協議を求めるべき旨の通知をすることができる。
 3  前項の通知を受けた国の機関等は、当該事業計画の策定及びその実施について、文化庁長官に協議しなければならない。
 4  文化庁長官は、前二項の場合を除き、第一項の通知があつた場合において、当該通知に係る事業計画の実施に関し、埋蔵文化財の保護上必要な勧告をすることができる。
 5  前各項の場合において、当該国の機関等が各省各庁の長(国有財産法 (昭和二十三年法律第七十三号)第四条第二項 に規定する各省各庁の長をいう。以下同じ。)であるときは、これらの規定に規定する通知、協議又は勧告は、文部科学大臣を通じて行うものとする。

 (埋蔵文化財包蔵地の周知)

 第九十五条  国及び地方公共団体は、周知の埋蔵文化財包蔵地について、資料の整備その他その周知の徹底を図るために必要な措置の実施に努めなければならない。
 2  国は、地方公共団体が行う前項の措置に関し、指導、助言その他の必要と認められる援助をすることができる。

 (遺跡の発見に関する届出、停止命令等)

 第九十六条  土地の所有者又は占有者が出土品の出土等により貝づか、住居跡、古墳その他遺跡と認められるものを発見したときは、第九十二条第一項の規定による調査に当たつて発見した場合を除き、その現状を変更することなく、遅滞なく、文部科学省令の定める事項を記載した書面をもつて、その旨を文化庁長官に届け出なければならない。ただし、非常災害のために必要な応急措置を執る場合は、その限度において、その現状を変更することを妨げない。
 2  文化庁長官は、前項の届出があつた場合において、当該届出に係る遺跡が重要なものであり、かつ、その保護のため調査を行う必要があると認めるときは、その土地の所有者又は占有者に対し、期間及び区域を定めて、その現状を変更することとなるような行為の停止又は禁止を命ずることができる。ただし、その期間は、三月を超えることができない。
 3  文化庁長官は、前項の命令をしようとするときは、あらかじめ、関係地方公共団体の意見を聴かなければならない。
 4  第二項の命令は、第一項の届出があつた日から起算して一月以内にしなければならない。
 5  第二項の場合において、同項の期間内に調査が完了せず、引き続き調査を行う必要があるときは、文化庁長官は、一回に限り、当該命令に係る区域の全部又は一部について、その期間を延長することができる。ただし、当該命令の期間が、同項の期間と通算して六月を超えることとなつてはならない。
 6  第二項及び前項の期間を計算する場合においては、第一項の届出があつた日から起算して第二項の命令を発した日までの期間が含まれるものとする。
 7  文化庁長官は、第一項の届出がなされなかつた場合においても、第二項及び第五項に規定する措置を執ることができる。
 8  文化庁長官は、第二項の措置を執つた場合を除き、第一項の届出がなされた場合には、当該遺跡の保護上必要な指示をすることができる。前項の規定により第二項の措置を執つた場合を除き、第一項の届出がなされなかつたときも、同様とする。
 9  第二項の命令によつて損失を受けた者に対しては、国は、その通常生ずべき損失を補償する。
 10  前項の場合には、第四十一条第二項から第四項までの規定を準用する。

 (国の機関等の遺跡の発見に関する特例)

 第九十七条  国の機関等が前条第一項に規定する発見をしたときは、同条の規定を適用しないものとし、第九十二条第一項又は第九十九条第一項の規定による調査に当たつて発見した場合を除き、その現状を変更することなく、遅滞なく、その旨を文化庁長官に通知しなければならない。ただし、非常災害のために必要な応急措置を執る場合は、その限度において、その現状を変更することを妨げない。
 2  文化庁長官は、前項の通知を受けた場合において、当該通知に係る遺跡が重要なものであり、かつ、その保護のため調査を行う必要があると認めるときは、当該国の機関等に対し、その調査、保存等について協議を求めるべき旨の通知をすることができる。
 3  前項の通知を受けた国の機関等は、文化庁長官に協議しなければならない。
 4  文化庁長官は、前二項の場合を除き、第一項の通知があつた場合において、当該遺跡の保護上必要な勧告をすることができる。
 5  前各項の場合には、第九十四条第五項の規定を準用する。

 (文化庁長官による発掘の施行)

 第九十八条  文化庁長官は、歴史上又は学術上の価値が特に高く、かつ、その調査が技術的に困難なため国において調査する必要があると認められる埋蔵文化財については、その調査のため土地の発掘を施行することができる。
 2  前項の規定により発掘を施行しようとするときは、文化庁長官は、あらかじめ、当該土地の所有者及び権原に基づく占有者に対し、発掘の目的、方法、着手の時期その他必要と認める事項を記載した令書を交付しなければならない。
 3  第一項の場合には、第三十九条(同条第三項において準用する第三十二条の二第五項の規定を含む。)及び第四十一条の規定を準用する。

 (地方公共団体による発掘の施行)

 第九十九条  地方公共団体は、文化庁長官が前条第一項の規定により発掘を施行するものを除き、埋蔵文化財について調査する必要があると認めるときは、埋蔵文化財を包蔵すると認められる土地の発掘を施行することができる。
 2  地方公共団体は、前項の発掘に関し、事業者に対し協力を求めることができる。
 3  文化庁長官は、地方公共団体に対し、第一項の発掘に関し必要な指導及び助言をすることができる。
 4  国は、地方公共団体に対し、第一項の発掘に要する経費の一部を補助することができる。

 (返還又は通知等)

 第百条  第九十八条第一項の規定による発掘により文化財を発見した場合において、文化庁長官は、当該文化財の所有者が判明しているときはこれを所有者に返還し、所有者が判明しないときは、遺失物法(平成十八年法律第七十三号)第四条第一項の規定にかかわらず、警察署長にその旨を通知することをもつて足りる。
 2  前項の規定は、前条第一項の規定による発掘により都道府県又は地方自治法 (昭和二十二年法律第六十七号)第二百五十二条の十九第一項 の指定都市若しくは同法第二百五十二条の二十二第一項 の中核市(以下「指定都市等」という。)の教育委員会が文化財を発見した場合における当該教育委員会について準用する。
 3  第一項(前項において準用する場合を含む。)の通知を受けたときは、警察署長は、直ちに当該文化財につき遺失物法第七条第一項の規定による公告をしなければならない。

 (提出)

 第百一条  遺失物法第四条第一項の規定により、埋蔵物として提出された物件が文化財と認められるときは、警察署長は、直ちに当該物件を当該物件の発見された土地を管轄する都道府県の教育委員会(当該土地が指定都市等の区域内に存する場合にあつては、当該指定都市等の教育委員会。次条において同じ。)に提出しなければならない。ただし、所有者の判明している場合は、この限りでない。

 (鑑査)

 第百二条  前条の規定により物件が提出されたときは、都道府県の教育委員会は、当該物件が文化財であるかどうかを鑑査しなければならない。
 2  都道府県の教育委員会は、前項の鑑査の結果当該物件を文化財と認めたときは、その旨を警察署長に通知し、文化財でないと認めたときは、当該物件を警察署長に差し戻さなければならない。

 (引渡し)

 第百三条  第百条第一項に規定する文化財又は同条第二項若しくは前条第二項に規定する文化財の所有者から、警察署長に対し、その文化財の返還の請求があつたときは、文化庁長官又は都道府県若しくは指定都市等の教育委員会は、当該警察署長にこれを引き渡さなければならない。

 (国庫帰属及び報償金)

 第百四条  第百条第一項に規定する文化財又は第百二条第二項に規定する文化財(国の機関又は独立行政法人国立文化財機構が埋蔵文化財の調査のための土地の発掘により発見したものに限る。)で、その所有者が判明しないものの所有権は、国庫に帰属する。この場合においては、文化庁長官は、当該文化財の発見された土地の所有者にその旨を通知し、かつ、その価格の二分の一に相当する額の報償金を支給する。
 2  前項の場合には、第四十一条第二項から第四項までの規定を準用する。

 (都道府県帰属及び報償金)

 第百五条  第百条第二項に規定する文化財又は第百二条第二項に規定する文化財(前条第一項に規定するものを除く。)で、その所有者が判明しないものの所有権は、当該文化財の発見された土地を管轄する都道府県に帰属する。この場合においては、当該都道府県の教育委員会は、当該文化財の発見者及びその発見された土地の所有者にその旨を通知し、かつ、その価格に相当する額の報償金を支給する。
 2  前項に規定する発見者と土地所有者とが異なるときは、前項の報償金は、折半して支給する。
 3  第一項の報償金の額は、当該都道府県の教育委員会が決定する。
 4  前項の規定による報償金の額については、第四十一条第三項の規定を準用する。
 5  前項において準用する第四十一条第三項の規定による訴えにおいては、都道府県を被告とする。

 (譲与等)

 第百六条  政府は、第百四条第一項の規定により国庫に帰属した文化財の保存のため又はその効用から見て国が保有する必要がある場合を除いて、当該文化財の発見された土地の所有者に、その者が同条の規定により受けるべき報償金の額に相当するものの範囲内でこれを譲与することができる。
 2  前項の場合には、その譲与した文化財の価格に相当する金額は、第百四条に規定する報償金の額から控除するものとする。
 3  政府は、第百四条第一項の規定により国庫に帰属した文化財の保存のため又はその効用から見て国が保有する必要がある場合を除いて、独立行政法人国立文化財機構又は当該文化財の発見された土地を管轄する地方公共団体に対し、その申請に基づき、当該文化財を譲与し、又は時価よりも低い対価で譲渡することができる。

 第百七条  都道府県の教育委員会は、第百五条第一項の規定により当該都道府県に帰属した文化財の保存のため又はその効用から見て当該都道府県が保有する必要がある場合を除いて、当該文化財の発見者又はその発見された土地の所有者に、その者が同条の規定により受けるベき報償金の額に相当するものの範囲内でこれを譲与することができる。
 2  前項の場合には、その譲与した文化財の価格に相当する金額は、第百五条に規定する報償金の額から控除するものとする。

 (遺失物法の適用)

 第百八条  埋蔵文化財に関しては、この法律に特別の定めのある場合のほか、遺失物法の適用があるものとする。

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【ニュース】 高知大学農学部の高知海軍航空隊耐弾式通信所跡が破壊されつつあります。 

 高知県南国市の高知大学農学部キャンパスの樹木園には高知海軍航空隊の耐弾式通信所跡があります。
 ここは、「古墳その他埋蔵文化財を包蔵する土地として周知されている土地(以下「周知の埋蔵文化財包蔵地」という。)」(文化財保護法 第九十三条)にもなっているはずです。
 五月一日、この地域が何者かによって破壊され、整地されていることを知りました。
 工事は、今後も続けられる様子だということです。
 高知海軍航空隊耐弾式通信所跡がどうなっているか心配です。

 どこがやっている何のための工事かということは明日調べに行こうと思っています。
 いずれにしても、以下の方向で声をあげていきたいと思っています。
 ・工事をストップしてください。
 ・遺跡をもとの状態にかえしてください。
 ・このさい、遺跡を公開し、希望者が見学できるようにしてください。

 この遺跡については、つぎのような資料に載っています。
 ・高知大学人文学部「臨海地域における戦争と海洋製作の比較研究」研究班「研究プロジェクトニュース」、二〇〇五年三月 一号。
 ・朝日新聞、二〇〇五年六月二十二日付「高知大地下に軍施設跡 航空隊の『耐弾通信所』 市民団体、保存求める」。
 ・高知新聞、二〇〇五年七月五日付「南国市・高知大農学部内の戦跡 地下通信所『残して』 市民団体が要望」。
 ・高知民報、二〇〇五年十二月十八日「戦争遺跡 地下通信所を残して 高知大農学部内 掩体壕保存と一体で」。

 高知大学の出したこの冊子にも載っています。

 http://www.kochi-u.ac.jp/src/maga/vol4.pdf

 埋蔵文化財法律については、ここにあります。

  http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/05/post-4f10.html

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【ニュース】 「富士山 世界遺産に登録へ」、いいね。でもね、その前に富士山のアメリカ軍、自衛隊の基地は撤去してほしい。

 「富士山 世界遺産に登録へ」、いいね。

 このニュースで知ったよ。

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130430/t10014292061000.html

 でも、その前に、富士山のアメリカ軍、自衛隊の基地を撤去してほしい。
 オートバイで富士山のすそ野を走っていたらものものしい集団に遭遇してえらい目にあったことがあったよ。

 その基地のことは、ここにも書いてあるよ。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E6%BC%94%E7%BF%92%E5%A0%B4

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E6%BC%94%E7%BF%92%E5%A0%B4

 富士山を戦争ではなく平和の象徴に。

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2013.05.02

【ニュース】 高知大学農学部の樹木園が、こんなありさまに!! 「周知の埋蔵文化財包蔵地」です。【写真、五枚あり】

 五月二日午前、南国市の高知大学農学部に行き樹木園=高知海軍航空隊通信所跡を見てきました。
 写真は、同大学の案内版の掲示板に描かれた樹木園です(この図は上が南になっています)。

Photo_5

 ところが、現状は、下の写真のようになっています。

Photo_2

 樹木園の木や竹が刈り取られて整地され、砂利が敷かれています。
 地下の高知海軍航空隊通信所跡への入口と見られるところが八か所あります。
 うち人力では動かせないほどの重い土のうを積んだ場所が六か所。この写真のような所です。

Photo_3

 そのままの所が二か所あります。下の写真のような所です。

Photo_4

 同大学の複数の部署に問い合わせたら、総合するとつぎのようなご返事がありました。

 ・工事は同大学の本部(高知市曙町)がやっています。
 ・昨年八月ころ、ここの木を切り、工事用の車の駐車場として使っていました。
 ・将来は、海洋コア総合研究センターの東に建物をつくり、ここは、その駐車場にする計画です。
 ・地下の施設には手を入れていません。
 ・高知海軍航空隊通信所跡をどう残していくのかは現在、議論、検討中です。

 樹木園の地域は、「周知の埋蔵文化財包蔵地」になっています。
 本来は、大学の意志だけで現状変更をしてはいけない所です。

 大学側の話によると、この行為について行政から是正の指導を受けているようです。

 ちなみに以下は、ある人の提供していただいた写真ですが、ここの地下にある戦争遺跡の一部です。

54

 【第一報は、ここにあります。】

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/05/post-b47a.html

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二〇一三年四月二十九日 月曜日 高知県立短期大学で同じゼミだったRMさんの告別式。

二〇一三年四月二十九日 月曜日 高知県立短期大学で同じゼミだったRMさんの告別式。

 晴れ。

 TAさんから高知県立短期大学で同じゼミだったRMさんが亡くなったという連絡がありました。
 六十一歳だったといいます。

 午後一時前、告別式にかけつけました。
 昨年九月、半年の命と宣告されていたいいます。
 俳句をつくりはじめていたといいます。
 私たちへのメッセージも用意されていました。

 在学中に僕のことが載った朝日新聞の記事をラミネート加工して贈ってくれたことを思い出しました。
 卒業してからも、みんなの幸せのためにと走り回っていた彼女。
 宣告以降の暮らしは、どんなにつらかったことか。

 家に帰ってからエッセイを一つ書き、授業の復習・予習。
 で、もう午前二時ですが、RMさんのことを思って寝ることができません。

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二〇一三年四月三十日 火曜日 槇村浩についての文章を書き上げて送信。

二〇一三年四月三十日 火曜日 槇村浩についての文章を書き上げて送信。

 雨。

 午前十時から学部の授業。午後六時まで。

 高知県立図書館へ。
 「七十二歳の高知大学の院生」も資料を探していました。
 
 午前零時前、槇村浩についての文章を書き上げて送信。締め切りを守ることができました。

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二〇一三年五月一日 水曜日 ついに『高知の戦争 証言と調査 二十一号』の「赤字解消」。

二〇一三年五月一日 水曜日 ついに『高知の戦争 証言と調査 二十一号』の「赤字解消」。

 晴れ。

 会津の戦争反対の運動についての本を送っていただきました。感謝。

 平和資料館・草の家で戦跡保存のための打ち合わせ。

 ついに『高知の戦争 証言と調査 二十一号』の「赤字解消」。印刷にまわすことができるようになりました。

 明日からつぎの号の編集にかかります。

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二〇一三年五月二日 木曜日 都都逸のCDを聴きました。

二〇一三年五月二日 木曜日 都都逸のCDを聴きました。

 晴れ。

 午前、SIさんと南国市の高知大学農学部に取材に行きました。

 原稿の注文あり。千字のものを三回。

 午後、高知県立大学の図書館のデーターベースを検索。

 MAさん宅に資料を持って行きました。
 また、おみやげをもらってしまいました(ナツミカン)。

 午後六時、高知文学学校へ。二時間。

 都都逸のCDを聴きました。

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【随筆】都都逸(どどいつ)のCD。

 ひょんなことから興味を持ってCDの「都都逸特選」、「柳家三亀松 都都逸名演集」を聴きました。
 内容は吉原あたりの芸妓の客の気持ちをひく「恋歌」のようなものが多かった。
 実際には庶民の喜怒哀楽を歌ったものもあると思うが、どうか。

 短詩型の作品を伴奏入りで単調なメロディーで歌う(このCDの場合は三味線の伴奏)。
 短歌も、もともと歌ったのではないでしょうか。
 短歌でも、やっていっていいことだと思いました。

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2013.05.03

【槇村浩の研究のために】 吉田豊道=槇村浩の著作物(文責・藤原義一)

高知の生んだ反戦詩人・槇村浩(本名・吉田豊道)の著作を年代順にまとめました。

【尋常小学校のころのもの】

・吉田豊道『唱歌集』。高知市第六尋常小学校。一九二一年。十歳の時の作品
。高知県立図書館蔵。

 ・『吉田豊道創作 童謡と童話』。高知市第六・尋常小学校お伽会。一九二二年七月。

・『大正十一年八月 吉田豊道創作 童謡と童話』。高知市第六尋常小学校。一九二二年八月。

 

・『吉田豊道作 唱歌集』。高知市第六尋常小学校。一九二二年十二月。

 ・『高知市第六小学校児童文集 蕾』。高知市第六小学校。吉田の八つの文章が載りました。一九二四年一月二十四日。
 

 なお、この時期の吉田豊道について書かれたものに、つぎのようなものがあります。

「高知の天才児 吉田豊道君」=週刊婦女新聞。一九二二年十一月十三日。

長瀬鳳輔「神童 吉田豊道君」=『新青年』三巻十一号。博友社。一九二二年九月一日)。

【中学生とのころ】

私立土佐中学校生徒のころ、『しかばね』(『モダン・マガジン』と改題)という同人誌を出していたといいますが、未発見。吉田自身は懸賞論文に当選した(時期不明)と書いていますが、これも未発見。

【詩人になって検挙、出獄までのもの】

・詩「生ける銃架満州駐屯軍兵卒に」=プロレタリア文化同盟の啓蒙誌『大衆の友』創刊号。一九三二年二月。執筆は一九三一年十月二十四日。

・青年たちが陸軍歩兵四十四連隊に配布した反戦ビラ。一九三二年二月。未発見です。

・詩「間島[かんとう]パルチザンの歌」=『プロレタリア文学』臨時増刊号。一九三二年四月。執筆は一九三二年三月十三日。

・詩「出征」=『大衆の友』四月号。一九三二年四月。

・詩「一九三二・二・二六 白テロに斃された××聯隊の革命的兵士に」。『大衆の友』四月号。一九三二年四月。

 ・詩「明日はメーデー」。一九三二年三月十七日執筆。出版されませんでした。

 ・「入所時感想録 六三五番 氏名 吉田豊道」。 一九三二年四月二十一日、自宅のあった高知市ひろめ屋敷(現・帯屋町二丁目)で治安維持法違反で検挙され、入獄。一九三五年六月、高知刑務所を出獄します。

 この時期の槇村の動向を知るための文書は以下のとおり。

・憲兵司令部編集『日本憲兵昭和史』。憲兵司令部。一九三九年七月。

・「高知隊出征前夜 隊並に高知市へ 反戦ビラを配布したもの 憲兵分隊と特高課が活動」=土陽新聞。一九三二年三月十五日。

・一九三三年四月二十八日の、信清悠久、小松益喜、吉田豊道への治安維持法違反被告事件についての高知地方裁判所刑事部の判決文。

【出獄後の作品】

・詩「田木繁に」。一九三五年八月三日。出版されませんでした。

・詩「獄内にてドイツの同志を思う歌 ――高知監獄にて――」。一九三五年八月二十三日。出版されませんでした。

・詩「詩諷 大江鉄麿諷射宣言」。一九三五年八月二十三日。出版されませんでした。

・詩「餅の歌 ――全農の林延造氏に――」。一九三五年八月三十一日。出版されませんでした。

・詩「同志古味峯次郎 ――現在高知監獄紙折工なる同氏に――」。一九三五年九月二十日。出版されませんでした。

・詩「ダッタン海峡 ――ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××同志のために――」。「一〇・一二」の日付が最後にあります。出版されませんでした。

・『人文主義宣言』。四百字詰め原稿用紙八十枚。一九三五十月三十日。出版されませんでした。高知県立図書館に、この原稿をコピーし製本したものがあります。

・詩「京都帝国大学」。「一・二十四」の日付が最後にあります。出版されませんでした。

・手紙 貴司山治宛て。『槇村浩詩集付人文主義宣言』の表紙のこと、その本に「アジアチッシュ・イデオロギー 第一部」の予告を入れてほしいこと。

・論文「アジアチッシュ・イデオロギー ――アジア的生産の政治・経済・文化批判――」。出版されませんでした。

・手紙 大谷氏従二宛て。発信、一九三五年八月二十八日。

・手紙 大谷氏従二宛て。発信、一九三五年九月十九日。

・手紙 大谷氏従二宛て。発信、一九三五年十一月二十九日。

・『日本ソビエト詩集』。一九三六年二月。発刊を計画しますが、実現しませんでした。

・詩「青春 献じる詞(牢獄にて)」。出版されませんでした。

・詩「獄中のコンミューンの戦士の詩を憶いて」。出版されませんでした。

・詩「異国なる中国の詩人に」。出版されませんでした。

・詩「シュレジェンの職工によせて」。出版されませんでした。

・詩「(ソリ)盲したる民族の憎しみ」。出版されませんでした。

・詩「同志下司順吉」。出版されませんでした。

・詩「野兎の歌」。出版されませんでした。

・詩「小熊英雄と藤原運」。出版されませんでした。

・詩「毛利孟夫に」。出版されませんでした。

・詩「大江満雄に」。出版されませんでした。

・詩「人民詩人への戯詩」。出版されませんでした。

・論文「我々は牢獄で何をなすべきか」。出版されませんでした。

・論文「華厳教と法華経」。出版されませんでした。

一九三八年九月三日、高知市新本町の土佐脳病院で死去。満二十六歳。

【戦後に編集、出版されたもの】

・貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』。新日本出版社。一九六四年十月十日 初版)。

・槙村浩の会編『土佐プロレタリア詩集 一九三一~三七』。槙村浩の会。一九七九年二月。

・槙村浩「生ける銃架」、「誤って転向を伝えられた同志たちに」= 『日本の詩 第二十四巻』の「近代詩集」三所収。集英社。一九七九年八月。高知県立図書館蔵。

・岡村正光、山崎小糸、井上泉編『槇村浩全集』。一九八四年一月二十日。

・槇村浩『日本詩歌史』。槇村浩の会。平和資料館・草の家。一九九五年十月二十一日。

・槇村浩『槇村浩詩集』。槇村浩の会。平和資料館・草の家。二〇〇三年三月十五日。

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濱田文平さんのブログ「文平座談」。

 ネットサーフィンしているうちに高知市の濱田文平さんがブログを残していることを知りました。

 「文平座談」です。

 ここにあります。

 http://parentshome.seesaa.net/

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二〇一三年五月三日 金曜日 槇村浩の著作リスト。

二〇一三年五月三日 金曜日 槇村浩の著作リスト。

 晴れ。

 ひたすらパソコンに向かっています。

 まず、槇村浩の著作リストをつくりました。

 買い物に。

 槇村浩について、もう一本、記事を書きました。

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【槇村浩の研究のために】 プロレタリア作家同盟第五回全国大会の「高知支部活動報告」。(藤原 義一)

  プロレタリア作家同盟の第五回全国大会は、一九三二年五月十一日から開催されました。そのなかで同同盟高知支部が活動報告をしています。

 その内容が、一九三二年六月二十日発行のプロレタリア作家同盟機関誌『プロレタリア文学』の「臨時増刊」(第五回全国大会議事録特集)に載っています。

 その内容を紹介します。

  高知支部活動報告

 高知縣に於ける特殊状勢と、それに對する支部當面の活動任務

 高知縣は、山地多く交通不便であり、原料品に乏しいため、近代的大企業大工業が極めて僅少である。

 只、僅かに高知市及びその近傍に、土佐セメント(從業員二百)两海晒粉土佐工場(從業員百)稲生石灰工場(從業員三百)片倉製糸(從業員二百)製紙工場二三、と電氣鐡道及び國鐡、縣下各地に散在する四五の製紙、製糸會舍社等、全縣下勞働者の數五萬二千に過ぎず、農村に於ては、大地主は殆どなく、自作農が大半を占め、階級分化は極めて緩慢である。縣下農民總數二十五萬人。また海岸至る處に生活する二萬五千の漁民、及び近代的文化と歿交渉の山間に搾取されつゝある林業労働者三萬。

 而して、現在、工場勞働者の間には、全協の組織が漸く伸び始めつゝあり、農村に於ては全國會議派が高岡地方に僅少の勢力を保持してゐるに過ぎず、漁業、林業勞働者に至つては全然左翼からは組織の手が伸びてゐない。

 我が作家同盟高知支部は、此の廣汎な未組織勞働者、農民大衆の間に精力的に文化運動の影響力を拡大しつゝある。

 文學新聞の取次部數七百。プロレタリア文學四十。我が同盟に指導されるサークル數、十八。

 そして、基本的諸組織の補助的組織としての活動をより效果的に果し文學活動をより活發に押し進めるために文學新聞一千突破!機關誌プロレタリア文學百突破! サークル五十突破を執拗に戦ひ抜かうとしてゐる。

 だが、現在の我々の活動の成果を振り顧る時、我々は、我々の影響力の大部分が重要目標たる工場に勞働者に確保されてゐずして、主として農民及僅少の農業漁業林業勞働者に押し進められて來たと云ふ事である。

 是は、我々の組織活動が、文學的要求の比較的大であった農村間に自然發生的に、大衆に牽きずられて來た事、我々が計爀畫的、ねらひ打ち的に工場への食ひ込みをやつてゐなかった事を意味するものである。

 で、我々の當面する活動任務は

一、企業内への影響力の浸透、確保

二、農民文學委員會の組織

三、組織活動と創作活動の統一

四、新幹部の養成

 而して、是らは何れも全縣下の勞働者農民漁民の心に一様に不滿を抱かせてゐる高知第四十四聯隊の上海出兵を中心に執拗な反戰闘争を通じてのみ果敢に遂行されるものである事を確信する。

  文 学 新 聞 報 告

 一、高知支部取扱部数 七百部

  但し、七、八、九項號は發行所の都合及び支部文新部の財政窮迫のため、取扱部 数は約半減された。

 二、紙代納入状態 約三十%

  是は、一九三一年十二月一日より三日にかけて持たれたプロ文學講演会の損失の埋め合はせに、紙代の一部を廻はした事、及び新聞の配布が極めて無統制になされ、紙代の回収が困難になつた事のためである。が現在は紙代納入の悪い所には、發送中止部數減忠告等により紙代納入状態は百パーセントに近くなつた。そして是までの紙代の滯納分は紙代完納カムパを起し發行所への借金を支拂ふべく努力する。

 三、文學新聞配布状態

  農 民  一八九    製 紙    五

  学 生   六二    交 通   一〇

  製 糸   五一    一般使用人  五

  化 學   五〇    書 店   六二

  漁 民   三五    其 他  二三一

 四、文學新聞讀者階級別割合

  勞働者            〇、二八

  農民(漁民を含む)      〇、三一

  學生小市民その他一般街頭分子 〇、四一

 五、文學新聞通信員      一五名

 同 盟 員 增 加 状 態

 

 七月支部準備會設立以来(九月まで)

  弘田競、佐野順一郎、織田一平

  槇村浩、辻猪之吉、福重重滿、毛利猛夫、山村一夫、

 十 月

  奴田原三郎、坂雄作

 十一月

  川島 利勝

 十二月

  石川秀、河野一

 一月

  木山 喬

 二月

東條旨夫、上岡良一、邦見主殿、永田徹

                    以上、 十八名

 教 育 部 報 告

 1 研究會

 a  作品研究會「プロ文學」「文新」「大衆の友」「働く婦人」等の小説・詩、評論等に關する批判研究會を毎週一回持つてゐる。

   b 政治ケイ經濟研究會 始め獨自に持つ豫定であつたが、力關係を考慮し、科學者同盟高知支準の研究會に合流してゐる、毎週一回、主として當面の時事問題を直ちに取り上げて分析批判してゐる。

 2 同盟員、サークル員の文學的教育

   期間を限り、課題を付し、作品を募り、その出来榮に應じ、批判を付し返却し、研究會に付し、或は本部へ送附してゐる。

 3 「基本的諸組織への「貯水地」の役割を果す點に就いて

   共靑・全協・全農全國會議の組織部と密接な連絡を保ち、サークル・メンバーの才能に應じて、基本的諸組織へ引き渡し、サークルと分會との關係は、工場の事情、各の會合の情態、ビラまきや流し込みの順序等を考慮して、最も效果的に、基本的諸組織への貯水地として役立ち得るやうに計畫した。

 4 今後の見透し

   農民文学研究會、詩研究會の確立、ニュースの發行、講習會の催し等々

  作品活動報告

 弘 田  競作

 (小説)補充兵訓練 コップ高知地協刊行反戰パンフ「赤いラッパ」

  (小説)東京と高知 コップ高知地協刊行選擧パンフレット

  (シュプレヒコール)東北の兄弟を救へ 高知職場座上演臺本

 佐野順一郎作

  (小説)縊 死「赤いラッパ」

  (戯曲)(小林多喜二作より脚色)壁にはられた寫眞  高知職場座上演臺本

辻猪之吉作

 (小説)三太郎やあい「赤いラッパ」

毛利猛夫作

 (詩)俺は古参の二等兵「赤いラッパ」

槇村浩作

 (詩)生ける銃架「大衆の友」創刊號

  財 政 部 報 告

 同盟員の支部に納入すべき責任額

  本部費

  支部費

  事務所維持費

 納入期日、毎月二十五日

 然るに、同盟員十名の中、是が完全になされてゐるもの殆んど半數に過ぎず然も、昨年十二月一日―三日に開催した、講演カムパの負債に現在も惱まされてゐる状態である。

      三月一日以降、全國大會に至る期間に、財政活動の整理統一をなす事が決議された。

  企 畫 活 動 報 告

 一、藝術討論の夕

   十一月七日ロシア革命記念日午後六時

   主 催 作同を主體としてプロキノ、プロット、高知プロ美術研究會

   会 費 十錢

   参加者 十五人。(小市民7勞働者8)

   内 容 革命記念日及び文化聯盟の話  佐野順一郎

       プロレタリア藝術について   弘田  競

       藝術方法に於ける唯物辯證法の問題 織田 一平

       藝術運動に於ける組織問題   槇村  浩

       プロ美術について       里須 條二

   それ〲分擔説明し、藝術方法に於ける辯證法の問題が盛

に論じられた。

  二、プロレタリア文學と映の夕

    十二月一日――三日

    講 師 江口 渙、貴司山治、池田壽夫

    一 日 高知(高知座)聽衆五百。勞働者農民五割

    二 日 高岡町、聽衆二百。九割まで農民

    三 日 山田町、聽衆二百。八割まで農民

    總計約一千名の聽衆に、プロレタリア文學の意義任務、等を充分に浸透さす事が出來、以後支部活動に大いに役立つたのであるが、一方、此のカムパの財政的損失は現在まで支部の財政的基礎をおびやかしてゐる。未だ負債も全部支拂つてゐない。

  三、プロレタリア文學座談会

    十二月一日、高知座に於て講演會終了後直ちにカフェ―ブラジルに於て座談會開催

    参會者 八十名

    文學新聞、農民文學、大衆化の問題等が活發に論じられた。

 四、第二回藝術討論會

主催はコップ高知地協であつたが實質的には作家同盟の主催となつた。

一月二十日三Lデーの夜六時半

カフェ―ブラジルにて

 会 費 十セン

 参会者 十名、勞働者

  参會者の少い事は我々の組織的影響が高知市及高知市附近

一帶の勞働者農民の間に行き渡つてゐない證據である。

  内 容

  三Lデーの説明              弘田  競

  詩朗讀(森山啓、レーニンの鐘)      毛利 猛夫

三Lデーの意義、詩の朗讀にアヂられた聽衆から、黨、及び黨

   の鬪争方針に對する意見(大衆黨員から)客観的政治状勢、

   等の物凄い話が盛に論じられた。

 五、反戰パンフレット刊行

   是もコップでやつたが作家同盟がイニシアチーブを取つて發行。

   三Lデーの鬪争期間に出すべき處、一月末に種々の事情で伸びた。

   四六判、騰写刷、七十四頁

  内 容

  一、論文、三レデーの話、戰争とはやり歌、ブル映を蹴飛ば

     せ

  二、詩、俺は古参二等兵、勲章(宮木喜久雄作戰旗より轉載)

  三、カール・ローザの略歴

  四、漫二號題

  五、世界現状地図

  六、我等の旗日

  七、小説補充兵訓練。三太郎やあい。縊死。

    尚扉に適當な歌がなかつたため「インタナショナル」を掲載

    即日、発禁、

    是に對する勞働者からの批判。

     根本的なものとして滿洲問題が附随的に敢扱はれ、全體と

    して、戰争の本質がバクロされてゐない事から、勞働者農民を如何に支配階級が戰争に動員するかゞ鮮明でない。

      パンフにはやさしい滿洲問題の解説が當然のるべきであつた。(此のパンフには、滿洲問題の話が載る筈であつたが、あまり頁數が多くなるので滿洲問題の話はプロ科學者同盟高知地方準備會から單行本として出版する事になつた。)

 六、反戦スゴ六、ストライキ詩集中止の件

   反戦スゴ六は、實質的にはPP支準でやるべき處PP支準構成員の意識の低いのを指導しつゝ我が同盟が率先して是を提唱し、原文は全部我が同盟が作りPP支準に提供したが、PP支準構成員の個人的都合により中止となる。ストライキ詩集は、是非必要であるが作同高地支準に人手が足りないためと相當な時日が必要であるため一時中止する事にした。

 七、選擧鬪争パンフレットの刊行

   選擧鬪争パンフレットをコップから出す事になってゐたが大衆の友の選擧特輯號が出る事になつたので、それの附録として、高知の状勢に應じたものを添附する事に變更、

     作家同盟から弘田競作「東京と高知」小説提供

八、文學講習會の開催

  三月十五日より四日間

  高知市東片町南松淵事務所に於て

  目的、プロレタリア文學運動の意義任務の普及及び我が同盟

   の新しき働き手の獲得

 講義種目及び分擔

  高知社會藝術運動史       木山 喬

  プロレタリア文學總論      弘田 競

  社會民主々義及びブルジョア文學批判(未定)

 ソヴェート文學紹介       毛利 猛夫

  農民文學論           弘田 競

  反戰文學論           槇村 浩

  藝術方法に於ける唯物辯證法   織田 一平

  組織問題            織田 一平

  課外、小説の作り方、文學新聞の話

  尚、此の講習會は第一期講習會であり、特に重大と思ふ課目のみを取りあげたのである。 

  また、サークルから必ず一人以上の出席者を送らす事になつてゐる。

    機 関 紙 配 布 状 態

 

 取扱部数   四十部

 讀者別、

 一、工場勞働者 六名、

    内 譯  同 盟 員  一

         文新通信員  三 

         普通讀者   一

 二、農 民   七名

    内 譯  同 盟 員  五

         文新通信員  二

 三、一般使用人 十二名 

         同 盟 員  二名

         普通讀者  十名

 四、學生        八名

    (全部高等學校學生同盟員三名)

 五、同盟員       七名

 誌代回收状態

 現生、發行所に約二十圓の滯納である。支部に人手が足りないため

と、生活程度の低いためとで、一部分を除く外、支拂ひが極めて惡

い。

四月の大會までには全額完納の計である。

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スカンポってイタドリのことなんですね。

 土手のスカンポ…の歌のスカンポって何? という記事を見た人が、あれはイタドリのことと教えてくださいました。

 ネットを探したら、ありました。

 スカンポとイタドリは同じもののようですね。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%89%E3%83%AA

もともとのテーマは、この歌のことでした。

  http://hakusyu.net/Entry/73/

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すごかったんだね。アントニオ猪木の引退演説。初めて聴いたよ。

 すごかったんだね。アントニオ猪木の引退演説。雄弁です。

 初めて聴きました。

 http://www.youtube.com/watch?v=BV_L31OSq-Q

 ちなみに、僕は息絶えるまで引退しないつもり。

 アントンの 引退演説 聴いている 僕の引退 息耐えるとき

 残念。

 この人が石原さん・橋下さんの政党から出馬するなんて。

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【槇村浩の研究のために】 槇村浩の詩が読めるサイト。

http://www.urban.ne.jp/home/festa/makimura.htm

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【槇村浩の研究のために】 貴司山治資料館がネット上にありました。

 貴司山治資料館がネット上にありました。

 ここです。

 http://www1.parkcity.ne.jp/k-ito/index.htm

 当時のプロレタリア文学運動のことを知るうえで貴重なサイトです。

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2013.05.04

【槇村浩研究のために】インターネットで反戦詩人・槇村浩に会いに…… 藤原 義一

 ネットに高知の生んだ反戦詩人・槇村浩(まきむらこう)と、それに関連することがたくさん配信されています。
 一覧表をつくりました。
 まだ、整理していません。項目を増やしながら整理していきます。

 どうぞ、それらのページを、ご訪問ください。

  【槇村浩の紹介】

 〇槇村浩
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E6%9D%91%E6%B5%A9

 〇槇村 浩
 http://www.minken.city.kochi.kochi.jp/makimura.html

 〇槙村浩のこと
 http://plaza.rakuten.co.jp/warakoma/diary/200303010000

 【槇村浩の作品】

〇動画 間島パルチザンの歌(日本語、ハングル、英語)
 https://picasaweb.google.com/101816497407694464903/PGzli?authkey=Gv1sRgCJqirqTZ7NLSyQE#5667759772747314162

〇槇村浩「間島パルチザンの歌」
 http://www.toburoso.org/makimura.htm .

 〇槇村浩「間島パルチザンの歌」「京都帝国大学」「獄中にてドイツの同志を思う歌」「獄中のコンミューンの戦士の詩を憶つて」「詩諷 大江鉄麿諷射宣言」「出征」「シュレジェンの織工によせて」 (2012年03月07日一文追加)
 http://d.hatena.ne.jp/s3731127306/20120210/1328835379

 〇槇村浩「明日はメーデー」「誤って健康を伝えられた同志たちに(1)転向」
 http://d.hatena.ne.jp/s3731127306/20120209/1328756244

 〇槇村浩「同志下司順吉」「同志古味峯次郎」「野兎の歌」「盲したる民族の憎しみ」「毛利孟夫に」「餅の歌」「森山啓に」(2012年03月07日一文追加)
 http://d.hatena.ne.jp/s3731127306/20120212/1329010087

 〇間島パルチザンの歌(抜粋)その1 槇村 浩

 http://blogs.yahoo.co.jp/y48212/31209292.html

 〇間島パルチザンの歌(抜粋)その2 槇村 浩
 http://blogs.yahoo.co.jp/y48212/31209298.html

 【槇村浩の戦友たち】

 〇貴司山治資料館
 http://www1.parkcity.ne.jp/k-ito/index.htm

 【論文】

 〇尹東柱,小林 多喜二,鶴彬,槇村浩を中心に
 http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/107174/1/18804314-61-08.pdf

 【槇村浩の墓と詩碑】

 〇槇村浩の墓
 http://www.youtube.com/watch?v=B3_ntBVJ_ME

 〇反戦詩人槇村浩の墓
 http://ameblo.jp/kudushishi02/entry-11474730818.html

 〇間島パルチザンの歌 槇村浩の墓
 http://www.kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?tname=exc_board_16&uid=1293&fid=1293&thread=1000000&idx=1&page=1&number=876

 〇「間島パルチザンの歌」詩碑
 http://d.hatena.ne.jp/nmh470530/20130223/1361576032

 〇間島パルチザンの歌 〔224〕2003/11/26
 http://www.himawarimilk.co.jp/diary/?No=224

 【槇村浩生誕百周年】

 〇槇村浩生誕100周年、間島を訪ねる旅
 http://www.youtube.com/watch?v=SM7JZ-AabDU

 〇中国延辺大学生が「パルチザンの歌」を朗読しました。
 http://www.youtube.com/watch?v=7qlxCaVZkzU

 〇2012年秋 「間島」を訪ねる旅 2 延辺大学での交流会 戦争に反対した詩人 槇村浩
 http://4travel.jp/overseas/area/asia/china-jilin_province/travelogue/10710859/?cid=goo_oem

 〇<生誕100年の革命詩人・槇村浩>中国の朝鮮民族に伝わった「間島パルチザンの歌」
 http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/599.html

 【アジアの見た槇村浩】

 〇김정웅 - 조글로 槙村浩と彼の抒情詩―「間島パルチザンの歌」

 http://www.ckywf.com/blog/read/jinzhengxiong/132706

 〇韓日交流の場 - 金正勲のホームページ

 http://kjh.rakurakuhp.net/u_,i_182754,Pn_5.htm

 【新聞報道】

 〇届いていた「間島パルチザンの歌」 海越える国際連帯 戸田郁子『中国朝鮮族を生きる』
 http://www11.ocn.ne.jp/~jcpkochi/minpo/topic/2011/110807toda.html

 【槇村浩と出会って】

 〇2013-04-01 北の多喜ニ、南の槇村浩~“槇村浩に会いに”
 http://d.hatena.ne.jp/makimiya/20130401

 〇多喜二と槙村浩
 http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/86ce9af20024494e59163a0b9c045cd1

 【ブログ高知(藤原義一)の記事から】

 〇【槇村浩の研究のために】 吉田豊道=槇村浩の著作物(文責・藤原義一)
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/05/post-37df.html

 〇【データ】 高知の反戦詩詩人・槇村浩(まきむら・こう)の「間島(かんとう)パルチザンの歌」の詩碑のこと。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/05/post-63b7.html

 〇雑誌『新青年(しんせいねん)』、一九二二年九月号に長瀬鳳輔「[讀物]神童吉田豊道君」が掲載されているというメール。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/07/post-7a22.html

 〇【資料】 一九三〇年四月二十五日の福島での軍隊への反戦ビラ配布。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/04/post-9bf8.html

 〇〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ①  「神聖にして侵すべからず」の人の支配のもとで
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-ea12.html

 〇〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ② 吉田の尋常小学校生のころ
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/04/post-3280.html

 〇〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ③ 私立土佐中学校生徒のころ
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-2c17.html

 〇 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ④ 高知県立中学海南学校の二年生に
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-712f.html

 〇〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ⑤ 岡山市の関西中学校五年生に
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-432e.html

 〇〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ⑥  高知へ帰ってからの十四か月間
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/04/post-3280.html

○【槇村浩の研究のために】一九三二年三月くらいまでのサトーハチロー、北原白秋、西條八十の「好戦的な小唄」ってどんなもの?
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/05/post-cb8d.html

 〇【槇村浩研究のために】 雑誌『プロレタリア文学』の反戦詩
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/04/post-ab6d.html

 〇そして反戦詩人が誕生した 槇村浩の場合  藤原 義一
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/04/post-07d8.html

 〇一九三二年二月から四月の高知県での反戦ビラ配布 藤原 義一
 fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/files/kohihansen.doc‎

 〇【研究】 吉田豊道の反戦詩人・槇村浩への飛躍 はじめに 藤原 義一
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/04/post-f4c0.html

 〇高知市 反戦のたたかいの方向までしめした槇村浩の詩 「没後七十周年記念の夕」での猪野睦さんに納得。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/09/post-336a.html

〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その一 「間島 一九三二年三月」を訪ねて。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-6064.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その二 えっ、「♪クロパトキンの首を取り 東郷大将 万々歳」。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-58f2.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その三 長春市の偽満皇宮博物院を見学。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-2f6f.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その四 吉林省延辺朝鮮族自治州成立六十周年です。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-4493.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その五 龍井(りゅうせい)の歴史から。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-968d.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その六 龍井の朝鮮銀行龍井出張所跡を見ました。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-3f5d.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その七 「奪取十五万元事件遺址」
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-6afb.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その八 間島日本総領事館を見ました。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-6e73.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その九 一九二八年二月結成の中国共産党龍井村支部の碑を見ました。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-5eb8.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十 詩人・尹東柱(ユンドンジュ)さんの詩「序詩」の石碑。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-3948.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十一 龍井(りゅうせい)市の「三・一三反日義士陵」。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-acd6.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十二 “五卅暴動”指揮部址を見ました。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-ffc4.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十三 延辺大学の先生、学生との交流会。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-5ece.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十四 薬水洞(やくすどん)ソビエト政府の跡地を見ました。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-2116.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十五 白頭山に登りました。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-02e6.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十六 図們国境大橋を見ました。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-b99e.html

 〇槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十七 瀋陽から高知市へ。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/09/post-35d6.html

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【槇村浩の研究のために】一九三二年三月くらいまでのサトーハチロー、北原白秋、西條八十の「好戦的な小唄」ってどんなもの?

 一九三二年四月一日発行の雑誌『プロレタリア文学 四月号』を読んでいたら「好戦的な小唄を次々と発表してゐる」人としてサトーハチロー、北原白秋、西條八十の名があがっていました。
 どんな「小唄」をつくったのでしょうか。
 もしデータをお持ちでしたら、教えていただけませんでしょうか。

 私にいまわかっているのは、これらの人の、もう少しのちの「好戦的な小唄」です。

 たとえば、

 〇サトウハチロー(本名・佐藤八郎。一九〇三年五月二十三日~一九七三年十一月十三日)。
 ・「めんこい子馬)」。
 一九四〇年十二月にコロムビアレコードから発売された童謡。サトウ・ハチロー作詞、仁木他喜雄作曲。
 陸軍省選定・東宝映画『馬』(監督・山本嘉次郎、助監督・黒澤明、主演:高峰秀子)の主題歌としてつくられましたが、劇中では使われず、国民歌謡として、一九四一年一月十七日から松原操の歌で放送されました。
 歌は、少国民向けの軍歌ともいえるもの。

 一 ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露 
   呼べば答えてめんこいぞ オーラ 掛けて行こうよ丘の道 
   ハイド ハイドウ 丘の道
 二 藁の上から育ててよ いまじゃ毛並みも光ってる 
   お腹こわすな風邪ひくな オーラ 元気に高くないてみろ
 三 ハイド ハイドウ ないてみろ
   紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
   遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を
   ハイド ハイドウ お話を
 四 西のお空は夕焼けだ 仔馬かえろかおうちには
   お前のかあさん待っている オーラ 唱ってやろかよ山の唄
   ハイド ハイドウ 山の唄
 五 明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ
   軍馬になって行く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ
   ハイド ハイドウ してやるぞ

 以下を参考しました。
 http://www.youtube.com/watch?v=casUFefi9lo
 http://www.youtube.com/watch?v=2b_UiixaVAA
 http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-gunba-elesy.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%84%E4%BB%94%E9%A6%AC

 ・「勝利の日まで」。
 一九四四年三月十日、ニッチクレコード(のちの日本コロムビア)から発売された戦時歌。
 作詞・サトウ・ハチロー、作曲・編曲・仁木他喜雄。
 一九四四年、日本放送協会に委嘱して作られ、同名の映画に先立ち、同年三月十日、ニッチクレコード(のちの日本コロムビア)から発売されました。
 映画は、監督・成瀬巳喜男、脚本・サトウ・ハチロー。

 一 丘にはためく あの日の丸を
   仰ぎ眺める 我等の瞳
   何時かあふるる 感謝の涙
   燃えて来る来る 心の炎
   我等はみんな 力の限り
   勝利の日まで 勝利の日まで

 二 山で斧ふる おきなの腕も
   海の若者 櫓を漕ぐ腕も
   町の工場の 乙女の指も
   今日も来る来る お国のために
   我等はみんな 力の限り
   勝利の日まで 勝利の日まで

 三 雨の朝も 吹雪の夜半も
   思うは一つ ただただ一つ
   遠い戦地と 雄々しき姿
   浮かび来る来る ほほえむ顔が
   我等はみんな 力の限り
  勝利の日まで 勝利の日まで

 四 空に飛び行く 翼に祈り
   沖をすぎ行く 煙に誓う
   国を挙げての この戦に
   湧いて来る来る 撃ちてし止まん
   我等はみんな 力の限り
   勝利の日まで 勝利の日まで

 http://www.youtube.com/watch?v=b4asKSvVvxc
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%BE%E3%81%A7
 http://www.geocities.jp/abm168/GUNKA/syori.html

 〇北原白秋(きたはらはくしゅう。一八八五年一月二十五日~一九四二年十一月二日)。
 「1930年(昭和5年)、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。1932年(昭和7年)、吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。1933年(昭和8年)、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降『赤い鳥』に筆を執ることはなくなる。また同年の皇太子誕生の際には、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。1934年(昭和9年)、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。」

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8B

 〇西條 八十(さいじょうやそ。一八九二年一月十五日~一九七〇年八月十二日)。

 ・「若鷲の歌」。
 作詞・西條八十、作曲・古関裕而。
  海軍飛行予科練習生募集のための映画「決戦の大空へ」の挿入歌としてつくられました。
 ・「同期の桜」。
 作詞・西條八十、作曲・大村能章。
  原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、少女倶楽部一九三八年一月号に発表された西條の歌詞を元とし、とある海軍士官が勇壮にアレンジしたもの。
 ・「比島決戦の歌」。
 作詞・西條八十、作曲・古関裕而。
 読売新聞が軍の依頼を受けて西條と古関に依頼しました。
 一九四四年十二月十七日に発表会がおこなわれ、同年十二月二十六日に酒井弘、朝倉春子、ニッチク合唱団によってレコーディングされました

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%A2%9D%E5%85%AB%E5%8D%81

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%AD%8C

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二〇一三年五月四日 土曜日 一日中パソコンとお付き合いしていました。

二〇一三年五月四日 土曜日 一日中パソコンとお付き合いしていました。

 晴れ。

 槇村浩研究との関連で当時の詩人たちの動向を調べ始めました。

 資料不足で、これからというところで終わりました。

 小学校の記念誌に見る戦争、少し書き進みました。

 企画展の準備。

 気がついたら、もう今日も残りわずかです。

 食事と写真焼きだしの時間を除いて一日中パソコンとお付き合いしていました。

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2013.05.06

二〇一三年五月五日 日曜日 「戦争壕を探しに 高知県いの町のI地区を歩く 一~十六】をツィッターにアップしました。

二〇一三年五月五日 日曜日 「戦争壕を探しに 高知県いの町のI地区を歩く 一~十六】をツィッターにアップしました。

 晴れ。

 弟の車に妻と同乗させてもらって、いの町へ。
 妻と戦争遺跡探し。
 そのことは「戦争壕を探しに 高知県いの町のI地区を歩く 一~十六】としてツィッターにアップしました。
 僕のツィッターは以下にあります。

 @bqv01222

 帰りも弟の車で。
 途中、バイキングの店に入りました。
 最初にカレーライス、うどんを食べたせいか、三十分ほどで「お腹ポンポン」に。
 「制限時間二時間」だったのに失敗。
 帰って一時間睡眠。
 妻はテレビでテレビの「なんとかの桜」を見るとすぐパタン、キュー。
 「狭い、きつい道を登らされて」とブツブツいっていましたが、かなり疲れていたようです。
 僕は、午前二時ころまでパソコンに向かいました。

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二〇一二年五月六日 月曜日 勉強、十時間。

二〇一二年五月六日 月曜日 勉強、十時間。

 晴れ。

 午後零時より勉強スタート。

 英作文。リポート一つ作成。

 志賀直哉の小説「焚火」。

 『万葉集』。

 『土佐日記』。

 槇村浩。資料二つ作成。

 要領が悪くなっていて、うまく進みません。

 もう午後九時です。

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【『万葉集』を読み解くために】 万葉仮名についてのサイト。

http://go.microsoft.com/fwlink/?LinkId=69157

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%AE%E5%90%8D
http://www.h5.dion.ne.jp/~tomo321/mannyou50hyou.htm

http://fubako.s150.xrea.com/kanajiten.html

http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/kana/home.html

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/1ran.htm

http://nadukenayo.oh-maria.com/manyougana.html

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6084/manyougana.htm

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戦争遺跡保存ネットワーク高知『高知の戦争 証言と調査』第二十一号(二〇一三年五月)、近日出版。

   目    次

 1945年8月16日、高知県住吉の震洋特別攻撃隊で起こったここと 特別攻撃隊員だった金野四郎さんの手記

 金野四郎さんの手記と住吉の第128震洋隊のこと 藤原 義一

 松山、虎尾、岡崎 海軍航空兵としての日々 中城 達雄 

 姉のこと、義兄・健吉さんのこと 上杉 利則

 大東亜戦争下の広海軍工廠 近安  要

 香南市の急斜面にある戦争の爪痕 福井 康人

 小説 南満州の青春③ 新立屯飛行基地での飛行訓練 三本 好文

 【表紙の写真】

 土浦海軍航空隊で練習機前に立つ金野四郎さん

 【裏表紙の写真】

 震洋艇を運ぶための車の車輪(高知県香南市夜須町住吉)

 A5判、六十ページ。二百円。

 注文は、 bqv01222@nifty.com へ。

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2013.05.07

【短歌】 いの町 一九四五年

 「いの町の 紙工場に 行きました」 風船爆弾 つくったおとめ

 母の姉 箱爆弾を つくったと わがいの町の そのときのこと

 いの町で 決戦兵器 つくらせた 「軍隊手帳」の 終わりの記述

 「このふもと 横穴を十(とう) つくってた」 八十代の 姉妹が語る

 道わきの 建物裏の 横穴は 真っ直ぐに掘り 左に続く

 やっぱりね いのの町にも 決戦兵 陣地づくりを 見ていた少国民(こども)

 アメリカの 戦車に挑む タコツボに こもった兵の 心の震え

 このへこみ 防空壕が あったとこ 「児童の僕も 逃げ込んだとこ」

 いの町で 戦争寡婦が 懸命に もがいて生きて 逝った日のこと

 憲法の 公布直後に 生を得て 兵に取られず 六十六歳

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【江戸の都々逸(とどいつ)の勉強のために】都々逸関係の文献のある所。

 探しました。結果的に菊池真一さんの仕事のリストになりました。

 翻刻・都々逸(文学・文化編)  菊池 真一

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004627940

 入都々逸本・翻刻(文学・文化編) 菊池 真一

 http://ci.nii.ac.jp/els/110004680869.pdf?id=ART0007413054&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1367924045&cp=

 落語と都々逸 菊池真一

 http://www.j-texts.com/dodo/rakudodo.html

 辻占都々逸研究 菊池 真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/52-2.html

 風流俗謡集 湯朝竹山人
 http://www.kikuchi2.com/dodo/furyu.html

 絵入都々逸集
 http://www.kikuchi2.com/dodo/eiridoah.html

 辻占都々逸研究 菊池 真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/52-2.html

 都々逸資料紹介 菊池真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/52-3.html

 都々逸資料翻刻 菊池真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/54.html

 薄物都々逸研究 菊池真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/56-4.html

 光盛舎さく丸の「どどいつ」本 菊池真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/57-1.html

 歌沢能六斎の都々逸本 菊池真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/57-2.html

 街道物都々逸研究 菊池真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/57-3.html

 百人一首詠込都々逸研究 菊池 真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/57-4.html

 いろは都々逸研究 菊池真一
 http://www.kikuchi2.com/kounan/58-1.html

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【随筆】 「はなこう」って……。読み違いはつらいよ。

 五時間目の授業で古典文学を外国人の若い男性の先生に習っています。

 「ここを読んでください」

 うっと思いました。

 専門書で、どう読んでいいかわからない漢字がならんでいます。 

 読んでいると、やっぱり、読み方を間違ってなおされたところがありました。

 略解(りゃくげ)を「りゃくかい」と読んでしまったのです。

 ウルウル。

 少ししょげて家に帰って午後六時台のテレビニュースを見ていたら、若い女性アナウンサーが、ウッという感じで「はなこう」といいました。

 えっと思ったら男性の声が入りました。「花(か)こう岩!」。

 わっはっはと笑ってしまってから、反省。

 <ひとごとではないわい>

  【追記】

 あとで辞書を見てみたら「りゃっかい」ともいうそうですね。

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【随筆】「あんたは、えいわねー。ゆやーえいからね」。妻の本日までの口ぐせ。もういわないそうです。

 「あんたは、えいわねー。ゆやーえいからね」
 妻の僕へのあてこすりです。
 夜中のパソコン作業のおかげでフラフラと起き上がる夫。

 ボーっとしながらも、「新聞は?」、「風呂は?」、「下着は?」、「飯は?」。

 妻は、これにカチンときて、冒頭のせりふをはくのです。質問するたびに、いちいち、反撃してくるのです。

 たいてい妻は僕より一時間くらい前に起きます。ネコ三匹の食事のしたくと、中国語の勉強のためです。それが忙しいので、勝手な夫のせりふに腹をたてるのです。

 「新聞は?」 「まだ、おもて」
 「風呂は?」 「じぶんでわかして」
 「下着は?」 「所定の位置」
 「飯は?」 「炊けてるけど、おかずはない」
 という答えが返ってくることも多いというのに、「あんたは、えいわねー。ゆやーえいからね」は、かかさずいうのです。

 今朝は、「べつに、いやなら何にもやらんでええけど、そんないやみはいうな」と厳命。
 「はいはい、もういいません」
 といいながら、ぶつぶつ。
 「あんたは、えいわねー。ゆやーえいからね」
 また、いっています。
 抗議すると「もう、これからは、いわん」
 よーっし、この約束はまもってもらいましょう。

 「きょうは、これと、あれと、あれがある」。妻は、午前九時には外出。家に帰り着くのは僕より遅いのが通例です。帰ってくるとネコの食事、風呂、中国語の勉強、テレビのドラマなどの鑑賞、ナンクロ、持ち帰ったパソコン仕事など。夫とは口をきくひまもありません。

ちなみに僕は妻に「食事用の買い物、食事つくりは僕がやるから、あんたは手をひけ」といっているのに、妻は拒否し続けています。「あんたのつくったブサイクなものは食べれん」といって。

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【随筆】 わが家のメスネコ「クニョ」。毎夜、僕の胸の上で……。

 わが家にはネコが三匹いますが、私たち夫婦に一番愛されているのがメスネコ「クニョ」。

 僕がベッドに入る前には二階の隣の部屋で寝ています。

 で、僕がベッドに入って、天向きになって寝込むと、彼女は僕のフトンの上に乗って、僕の胸のあたりで寝はじめます。

 「重い。胸が、く、くるしい」と「縦」になると、トットットと身をかわし、また僕の肩あたりに陣取って寝はじめます。

 朝。目覚めるとクニョはいなくなっています。

 一階で朝食中です。

 食事をやるのは妻です。

 夜、僕が帰ってくるとクニョは「帰ったかね」という調子で僕を一べつ。

 ところが妻の自転車の音が聞こえるとワクワクといった感じで外に迎えにいきます。

 「はやく、夕飯をちょうだい」

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2013.05.08

志位和夫(しいかずお)さんが、七日からツィッターを始めています。ここです。

https://twitter.com/shiikazuo

以下が、「第一声」でした。

日本共産党の志位和夫です。本人です。今日から始めます。よろしくお願いします。

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2013.05.09

二〇一二年五月七日 火曜日 来週、英作文の試験。

二〇一二年五月七日 火曜日 来週、英作文の試験。

 晴れ。

 午前十時二十分から夕方まで学部の授業。
 英作文の時間にリポートを提出。来週は試験!

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二〇一二年五月九日 水曜日 三人で香南市、高知市朝倉の戦争遺跡の見学。

二〇一二年五月九日 水曜日 三人で香南市、高知市朝倉の戦争遺跡の見学。

 晴れ。

 午前九時半過ぎから三人で香南市、高知市朝倉の戦争遺跡の見学。

 午後、戦争遺跡保存の問題で取材。

 五時間目、『万葉集』の授業。
 高知大学図書館へ。
 お目当ての本はありませんでしたが、槇村浩研究関連で三冊ゲット。

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日本共産党の浜川百合子さんたちの福島視察のビデオが、ここにありました。

http://www.jcp-sikoku.jp/staff/archives/293

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2013.05.11

二〇一三年五月十日 金曜日 雨のなか九〇CCのバイクで走り回った一日。

二〇一三年五月十日 金曜日 雨のなか九〇CCのバイクで走り回った一日。

 雨。

 雨のなか九〇CCのバイクで走り回った一日でした。

 南国市指定史跡「前浜掩体群」五号掩体公園オープン(五号掩体で)の写真取材。
 以下、橋詰壽人・南国市長のあいさつ。
 「この貴重な戦争遺跡を後世に伝えてゆく。子どもたちには学習の場として、そして、たくさんの市民、県民、国民のかたがたには平和の尊さというものを、この掩体群から学びとっていたただく、これに役に立てばということで、この五号掩体のみならず、できれば、ご協力を地権者のかたにいただいて、今後とも、できるだけ多くの掩体を残していきたいと思っておるところでございます。」
 橋詰さんは、高知県立高知追手前高校のとき同学年でした。

 日本共産党比例と高知選挙区の浜川百合子さんの事務所開きを見ました。
 とっても明るいムードでした。

 平和資料館・草の家へ。
 昼ごはんとコーヒーとケーキを、ごちそうになりました。
 一九四五年七月四日のアメリカ軍のB29の爆撃のあとの高知市のワイド版の写真を展示していました。
 
 午後四時からの一対一の授業へ。
 先生の文学的教養には、すごいという感じ。指導も的確で本当に勉強になります。
 高知県立図書館に寄って四冊借りてきました。

 帰るとテーブルの上に干しイモを入れた皿がありました。
 食べていて気がつきました。
 妻は、きょうは実家泊とのことでした。
 台所を探すとイワシの袋詰めがありました。
 干しイモと、イワシ、ごはん少々の遅い夕飯でした。

 ある新聞の連載記事を書きました。
 まず一回目、千字。写真二枚。締め切りの午前零時前に送信しました。

 もう午前一時半。
 あすの授業の用意をして、寝ることにしましょうか。
 

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グーグルマップで、わが家を検索してみたら、わが家の写真まで載っていました。おたくの場合は……。

 グーグルマップで自分の家の番地を打ち込んで検索してみたら、わが家の写真が載っていました。

 壁の絵、はってあるポスター、近くにとまっている車……。写真は最近のものです。

 すごいことになっていますね。

 あなたも試してみませんか。

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2013.05.13

【日本の古典の勉強】 『万葉集』の「天皇」たち。

 以下の『万葉集』検索ソフトで「天皇」の言葉のある歌を検索してみましたが結果は十四首。

 http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php

 「おほきみ」で検索すると、よりたくさんの歌が出てきました。

 『万葉集』平安成立説もあるが、まだ最高支配者を天皇といっていなかった時代に編集されたものではないか。

  【「天皇」について】

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87

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えーと、アンダーバー(_)の入力方法は……。

 えーと……。
 ローマ字入力では、Shiltを押したまま「ろ-」のキーを押せば出てきました。

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【ニュース】「旧高知海軍航空隊通信所跡の保存を考える会」を結成。

 高知県南国市の高知大学農学部の敷地内にある旧高知海軍航空隊通信所跡が破壊の危機にあります。
 そのことに気づいた戦争遺跡保存に熱心な人たちが五月十三日、高知市内で話し合いをして「旧高知海軍航空隊通信所跡の保存を考える会」を結成しました。
 当面、・県民に広く事態を知ってもらうこと、・破壊をしている当事者、文化財を守るべき行政に、この遺跡の保存をと申し入れることなどを確認しました。
 同会の連絡は、つぎのとおりです。

 高知市枡形九の一一 平和資料館・草の家 気付

       電話 088-875-1275

 【旧高知海軍航空隊通信所跡とは】

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/05/post-19da.html

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旧高知海軍航空隊通信所跡とは。【写真、三枚】

 高知海軍航空隊通信所は、耐弾電信所です。
 高知海軍航空隊が、戦後、アメリカ軍に出した「引渡目録」(防衛省防衛研究所蔵)にも、その位置が示されています。
 その施設が、二〇〇五年二月二十二日に、南国市物部二〇〇の高知大学農学部の構内で発見されました。発掘・測量は、清家章さん(高知大学考古学研究室)、出原恵三さん(高知県埋蔵文化財センター)でした。
 翌年六月十三日、高知県教育委員会が、その遺跡がある樹木林などの場所・約四千平方メートルを文化財保護法の「周知の埋蔵文化財包蔵地」と決定しました。
 同法は、埋蔵文化財を包蔵する土地として周知されている土地(周知の埋蔵文化財包蔵地)を、土木工事その他、埋蔵文化財の調査以外の目的で発掘しようとする場合には、文部科学省令の定める事項を記載した書面で、発掘に着手しようとする日の六十日前までに文化庁長官に届け出なければならないとしています。それほど貴重な遺跡だということです。
 高知県教育委員会の「埋蔵文化財包蔵地調査カード No.040284」には、この耐弾電信所の概要がつぎのように記載されています。
 〈旧高知海軍航空隊の通信施設。高さ3mほどの掩体[えんたい]で覆われる。地上構造物は戦後撤去されたが、地下構造物は現存する。開口部は4ケ所あり、地下構造物は長さ15・5m、幅2・7m、高さ2・4mを測る。内部は大小4つの部屋にコンクリート壁で仕切られる。壁面の一部に照明用と考えられる引き込み線の巻かれた碍子[がいし]が残る。今後、床面等を精査すれば、遺物、遺構が検出される可能性が大である。〉〈残存状態の極めて良好な戦争遺跡である。〉

 この包蔵地は、以前は、こんな様子でした。

93_2

 この地下に、こんな施設が残っていました。

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 林だった、この上が、いまは、こんなふうになっています。

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2013.05.14

【ニュース】五月十三日の日本維新の会の橋下徹共同代表の発言要旨 ここにありました。〈慰安婦制度は必要なのはこれは誰だってわかる。〉〈沖縄の海兵隊・普天間に行ったとき、司令官に「もっと風俗業を活用してほしい」と言った。〉

http://www.asahi.com/politics/update/0514/OSK201305130144.html

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2013.05.30

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 一〇一三年五月十四日 火曜日 「やばい。でも、いまは死ねん」。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 一〇一三年五月十四日 火曜日 「やばい。でも、いまは死ねん」。

 晴れ。

 朝食をとって高知市内の大学へ。
 午前十時二十分から二時間目。
 昼食はサンドイッチ。
 午後零時十分ころ、学内を歩いているとき足に地がついていない感じ。おかしい。
 午後零時半から三時間目。英作文の時間。最初に英作文の十分間テスト。単語のスペルが出てこない。
 四時間目。ボールペンを落とす。なかなか拾えない。また落とす。
 授業の感想文も名前を書いただけ。
 五時間目。途中で「脳こうそくかもしれんこのままではいかん」。先生に「救急車を」といおうとしましたか声がでません。
 先生が察してくれて女子学生の携帯電話を借りて電話してくれました。
 みんなでベッドが入れるようなスペースをつくってくれました。
 やがてピーポーの音。
 大学の女性職員がついてくれました。
 救急車のなかで症状を聞かれましたが、ほとんどしゃべることができませんでした。
  「A病院へ行きます。」
 「いや。行きつけのK病院へ」
 「K病院には脳外科がありません。T病院は、ベッドがいっぱいです」 
 近くのA病院に運ばれました。
 まずは一階のER救急蘇生室。
 ここで医師に病状を聞かれましたが、ほとんど言葉が出ません。
 そして地下のMRIへ。
 「金属は持っていませんね。耳せんをはますよ」
 ものすごい音のなか、二十分ほど、ここで横たわりました。
 すべての段階で意識ははっきりしていて「やばいけ。でも、いまは死ねん。やっとかんことが、まだいっぱいある」と思っていました。
 MRIを出てきたところで口がきけるようになつていました。
 なめらかに経過をのべることができました。
 相手は若い女性の医師。
 「脳こうそくになりかけましたが、こうそくは残っていません。脱水気味でしたので、今後はひんぱんに水を飲んでください。二週間入院していただきます」
 「ずっとコーラをのんでいたんですけど……。リュックサックにもあります」
 「それは、利尿作用がありますので。水か茶にしてください」
 「(無理だとは思いつつ)あのう、病室にパソコン環境はありますか」
 英作文と反戦詩人・槇村浩の勉強をすすめておきたいと思ったからです。
 「いっさいありません。ICUです」
 部屋の外には妻がきてくれていました。
 胸に心電図の線、右腕に血圧計と線、左腕に酸素濃度を計る機械の線、これが計器につながっています。
 それに腕には点滴のチューブ。
 このかっこうで七階の集中治療室へ。
 しばらくして入室してきた妻に各方面への連絡を頼みました。
 十六日の記者会見のこと、二十六日の愛媛県でのシンポジウムの報告をパスすること、ホテルのキャンセルのこと、あすの飲み会の欠席のこと。
 荷物はもっていかれましたが、ワープロだけは確保しました。
 トイレに行きたい。合図をすると二人の男性看護士が来てくれました。車いすをついてくれました。
 妻がもう一度来てくれていました。
 迷惑な話ですが教室で悪くなって良かったと思いました。すぐに一〇九番してもらえました。これが一人のときだったら、そのまま逝っていたと思います。
 夜九時消灯。
 しかし、寝ることができません。
 ひっきりなしの救急車の音。
 同室の酸素マスクをした男性の苦悩にみちた大いびき。 
 「救急を…」 いおうとしたが 声出ない わが入院のはじめのシーン

 「名前は」に 答えられない人乗せて
 救急車両
 病院めざす

 グアングアンの MRAの 三十分
 抜け出てやっと
 言葉が戻った

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月十五日 水曜日 電気ひげ剃り、洗面用の温かいタオル、歯磨きセット……。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月十五日 水曜日 電気ひげ剃り、洗面用の温かいタオル、歯磨きセット……。

 晴れ。

 ベッドの上の暮らしです。
 午前三時半に起きました。
 午前六時、起床。
 電気ひげ剃りを持ってきてくれました。
 洗面用の温かいタオルをもってきてくれました。
 歯磨きセットをもってきてくれました。
 そして、午前七時四十五分、朝食。
 ごはん、おひたし、みそ汁、牛乳、水。
 男性の看護師が体をふいてくれました。
 みそしるがおいしい。
 男性の看護師が体をふいてくれました。
  点滴をしているのでトイレの回数が多い。

 医師の話。私が飲んでいた「血液サラサラ」の薬が効いていなかったとのことです。
 妻が来ました。
 男性看護師のFUさんが勤務あけに見舞いにきてくれていたようですが、面会を断られたようです。
 午後から二人部屋に変わることにしました。
 一日千五百円。
 二人部屋に変わりました。
 しばらくして、もう一人入ってきました。

 妻とARさんが来てくれました。
 ARさんは般若心経を書いてきてくれました。
 そして、戦死した親戚の遺品を平和資料館・草の家に寄贈してくれました。

 午後九時、消灯。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○一三年五月十六日 木曜日 「わーーっ、こんなにも読めない」。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○一三年五月十六日 木曜日 「わーーっ、こんなにも読めない」。

 晴れ。

 これから「書きたい論文のテーマ」を入力すると参考にすべき文献を一つずつ表示してくれる機械があります。僕のテーマを入力すると次々と文献が提示されていき終わることがありません。「わーーっ、こんなにも読めない」。それで目が覚めました。
 うーーん。

 やってきた妻と打ち合わせ。

 FUさんが見舞いに来てくれました。
 高知大学農学部の文化財包蔵地に、新たに数メートルの深さの穴がいくつも掘られ、そこにゴミがすてられているとのこと。あんまりだ。
 
 テレビ三局が記者会見の内容を報道。
 夕方、高知放送、サンサンテレビで。
 高知放送では発掘時の映像も。
 NHK総合テレビは夜九時前のニュースで放映。

 午後九時、消灯。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○一三年五月十七日 金曜日 二回目の発作。体が、うまくうごきません。しゃべれません。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○一三年五月十七日 金曜日 二回目の発作。体が、うまくうごきません。しゃべれません。

 晴れ。

 夜中に悪夢を見て起きました。
 尿意。
 ところが体が、うまくうごきません。しゃべれません。
 介護でようやくトイレ。
 右半身がマヒしています。
 看護師が点滴を追加してくれました。
 一時間ほどして正常に。

 午前六時、起床。

 NAさんが来てくれました。
 『高知の戦争 証言と調査』原稿を持って。

 午後、FUさんが来てくれました。
 妻が来てくれました。
 KAさんが来てくれました。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○一三年五月十八日 土曜日 入院後、はじめての入浴。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○一三年五月十八日 土曜日 入院後、はじめての入浴。

 晴れ。

 三回目の発作を恐れて 寝つけなかった
 「ええ、ままよ」
 思いきって寝ることにした

 なぜか歌劇をつくろうと準備していた
 しかし、なぜ、僕がこのテーマ
 キリスト賛美の
 しばらくして夢から覚めたことに気づいた

 体は動くだろうか
 そろりそろりとさぐりを入れてみる
 動きそうだ
 そうだトイレだ
 ナースコールを押した
 車いすに乗ることができた

 まだ午前三時だという
 ベッドに天向きになって考えた
 きついやまいのベッドにいる若い友のことを
 なんとか生き返ろう
 君も僕も

 朝のNHKの短歌の番組で全裸になることのすすめ。そんな歌を詠んでみたい。

 朝食。

 Oさんが来てくれました。
 妻が来てくれました。

 昼食。
 
 初めての風呂。

 五回目の 朝を迎えたうれしさよ 四か所を線で つないでいるが

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○二〇一三年五月十九日 日曜日 起きたら無事でした。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二○二〇一三年五月十九日 日曜日 起きたら無事でした。

 雨。

 起きたら無事でした。

 発作なし 血圧もよし すべてよし 六日早朝 わが身のニュース

 一時間ごとに血圧計が作動しますので、そのたびに目がさめてしまいます。

 朝食。

 昼食。

 北原白秋の好戦詩についてのメモをつくりはじめました。

 ARさんが来てくれました。
 ARさんはフィリピンから帰ったばかり。
 今後、ブカジル、フランスと行き、もう一度、フィリピンに行くそうです。
 彼にKEさんの見舞いを頼みました。

 妻が来てくれていました。
 Nさんが来てくれました。
 Dさんが来てくれました。

 夕食。

 下剤、二錠。

 今夜から 薬変えます 医師がいう 副作用例 チェックしている

 人生を あきらめないが テーマだね 病床でみた 映画のこころ

 これからは 一つひとつを 絶筆の つもりで書こう 病やんでの思い

  【メモから】 

 北原白秋(一八八五年一月二十五日~一九四二年十一月二日)は、以前から「僕らは純です。祖国(そこく)よ、母よ/僕らは立ちます。日(ひ)あしのやうに。」と少年に呼びかける 「少年(せうねん)の歌(うた)」(一九二八年一月一日の『少年倶楽部』十五巻一号)を書くなど威勢のいいものをうたう詩人でもありました。
 白秋の詩は、とくに一九三〇年の満州旅行(半官半民の特殊会社・南満州鉄道株式会社の招き)をきっかけに、そのころからアジア太平洋戦争開始五後の一九四二年まで、満州国づくりなど侵略戦争進展の動きとつながりを持ちつつ、子どもたち国民に「敵」を撃て、戦えと呼びかける役割を果たすものが目立つようになります。
 槇村浩が反戦の詩をつくりました。
 この詩は、中国侵略に動員されている日本の兵たちに銃を後ろに狙い剣を後ろに構え「自らの解放に正しい道」を選ぼうと呼びかけた詩です。
 この詩の価値は、当時のはやりの好戦詩と比べるときわだちます。
 北原白秋の、一九三二年二月十日、「戦(いくさ)ごつこ」を紹介しておきます。同年二月二十一日の大阪朝日新聞の日曜コドモノペーシに発表されました。

 〈鉄(てつ)の兜(かぶと)に、機関銃(きくわんじゆう)、
 機関銃、
 進め、名誉(めいよ)の聯隊旗。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 走れ、野砲(やほう)に装甲車(そうかふしや)、
 装甲車、
 赤い夕日だ、満州(まんしう)だ。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 駆(か)けよ、蹴(け)とばせ、雪、氷(こほり)、
 雪、氷、
 零下(れいか)二十度、こりやすごい。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 
 なんだ塹壕(ざんがう)、鉄条網(てつでうもう)、
 鉄条網、
 うなれ、空から爆撃機(ばくげきき)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 投げよ、手(て)ん手(で)に手榴弾(てりうだん)、
 手榴弾、
 たかが馬賊(ばぞく)だ、追ひちらせ。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 喇叭(ラツパ)ふけふけ、そら進め、
 そら進め。
 つづけ、後(あと)から看護卒(かんごそつ)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 鉄(てつ)の兜(かぶと)に、機関銃(きくわんじゆう)、
 機関銃
 僕ら、子供の日本軍。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。〉
  

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十日 月曜日 「薬が効いていないので変えます」。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十日 月曜日 「薬が効いていないので変えます」。

 晴れ。

 午前五時四十五分、起床。

 連続で 七時間も 寝れました  やまいの床での 一つの前進

 これまでは二、三時間ごとに目が覚めていました。

 抗凝固剤のバーファリンを飲んでいました。朝食後。二くらいの値にならないといけませんが、しばらくは一くらいでした。
 今回の入院時に検査したら〇・九でした。
 本日、医師が来て、こういいました。
 「入院後も、バーファリンを続けていましたが、値は一ほどで効いていません。抗凝固剤には新しいものではプラザキサとイグザレルトがあります。これらはナットウを食べてもいいものです。今晩からプラザキサに変えます。これは朝二錠、夜二錠です」

 妻が来ました。
 大阪市の息子が来ました。
 大阪の息子に電話したのが午前十一時。やってきたのが暗くなる前。

 Iさんが来てくれました。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】二〇一三年五月二十一日 火曜日 「歩いても よくなりました」。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】二〇一三年五月二十一日 火曜日 「歩いても よくなりました」。

 晴れ。

 午前五時四十分に起きました。

 やる気もう  底つきかけた  朝のこと「何度でも」聴く  もう十回目

 朝食。

 妻が来ました。
 息子が来ました。

 SAIさんが来てくくれました。
 SAKさんが来てくれました。

 予兆のこと。ある人いわく。「朝、二階で起きて一階のトイレに行って、階段を上がりよったら頭の中でピカッした」。「ノウが悪いねや」といいつつ寝ました。二時間あと目が覚めら体の左側が動かなくなっていました。気がついた奥さんが119番しました。脳こうそくでした。
ノウがは、調子がの意味。

 「ゴムをオニのようにまいちゅうねえ」 という言葉にであいました。 オニは、ものすごく多い という意味でしょうか。愉快な表現でした。

 「歩いても よくなりました 」 おおそうか  入院八日目  新たな一歩

 ナースコール ピーピー と鳴り  タッタッタッ  消灯あとも起きてる館

 友、われに 「あしたの朝」の あることを  強く念じて 眠りに入る

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十二日 水曜日 「すごいねえ、八十歳でか 三浦さん」。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十二日 水曜日 「すごいねえ、八十歳でか  三浦さん」。

 晴れ。

 昨日から点滴のスタンドをツエにして自分の足でトイレに行っています。それまでは車いすで介護つきでした。

 TAさん、HAさん、来訪。

 MO森夫妻が来てくれました。

 妻が来てくれました。

 「旧高知海軍航空隊通信所跡を保存・整備してください  歴史資料や平和教育に生かすために」の書名がはじまっていました。脇口宏・高知大学長、橋詰寿人・南国市長あてです。旧海軍航空隊通信所跡の保存を考える会がやっているものです。

 すごいねえ、八十歳でか  三浦さん  六十六も 学びの峰に

 息子さんの取材で札幌市手稲山のご自宅にうかがったことがあります。雪が積もった山道を革靴で。転んでカメラをこわしてしまい、三浦さんちのカメラを借りて取材しました。

 平沼・維新さんの戦地慰安婦発言、ひどい。日本軍の関与はなかったといいたいようだ。強制連行はなかったとする橋下・維新さんの論の上をいくひどさ。ところが僕の読んだ新聞の、その記事のあつかいは一見出し。ことの本質をしめす解説もなし。この新聞は、きちんと目くじらをたてるべきです。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】二○一三年五月二十三日 木曜日 「二十四時間いっしょにいてくれる彼女」。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】二○一三年五月二十三日 木曜日 「二十四時間いっしょにいてくれる彼女」。

 晴れ。

 「二十四時間いっしょにいてくれる彼女がきたよ」と女性の看護師さん。
 「ぼくに、そんな人いたかいな」と思ったら、点滴液の補充でした。

 妻が来ました。

 KIさん、OSさんが来ててくれました。

 SIさんが来てくれました。 
 槇村浩について話しました。

【メモ】

  槇村浩の詩「青春  献じる言葉(牢獄にて)」の中学生のころのことを書いたところに「M.ボタン」という言葉が出てきます。何のことでしょうか。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十四日 金曜日 小中学校のころの生育史のメモ。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十四日 金曜日 小中学校のころの生育史のメモ。

 晴れ。

 ベッドの上で小中学校のころの生育史のメモを作成中です。

 ちょうど伊野小学校、伊野中学校の一学年下のYAさんが来てくれました。
 彼女からいろいろ話が聞けて参考になりました。

 アベさんの カンフル剤が うまく効き 日本経済 悲鳴上げてる

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】二〇一三年五月二十五日 土曜日 「点滴は二十七日までになっています。」。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】二〇一三年五月二十五日 土曜日 「点滴は二十七日までになっています。」。

 晴れ。

 朝のテレビの「新報道2001」。日本共産党の笠井さんの橋下維新さんへの批判、すごくいい。

 妻が来てくれました。

 SIさんが来てくれました。
 ARさんが来てくれました。MIさんからの本をもって。

 看護師さんいわく。「点滴は二十七日までになっています。」。

 十ニ日   病院食で ごしてて  くびれできない  ためこみ肥満

 点滴は  あと二日間  それからは まだ退院の みとおしはなし

 わが心 震わす歌を  読みたくて 詠んでみている   昨日も今日も

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十六日 わが病室から心電図モニター計を撤去。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十六日 わが病室から心電図モニター計を撤去。

 妻が来てくれました。

 午後四時、わが病室から心電図モニター計を撤去。
 一歩前進か。

 NAさん、SAさん、DAさんが来てくれました。
 A、Mコンビが来てくれました。

 寝ていてふっと上を見たら青年が立っていました。
 いま授業が一緒のKAさんでした。
 花束をいただきました。

  【メモ】

 BSのNHKでソ連共産党の弾圧とたたかったチェコのマルタさんの物語を見ました。「世界を刻んだ歌  ヘイジュード」です。日本共産党もソ連共産党の干渉とたたかっていたときの物語です。苦悩しながらのたたかい。涙がでました。

 いろいろ「いまやりとげておかなくてはならないこと」についてかんがえています。おちついたら戦前のプロレタリア詩人・筒井泉吉さんのことを調べようと思っています。彼は高知の水上署で殺されています。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十七日 点滴の針を除けてくれました。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十七日 点滴の針を除けてくれました。

 曇り。

 朝五時半、起床。五十分、採血。
 この血の分析、血液をサラサラの薬が効いているかどうか、で「今後」が決まります。

 妻が来てくれました。
 OSさんが来てくれました。

 入院してから気がついたのは足を支えないと腹筋運動ができないということ。
 それが、午後五時、できました。まずは二十五回。
 うれしい。

 午後七時五十分、点滴の針をのけてくれました。

 【メモ】

 大阪市北区天満での二十八の母、三歳の息子の餓死。なぜ、こんなことに。
 橋下市長は、どう対応しているのでしょうか

 別件で、ある新聞記者に電話。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十八日 妻に手紙を代筆してもらいました。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十八日 妻に手紙を代筆してもらいました。

 雨。

 妻が来たので、ある人への手紙を代筆してもらって、もっていってもらいました。

 SIさんが来てくれました。
 弟が来てくれました。

NIさんが、新聞のコピーを持ってきてくれました。高知市旭の防空壕跡のことを高知新聞がとりあげてくれました。夕刊でデカデカと。

 【ある人への手紙[高知の防空壕について] 要旨】

 昨日、うまくお話しできませんでしたのでメモにしました(入院中です)。

 ・一九三七年に防空法ができてから高知県かでも防空壕がつくられはじめます。←防空法の全文はインターネットで見ることができます。
 最初につくられた大規模なものは高知城の、すべり山のもののようです。これは跡がありませんが、『高知県警史 昭和編』に、つくられた時期、経過の記述、写真が載っています。←高知県立図書館二階の受付の右のコーナーにあります。書名は少し違うかもしれません。
 ・アジア太平洋戦争下で大規模なものがいくつもつくられたようです。
 高知市では、旭のものほかに、筆山町の要法寺の山側のもの(ほぼ完全な形で残っています。入口二つ、数十メートル、真ん中で崩れて行き来できなくなっています。これは平和資料館・草の家の岡村正弘館長、藤原が数年前に見せてもらっています。)
 比島の山のもの。これも数十メートルで道路からお寺まで貫通していたようです。←私は、その近くに住んでいた女性から聞きました。関彗星の関勉さんも、そのことを彼のホームページで書いていました。かれが中学生のころ、満州から来た陸軍錦(にしき)部隊の陣地構築作業に動員されていたころのことを書いた部分です。
 ・高知城の山のものは大小ありますが、十つ横穴壕のあとが残っています。このうち八つには「私も、ここに逃げ込んだ」という証言があります。小学生、女学生、高校生、農兵など。←これらの証言は昨年夏の高知市内での戦争展で展示しました。
 ・国民学校(いまの小学校)でも運動場などに防空壕をつくりました。←これについては各小学校の記念誌の年表の一九四四年、四五年分に出てくるケースがあります。高知市内ではありませんが、いの町の天王の団地の北東の池ノ内国民学校では二カ所、防空壕をつくっていたそうです。これは、藤原義一のツィッター五月六日分に出てきます。
 ・各家庭でも庭などにつくられていました。高知市役所前の堀の手前に自宅用の防空壕をつくったという話も聞きました。戦中世代の人に聞けば、たいてい「うちにあった防空壕は」という話をしてくれます。
 ・地域ごとの共同の防空壕もつくられました。共同の防空壕については岡村館長の話にもでてきますが、最近、私が確認したものでは鴨田の大きなマンションの脇に、地域の防空壕の跡があります。←地域の女性の証言を聞いて行ってみました。
 ・各地に防空壕の跡が残っています。たとえば高須の高須山には山を貫いたものがあります。いっぽうの側はコンクリートでふさがれています(これは高知市の工事のようです)が、もう一方はあいています。大津乙の隼人(はいと)神社の山にも三つ横穴壕の跡があります。当時、この付近に住んでいた女性は、空襲のとき、これらの一つに入ったといっています。
 ・防空壕か戦闘壕か不明ですが、高知市内の多くの山に横穴壕が残っています。
 錦部隊の本部があった介良の鉢伏山(はちぶせやま)
 呉鎮守府第十一特別陸戦隊(元浦戸海軍航空隊)の跡地(いまは医療センター、高知県立大学などに)
 最近見たものでは、つぎのようなものがあります。
 一宮や、あぞ野(計六つ) 錦部隊のつくったものか。
 大津などの高天ケ原山 高知海軍航空隊見派遣隊、錦部隊のつくったものか。
 大津の水源地の山。
 布師田(ぬのしだ)の山。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十九日 小学校時代の台風のこと。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌】 二〇一三年五月二十九日 小学校時代の台風のこと。

 雨。

 最近の政治文書を、ようやく読み終えました。
 インターネットでは聴いていたのですが、やっぱり活字のほうが理解できます。

 妻が来てくれました。
 TAさんが来てくれました。
 回復したら南国市の、ある遺跡を調査してほしいとのことでした。
 MA夫妻が、自著(二人の自分史)を持ってきてくれました。
 奥さんは、小中学校で僕と二年下。
 この本を読んで小学校時代の台風のことを思い出しました。

 イギリスの小説『嵐が丘』を読みはじめました。

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【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌 最終回】 二〇一三年五月三十日 木曜日 退院しました。しかし、……。

【右の手足がうごかん、言葉が出ん闘病日誌 最終回】 二〇一三年五月三十日 木曜日 退院しました。しかし、……。

 雨。

 よーっし、夕方には退院するぞ。

 風呂に入りました(ずっと一日おきでした)。

 午前十時ころ、MRIに。

 ベーン、ベーンの音のなか   輪切りにされてる  僕の全身

 この結果で今後が決ります。

 午後、医師の話を聞きました。
 以下のとおりです。

 ・脳こうそくになる寸前でとまりました。脳こうそくにはなっていません。
 ・原因は、①心臓の血栓とんで、つまりかけていること②頭の左の血管がはがれかかっていることのいずれかです。
 ・頭の血管が細い所が四つあります。とくに左の所の一本は細い。首の血管は大丈夫です。
 ・血液サラサラの薬が効いていなかったのですが、薬を変えた結果、効くようになりました。
 ・今後、つぎのようなことに注意してください。
 カロリーをコントロールしてください。
 乳製品は、あまりとらないようにしてください。
 これまでは薬の関係で特定の野菜は駄目でしたが、薬を変えましたので野菜は何を食べても結構です。
 歩いたりする有酸素運動をしてください。
 塩分ひかえてください。
 アルコールはビールなら一本、酒なら一合程度にしてください。
 ・今後のために血管を広げる手術をしたほうがいいと思います。その手術ができる医師を紹介しますので、その病院に行って相談してください。

 かくて、いろんな文書をもらい、お金を払い、妻のつきそいで退院しました。

 帰りに自転車を買いました。

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2013.05.31

あのころ、高知県伊野町で 僕の小学校、中学校時代 【ダウンロードできます】

「kodomonokoro.doc」をダウンロード

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