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2013年6月

2013.06.02

槇村浩研究の出発点にあたって 「そして、反戦詩人が誕生した 槇村浩の場合」。【ダウンロードできます。】

「makimurahajimari.doc」をダウンロード

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二〇一三年五月三十一日 金曜日 新しい病院に通い始めました。

二〇一三年五月三十一日 金曜日 新しい病院に通い始めました。

 晴れ。

 午前中、高知市内のB病院に。

 初診で電子カルテ用の写真を撮られました。

 へー、こんなシステムになっているのですね。

 医師の話では、当面、血流の検査(高いそうです)、カテーテルでの調査などをやって調べたうえで手術する必要があるかどうかみきわめましょうとのことでした。

 この日は血液と尿の採取のみ。

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二〇一三年六月一日 クワの実、ビワの実、イチゴの実。

二〇一三年六月一日 クワの実、ビワの実、イチゴの実。

 曇り、雨。

 庭に出て、クワの実、ビワの実、イチゴの実をちぎって食べました。

 自転車で行動。

 高知県立高知丸の内高校の周辺は、あの黄色い花が咲き乱れてすてきです。

 高知市内の中心部で、ある新聞の若い記者と話しました。

 午後、池の大学院での講義を受けました。

 二時間目、三時間目、四時間目。

 ここの周辺も丸の内高校前と同じ黄色い花がすてき。雨の中で輝いていました。

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 【槇村浩研究のために】吉田豊道・槇村浩の同時代人の彼についての手記など(藤原 義一)

 〈高知市第六小学校のころの学友〉

 ・島崎鋭次郎談「槇村浩の思い出」=『土佐ふるさと話・夏の雲重く 大野康雄新聞スクラップ文庫』。一九八三年八月。

 ・島崎鋭次郎(第六小学校)、川島哲郎(土佐中学校)、富永三雄(南海中学)ら「座談会 槇村浩生誕七〇周年記念の集い 槇村浩(吉田豊道)と同時代を語る」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟七号』。槇村浩の会。一九八三年五月二十五日。

 〈土佐中学校の生徒のころの学友〉

 ・下司順吉「吉田豊道の思い出」=槇村浩の会『ダッタン海峡 第五号』。槇村浩の会。一九七九年三月十五日。下司さんは、一九二三年四月、高知市の土佐中学校の予科に入学。同じとき吉田は、同校本科に入学。

・下司順吉「吉田豊道同志を偲んで」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟九号』。槇村の会。二〇〇四年一月二十六日。

 ・沢本幸正「吉田豊道を偲ぶ」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟八号』。槇村浩の会。一九九二年六月一日。沢本は、吉田と土佐中学校の同級生。

 〈海南中学校のころの学友〉

 

 ・富永三雄「槙村浩は生きている」=『ダッタン海峡 復刊一号』。一九七七年七月。

 ・富永三雄「思い出」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟九号』。槇村の会。二〇〇四年一月二十六日。富永は、高知市の海南中学校で槇村と同級。

 ・富永三雄『ひとつの出合い』=「ひとつの出合い」刊行委員会。一九九二年二月二十六日。

 ・弘田競、吉永進、富永三雄、土佐文雄、片岡文雄、西森茂夫、猪野睦「座談会『土佐プロレタリア詩集』をめぐって」= 槇村浩の会『ダッタン海峡 弟六号』。槇村浩の会。一九八一年五月二十五日。

 〈高知のプロレタリア文学、共産主義青年同盟などの仲間〉

 ・信清悠久『半世紀前のはなし』=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟六号』。槇村浩の会。一九八一年五月二十五日。信清は、槇村とは、プロレタリア文学同盟高知支部の仲間。

 ・弘田競「槇村浩は わたしの中に生きている」=近森俊也『ダッタン海峡 一号』。槇村浩祭高知県実行委員会。一九六三年七月。

 ・弘田競「誇り高き青春群像 一~五」=『高知県における共産主義運動戦前の思い出』。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部。一九九〇年七月一日。

 ・浜田勇「槇村浩のことなど」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟八号』。槇村浩の会。一九九二年六月一日。

 ・毛利猛夫「槇村浩の言葉 『不降身・不屈志』について」=近森俊也『ダッタン海峡 一号』。槇村浩祭高知県実行委員会。一九六三年七月。

・「旧友毛利孟夫氏にきく  加藤 恒彦/ききて」=『ダッタン海峡 復刊一号』。一九七七年七月。

 ・毛利猛夫「『旧友』としての槇村のこと 『間島パルチザンの歌』が出来た頃」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟八号』。槇村浩の会。一九九二年六月一日。

 ・山﨑小糸「槇村浩とその時代」=岡本正光、山﨑小糸、井上泉編集『槇村浩全集』。一九八四年一月二十日。

 ・井上清「槇村浩と高知県の反帝・革命運動」=『井上清史論集 三 日本の軍国主義』。岩波書店。二○○四年一月十六日。

・小松とき「『槇村浩』に想う」=詩です。槇村浩の会『ダッタン海峡 弟六号』。槇村浩の会。一九八一年五月二十五日。小松さんは、槇村の活動仲間。

 ・井上泉「吉田さんの憶い出」=近森俊也『ダッタン海峡 一号』。槇村浩祭高知県実行委員会。一九六三年七月。

 ・小松ときのメッセージ=近森俊也編集『ダッタン海峡 二・三号合併号』。槇村浩祭実行委員会。一九六四年十一月。

 ・小松とき「愛と信念に生きた日々」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟九号』。槇村の会。二〇〇四年一月二十六日。

  ・小松とき「浪音抄(一九三二年)」 =槇村浩の会『ダッタン海峡 弟九号』。槇村の会。二〇〇四年一月二十六日。

 ・「座談会 四・二一事件 五十周年 小松ときさんを囲んで」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟七号』。槇村浩の会。一九八三年五月二十五日。

 ・岡本正光「序」=岡本正光、山﨑小糸、井上泉編集『槇村浩全集』。一九八四年一月二十日。

 〈吉田豊道の恩師〉

 ・寺石正路の日記=高知県立民俗資料館所蔵。

 

 〈他都道府県のプロレタリア文学関係者〉

 ・貴司山治「槇村浩の時代」=貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』。新日本出版社。一九六四年十月十日。

 ・貴司山治「奇跡の詩人」­=近森俊也『ダッタン海峡 一号』。槇村浩祭高知県実行委員会。一九六三年七月。

 ・貴司山治「私の愛する槇村浩」=近森俊也編集『ダッタン海峡 二・三号合併号』。槇村浩祭実行委員会。一九六四年十一月。

 ・伊藤純(貴司山治の息子)「二〇〇三年の槇村浩 西森茂夫さんへの手紙の形で」=槇村浩の会『ダッタン海峡 弟九号』。槇村の会。二〇〇四年一月二十六日。

 ・大谷従二「槇村浩と私」=槇村浩の会『ダッタン海峡 第八号』。槇村浩の会。一九九二年六月一日。大谷は槇村が尊敬していた詩人。

 ・蔵原惟人「プロレタリア文学運動と槇村浩について」=近森俊也編集『ダッタン海峡 二・三号合併号』。槇村浩祭実行委員会。一九六四年十一月。

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二〇一三年六月二日 日曜日 『高知の戦争 証言と調査 二十一号』、僕の入院中にできてきていました。

二〇一三年六月二日 日曜日 『高知の戦争 証言と調査 二十一号』、僕の入院中にできてきていました。

 曇り、雨。

 少し自転車で「散歩」し、昼食を食べにいった以外は家にいました。

 槇村浩についての文献をまとめました。

 あっ、そうそう、『高知の戦争 証言と調査 二十一号』、僕の入院中にできてきていました。

 資料の発送作業。

 

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2013.06.05

【ニュース】 高知市旭天神町の天神山を突き抜けた防空壕 あったことをご存じのかたはご一報を 山﨑忠信さんが呼びかけ。

 高知市旭天神町の山﨑忠信さんが「旭天神町の天神山(標高二五メートル)の下に大きな防空壕があったことをご存じのかたはご一報を」と、呼びかけています。
 六月五日現在、山﨑さんのもとには、一九四五年七月四日のアメリカ軍機の高知空襲のときに防空壕に避難した経験のある人や、壕の存在を知る人たちから情報は寄せられていますが、壕の存在を立証するために、なお多くの情報を得たいとしています。

 ● 天神山は浄水場の左手にあります。

 

 山﨑さんが、呼びかけを始めたきっかけは、昨年十一月四日、NHKテレビの番組の記事で、旭天神町(東)町内会の自主防災組織がおこなった津波避難訓練に参加した人々が、同地域の天神山の階段を登っていく様子を見たことです。
 山﨑さんが特に危険だと感じてた場所は、津波避難訓練のときに、大勢の参加者が避難した山頂の公園にいたる階段の登り口付近です。
 その階段の下には、当時は山の下を突き切っていた防空壕跡(高さ、幅とも二メートル超)があるのです。

 ● 天神山の防空壕があったのは、ここです。図は、山﨑忠信さんがつくったもの。

 

 ● 関連写真1

 ● 関連写真2

 高知市水道旭浄水場東門横から階段下を山頂の中央公園直下まで掘られ、さらに右に曲がり、浄水場西門付近に抜けていました。ここの土は柔らかい赤土。壕は素掘りでした。
 すでに二つの出入口はふさがれていますが、山﨑さんは、空洞の埋立て不足で、壕内部崩落による、階段の陥没が起こらないかという心配です。空洞には、地下水が溜まっているかもしれません。

 ● 天神山にあった防空壕は、こんなものでした。山﨑忠信さんが描いたものです。

 

 山﨑さんは、このことを高知市役所に知らせ、調査と安全対策を求めました。
 この訴えにこたえ、同市は、四月、階段の真上からボーリング調査をしました。深さ七メートルの地点で約九十センチの空洞を確認しました。しかし、同市の担当者は「防空壕の存在が確認できない。防空壕の記録もない」と、しています(この項、高知新聞の五月二十八日付夕刊の記事から)。
 そこで、山﨑さんは、広く市民から情報を集めて防空壕があったことを立証し、防空壕があったことを市に認めさせ、きちんとした調査をし、安全対策をとってもらおうとしています。

 アジア太平洋戦争中、山﨑さんの住んでいた場所は、防空壕のすぐ目と鼻の先の位置でした。
 高知空襲のとき、旭国民学校四年生だった山﨑さんは、この横穴壕に逃げ込みました。
 大勢の人々が、この横穴壕に着の身着のまま避難して来て、地下水の滴り落ちる壕内で震え慄いていた状況が今でも忘れられません。
 山﨑さんの記憶では、ここは、戦後二年間ほどは、子どもたちの秘密の基地や、遊び場となっていましたが、その後、内部崩落が始まり、危険を理由として入口に柵が設けられ、出入り禁止となって後、やがて浄水場東門側の入口はふさがれました。

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2013.06.07

大阪市・母子餓死事件からと生活保護を考える

  大阪市での母子餓死事件に強い衝撃を受けました。

 ニュースを知って一番先に思ったのは「生活保護はどうなっていたんだろうという」ということでした。

 その観点から、この事件を考えてみたいと思います。

 まず、事件の概要を報道からまとめます。

 五月二十四日、大阪市北区のマンションの一室で、井上充代さん(二十八歳)と息子の瑠海(るい)ちゃん(三歳)が亡くなっているのが発見されました。

 検視結果などによると、今年二月には死亡していたとみられます。

 二人の胃に内容物はなく、死因は餓死とみられています。

 部屋には、こんな内容のメモが残されていたといいます。

 「最後におなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」

 部屋の中には冷蔵庫はなく食べ物としては食塩があるだけでした。

 充代さんと夫が署名した離婚届がありました。

 電気、ガスは止められていました。

 口座に残されていたお金は数十円でした。

大阪市北区には住民登録をしていませんでした。

 井上さんは広島県出身。五、六年前に結婚。その後、瑠海ちゃんを出産し、大阪府守口市で暮らしていました。

 守口市に住んで一年ほどで夫の姿が急に見えなくなりました。井上さんは瑠海ちゃんを託児所に預け、大阪市・北新地の飲食店で働き始めました。その頃から金銭に困窮し、急激にやせ始めました。

 井上さんは、昨年七月には、当時住んでいた大阪府守口市の役所に、生活保護の相談に訪れていました。市役所の担当者も自宅を訪問しました。しかし、井上さんは生活保護の申請をしませんでした。

 昨年十月、夫が突然、自宅に帰ってきました。

 すると翌日、今度は井上さんが瑠海ちゃんを連れて家を出ました。

 その約七か月後、守口市の自宅から電車で二十分ほどのマンションで井上さん母子の遺体が発見されました。

 事件の経過を見ても、井上さんは、一度は行政に生活保護の相談に行っています。

 ここで行政が井上を救うことができるチャンスがありました。

 しかし、それが、そうはなりませんでした。

 井上さんが生活保護の申請をしなかったのがなぜかはわかりません。もしかしたら、心理的なこだわりがあったかもしれませんし、生活保護を申請することで夫に問い合わせがいき現在の居所を知られてしまうことを恐れたのかもしれません。

 行政は、井上さんの実情をしっかり聞きとれば、彼女が生活保護を必要としていることはわかったと思います。権利として生活保護を受けられることをつげ、積極的に申請することをすすめるべきでした。そこのところの実際はどうだったでしょうか。

 日本国憲法は第二十五条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。/ 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めています。

生活保護法は、つぎのことをうたっています。

〈第一条  この法律は、日本国憲法第二十五条 に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。

第二条  すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。

第三条  この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない。〉

 しかし、いま、政権や一部マスコミのなかに生活保護を受けることを攻撃するような空気がつくられています。それが、多くの人の「助けて」という声を押さえつけています。

 政権やマスコミは、最後のセーフティーネットである生活保護を受けることは日本国憲法にもとづく正当な権利なのだという考えをこそ普及していくべきです。

 また、今回の事件では、電気やガスが止められていました。そういう異常事態になっていることが業者から行政に告知され、それを受けて行政も手を差し伸べるというシステムはつくれないのでしょうか。

 こうしたことから考えると現在、国会で審議されている生活保護法の一部改正案と生活困窮者自立支援法案は、大きな問題を抱えています。

 最大の問題点は、生活に困窮した人が生活保護の申請をおこなうときに、書類の提出を義務づけるということにあります。

 これまでも、生活保護行政の現場では、保護を求めてきた人を単なる「相談者」として扱い、申請を断念させて追い返す「水際作戦」が横行してきました。「必要書類がそろっていない」ことを理由に申請を断念させることは、「水際作戦」の常套(じょうとう)手段としておこなわれてきました。

 しかし、現行制度では、保護申請は口頭でも可能とされ、行政はそれに応じる義務を負っています。不当な門前払いが発覚すれば、違法行為として断罪され、行政も指導せざるを得ない仕組みになっています。

 今回の法案は、この「水際作戦」を合法化するものです。

 生活保護法改悪案と生活困窮者自立支援法案は、六月四日、衆議院本会議で、自民党、公明党、民主党、維新、みんな、生活の各党の賛成多数で可決、参議院に送りました。

 日本の生活保護で早急に解決が迫られているのは、収入が最低生活費未満の人が生活保護を受けていない―捕捉率が低いという問題です。捕捉率は日本では二割程度です。ドイツの六割、イギリスの五~六割、フランスの九割と比較して、異常な実態です。

 今年五月、国連社会権規約委員会から日本政府に出された「総括所見」は「恥辱のために生活保護の申請が抑制されている」ことに「懸念」を表明し、「生活保護の申請を簡素化」し「申請者が尊厳をもって扱われることを確保するための措置をとる」こと、「生活保護につきまとう恥辱を解消する」手だてをとることを勧告しています。

 政権は、これにこそとりくむべきです。

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二〇一三年六月七日 金曜日 山崎ハコさんのライブ……。

二〇一三年六月七日 金曜日 山崎ハコさんのライブ……。

 晴れ。

 大学院の授業のリポートを二つ送信しました。
 一つは生活保護のあり方について、もう一つは情報処理の課題です。
 
 午後四時からの修士論文のための授業に出ました。一対一です。
 ありがたい問題提起がいくつかありました。その課題に挑戦しようと思います。
 来週までに論文の構成についてのメモをつくることになりました。

 夕方、山崎ハコさんのライブを聴きに高知市はりまや町・「X-pt.(クロスポイント)」に行きました。
 ところが中止になっていました。
 十月四日に延期になっていました。
 ハコさん、元気になってください。
 ライブを楽しみにしています。

  ビデオ屋の前で元・高知県立大学の先生のSIさんに出会いました。

 持っていた風船爆弾の小冊子をお渡ししました。

 先生はサンゴについての本を書いているとおっしゃっていました。

 DVD「ジェーン・エア」を借りてきました。

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【日本の文学の勉強】 樋口一葉『十三夜』の会話文がおもしろい。

 樋口一葉『十三夜』を読んで興味深かったのは、会話文が生きいきしていることです。

 登場人物は四人です。

 主人公の、お関。

 お関の父。

 お関の母。

 幼ななじみの録之助。

 夫の精神的虐待にたえかね、離縁の決意で実家へ帰ったお関。しかし、父の説得で婚家へ戻ることになります。傷心のお関を乗せた人力車の車夫は、初恋の人・録之助でした……。

 説明の文章を「ト書き」とし会話の部分を「セリフ」にすると、芝居のシナリオができあがりそうです。

 会話の所を印象強く読ませるために地の文を文語で美文調にしてある、これが、この小説の魅力の一つではないかと思いました。

 実際に、会話部分だけを抜きだしてみましたが、これを読みなおすと、この小説が、会話文を大事にした作品だということがわかりました。

この作品は一八九五年十二月の『文芸倶楽部』に掲載されたそうですが、当時の東京の庶民の話しぶりが伝わってくるような気がします。

 

 【以下、参考】

 以下のように、その「セリフ」を抜きだしてみました。

 父「いはゞ私《わし》も福人の一人、いづれも柔順《おとな》しい子供を持つて育てるに手は懸らず人には褒められる、分外の慾さへ渇かねば此上に望みもなし、やれ/\有難い事」

父「誰れだ」

 お関「おほゝ」

 お関「お父樣《とつさん》私で御座んす」

父「や、誰れだ、誰れであつた」

父「ほうお關か、何だな其樣な處に立つて居て、何うして又此おそくに出かけて來た、車もなし、女中も連れずか、やれ/\ま早く中へ這入れ、さあ這入れ、何うも不意に驚かされたやうでまご/\するわな、格子は閉めずとも宜い、私《わ》しが閉める、兎も角も奧が好い、ずつとお月樣のさす方へ、さ、蒲團へ乘れ、蒲團へ、何うも疊が汚ないので大屋に言つては置いたが職人の都合があると言ふてな、遠慮も何も入らない着物がたまらぬから夫れを敷ひて呉れ、やれ/\何うして此遲くに出て來たお宅《うち》では皆お變りもなしか」

お関「はい誰れも時候の障りも御座りませぬ、私は申譯のない御無沙汰して居りましたが貴君もお母樣《つかさん》も御機嫌よくいらつしやりますか」

父「いや最う私は嚏《くさみ》一つせぬ位、お袋は時たま例の血の道と言ふ奴を始めるがの、夫れも蒲團かぶつて半日も居ればけろ/\[#「けろ/\」に傍点]とする病だから子細はなしさ」

お関「亥之《ゐの》さんが見えませぬが今晩は何處へか參りましたか、彼の子も替ず勉強で御座んすか」

母「亥之は今しがた夜學に出て行ました、あれもお前お蔭さまで此間は昇給させて頂いたし、課長樣が可愛がつて下さるので何れ位心丈夫であらう、是れと言ふも矢張原田さんの縁引《えん》が有るからだとて宅では毎日いひ暮して居ます、お前に如才は有るまいけれど此後とも原田さんの御機嫌の好いやうに、亥之は彼の通り口の重い質だし何れお目に懸つてもあつけ[#「あつけ」に傍点]ない御挨拶よりほか出來まいと思はれるから、何分ともお前が中に立つて私どもの心が通じるやう、亥之が行末をもお頼み申て置てお呉れ、ほんに替り目で陽氣が惡いけれど太郎さんは何時も惡戲《おいた》をして居ますか、何故に今夜は連れてお出でない、お祖父さんも戀しがつてお出なされた物を」

お関「連れて來やうと思ひましたけれど彼の子は宵まどひで最う疾うに寐ましたから其まゝ置いて參りました、本當に惡戲ばかりつのりまして聞わけとては少しもなく、外へ出れば跡を追ひまするし、家内《うち》に居れば私の傍ばつかり覘ふて、ほんに/\手が懸つて成ませぬ、何故彼樣で御座りませう」

母「今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子《いし/\》をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたけれど、亥之助も何か極りを惡がつて其樣な物はお止《よし》なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、今夜來て呉れるとは夢の樣な、ほんに心が屆いたのであらう、自宅《うち》で甘い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらいたは又別物、奧樣氣を取すてゝ今夜は昔しのお關になつて、外見《みえ》を構はず豆なり栗なり氣に入つたを喰べて見せてお呉れ、いつでも父樣と噂すること、出世は出世に相違なく、人の見る目も立派なほど、お位の宜い方々や御身分のある奧樣がたとの御交際《おつきあひ》もして、兎も角も原田の妻と名告《なのつ》て通るには氣骨の折れる事もあらう、女子《をんな》どもの使ひやう出入りの者の行渡り、人の上に立つものは夫れ丈に苦勞が多く、里方が此樣な身柄では猶更のこと人に侮られぬやうの心懸けもしなければ成るまじ、夫れを種々《さま/″\》に思ふて見ると父さんだとて私だとて孫なり子なりの顏の見たいは當然《あたりまへ》なれど、餘りうるさく出入りをしてはと控へられて、ほんに御門の前を通る事はありとも木綿着物に毛繻子の洋傘《かうもり》さした時には見す/\お二階の簾を見ながら、吁《あゝ》お關は何をして居る事かと思ひやるばかり行過ぎて仕舞まする、實家でも少し何とか成つて居たならばお前の肩身も廣からうし、同じくでも少しは息のつけやう物を、何を云ふにも此通り、お月見の團子をあげやうにも重箱《おぢう》からしてお恥かしいでは無からうか、ほんにお前の心遣ひが思はれる」

お関「本當に私は親不孝だと思ひまする、それは成程|和《やは》らかひ衣服《きもの》きて手車に乘りあるく時は立派らしくも見えませうけれど、父さんや母さんに斯うして上やうと思ふ事も出來ず、いはゞ自分の皮一重、寧そ賃仕事してもお傍で暮した方が餘つぽど快よう御座います」

父「馬鹿、馬鹿、其樣な事を假にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が實家《さと》の親の貢をするなどゝ思ひも寄らぬこと、家に居る時は齋藤の娘、嫁入つては原田の奧方ではないか、勇さんの氣に入る樣にして家の内を納めてさへ行けば何の子細は無い、骨が折れるからとて夫れ丈の運のある身ならば堪へられぬ事は無い筈、女などゝ言ふ者は何うも愚痴で、お袋などが詰らぬ事を言ひ出すから困り切る、いや何うも團子を喰べさせる事が出來ぬとて一日大立腹であつた、大分熱心で調製《こしらへ》たものと見えるから十分に喰べて安心させて遣つて呉れ、餘程|甘《うま》からうぞ」

 父「こりやモウ程なく十時になるが關は泊つて行つて宜いのかの、歸るならば最う歸らねば成るまいぞ」

お関「御父樣私は御願ひがあつて出たので御座ります、何うぞ御聞遊ばして」

父「改まつて何かの」

お関「私は今宵限り原田へ歸らぬ決心で出て參つたので御座ります、勇が許しで參つたのではなく、彼の子を寐かして、太郎を寐かしつけて、最早あの顏を見ぬ決心で出て參りました、まだ私の手より外誰れの守りでも承諾《しようち》せぬほどの彼の子を、欺して寐かして夢の中に、私は鬼に成つて出て參りました、御父樣、御母樣、察して下さりませ私は今日まで遂ひに原田の身に就いて御耳に入れました事もなく、勇と私との中を人に言ふた事は御座りませぬけれど、千度《ちたび》も百度《もゝたび》も考へ直して、二年も三年も泣盡して今日といふ今日どうでも離縁を貰ふて頂かうと決心の臍をかためました、何うぞ御願ひで御座ります離縁の状を取つて下され、私はこれから内職なり何なりして亥之助が片腕にもなられるやう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませ」

 父母「夫れは何ういふ子細で」

お関「今までは默つて居ましたれど私の家の夫婦《めをと》さし向ひを半日見て下さつたら大底御解りに成ませう、物言ふは用事のある時|慳貪《けんどん》に申つけられるばかり、朝起まして機嫌をきけば不圖脇を向ひて庭の草花を態とらしき褒め詞、是にも腹はたてども良人の遊ばす事なればと我慢して私は何も言葉あらそひした事も御座んせぬけれど、朝飯あがる時から小言は絶えず、召使の前にて散々と私が身の不器用不作法を御並べなされ、夫れはまだ/\辛棒もしませうけれど、二言目には教育のない身、教育のない身と御蔑《おさげす》みなさる、それは素より華族女學校の椅子にかゝつて育つた物ではないに相違なく、御同僚の奧樣がたの樣にお花のお茶の、歌の畫のと習ひ立てた事もなければ其御話しの御相手は出來ませぬけれど、出來ずは人知れず習はせて下さつても濟むべき筈、何も表向き實家の惡《わ》るいを風聽なされて、召使ひの婢女《をんな》どもに顏の見られるやうな事なさらずとも宜かりさうなもの、嫁入つて丁度半年ばかりの間は關や關やと下へも置かぬやうにして下さつたけれど、あの子が出來てからと言ふ物は丸で御人が變りまして、思ひ出しても恐ろしう御座ります、私はくら闇の谷へ突落されたやうに暖かい日の影といふを見た事が御座りませぬ、はじめの中は何か串談に態とらしく邪慳に遊ばすのと思ふて居りましたけれど、全くは私に御飽きなされたので此樣《かう》もしたら出てゆくか、彼樣《あゝ》もしたら離縁をと言ひ出すかと苦《いぢ》めて苦めて苦め拔くので御座りましよ、御父樣も御母樣も私の性分は御存じ、よしや良人が藝者狂ひなさらうとも、圍い者して御置きなさらうとも其樣な事に悋氣《りんき》する私でもなく、侍婢《をんな》どもから其樣な噂も聞えまするけれど彼れほど働きのある御方なり、男の身のそれ位はありうちと他處行《よそゆき》には衣類《めしもの》にも氣をつけて氣に逆らはぬやう心がけて居りまするに、唯もう私の爲る事とては一から十まで面白くなく覺しめし、箸の上げ下しに家の内の樂しくないは妻が仕方が惡いからだと仰しやる、夫れも何ういふ事が惡い、此處が面白くないと言ひ聞かして下さる樣ならば宜けれど、一筋に詰らぬくだらぬ、解らぬ奴、とても相談の相手にはならぬの、いはゞ太郎の乳母として置いて遣はすのと嘲つて仰しやる斗《ばかり》、ほんに良人といふではなく彼の御方は鬼で御座りまする、御自分の口から出てゆけとは仰しやりませぬけれど私が此樣な意久地なしで太郎の可愛さに氣が引かれ、何うでも御詞に異背せず唯々《はい/\》と御小言を聞いて居りますれば、張も意氣地《いきぢ》もない愚《ぐ》うたらの奴、それからして氣に入らぬと仰しやりまする、左うかと言つて少しなりとも私の言條を立てて負けぬ氣に御返事をしましたら夫を取《とつ》こに出てゆけと言はれるは必定、私は御母樣出て來るのは何でも御座んせぬ、名のみ立派の原田勇に離縁されたからとて夢さら殘りをしいとは思ひませぬけれど、何にも知らぬ彼の太郎が、片親に成るかと思ひますると意地もなく我慢もなく、詫て機嫌を取つて、何でも無い事に恐れ入つて、今日までも物言はず辛棒して居りました、御父樣《おとつさん》、御母樣《おつかさん》、私は不運で御座ります」

 母「阿關《おせき》が十七の御正月、まだ門松を取もせぬ七日の朝の事であつた、舊《もと》の猿樂町《さるがくちやう》の彼の家の前で、御隣の小娘《ちひさいの》と追羽根して、彼の娘《こ》の突いた白い羽根が通り掛つた原田さんの車の中へ落たとつて、夫れを阿關が貰ひに行きしに其時はじめて見たとか言つて人橋かけてやい/\と貰ひたがる、御身分がらにも釣合ひませぬし、此方はまだ根つからの子供で何も稽古事も仕込んでは置ませず、支度とても唯今の有樣で御座いますからとて幾度斷つたか知れはせぬけれど、何も舅姑のやかましいが有るでは無し、我《わし》が欲しくて我が貰ふに身分も何も言ふ事はない、稽古は引取つてからでも充分させられるから其心配も要らぬ事、兎角くれさへすれば大事にして置かうからと夫は夫は火のつく樣に催促して、此方から強請《ねだつ》た譯ではなけれど支度まで先方《さき》で調へて謂はゞ御前は戀女房、私や父樣が遠慮して左のみは出入りをせぬといふも勇さんの身分を恐れてゞは無い、これが妾《めかけ》手《て》かけに出したのではなし正當《しやうたう》にも正當にも百まんだら頼みによこして貰つて行つた嫁の親、大威張に出這入しても差つかへは無けれど、彼方が立派にやつて居るに、此方が此通りつまらぬ活計《くらし》をして居れば、お前の縁にすがつて聟の助力《たすけ》を受けもするかと他人樣の處思《おもはく》が口惜しく、痩せ我慢では無けれど交際だけは御身分相應に盡して、平常は逢いたい娘の顏も見ずに居まする、夫れをば何の馬鹿々々しい親なし子でも拾つて行つたやうに大層らしい、物が出來るの出來ぬのと宜く其樣な口が利けた物、默つて居ては際限もなく募つて夫れは夫れは癖に成つて仕舞ひます、第一は婢女どもの手前奧樣の威光が削げて、末には御前の言ふ事を聞く者もなく、太郎を仕立るにも母樣を馬鹿にする氣になられたら何としまする、言ふだけの事は屹度言ふて、それが惡るいと小言をいふたら何の私にも家が有ますとて出て來るが宜からうでは無いか、實《ほん》に馬鹿々々しいとつては夫れほどの事を今日が日まで默つて居るといふ事が有ります物か、餘り御前が温順し過るから我儘がつのられたのであろ、聞いた計でも腹が立つ、もう/\退けて居るには及びません、身分が何であらうが父もある母もある、年はゆかねど亥之助といふ弟もあればその樣な火の中にじつとして居るには及ばぬこと、なあ父樣一遍勇さんに逢ふて十分油を取つたら宜う御座りましよ」

 父「あゝ御袋、無茶の事を言ふてはならぬ、我しさへ初めて聞いて何うした物かと思案にくれる、阿關の事なれば並大底で此樣な事を言ひ出しさうにもなく、よく/\愁《つ》らさに出て來たと見えるが、して今夜は聟どのは不在《るす》か、何か改たまつての事件でもあつてか、いよ/\離縁するとでも言はれて來たのか」

お関「良人は一昨日より家へとては歸られませぬ、五日六日と家を明けるは平常《つね》の事、左のみ珍らしいとは思ひませぬけれど出際に召物の揃へかたが惡いとて如何ほど詫びても聞入れがなく、其品《それ》をば脱いで擲《たゝ》きつけて、御自身洋服にめしかへて、吁《あゝ》、私《わし》位不仕合の人間はあるまい、御前のやうな妻を持つたのはと言ひ捨てに出て御出で遊ばしました、何といふ事で御座りませう一年三百六十五日物いふ事も無く、稀々言はれるは此樣な情ない詞をかけられて、夫れでも原田の妻と言はれたいか、太郎の母で候と顏おし拭つて居る心か、我身ながら我身の辛棒がわかりませぬ、もう/\もう私は良人《つま》も子も御座んせぬ嫁入せぬ昔しと思へば夫れまで、あの頑是ない太郎の寢顏を眺めながら置いて來るほどの心になりましたからは、最う何うでも勇の傍に居る事は出來ませぬ、親はなくとも子は育つと言ひまするし、私の樣な不運の母の手で育つより繼母御なり御手かけなり氣に適ふた人に育てゝ貰ふたら、少しは父御も可愛がつて後々あの子の爲にも成ませう、私はもう今宵かぎり何うしても歸る事は致しませぬ」

 父「無理は無い、居愁らくもあらう、困つた中に成つたものよ」

父「不相應の縁につながれて幾らの苦勞をさする事と哀れさの増れども、いや阿關こう言ふと父が無慈悲で汲取つて呉れぬのと思ふか知らぬが決して御前を叱るではない、身分が釣合はねば思ふ事も自然違ふて、此方は眞から盡す氣でも取りやうに寄つては面白くなく見える事もあらう、勇さんだからとて彼《あ》の通り物の道理を心得た、利發の人ではあり隨分學者でもある、無茶苦茶にいぢめ立る譯ではあるまいが、得て世間に褒め物の敏腕家《はたらきて》などと言はれるは極めて恐ろしい我まゝ物、外では知らぬ顏に切つて廻せど勤め向きの不平などまで家内へ歸つて當りちらされる、的に成つては隨分つらい事もあらう、なれども彼れほどの良人を持つ身のつとめ、區役所がよひの腰辨當が釜の下を焚きつけて呉るのとは格が違ふ、隨つてやかましくもあらう六づかしくもあろう夫を機嫌の好い樣にとゝのへて行くが妻の役、表面《うはべ》には見えねど世間の奧樣といふ人達の何れも面白くをかしき中ばかりは有るまじ、身一つと思へば恨みも出る、何の是れが世の勤めなり、殊には是れほど身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理、お袋などが口廣い事は言へど亥之が昨今の月給に有ついたも必竟は原田さんの口入れではなからうか、七光《なゝひかり》どころか十光《とひかり》もして間接《よそ》ながらの恩を着ぬとは言はれぬに愁らからうとも一つは親の爲弟の爲、太郎といふ子もあるものを今日までの辛棒がなるほどならば、是れから後とて出來ぬ事はあるまじ、離縁を取つて出たが宜いか、太郎は原田のもの、其方は齋藤の娘、一度縁が切れては二度と顏見にゆく事もなるまじ、同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け、なあ關さうでは無いか、合點がいつたら何事も胸に納めて知らぬ顏に今夜は歸つて、今まで通りつゝしんで世を送つて呉れ、お前が口に出さんとても親も察しる弟《おとゝ》も察しる、涙は各自《てんで》に分て泣かうぞ」

お関「夫れでは離縁をといふたも我まゝで御座りました、成程太郎に別れて顏も見られぬ樣にならば此世に居たとて甲斐もないものを、唯目の前の苦をのがれたとて何うなる物で御座んせう、ほんに私さへ死んだ氣にならば三方四方波風たゝず、兎もあれ彼の子も兩親の手で育てられまするに、つまらぬ事を思ひ寄まして、貴君にまで嫌やな事をお聞かせ申しました、今宵限り關はなくなつて魂一つが彼の子の身を守るのと思ひますれば良人のつらく當る位百年も辛棒出來さうな事、よく御言葉も合點が行きました、もう此樣な事は御聞かせ申しませぬほどに心配をして下さりますな」

母「何といふ此娘は不仕合」

父「今宵は月もさやかなり、廣小路へ出づれば晝も同樣、雇ひつけの車宿とて無き家なれば路ゆく車を窓から呼んで、合點が行つたら兎も角も歸れ、主人《あるじ》の留守に斷なしの外出、これを咎められるとも申譯の詞は有るまじ、少し時刻は遲れたれど車ならばつひ一ト飛、話しは重ねて聞きに行かう、先づ今夜は歸つて呉れ」

お関「お父樣、お母樣、今夜の事はこれ限り、歸りまするからは私は原田の妻なり、良人を誹《そし》るは濟みませぬほどに最う何も言ひませぬ、關は立派な良人を持つたので弟の爲にも好い片腕、あゝ安心なと喜んで居て下されば私は何も思ふ事は御座んせぬ、決して決して不了簡など出すやうな事はしませぬほどに夫れも案じて下さりますな、私の身體は今夜をはじめに勇のものだと思ひまして、彼の人の思ふまゝに何となりして貰ひましよ、夫では最う私は戻ります、亥之さんが歸つたらば宜しくいふて置いて下され、お父樣もお母樣も御機嫌よう、此次には笑ふて參りまする」

母「駿河臺まで何程《いくら》でゆく」

お関「あ、お母樣それは私がやりまする、有がたう御座んした」

録之助「誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます、代は入りませぬからお下りなすつて」

お関「あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増しは上げやうほどに骨を折つてお呉れ、こんな淋しい處では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚圖らずに行つてお呉れ」

録之助「増しが欲しいと言ふのでは有ませぬ、私からお願ひです何うぞお下りなすつて、最う引くのが厭やに成つたので御座ります」

お関「夫ではお前加減でも惡るいか、まあ何うしたといふ譯、此處まで挽《ひ》いて來て厭やに成つたでは濟むまいがね」

録之助「御免なさいまし、もう何うでも厭やに成つたのですから」

お関「お前は我まゝの車夫《くるまや》さんだね、夫ならば約定《きめ》の處までとは言ひませぬ、代りのある處まで行つて呉れゝば夫でよし、代はやるほどに何處か※[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]邊《そこ》らまで、切めて廣小路までは行つてお呉れ」

録之助「成るほど若いお方ではあり此淋しい處へおろされては定めしお困りなさりませう、これは私が惡う御座りました、ではお乘せ申ませう、お供を致しませう、嘸お驚きなさりましたろう」

お関「もしやお前さんは」

録之助「ゑ」

お関「あれお前さんは彼のお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまい」

録之助「貴孃《あなた》は齋藤の阿關さん、面目も無い此樣《こん》な姿《なり》で、背後《うしろ》に目が無ければ何の氣もつかずに居ました、夫れでも音聲《ものごゑ》にも心づくべき筈なるに、私は餘程の鈍に成りました」

御関「いゑ/\私だとて往來で行逢ふた位ではよもや貴君と氣は付きますまい、唯た今の先まで知らぬ他人の車夫さんとのみ思ふて居ましたに御存じないは當然《あたりまへ》、勿體ない事であつたれど知らぬ事なればゆるして下され、まあ何時から此樣な業《こと》して、よく其か弱い身に障りもしませぬか、伯母さんが田舍へ引取られてお出なされて、小川町《をがはまち》のお店をお廢めなされたといふ噂は他處《よそ》ながら聞いても居ましたれど、私も昔しの身でなければ種々《いろ/\》と障る事があつてな、お尋ね申すは更なること手紙あげる事も成ませんかつた、今は何處に家を持つて、お内儀さんも御健勝《おまめ》か、小兒《ちツさい》のも出來てか、今も私は折ふし小川町の勸工場|見物《み》に行まする度々、舊のお店がそつくり其儘同じ烟草店の能登《のと》やといふに成つて居まするを、何時通つても覗かれて、あゝ高坂《かうさか》の録《ろく》さんが子供であつたころ、學校の行返《ゆきもど》りに寄つては卷烟草のこぼれを貰ふて、生意氣らしう吸立てた物なれど今は何處に何をして、氣の優しい方なれば此樣な六づかしい世に何のやうの世渡りをしてお出ならうか、夫れも心にかゝりまして、實家へ行く度に御樣子を、もし知つても居るかと聞いては見まするけれど、猿樂町を離れたのは今で五年の前、根つからお便りを聞く縁がなく、何んなにお懷しう御座んしたらう」

録之助「お恥かしい身に落まして今は家と言ふ物も御座りませぬ、寢處は淺草町の安宿、村田といふが二階に轉がつて、氣に向ひた時は今夜のやうに遲くまで挽く事もありまするし、厭やと思へば日がな一日ごろ/\として烟のやうに暮して居まする、貴孃《あなた》は相變らずの美くしさ、奧樣にお成りなされたと聞いた時から夫でも一度は拜む事が出來るか、一生の内に又お言葉を交はす事が出來るかと夢のやうに願ふて居ました、今日までは入用のない命と捨て物に取あつかふて居ましたけれど命があればこその御對面、あゝ宜く私を高坂の録之助と覺えて居て下さりました、辱《かたじけ》なう御座ります」

お関「してお内儀さんは」

録之助「御存じで御座りましよ筋向ふの杉田やが娘、色が白いとか恰好が何うだとか言ふて世間の人は暗雲《やみくも》に褒めたてた女《もの》で御座ります、私が如何にも放蕩《のら》をつくして家へとては寄りつかぬやうに成つたを、貰ふべき頃に貰はぬからだと親類の中の解らずやが勘違ひして、彼れならばと母親が眼鏡にかけ、是非もらへ、やれ貰へと無茶苦茶に進めたてる五月蠅《うるさ》さ、何うなりと成れ、成れ、勝手に成れとて彼れを家へ迎へたは丁度貴孃が御懷妊だと聞ました時分の事、一年目には私が處にもお目出たうを他人からは言はれて、犬張子《いぬはりこ》や風車を並べたてる樣に成りましたれど、何のそんな事で私が放蕩のやむ事か、人は顏の好い女房を持たせたら足が止まるか、子が生れたら氣が改まるかとも思ふて居たのであらうなれど、たとへ小町と西施《せいし》と手を引いて來て、衣通姫《そとほりひめ》が舞を舞つて見せて呉れても私の放蕩は直らぬ事に極めて置いたを、何で乳くさい子供の顏見て發心が出來ませう、遊んで遊んで遊び拔いて、呑んで呑んで呑み盡して、家も稼業もそつち除けに箸一本もたぬやうに成つたは一昨々年《さきをとゝし》、お袋は田舍へ嫁入つた姉の處に引取つて貰ひまするし、女房は子をつけて實家《さと》へ戻したまゝ音信《いんしん》不通、女の子ではあり惜しいとも何とも思ひはしませぬけれど、其子も昨年の暮チプスに懸つて死んださうに聞ました、女はませな物であり、死ぬ際には定めし父樣とか何とか言ふたので御座りましよう、今年居れば五つになるので御座りました、何のつまらぬ身の上、お話しにも成りませぬ。」「貴孃といふ事も知りませぬので、飛んだ我まゝの不調法、さ、お乘りなされ、お供しまする、嘸《さぞ》不意でお驚きなさりましたろう、車を挽くと言ふも名ばかり、何が樂しみに轅棒《かぢぼう》をにぎつて、何が望みに牛馬の眞似をする、錢が貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快なか、考へれば何も彼も悉皆《しつかい》厭やで、お客樣を乘せやうが空車《から》の時だらうが嫌やとなると用捨なく嫌やに成まする、呆れはてる我まゝ男、愛想が盡きるでは有りませぬか、さ、お乘りなされ、お供をします」

お関「あれ知らぬ中は仕方もなし、知つて其車《それ》に乘れます物か、夫れでも此樣な淋しい處を一人ゆくは心細いほどに、廣小路へ出るまで唯道づれに成つて下され、話しながら行ませう」

 お関「録さんこれは誠に失禮なれど鼻紙なりとも買つて下され、久し振でお目にかゝつて何か申たい事は澤山《たんと》あるやうなれど口へ出ませぬは察して下され、では私は御別れに致します、隨分からだを厭ふて煩らはぬ樣に、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら私も祈ります、何うぞ以前の録さんにお成りなされて、お立派にお店をお開きに成ります處を見せて下され、左樣ならば」  

録之助「お辭儀申す筈なれど貴孃のお手より下されたのなれば、あり難く頂戴して思ひ出にしまする、お別れ申すが惜しいと言つても是れが夢ならば仕方のない事、さ、お出なされ、私も歸ります、更けては路が淋しう御座りますぞ」

以上、テキストは「青空文庫」のものを使用しました。

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二〇一三年六月六日 木曜日 DVDで映画「嵐が丘」を見ました。

二〇一三年六月六日 木曜日 DVDで映画「嵐が丘」を見ました。

 晴れ。

 大学院の授業のリポートを送信しました。
 樋口一葉の『十三夜』の会話文のすばらしさについて書きました。

 平和資料館・草の家に。
 
 SAさんと土佐高等女学校の生徒のとき風船爆弾工場に動員されていた女性のお宅を訪問。

 新しいパソコンのプリンターを注文しました。
 いまのは紙を送るところが壊れてしまいました。
 もう何台目か。
 この業界は、不良品ばかり大量生産しています。

 文学学校を休んでしまいました。

 夜、DVDで映画「嵐が丘」を見ました。
 いつの間にか悪役の男性の立場にわが身を置いている自分を発見。ム、ム、ム……。

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二〇一三年六月五日 水曜日 高知短期大学の公開講座。

二〇一三年六月五日 水曜日 高知短期大学の公開講座。

 晴れ。

 夜、高知短期大学の公開講座に参加しました。

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二〇一三年六月三日 月曜日 高知市の天神山の防空壕のことを教えていたただきました。

二〇一三年六月三日 月曜日 高知市の天神山の防空壕のことを教えていたただきました。

 晴れ。

 高知市の天神山の防空壕のことを教えていたただきました。

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二〇一三年六月四日 火曜日 授業、授業……。

二〇一三年六月四日 火曜日 授業、授業……。

 一時間目、院生研究室へ行って課題のリポートの印刷。

 二時間目、外国人の見た日本。

 三時間目、英作文の試験。

 四時間目、近代文学の演習。課題が出ました。

 五時間目、『万葉集』。

 六時間目、つづき。

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【ニュース】 橋下・維新さんは、日本国中をアメリカ軍のオスプレイの訓練場に差し出すことを提案しているようですね。

 ●2013年6月4日(火) オスプレイ大阪受け入れ意向 松井知事は撤回を 労組・団体が緊急要請

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-04/2013060415_01_1.html

 ●2013年6月5日(水) オスプレイ “受け入れ”撤回要求 共産党大阪府議団 府知事に

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-05/2013060504_01_1.html

 ●2013年6月7日(金) オスプレイ 八尾受け入れを検討 維新・橋下氏提案に首相 全国拡大も要請

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-07/2013060702_01_1.html

 ●2013年6月7日(金)

 オスプレイ八尾受け入れ提案 論外であり断固反対 志位委員長が会見

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-07/2013060702_02_1.html

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2013.06.08

見舞っていただいたHAさんへ。ありがとうございました。

 入院中は、お見舞いいただきありがとうございました。

 ごおいさつがおくれましたが、五月三十日夕、退院いたしました。

 おかげさまで後遺症ありません。

 しかし、五月十四日夕から、ずーっとベットのうえでの暮らしでしたので足腰が弱くなっています。

 いま平常の生活をしながら、もっとシャカシャカ動けるようにと訓練をしています。

 院にも通い始めました。

 課題リポートがたまっていましたので、仲間に助けてもらって一つひとつ仕上げていっています。

 なお、退院の翌日から別の病院に通っています。再発を防ぐための根本的な治療をするためです。

 しばらく、用心しながら暮らすことになりそうです。

 六十歳で退職してから「休日なし」で、ずーっと突っ走ってきましたが、そうもいかない年齢になっていたことに、いまさらながら気づきました。

 おたがいに、体をきたえ、いたわりながら前へ進んでいきたいものです。

 【追伸 以下、今回の件から学んだことです。】

 最初の兆候は正午過ぎにありました。歩いていたらふわふわ宇宙遊泳をしているような感じがしました。「ちょっと変だな」と思いましたが、でやりすごしました。

 二回目の兆候は英作文をしていたときです。やさしい単語のスペルが出てきません。「勉強不足だからなあ……」。

 三回目の兆候もありました。メモをしながら話を聞いているうちにボールペンをポトッと落してしまいました。それも二回も。それでも対処しませんでした。

 午後五時ころになりました。机に向かって発表を聴いていたら、「なんか、このままでいたら倒れそうだ」という感じが襲ってきました。手をあげて「中座させてください」と言おうと思ったら、口がきけなくなっていました。右足、右手もしびれていて立ち上がることもできません。身振りで「救急車を」。まわりのかたが呼んでくれました。

 救急車のなかでも「名前は」「住所は」に、こたえることができませんでした。右手はダラッとベッドからはみ出ていました。病院に着いたのは五時半ころ。六時ころ、ベッドのうえで話ができるようになりました。

 見舞いに来てくれた男性の看護師さんがいいました。「まわりに人がいてよかった。独りで家にいて半日も気づかれなかったら死んでいましたね」。

 最初の兆候があったときにチャンと対処していたら、もっと軽くてすんだのに……。

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二〇一三年六月八日 土曜日 DVDで映画「ジェーン・エア」を見ました。

二〇一三年六月八日 土曜日 DVDで映画「ジェーン・エア」を見ました。

 曇り。

   DVDで映画「ジェーン・エア」を見ました。

  一番かわいそうなのは、あの男の妻です。

 ハッピーエンドにしていますが、なんか悔いのようなものが残ります。

 気がついたらら午前一時になっていました。

 なんか体が「危ないよ」と警告を発しだしたので寝ました。

 午後零時半から夕方まで大学院の授業。二時間目、三時間目、四時間目です。

 地域の公民館の役員会に出席。実は、入院中の公民館総会で館長に就任しました。

 

 【参考 小説『Jane Eyre ジェーン・エア』】

 著者は、イギリスのシャーロット・ブロンテさん。一八四七年。
 
 あらすじ

 ジェーン・エアは孤児となり、叔母のリード夫人とその子どもたちから虐待されて育ちます。
 ある日ジェーンは教育施設ローウッドに送られ、そこで優しいテンプル先生やヘレン・バーンズと出会います。
 ヘレンを通して初めて忍耐と信仰心を知りました。
 ローウッドにはチフスが大流行します。そんななか、ヘレンは結核にかかり死亡します。
 生徒として六年間、教師として二年間ローウッドで過ごした後、ジェーンはソーンフィールド邸でソーンフィールドの長女の家庭教師として雇われます。
 当主・ロチェスターに結婚を申し込まれるが、結婚式の際に精神異常の妻の存在が判明します。
 ジェーンはソーンフィールドを出ます。
 路頭に迷い、行き倒れになりかけたところを牧師セント・ジョンと彼の妹、ダイアナとメアリーに助けられ、その家へ身を寄せることになります。
 しばらくしてジョンとその妹たちがジェーンの従兄であることが判明します。
 一年ほどそこで過ごしますが、セント・ジョンに妻としてインドへ同行することを求められ、ジェーンの心は揺れ動きます。
 しかし、ジョンの求婚を受けようとしたときに、ジェーンはロチェスターの自分を呼ぶ声を聞き、家を出ます。
 その後、ロチェスターのもとを訪ね、ジェーンは昨秋の火事でロチェスター夫人が亡くなり、ロチェスター自身も片腕を失ったうえ盲目になったことを知ります。
 ロチェスタージェーンは結婚式をあげました。

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アレルギーについての映像。

http://www.veoh.com/watch/v16717383yQPTczaF

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小学生のときのこと 家畜を飼っている家。

 六月八日、NHKテレビのアレルギーをテーマの番組をネットで見ました。
 このなかで人間と家畜のふれあいのことも触れられています。

 見ていて小学生のころ、高知県伊野町内野に住みはじめたころのことを思い出しました。
 近くの家で馬を飼っていました。
 あの馬は何に使っていたいたのでしょうか。
 荷馬車でしょうか。
 百メートル先の家ではブタをたくさん飼っていました。
 けっこうすごいにおいでした。
 何年か前、当時、わが家のあった所にいきましたが、もう近くにはブタも馬もいませんでした。

 いま、高知市の「いなか」に住んでいますが、近くに家畜を飼っている家は見当たりません。

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アレルギーについての論文のありか

http://www.nch.go.jp/imal/Publication_J.htm

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四人の外国人の医学研究者の略歴について英語のサイトで調べる必要があるのですが……。

 以下の四人の外国の医学研究者の略歴について英語のサイトで調べたいと思っていますが、姓名のつづりが正しくないらしくて行きつけません。すみませんが、正しいつづりをお教えください。

 ①ヨセフ・リーデラー       オーストラリア・ザルツブルク大学 博士、アレルギー研究者 
 ②ムンフバヤルラフ       モンゴル・モンゴル健康科学大学 博士 アレルギー研究者
 ③エリカ・フォン・ムーチウス  ドイツ・ミュンヘン大学 博士、アレルギー研究者
 ④ジーン・ゴールディンク    イギリス・プリストル大学 博士、アレルギー研究者
【追伸 教えていただいたおかげでわかりました】
 Josef Riedler      Salzburg University
 Munkhbayarlakh    Mongolia Health Sciences University
 Erika von Mutius    Munich University
 Jean Golding      Liston University

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2013.06.10

二〇一三年六月十日 月曜日 RI検査・脳血流シンチ。

二〇一三年六月十日 月曜日 RI検査・脳血流シンチ。
 曇り。
 ある人へのメールから。
 いまがらB病院で「RI検査・脳血流シンチ」を受けます。放射性医薬品を体内に投与して脳の血流を調べるというものです。調査時間は一時間。
 インターネットで見ると、これは「脳の各部位における血流状態や働きを見る検査」で「CTや MRIではとらえられない早期の脳血管障害や神経症状の責任病巣などの検出、脳の機能評価に使われ」るそうです。「この検査で脳梗塞、脳出血などの脳血管障害、精神疾患、てんかん、痴呆などの脳の病気の診断、病状の評価、治療効果判定に役立ちます。」とあります。
 怖そうな検査で緊張しています。それと医師から「この検査で使う薬が高額です」といわれているので費用の請求額にもビクビクしています。
 ……………………
 午前十時からB病院での血流の検査に。
 案内されたのは「核医学検査」室。
 スリッパにも核のマーク。
 うーん。
 まずロッカーで着替え。
 技師からオムツと上、下の術医を渡されました。
 「薬の関係で尿意を催すと思いますが、そのときは、がまんせずに、そのまましてください」
 ベッドにのぼり、あおむけになります。
 頭を固定されます。
 救急対応していた医師がきます。
 「がんばりましょう」
 この言葉にドキッとしました。どうなることやら。
 まず右手のてのひらの甲に注射して点滴が始まります。
 頭の左右の四角い金属片が左に右にゆっくり揺れはじめます。
 つぎに左手のてのひらの手前に注射。採血です。
 「痛いですよ」と医師。
 うーーっという感じです。
 本当に痛かった。
 少し長い時間の採血だったようです。
 点滴をしたままでの検査がつづきます。
 途中で点滴に薬を入れたようです。
 約一時間後、検査が終わりました。
 「検査はうまくいきました」
 技師の言葉です。
 「おしっこはだいじょうぶでしたか」
 「ええ」
 しかし、着替えが終わって、すぐトイレに行きました。
 つぎに診察室へ。
 「脳の左半球の血管の予備能力が落ちてきているが、手術が必要な状態ではありません。薬で様子をみましょう。九月にMRIなどの再査をします」
 気分は三か月ほどは生きのびることになったという感じです。
 夜、日本共産党の演説会に参加。

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二〇一三年六月九日 日曜日 どうする、ケアについてのリポート。

二〇一三年六月九日 日曜日 どうする、ケアについてのリポート。

 曇り、雨。

 午前九時から夕方まで院で介護について学びました。

 この授業、来週は、ケアについてリポートしなければなりません。

 テーマをどうするか、頭を悩ませています。

 夜、妻と一緒に作業。

 パソコンのプリンターの設置。

 公民館運営についての作業。

 気がついたら午前零時になっていました。

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2013.06.11

二〇一三年六月十一日 火曜日 

二〇一三年六月十一日 火曜日 
 曇り。

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2013.06.13

 二〇一二年六月十二日 水曜日 「昼寝屋」さん。

 二〇一二年六月十二日 水曜日  「昼寝屋」さん。

 晴れ。

 朝七時、はいてしまいました。
 原因不明。
 一日、飲み物だけで過ごしました。
 午後になって市の中心部へ。
 枡形の公園のベンチに寝転んで空を仰いで少し寝ました。
 どこかに「昼寝屋」さんでもできないことがと思いました。
 ベッドがずらーっと並んでいて、天井はガラス張り、くたびれて昼寝をしたい人が集まってきて十五分、三十分と、そのベッドで昼寝をして帰っていくみたいな。
 城西公園に行くとヤマモモが実っていました。
 しかし、とる人もないようでぼとぼと落ちています。
 「ヤマモモがり 高知の公園ツアー」というイベントでもできないものかと思いました。
 午後五時半から青年のインタビューにこたえました。
 帰り着いたら、ベッドへ。
 気がついたら夜中の一時でした。
 なかなか調子がもどりません。歩く時も「こんちきしょう、こんちきしょう」といいながらの日々です。

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【こんな論文がありました】 The Japanese communist party: Organization and resilience in the midst of adversity false Er, Lam Peng. Pacific Affairs69. 3 (Fall 1996): 361.

The Japanese communist party: Organization and resilience in the midst of adversity false Er, Lam Peng. Pacific Affairs69. 3 (Fall 1996): 361.

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カジカガエルの声 ここで聴くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=gnK00uOLsa8

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2013.06.14

、「下司(げし)」という名字の由来は………。 

 あるかたから、「下司(げし)」という名字の由来について質問されて、要旨、つぎのようにこたえました。

 くわしくわかりません。

 おしらべになってらっしゃるかた、いらっしゃれば教えていただけませんでしょうか。

 //////////
 辞書などに、こういう内容の記述があります。
  げし【下司】
 中世荘園において、在京荘官の預所(あずかりどころ)を上司あるいは中司というのに対して、現地にあって公文(くもん)、田所、惣追捕使などの下級荘官を指揮し、荘田・荘民を管理し、年貢・公事の進済に当たる現地荘官の長をいいます。
 惣公文と呼ばれることもあります。
 このような下司の史料上の初見は、長徳二年(九九六年)十月三日の伊福部利光治田処分状案(《光明寺文書》)に、〈甲賀御荘下司出雲介〉とあるものですが、下司が頻出するのは、公文、田所などと同じく十一世紀後半以降です。
 /////////
 この職制が、苗字になったものではないかと思っています。
 高知には、公文さん、田所さんもいます。
 高知県伊野町(いまは、いの町)では下司の貸本屋にしょっちゅう行っていました。伊野小学校の近くでした。最近、小中学校のことを書きましたが、この貸本屋さんのことを書きました。ブログ高知に載せました。
 高知市には下司病院があります。
 戦前からの科学的社会主義の運動の活動家で下司順吉さんがいます(のちの日本共産党中委員会の幹部。故人)。戦中の高知の詩人・槇村浩が彼のことを詩でうたっています。
 いちど、山口市に一か月、出張していたときにも下司さんに出会いました。その人も高知の出身だといっていました。

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2013.06.15

二〇一三年六月十四日 金曜日 大学院の介護論のリポートのための取材。

二〇一三年六月十四日 金曜日 大学院の介護論のリポートのための取材。

 ひたすらパソコン作業。

 午後四時から修士論文の時間。

 日本の反戦詩の系譜を追ってみようということになりました。

 いつ、だれが、タイトル、そのアピールの内容についてメモをつくっていくつもりです。

 夕方、Kさんにインタビュー。

 大学院の介護論のリポートのための取材です。

 妻は実家泊まり。

 ところで、きょうは二度、クラッとしました。

 なんか頭にいく酸素が一瞬欠乏したという感じです。

 これは原因をつきとめなくてはと思っています。 

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【ニュース】橋下維新さん、また決めつけ 「小金稼ぎのコメンテーター」と。

http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/06/15/0006079050.shtml

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2013.06.16

二〇一三年六月十五日 土曜日 『嵐が丘』についてリポートをかこうと思い立ちました。

二〇一三年六月十五日 土曜日 『嵐が丘』についてリポートをかこうと思い立ちました。

 曇り。

 午後、院の授業、三時間。

 『嵐が丘』についてリポートをかこうと思い立ちました。

 夜、あすの授業のためのリポートを執筆。

 夜、別のリポートを提出(メール送信)。

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二〇一三年六月十三日 金曜日 今日も行動を自粛しました。

二〇一三年六月十三日 金曜日 今日も行動を自粛しました。

 前日の朝、はいてしまったことで、今日も行動を自粛しました。

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2013.06.17

「生活保護法の改悪に反対する研究者の緊急共同声明」運動に寄せて

 6月14日、「生活保護法の改悪に反対する研究者の緊急共同声明」へ賛同呼びかけの運動が始まりました。生活保護からの社会的排除を推しすすめる「生活保護法の改悪」に反対しようという趣旨です。このリポートは、「声明」の動きを紹介しながら、生活保護法の改悪問題についてのべていきます。

 「生活保護法の改悪に反対する研究者の緊急共同声明」の内容

 生活保護法改悪案は、6月4日、衆議院本会議で、自民党、公明党、民主党、日本維新の会、みんなの党、生活の党の賛成多数で可決、参議院に送りました。

 こうしたもとで「声明」への賛同呼びかけ運動が始まりました。その呼びかけ人は、つぎのような研究者です。

 井上英夫(金沢大学名誉教授、社会保障法)

 木下秀雄(大阪市立大学、社会保障法)

 後藤道夫(都留文科大学名誉教授、社会哲学・現代社会論)

 笹沼弘志(静岡大学、憲法学)

 三輪 隆(埼玉大学、憲法学)

 村田尚紀(関西大学、憲法学)

 森 英樹(名古屋大学名誉教授、憲法学)〉

 「声明」は、つぎのようにのべています。

 〈いま国会で審議されている生活保護法改正案は、不正受給を防ぐためと称して

 ①生活保護申請時に資産・収入方法についての書類提出などを義務づけると共に、

 ②親族の扶助義務を事実上生活保護の要件としている。

 これは自由で民主的な社会の基盤であるセーフティーネットとしての生活保護を脅かすものであって、私たちはけっして許すことはできない。(中略)

 そもそも、このようは書類の提出は申請の後で済むことであり、裁判判例も申請は口頭でよいことを認めている。ギリギリの生活を迫られている人たちには、国連社会権規約委員会も勧告しているように、保護申請すること自体を容易にすることこそが切実に求められているのである。

 また、(中略)親族関係は多様である。夫への通知・調査を怖れるDV被害者だけでなく、親族に「迷惑がかかる」ことから申請をためらう人は現在でも少なくない。家族・親族に厳しく「共助」を求めることは国の責任転嫁に他ならない。(中略)

 さらにまた、今度の改正案は、③ジェネリック医薬品の使用義務づけ、保護受給者の生活上の責務、保護金品からの不正受給徴収金の徴収を定めている。保護受給と引き換えに生活困窮者にこのような責務を課すことは、性悪説を前提に保護受給者を貶め、その尊厳を傷つけるものである。

 以上、この改正案は全体として生活保護を権利ではなく「恩恵」「施し」とし、生活困窮者に恥と屈辱感を与え、劣等者の刻印を押し、社会的に分断排除するものということができる。

 生活困窮者は少数であり、常に声を上げにくい当事者である。しかし、セーフティーネットは、競争からこぼれ落ちた人々を救うためだけの制度ではない。それは自由な社会のなかで生きる人々が、様々なリスクを抱えつつも、幸福に暮らすことを安心して自由に追求できるための必須の条件である。セーフティーネットを切り縮めることは、自由で民主的な社会の基盤を掘り崩すものといわざるを得ない。これは生活困窮者だけの問題ではなく総ての人々の生存権に対する深刻な攻撃である。

 (中略)政府はすでに、生活保護費の生活扶助をこの8月から3段階で約670億円引き下げることとし、今年度予算もこれを前提として成立している。参議院では予算に「合わせて」法案を審議するといった逆立ちをすることなく、上に指摘した問題点を解消するよう、慎重審議することを求めるものである。〉

 生活保護利用者の実態はどうでしょうか

 この問題を考えるうえで、まず、生活保護利用者の実態を見ておくことにします。

 全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)が5月9日、加盟事業所の患者で生活保護利用者の生活実態調査結果を公表しています(しんぶん赤旗、5月10日付)。調査は2~3月に実施。職員による直接の聞き取り調査に応じたのは、43都道府県の1482人。医療機関の調査のため回答者は、病気になりやすい50~70代が約6割を占め、男性の55%、女性の70%が60歳以上の単身者でした。

 生活保護利用の理由のトップは病気で約6割。そのうち7割は病気による失業です。

 93%が「支出をきりつめている」と回答。18歳以下の子どものいる54世帯の76%が、子どもにかかわる支出もきりつめているとしています。

 食事は3人に1人が1日2回以下に抑え、18歳以下の子どもも2回以下が17%という状況です。「妻は1食。高齢の夫は3食。2人が3食とるとやっていけない」「弁当のおかずを2回に分けて」(70代単身)などの記述も。1日の食費は千円未満が46%。子どものいる世帯でも7割が月5万円未満(総務省統計の2人世帯の食料支出平均5・8万円)でした。

 入浴回数は、水光熱費の節約で週2回以下が47%。1年間の被服・履物の購入回数ではゼロが13%、64%が2回以下。金額も49%が5千円以下でした。

 地域とのかかわりでは、74%が地域の行事に「まったく参加しない」と答え、交際費は町内会費を含め月千円以下が50%。冠婚葬祭に「全く参加しない」も51%。教養・娯楽費では32%が「0円」と答えました。

 生活・就労支援などでの自治体の体制では、担当者が毎月訪問しているのは26%、「これまで訪問なし」が17%、2年に1回が14%など支援の貧弱さが明らかになりました。

 生活保護の不正受給の問題、生活保護の捕捉率の低さについても、ここでふれておきます。

 日本共産党の志位和夫委員長は、衆議院厚生労働委員会で生活保護法改悪案の可決が強行された5月31日、衆院議員面会所での抗議行動での発言で生活保護の捕捉率の問題ついてに、つぎのように語っています(しんぶん赤旗、6月1日付)

 〈政府や自民党は、不正受給の存在を制度改悪の口実にしていますが、政府の統計でも生活保護の不正受給(額)は全体の0・5%にすぎません。

 しかも不正受給といわれている人々のなかでも、たとえば子どもさんが高校生になってアルバイトを始めた、その届け出をうっかりやっていなかった、そういう本当のミスも少なくなく、悪質なものはごく少数にすぎません。

 それを、あたかも全体が不当なことをやっているかのようなバッシングをやって、受給権を奪う。国民の間に分断を持ち込み、互いにたたき合わせて、その権利を奪うというやり方は本当に許すわけにいかない。そうした卑劣な罠(わな)を断固として拒否しようではありませんか。〉

 ここで大事なのは、99・5%は適正に執行されているということです。

 〈日本の生活保護で早急に解決が迫られているのは、収入が最低生活費未満の人が生活保護を受けていない―捕捉率があまりに低いという問題です。捕捉率は日本では2割程度しかありません。ドイツの6割、イギリスの5~6割、フランスの9割と比較して、2割というのはまったく異常な実態というほかありません。〉

 この捕捉率の低さという問題をこそ解決すべきだと思います。

 

 安倍内閣のもとでの生活保護の大改悪

 安倍政権は発足以来、生活保護の改悪を進めています。

 2013年度予算で手をつけたのは、生活保護受給者の食費・光熱費などにあてられる生活扶助費の削減の強行です。

3年かけて総額740億円の生活扶助費を削減する計画が、今年8月から始まります。9割以上の受給世帯が収入減に追い込まれ、月2万円以上も減らされる子育て世帯も生まれます。そのうえ受給者数を強引に減らすなどして年450億円も生活保護費をカットする施策も盛り込んでいます。

 続いて安倍政権が持ち出したのが改悪法案です。

行政に助けを求めてきた人たちを窓口で追い返す仕組みを初めて条文化する内容です。現行法は本人や家族らが口頭で申請することも認めているのに、改悪案は預金通帳などの書類提出を必須としたのです。住まいのない人や、配偶者からの暴力から逃げて着の身着のままで助けを求めてきた被害者の申請を事実上不可能にするものです。

 法案が、親族による扶養義務の強化を明記したことも受給者を排除する狙いです。保護を申請した人の親族らの収入や資産を調べるため、税務署や銀行、場合によっては勤務先にまで報告を求めることができる権限を与えました。親族の身辺を洗いざらい調査されることを避けるために、保護申請をあきらめる人が続発する事態をもたらしかねません。

 いま、どういう事態が起きているか例をあげます。

 札幌市白石区で知的障害のある妹=当時(40)=と暮らす姉=同(42)=が亡くなった事件では、区が3回も相談を受け、面接記録の記述でも非常に切迫した状態に置かれていた事実をつかみながら「申請意思を示さなかった」などとして生活保護申請を受け付けませんでした。

 姉はその後、昨年12月から今年1月の間に病死し、残された妹は1月上旬から中旬の間に凍死したとみられます。発見されたのは1月20日で電気やガスが止められていました。

 政府は生活保護受給者の親族にたいし扶養義務を強化しようとしていますが、茨城県水戸市で、その先取りともいえるようなことがおこなわれました(しんぶん赤旗、5月16日付、「生活保護 受給者の娘宅を職員が突然訪問 親への援助迫られたが… 水戸」)、問題になっています。

 4月中旬のことです。同市内の店舗兼自宅に夫の両親と同居するA子さん(34)は、1階の店にいた義母に呼ばれ、降りて行ったら水戸市役所から来たという男の人が2人いて実家が生活保護を受給しているのを知っているか尋ねられました。知っていると答えると「いくらかでも支援できますか」と援助を求められました。

 「『自分も生活が苦しくできません』と答えました。すると1人の職員が『ハハッ』と笑って。ばかにされたような気がしました。私が働いているか聞かれ、パートに出ていると答えると『そういうふうに申請しておくね』といって帰りました」とA子さん。

 実家の父親(68)は十数年働いた会社を定年退職しましたが、年金がありませんでした。再就職できず生活保護を受給しました。がんで手術を繰り返し療養しています。母親も持病があり通院しています。

 A子さんはこれまで、実家が生活保護を受給していることを夫や義父母に伝えていませんでした。「夫は理解してくれたけど、義父母がどう思うか分からない。親同士の付き合いが上手くいかなくなるかもしれないし、そうなったら夫婦の間だって…」と語ります。

 水戸市の生活保護世帯は約3900世帯。2008年のリーマン・ショック以降、急増しました。同市は「少しでも(保護費の)支出を減らしたい」(生活福祉課)と、昨年度から警察官OBを含む嘱託職員2人を雇い、市内に居住する扶養義務者の台帳をつくって実地調査(訪問)し、仕送りができないか、ただしています。同課によると4月下旬までに159世帯を訪問したと言います。

 A子さんの父親宅に担当ケースワーカーと職員2人が訪ねてきたのは昨年末。父親に親族の連絡先を教えるよう求めました。父親は二男と兄の連絡先を教えましたが、A子さんのことは「言わなかったし、聞かれもしなかった」と言います。「話にも出ていない娘の嫁ぎ先にまでなぜ市は訪ねて行ったのか」。 

 生活福祉課は「(扶養義務者を)訪問していいか、必ず被保護世帯の了解をとるようにしている」としています。しかし実際には了解なしの訪問でした。父親の訴えを聞いた日本共産党の中庭次男水戸市議の指摘を受け、同課は4月下旬、A子さんの父親に謝罪しました。

 「セーフティーネットとしての生活保護を脅かす」

 「声明」が指摘するように、この改悪案は「自由で民主的な社会の基盤であるセーフティーネットとしての生活保護を脅かすもの」です。 そのことは5月29日の衆議院厚生労働委員会での日本共産党・高橋ちづ子議員の質問でもうきぼりになっています(しんぶん赤旗、5月30日付の「論戦ハイライト」)

 高橋氏は日本国憲法25条(生存権)にもとづいた生活保護法の基本理念は変わっていないのかと確認。田村憲久厚労相は「憲法の権利を具現化するセーフティーネットが生活保護制度。根幹は何も変えていない」と答弁しました。

 誰にでも受ける権利はある(無差別平等)、個々の事情を顧みず機械的な対応をしない(必要即応)―という生活保護の大原則についても、桝屋敬悟厚労副大臣は「何ら変わらない」と答弁しました。

 ところが法案では、これまで生存権を守る立場から口頭でも申請を受け付けていたのを、申請書や内容を証明する書類の提出を義務付けます。高橋氏は、今でも申請にまでたどりつける割合は49・7%(2011年)と半数以下だと指摘。日本弁護士連合会も「水際作戦を合法化させる」と批判していることを挙げ、義務付けをやめるべきだと求めました。

 〈高橋 書類がそろわないと保護は受け付けないのか。

 村木厚子社会・援護局長 実際の運用を変えることは一切ない。そろわないと受け付けないものではない。

 高橋 変わらないのなら、書かなければいい。法律に書いたわけだから義務になる。〉

 高橋氏は、福岡県北九州市の餓死事件では申請を締め付ける「水際作戦」が判決(2009年)で断罪されたことを指摘。申請したくても半分以上が書類にさえたどりつけない実態を挙げ、「水際作戦の合法化ではないか」と追及すると、田村厚労相は「それは不適当な対応だ」と答えざるをえませんでした。

 改定案は、親兄弟などが扶養義務を履行していない場合は、扶養義務があることを通知したり、「報告を求めることができる」ことなどを盛り込んでいます。

 村木局長は、「必ず扶養できる人に限っておこなうものだ」とし、収入などの調査についても、「本人同意がない場合は適当でない」と答えました。

 〈高橋 現場ではかなりのことがやられている。大学に通う19歳の学生に姉の扶養義務の照会がきた事例もある。家族の絆、親族の関係もみんな壊れる。

 村木 家族の問題に行政が踏み込んでいくのは相当慎重にしなければならない。

 高橋 国会で取り上げられてから、申請をためらうケースが増えるなど、すでに「アナウンス効果」が抜群に発揮されている。〉

 高橋氏は、札幌市の女性がニュースを見て「簡単には受給できないだろう」と考えて母親と心中を図った例を紹介、申請の締め付けになるとただしました。

 田村厚労相は、「心配の点は各自治体に通知し、ご懸念のない形ですすめる」と答弁。高橋氏は、国内の餓死者(栄養失調と食糧不足による死者の合計)が2000年の1314人から1311年の1746人に増加していると指摘し、「これほどの経済大国・日本で餓死者がこれだけいるということは非常に重大だ」と強調しました。

 また、いわゆる「不正受給」は生活保護受給額全体の0・5%にすぎず、申告漏れなど悪意のないものがほとんどだと指摘。「生活保護申請の却下との関連も含めて調査し、こうしたことが起こらないようにすべきだ。保護のハードルを下げてまず命を守る姿勢に転換すべきだ」と主張しました。

 いまこそ世論と運動広げて

 では、この生活保護への分断の攻撃をどうはねかえすか。

 ・政府はこの間、生活保護の受給者を攻撃するバッシングや、高齢者と現役世代の「世代間格差」を言いたてるキャンペーンを展開し、国民同士を「たたきあう」ように仕向ける分断攻撃をすすめながら、制度改悪を強行しようとしています。この点に注目し、生活保護者分断の攻撃も国民の権利を奪い、後退させる攻撃ととらえ、国民各層の社会的な連帯の力で打ち破るために努力すべきではないでしょうか。

その点でも研究者たちの動きは注目されます。

 ・生活保護を適切に受けることができるようにするという方向でキャンペーンをはっていく必要があると思っています。論争のうえでは、①生活保護者の生活実態を明らかにし、②生活保護を受けることは日本国憲法25条(「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。/ 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」)、生活保護法(「第二条  すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。」 とうたわれているまっとうな権利なのだということを押し出していく、③その権利を圧迫しようとする安倍内閣の非道ぶりをついていく必要があります。

 ・今年5月、国連社会権規約委員会から日本政府に出された「総括所見」は「恥辱のために生活保護の申請が抑制されている」ことに「懸念」を表明し、「生活保護の申請を簡素化」し「申請者が尊厳をもって扱われることを確保するための措置をとる」こと、「生活保護につきまとう恥辱を解消する」手だてをとることを勧告しています。社会権規約を批准している日本には勧告にもとづき事態を改善する義務があるのに、改悪案は国連勧告に真っ向から逆らうものであることも大事な押し出し点だと思います。

 ・なお、餓死をなくすための一方策として、電気、ガスなど民間も含めライフライン業者から料金滞納者の行政への通報体制の構築や、滞納があってもすぐには供給停止にしないルールづくりが必要だと思っています。

 【参考】

「生活保護法の改悪に反対する研究者の緊急共同声明」への呼びかけ
http://e-kenpou.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html


生活保護法の改悪に反対する研究者の緊急共同声明の取りまとめ・連絡先
takm@mail.saitama-u.ac.jp

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2013.06.18

【反戦詩】 北川冬彦の詩集『戦争』のアピール 

 詩人、映画評論家の北川冬彦(本名・田畔忠彦=たぐろ ただひこ。一九〇〇年六月三日~一九九〇年四月十二日)は、一九二九年十月十五日に詩集『戦争』(厚生閣書店)を出版しました。
 彼は詩集『検温器と花』(一九二六年十月二十五日。ミスマル社)でも戦争をテーマにした詩、「平原」を載せていました。

  平 原

 平原の果てには、
 軍団が害虫のように蝟集[いしゅう]していた。

 平原の果てにハリネズミの毛のように軍団が寄り集まっている。映画の一シーンを見ているような短詩です。
 戦争というものの不気味さは表現されています。しかし、どこの軍団で、攻めようとしているのかも守ろうとしているのかも不明です。
 『戦争』のなかの戦争をテーマにした詩は、対象も伝えたいことも明確です。

  戦 争
  
 義眼の中にダイヤモンドを入れて貰ったとて、何になろう。苔の生えた肋骨に勲章を懸けたとて、それが何になろう。

 腸詰をぶら下げた巨大な頭を粉砕しなければならぬ。腸詰をぶら下げた巨大な頭は粉砕しなければならぬ。

 その骨灰を掌の上でタンポポのように吹き飛ばすのは、いつの日であろう。

 「義眼」や「肋骨」は、戦争で障害者になったり、亡くなった人を意味していると思います。
 そんなになってダイヤモンドや勲章をもらっても、しょうがないのさ、という詩です。
「腸詰をぶら下げた巨大な頭」とは、戦争によって富を得ている死の商人たちや、そのおこぼれにあずかっている人たちのことでしょうか、それとも戦争の総指揮者の天皇のことでしょうか。
そのような戦争悪は「粉砕しなければならぬ」とくりかえしています。
 
  大軍叱咤

 将軍の股は延びた、軍刀のように。

 毛むくじゃらの脚首には、花のような支那の売淫婦がぶら下がっている。

 黄塵に汚れた機密費。

 これも映像性の高い詩です。
 将軍と限定的にいっているのがすごい。

機密費という言葉が出てきます。これについては評論家の鶴見俊輔が、しんぶん赤旗、二〇〇二年四月十四日付に寄せた談話で語っています。

私は戦争中、バタビア(現在インドネシアのジャカルタ)の海軍武官府にいて、金庫の中で機密費と普通の予算が区別されていたのを知っているんです。機密費はいついくら出したと書いておけばよくて、私が扱った経理の帳簿には記帳する必要がないんですよ。

 何に使うかというと、政府や軍の高官がやってきたときの宴会の費用としてでした。作戦上の機密じゃないんです。末端での習慣なので、他の軍でも同じだったのではないでしょうか。〉

 【参考文献】

 ・鶴岡善久編集『北川冬彦全詩集』。沖積舎。一九八八年一月二十日。

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【反戦詩】 中野重治の「新聞にのった写真」、「兵隊について」

 中野重治(なかのしげはる。一九〇二年一月十五日~一九七九年八月二十四日)は天皇の軍隊の残忍性、その軍隊にひっぱられた兵隊の苦悩をうたった詩「新聞にのった写真」、「兵隊について」を書いています。
 いずれも一九三五年の『中野重治詩集』に収録されている作品です。)
 中野は、一九三一年に日本共産党に入りました。一九三二年四月に検挙され一九三四年に「転向」していますので、二つの作品は検挙以前のものだと思われます。

  新聞にのった写真

 ごらんなさい
  こっちから二番目のこの男をごらんなさい
  これはわたしのアニキだ
  あなたのもう一人の息子だ
  あなたのもう一人の息子 私のアニキが
  ここにこのような恰好をして
  脚絆(きゃはん)をはかされ
  弁当をしょわされ
  重い弾薬嚢でぐるぐる巻きにされ
  構え銃(つつ) タマ込め ツケケンをさされて
  ここに
  上海(シャンハイ)総工会の壁の前に
  足をふんばって人殺(・・)しの顔つきで立たされている
  ごらんなさい 母上
  あなたの息子が何をしようとしているかを
  あなたの息子は人を殺(・)そうとしている
  見も知らぬ人をわけもなく突き殺(・)そうとしている
  その壁の前にあらわれる人は
  そこであなたの柔(やさ)しいもう一人の息子の手で
  その慄(ふる)える胸板をやにわに抉(えぐ)られるのだ
  いっそうやにわにいっそう鋭く抉られるために
  あなたの息子の腕が親指のマムシのように縮んでいるのをごらんなさい
  そしてごらんなさい
  壁の向こうがわを
  そこの建物の中で
  たくさんの部屋と廊下と階段と窖(あなぐら)との中で
  あなたによく似たよその母の息子たちが
  錠前をねじ切り
  金庫をこじあけ
  床と天井とをひっぺがえして家探しをしているのを
  物盗りをしているのを
  そしてそれを拒むすべての胸が
  円(まる)い胸や 乳房のある胸や あなたの胸のように皺(しわ)のよった胸やが
  あなたの息子のと同じい銃剣で
  前と後とから刺し貫(・)かれるのをごらんなさい
  おお
  顔をそむけなさるな 母よ
  あなたの息子が人殺しにされたことから眼をそらしなさるな
  その人殺しの表情と姿勢とがここに新聞に写真になって載ったのを
  そのわななく手の平で押えなさるな
  愛する息子を腕の中からもぎ取られ
  そしてその胸に釘を打ちこまれた千人の母親達のいることの前に
  あなたがそのなかのただ一人でしかないことの前に
  母よ
  私と私のアニキとのただ一人の母よ
  そのしばしばする老眼を目つぶりなさるな

  兵隊について

 見たか
 賢こそうな泣きつらを
 背嚢(はいのう)形の汗を
 からだ中から革具の匂いのしてたあの若い兵隊を
 気づいたか
 あいつがちらりと見たのを
 君に何か言いかけようとしたのを
 言いかけようとして言いかけ了(おお)せなかったのを
 奴は言おうとしたのだ
 ――見てくれおれを
 おれは兵隊だ
 おれは兵卒だ
 そしておれが兵卒だということがいっさいなのだ
 でかい兵器廠がぐゎんぐゎん吠(ほ)え立て
 おれたちは年がら年中人殺の(・・・)稽古(けいこ)だ
 そして「殺せ(・・)っ」ときやがる
 ウムを言わせぬのだ
 靴とビンタと減食と寝台かつぎとだ
 ゴムと締め(・・)木だ
 誰かの母親の(・・・)脇の下へ拳骨(げんこつ)をつっこんでどこかの 赤ん坊の頭を銃(・)の台尻(・・)でつぶすのが
 ひとの細君(・・)に眼隠しをして逆さに吊る下げるのが
 そんなことで人をいためつけて虐む(・・)ことで
 おれたちの手をもっと大きくし
 もっと頑丈(がんじょう)にし
 そして汗をかくのが仕事なのだ
 煉瓦(れんが)で石子詰(いしこづ)めにされ
 いじめていじめぬかれて
 憲兵(・・)につかれて
 どこでも どうしてでも 誰に向かっても
 ひと言「やめてくれ!」と言えぬのだ
 おれたちは何べんも脱走(・・)した
 何べんも自殺(・・)した
 おれたちは兵卒で
 兵卒だということがいっさいなのだーー
 奴はこう言おうとしたのだ
 賢こそうな泣きっつらで
 そして返事をもとめたのだ
 手をかして
 腰を上げてほしかったのだ
 奴らはいつでも
 電車の中でも汽車の中でも
 日曜の街上でも
 旗日の活動小屋でも
 どこかの演説会でも
 なにかの集会でも
 あっちでもこっちでも眼配せしたのだ
 賢こそうな泣きっつらでいっぱい側へよって来たのだ

 【参考文献】

 ・『日本文学全集 36 中野重治集』。筑摩書房。一九七〇年十一月一日。

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2013.06.19

【ニュース】 従軍慰安婦問題 「強制連行 資料なし」は誤り 政府発見資料に「バタビア臨時軍法会議の記録」。日本共産党・赤嶺政賢衆議院議員の質問趣意書に政府答弁。

 〇しんぶん赤旗 2013年6月19日(水)

 「慰安婦」問題 赤嶺氏に回答 政府資料に強制証拠 

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-19/2013061901_01_1.html

 安倍内閣は[6月]18日、日本共産党の赤嶺政賢衆院議員が提出した質問主意書に対する答弁書で、「慰安婦」問題に関して日本軍による強制連行を示す証拠が政府の発見した資料の中にあることを初めて認めました。
 赤嶺氏は、安倍内閣が「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」(2007年の答弁書)としていることについて、「『政府が発見した資料』とは何か」と質問。答弁書は「内閣官房内閣外政審議室(当時)が発表した『いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について』において、その記述概要が記載されている資料を指す」とのべ、日本軍による強制連行を示す資料である「バタビア臨時軍法会議の記録」があることを認めました。
 同記録は、日本軍がジャワ島セマランほかの抑留所に収容中のオランダ人女性らを「慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどした」と明記。答弁書は「ご指摘のような記述がされている」と認めています。(後略)

 第一次安倍内閣が二〇〇七む共同代表)など「慰安婦」強制否定派が利用していました。

 【赤嶺議員の、これまでの追及】

 〇しんぶん赤旗 2013年5月23日(木)

 菅官房長官、河野談話継承明言せず 赤嶺氏 「歴史ゆがめるな」 衆院内閣委

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-05-23/2013052302_01_1.html

 日本共産党の赤嶺政賢議員は[5月]22日の衆院内閣委員会で、旧日本軍「慰安婦」問題を取り上げ、河野官房長官談話(1993年)が認めた軍の関与と強制性を安倍内閣は認めるのかと追及しました。
 菅義偉官房長官は「心が痛むという点では歴代内閣と変わらない」と述べるだけで、軍の関与と強制性について一切言及せず、談話の骨抜きを狙う姿勢を隠しませんでした。
 赤嶺氏は、第1次安倍内閣が2007年に閣議決定した答弁書が「(河野)談話を継承」としていることをあげ、「立場を変更したのか」と追及しました。
 菅氏が「閣議決定を変更するつもりはない」と述べるにとどまったため、赤嶺氏は談話では慰安所の設置・管理、「慰安婦」の移送・募集に軍が関与した事実を認めていると追及。(中略)
 さらに赤嶺氏は、07年の答弁書で「強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」としている問題を追及。第1次安倍内閣による「河野談話までに政府が発見した資料」の中には、日本軍によるオランダ人女性の強制連行を示す「バタビア臨時軍法会議の記録」が含まれていると指摘しましたが、菅氏は「答弁書に書いてあることが全てだ」と事実関係の確認さえ拒否しました。[後略]

 【「バタビア臨時軍法会議の記録」については、つぎの文書にも載っています。】

 http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon_pdf_s.nsf/html/shitsumon/pdfS/a166266.pdf/$File/a166266.pdf

 ●マゲラン事件宣誓証人調書 オランダ・バタビア臨時軍法会議書類番号23126/R 調書作成者:Willem Theodoor Spier(一九四八年三月一一日)/証人:[・・・]夫人、[・・・]一八九七年ブニンク生れ/住所[・・・] 9ユトレヒト
 問: 日本人がムンティランの抑留所にいた女性や少女達を、売春をさせるために強制的に連行したということについてあなたはどういうことを知っていますか?
 答: (略)四三年一二月のある朝のこと{一二月のはじめ頃}、抑留所の運営委員会の委員である[・・・]夫人と、[・・・]夫人と、私達の事務所にいた時、数名の日本人と会ってくれとの連絡がありました。私達の抑留所の所長は、[・・・]と名乗るマゲランの州長官だと自己紹介した日本人と一緒でした。他にも数人の日本人がいました。後で分かったのですが、一人は[・・・]という憲兵《傍線1》、もう一人は[・・・]という民間人でした。(略)事務所へ戻ると、書き付けた名前を全部タイプし、その名簿に、抑留所内にいる一七歳以上の女性達の名前も全部足すように言われました。(略)それから一〇日ぐらいしてから、ミアサキ(原文:Miasaki、抹消漏れ)が、何人かの私達の見知らない日本人を伴ってやって来て、会合をしていた私達の委員会に対して、例の名簿をもとに少女達に事務所の前に出て来るように手配するようマレー語で言い付けました。(略)日本人達と[・・・]は彼女らを目で検査し、仕事をしたいかどうかを彼女らに彼が尋ねたように記憶しています。これにはだれ一人返答しませんでした。(略)四四年一月二五日{ここで証人は彼女の日記を覗く}、三人の見慣れない日本人が抑留所に来ました。(略)私達委員が礼拝堂に入った時には、もう四〇人ぐらいの夫人達や母親同伴の少女達が来ていました。私達は激しく抗議しましたが、[・・・]は、私を[・・・]博士と一緒に礼拝堂の外に追い出しました。(略)私は少女[・・・]が行かなければならなくなって気が狂ったように泣くのを目撃しました。彼女は間違いなく、いやいや行かされたと私は思います。《傍線2》
 日本人達は、私達委員にこれ以上立ち入らせないようにし、選ばれた夫人や少女達には、出発の準備をするよう直接に指示しました。彼女らが私に知らせてくれたところによりますと、半時間で身支度をしなければならなかったそうです。その間に、私達委員は、抑留所の女性達全員に、一緒に門のところに集まって抗議し、できることならば連行を止めさせるように指示しました。日本人達が礼拝堂から出て来て、門へ向かった時、私達は一斉に「いやだー!(原文インドネシア語〝Tidamaoe!〟)」と叫びました。
 日本側はこれに激怒して、長い竹と抜き身のサーベルで武装した警官隊に集まった女性達を追い散らすよう命令しました。
 これに応じて警官[・・・]は突進しました。これは私も目撃し、彼から竹の棒で一つ殴られました。(略)
 問: 少女達を連行した際、強制だったと思いますか?
 答: はい。私達の抗議、女性達の抗議、また集まっていた者たちを力づくで追っ払ったことなどからそれは分かると思います。《傍線3》
 問: 日本人は、少女達を連行した目的について何も話しませんでしたか?
 答: はい、そういうことはありませんでした。ただ、礼拝堂の中で、日本人のために働きたいか、と母親達が尋ねられただけです。
 問: 完全に自分の意志に反して連れて行かれた少女は誰と誰でしたか?
 答: [・・・]、[・・・]、[・・・]、[・・・]、[・・・]でした。《傍線4》(略)
 問: 日本人の特徴を言ってもらえますか?
 答: [・・・]はきちんとした人、という印象でした。マゲランの州長官でしたから、簡単に見つかるはずです。
 [・・・]は憲兵で、抑留所の監督を任せられていました。《傍線5》このイセキ(原文:Iseki、抹消漏れ)については、私は当時既に、{記録保存係の?}デブール氏の目の前で私にひどい扱いをしたことに関して苦情書を提出してあります。写真があれば見分けられます。(略、以上)
 前記資料はオランダ政府戦争犯罪調査局が作成したものであり、バタビア臨時軍法会議に証拠資料として提出され、採用されている。

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【ニュース】 日本維新の会 石原さん、橋下さんの「いいあいっこ」、ここまできました。

 スポーツ報知
 http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20130619-OHT1T00050.htm

 サンケイスポーツ、
 http://www.sanspo.com/geino/news/20130619/pol13061905030001-n1.html

 スポーツニッポン
 http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/06/19/kiji/K20130619006042070.html

本日の高知新聞も二面で、このことを報じていました。

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【エッセイ】 知市永国寺町の高知県立大学・高知短期大学の近くの喫茶店・Mの冷たいそうめん。【写真あり】

 僕の「おいしいと思う食べ物」は、そんなに多くありません。

 クワの実。

 ヤマモモ。

 イチジク。

 キュウリのなまかじり。

 なまのダイコンをスライスしたもの。

 トウフに醤油をつけたもの。

 高知のテンプラ。

 カツオのさしみ。

 牛丼。

 カレーライス。

 高知の、ある店のウドン(香川のは、からすぎ)。

 それに、このところ冷たいそうめんが加わりました。

 このあいだ、高知市永国寺町の高知県立大学・高知短期大学の近くの喫茶店・Mで食べたら「すっごーい」。

Photo

 そのあと二回、これを食べるだけに通っています。、

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二○一三年六月十八日 火曜日 粋な感じの文房具の模様のてぬぐい。【写真あり】

二○一三年六月十八日 火曜日 粋な感じの文房具の模様のてぬぐい。

 晴れ。

 起きたら「景色」が違っていました。
 北向きに寝たはずなのに南向きに寝ていました。
 寝ている間にぐるぐるまわったのでしょうか。

 文芸雑誌『文海(ふみ)』をいただいていました。僕は、ここに槇村浩についての文章を書いています。
 息子夫妻から父の日プレゼント。図書券五千円分。
 ありがとう。

 午前十時半から午後六時まで学部の授業。
 ある人から資料を借りていてありがとうと、お礼をいただきました。
 粋な感じの文房具の模様のてぬぐいでした。
 ありがとうございました。

Photo_2

 夜、修士論文のためのリポートを作成し先生に送信。

 KIさんにメール。

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二○一三年六月十九日 水曜日 従軍慰安婦問題で大ニュース。

二○一三年六月十九日 水曜日 従軍慰安婦問題で大ニュース。

 曇り。

 午前七時、起床。

 庭に出て大きなイチジクをちぎって食べました。

 しんぶん赤旗を見たら大ニュースが載っていました。従軍慰安婦問題です。バタバタと過去の報道などを調べました。

 夜は仲間のコンパに参加します。

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二○一三年六月十七日 月曜日 十九世紀のイギリスの相続制度についての文献を探しましたが……。

二○一三年六月十七日 月曜日 十九世紀のイギリスの相続制度についての文献を探しましたが……。

 晴れ。

 リポートを一つ完成させて先生にメールしました。

 永国寺の高知県立大学図書館で国文学の論文をゲット。三ページのものです。

 十九世紀のイギリスの相続制度についての文献を探しましたが行き着けていません。

 午後五時半から相談会に参加しました。
 その流れで午後九時過ぎまで県立大学にいました。

 ARさんブラジルへ発ちました。
 七月十七日に帰国とか。

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2013.06.20

二〇一三年六月二十日 木曜日 一九三三年九月十九日、「時の権力により虐殺され」た筒井泉吉さんの墓。

二〇一三年六月二十日 木曜日 一九三三年九月十九日、「時の権力により虐殺され」た筒井泉吉さんの墓。

 雨。

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 平和資料館・草の家の岡村正弘館長と、高知県四万十市の筒井泉吉さん(一九一四年一月一日生まれ)の墓を訪ねました。地元の日本共産党幡多地区委員長の大西正祐さんが案内してくれました。

 赤鉄橋の近くの須賀神社と法然寺の間の山を登っていくと中腹の左側にありました。墓には「筒井泉吉ゝに眠る」、「一九一四年一月一日生 共青 全協 プロレタリア作家同盟の活動に従事 一九三三年九月一九日 時の権力により虐殺される。行年二〇歳/志を継ぐもの之を建つ」とありました。「時の権力により虐殺される。」、「志を継ぐもの之を建つ」の言葉にグッときました。

 一九七六年七月、国民救援会と解放運動旧友会、筒井泉吉墓碑建設幡多地区委員会が筒井泉吉の記念碑を建立しました(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』。一九九〇年)とありますが、それが、この墓のようです。

 筒井さんは、一九三二年四月二十一日に逮捕された「木原」にささげた鮮烈な詩「木原よ!」(『驀進』。一九三三年四・五月合併号)の作者でした。彼は、〈木原よ!/俺達は立上る!/思い起す。喧嘩と女の話しか知らなかった/俺達に、本当の世界を教えてくれた--/お前木原よ!〉とら囚われの身の「木原」に呼びかけました。

 日本労働組合全国協議会(全協)、日本プロレタリア作家同盟、共産青年同盟(共青)で活動していた筒井さんも、ゆえなく逮捕されました。そして、高知市の高知水上署でひん死の拷問を受けました。警察は意識のない彼を刑務所の既決房へ運びましたが翌日の朝、亡くなったのです。一九三三年九月二十日朝のことです。十九歳でした。

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二〇一三年六月二十日 木曜日 つづき=戦争遺跡保存のための会合に参加。

二〇一三年六月二十日 木曜日 つづき=戦争遺跡保存のための会合に参加。

 四万十市から帰って高知市の平和資料館・草の家へ。

 槇村浩の研究の資料づくり。

 夜、戦争遺跡保存のための会合に参加。

 夜九時ころ、雨がきつくなったので地元の公民館の雨戸を閉めにいきました。

 実は、このあいだから地元の公民館の館長をつとめています。

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2013.06.21

【反戦詩】 今村恒夫の「アンチの闘士」。

 反戦のたたかいに参加している人の思いを素材にした詩もあります。

 今村恒夫(一九〇八年~一九三六年十二月)の「アンチの闘士」です。
 『プロレタリア詩』の一九三二年一月号に載りました。

 彼は勇敢な反(×)帝同盟の闘士!
 奴はもぐって地球の外にでもいるようだが
 時々姿を見せては叫ぶ!
 「帝国(××)主義戦争絶対反対だ! ソヴェート同盟を守れ! 支那革命(××)を守れ!」と
 一太郎やーい親子がおれたちの村にやって来た時や
 桜井肉弾大佐の講演会があった時
 奴はみんなの前でおっぴらに云った
 電柱や壁に貼られた伝単も、時々ばらまかれるアンチのピラも奴の仕事だ
 カーキ服の憲(×)兵もサーベルも奴を血眼に探しているが……
 おお 勇敢な反(×)帝の闘士!

 野郎は誉ある? 軍門の生れだ
 野郎の老父は日露役の勇士!
 旅順港の攻撃で片足をなくした--
 戦(×)地に片足を残して帰って来ると、松葉杖をつき凪琴を鳴らして征露丸を売った。
 片足をなくしては小作百姓も出来ないので--
 小供は餓(ひも)じさを訴え乍[なが]らもふとっていった
 五人の子供は入営した
 次男は青島の役で戦死した。
 其時野郎は老父と共に悲しみはしなかった
 名誉の戦死だ! 功七級が輝いてら!
 奴も兵営で功七級を夢みたが
 胸を突かれ胸膜炎になって除隊になった。
 おお不幸なアンチの闘士!

 野郎は藁蒲団の上で考えた
 軍隊に崇られ通しで貧乏つづきの家庭の事を老父は征露丸を売って腹を千させた--名誉の勇士になった許

りに三人の兄貴は軍曹までこぎつけたが肩章だけでは飯は食えぬ
 肋膜をやられては働けぬ
 そして兄貴は白骨になって帰って来た
 何のために? 誰のために
 おおみじめなアンチの闘士!

 そのうち戦争(××)が始った
 村の若者達はおくられた。零下二十五度の嵐が荒ぶ戦場(××)に
 村人はみんな見送った。--村長や小学校長を先頭に
 若者達も元気で出て行った
 バンザーィ バンザーィ
 小作料も払えない家のことなどふり捨てて--国家の為--
 八千万国民のためだと
 ああだが間もなく故郷には入った情報は
 戦死! 負傷!
 おお 片腕や松葉杖や白骨の大量生産
 品物は払底するし物価は上った
 村長は戦死者を表彰したが村には乞食が増加した
 「えい 何時まで誑(たぶらか)かされておれるかい」
 野郎は藁蒲団の上から起ち上った。
 「これで闘わずにおれるかい。銃(×)は逆に! 俺達の敵は資本家だ!」
 そうだ! 我等のアンチの闘士!
 叫べ! 勇敢なアンチの闘士!

 「俺達の敵は資本家だ!」ではなかったと思いますが、本当の敵のことを書けないのが現実だったでしょう。

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【ニュース】 平城宮跡の保全要求 日本共産党の山下よしき参院議員 質問主意書を提出。

 しんぶん赤旗 2013年6月17日(月)

 平城宮跡の保全要求 山下議員 質問主意書を提出
   
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-17/2013061704_06_1.html

 日本共産党の山下よしき参院議員は[6月]10日、世界遺産に登録されている奈良市の平城宮跡の保全と継承に関する質問主意書を政府に提出しました。
 質問主意書で山下氏は、国営公園として国土交通省が整備を進めている平城宮跡について、木簡など埋蔵文化財の完全な保全に国が責任をもち、長年親しまれてきた自然・歴史環境と景観を守るよう求めています。
 山下氏は、国の整備は往時の平城宮跡とは異質のイベント会場の整備であり、緑地の削減は希少種を含む生態系に打撃を与えていると指摘。▽整備の構想段階から国民・県民の意見を十分に反映させ、文化庁の文化審議会を原則公開にする▽第一次朝堂院広場の舗装について埋蔵文化財や生態系に与える影響を調査する▽世界遺産の登録要件を順守し、第35回世界遺産委員会決議にもとづき、史実と異なる仮設物をただちに撤去する―ことなどを提案し、政府の見解をただしています。

 山下さん、ありがとう。
 僕の思いといっしょです。

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【ニュース】 盗聴帝国・アメリカ ブッシュ大統領からオバマ大統領へ。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-12-21/2005122107_01_3.html
 2005年12月21日(水)「しんぶん赤旗」
 記者会見で批判集中 米大統領が盗聴正当化

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-12-22/2005122207_03_3.html

 2005年12月22日(木)「しんぶん赤旗」
 FBIも国民監視 米国 市民団体の情報を収集

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-12-23/2005122307_03_3.html 
 2005年12月23日(金)「しんぶん赤旗」
 違法盗聴に“抗議”辞表 米紙報道 米判事が提出

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-12-30/2005123007_01_3.html
 2005年12月30日(金)「しんぶん赤旗」
 国民盗聴の違法性追及 米国人テロ被告弁護人が計画

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-01/2006010107_03_3.html
 2006年1月1日(日)「しんぶん赤旗」
 米司法省 国家安全保障局の違法盗聴 情報漏えいで捜査

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-18/2006011807_01_3.html
 2006年1月18日(水)「しんぶん赤旗」
 違法盗聴やめなさい 米人権団体が広告 40年前キング牧師の被害紹介

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-19/2006011907_01_3.html
 2006年1月19日(木)「しんぶん赤旗」
 盗聴 米大統領を提訴 人権団体「憲法違反」と中止要求

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-02-08/2006020806_01_0.html
 2006年2月8日(水)「しんぶん赤旗」
 盗聴で米公聴会 司法長官が合憲証言 与野党から批判の声

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-13/2006051307_02_0.html
 2006年5月13日(土)「しんぶん赤旗」
 米政府、通話記録を収集 「テロ対策」口実 通信3社が情報を提供

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-16/2006051606_01_0.html
 2006年5月16日(火)「しんぶん赤旗」
 「暗躍」チェイニー副大統領 CIA工作員漏えい 令状なし盗聴の承認

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-19/2006081907_01_0.html
 2006年8月19日(土)「しんぶん赤旗」
 テロ対策で米連邦地裁 令状なし盗聴「違憲」「明らかに不適切な権限」

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-05-21/2007052107_01_0.html

 2007年5月21日(月)「しんぶん赤旗」
 違法盗聴 米司法長官に批判増す 大統領の指示うけ主導 民主党が不信任案準備

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-05-23/2007052307_02_0.html

 2007年10月18日(木)「しんぶん赤旗」
 米大手電話会社 通話記録 提出認める 米政府機関に 議会が追及へ

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-08/2013060807_02_1.html
 2013年6月8日(土)
 米情報機関 全通信記録を収集 大手電話子会社 人権団体が非難

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-13/2013061301_04_1.html
 2013年6月13日(木)
 米NSAが電話の全通信記録収集 人権団体 違憲と提訴 告発の元職員 「国民の名で国民に反する行為」

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-14/2013061407_03_1.html
 2013年6月14日(金)
 米NSA 電話記録収集問題 長官が活動正当化 世論調査 59% 「プライバシー侵害懸念」

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-16/2013061601_05_1.html
 2013年6月16日(日)
 主張 米国の情報監視 「対テロ戦争」の見直しをこそ

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【ニュース】 「マラソン」の映画監督・チョン・ユンチョルさん『日本共産党とはどんな党か』(韓国版)への書評。

 六月二十一日付の、しんぶん赤旗に、「マラソン」の映画監督・チョン・ユンチョルさん『日本共産党とはどんな党か』(志位和夫日本共産党委員長の著作。韓国版)への書評の全文が載っていました。
 すごい内容でした。

  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-21/2013062101_02_1.html

  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-21/2013062103_01_0.html

 【映画「マラソン」の紹介】

 http://www.hf.rim.or.jp/~t-sanjin/chonyunchor_marathon.html

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【反戦詩】 三好十郎の「山東へやった手紙」。

 三好十郎(みよしじゅうろう。一九〇二年四月二十三日~一九五八年十二月十六日)の詩「山東へやった手紙」(『戦旗』。一九二八年七月号に発表)は中国の山東に出兵している「甚太郎オジサン」への手紙のかたちをとって」中国人を殺してはならないと訴えてました。

   1

 甚太郎オジサン
 コノ袋ノ中ニワ
 仁丹ト ウカイ散ト
 手ヌグイガ入ットル
 ソレカラ、ノンキーガ入ットル
 昨日、裏ノ、オ染サントニ人デ
 町カラ買ッテ来タモノデス。
 ウカイ散ワ、
 腹ノ痛カ時二飲ムトデス。
 ソシテ、甚太郎オジサン
 剣ツキ鉄砲デ
 突キ殺ロサレンヨーニシナサイ

   2

 水ガ ケダモノノヨウニ
 ウォーウォー ト言ッテ流レタ。
 ソレデモ ソレデモ、
 僕達ワ 田ヲ作ランナラン
 ダカラ 皆ワ ダマッテ
 黒イ姿デ 水ヲ睨ンデイタ。
 帰ッテミタラ
 足ニ ビルガ 三匹ツイテイタ
 甚太郎オジサン
 殺サレンヨーニナサイヨ。

   3

 オ染サンガ新聞ヲ読ンデクレタラ
 日本軍ガ合戦二勝ッタソーデスネ
 オジサンモ戦ッタノデスカ
 ソシテ敵ヲ殺シタノデスカ。
 オジサンワ 言イマシタ
 支那ワ ホントワ俺達ノ敵デワ無イヨ
 シカシ 出征シナンナラン
 行キタク無イノ二行カンナラン
 殺シタク無イノニ殺サンナラン
 四五日前ニ、コチラデワ
 田植ヲ ミンナ スマセタ。
 土手ノワキノニ段田ヲ
 ーバン終リニ 植エマシタ。
 ナガセ ガ アンマリ長クテ
 ー度、土手ガ切レソーニナリ
 ニ晩モ村ノ人達ワ、番ヲシマシタ。
 僕モ番二行ッタケレドモ
 今年カラ田植エノ手伝イヲシタノデ
 腰ガ折レソーニ痛カッタ。
 シカシ、土手ガ切レルト
 又、田ガ メチャメチャ ニナル
 スルト 米ガ オサメラレンケン
 地主ノ鬼ガ イジメル。
 米ヲ作ルノワ 僕達デ
 ソレヲ取ルノワ 鬼ダ。
 暗イ土手ノ上カラ
 暗イ大川ノ水ヲ ジット見テ
 ミンナデ ジット 立ッテイタ
 ミンナ 何ントモ ロヲキカン
 僕ワ 涙ガ出ソーニナッタ。
 ドータンノゴト
 ホントノ敵ワ支那ジャナカ
 殺サンナランノワ 外国ニワ居ラン
 ソイデモ出征セニャナラン
 支那兵ヲ殺サンナラン
 ゾータンノゴト。
 オジサンワ、ソー言ッタ
 シカシ、ヤッパリ殺シテイル
 歯ヲ食イシバッテ殺シテイル。
 甚太郎オジサン
 殺サンゴトジナサイ
 殺サンゴトシナサイ
 シカシ、ソレデモ、オジサンワ
 剣ツキ鉄砲デ突カンナラン。
 ソシテ僕達ワ ガーガー言ウ暗イ水ヲ睨ンデ、
 田ノ番ヲセンナラン
 コレワ、ドースレバヨイカ
 ドンナコトヲスレバョイカ
 学校ノ先生モッテクレンケン
 修身ノ本ニモ書イテアリマセンケン
 甚太郎オジサン
 ドースレバヨイカ
 ソレヲ山東カラ書イテヨコシテクレ
 ザンゴーノ中カラ
 殺シテワイケナイ支那兵ヲ
 殺シタ手デ
 カチカチ フルエル手デ
 血ダラケニナッタ手デ。
 ソレマデ 僕達ワ
 ダマッテ
 地蔵サンノョーニ立ッテ
 鬼共ノ田ヲ守ッテ
 土手ノ上カラ
 ドブリドブリ 流レル
 ニゴッタ水ヲ見ツメテオリマス。
 足ヲビルニ喰ワレテ立ッテイマス。

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【反戦詩】 波立一(はりゅうはじめ)の「動員令」 軍隊内での反戦運動をテーマに。

 波立一(はりゅうはじめ。一九〇八年~一九三七年)の「動員令」(『プロレタリア文学』。一九三二年四月作品増刊号)は、軍隊内での反戦運動をテーマにしていました。

 耳の奥底に唐人笛(ビードロ)飴屋の幼い想出
 連隊の奴隷達は夢の中で枕を外した

 激しい夜風とあれ狂う喇叭(らつぱ)の号音
 ――非常呼集だ

 丘の黒い建物は真夜中に眼ざめた
 丘の兵隊屋敷は点々と燈火を燦(ちりば)めてゆく

 不寝番は雀躍(こおどり)してバタバタ駆けまわった
 息をきらしても叩き起すのは愉快だ

 態(ざま)あみろ 起きろ! 起きろさ
 起きるよ…… うるせい!

 週番司令あ誰奴(どいつ)だ?
 俺あ 不服だぞお……

 周章(あわ)てて起きた初年兵の寝台の上に
 不寝番は疲れ不貞腐れて寝込(ねころ)むだ

 初年兵の左手は軍衣袴の釦(ボタン)をいじめ
 一年兵の上靴を並べて匍いまわる

 二年兵は不精不精起きあがる
 二年兵は不機嫌にどなりちらす

 この頓馬野郎!
 銃なんかもちだすなあ 火災だ

 初年兵はビックリして直立不動の姿勢
 けっ! この一銭五厘奴(め)!

 初年兵はオドオドして銃床に返(もど)す
 再び 不動の姿勢で二年兵を注目する

 早くでろ! 何をしてるか
 階上廊下で兵器曹長が喚(わめ)いている

 隣の班からぞろぞろ押しおえ犇(ひし)めく
 不寝番は微(かす)かな鼻鼾をたてている

 兵舎内の燈火をよぎり人影が乱れる
 真夜中の営庭に約二千の兵員が並んだ

 寒い…… 日給十八銭も辛いな
 非常呼集なんて勿体つけるなあ真平(まつぴら)御免よ

 第二中隊 気をつけい……
 改った兵器曹長の号令が鼻毛を擽(くす)ぐる

 軍刀をがちゃつかせて週番司令が来た
 連隊週番を下士が弓張提灯で随行だ

 第二中隊 現在百三十八名異状なし
 報告を鼻でうなずき週番司令は隊列を巡る

 こらッ きさまの睾丸類(マラボタン)は満開じゃ
 寝呆(ねぼけ)奴! 軍帽(しゃっぽ)を忘れたんかあ

 廻れ右いッ これは尻尾か ああ?
 その兵! 阿弥陀に被(かぶ)っとる ああ?

 休め!
 気をつけい!

 休め! ハキハキしろ!
 気をつけい!

 命令を達する
 当連隊に動員下令 要員の出発は十九日だ

 瞬間! 兵卒達の後頭部が異様に騒(ざわ)めく
 (まさか? 俺は行くまい……)

 休め……
 気をつけい!

 諸子はみな忠良類(たぐい)なき陛下の臣だ
 出征希望の者は三歩前へ出ろ!

 兵卒達は直立不動のまま頑強に応えぬ
 深夜の土に凍てついたか動かなかった

 兵卒達の胸に生々しい予告が蠢(うご)めく
 予言の主は軍法会議に縛されているのだ

 奴は莞爾(にっこり)とビラを撒き手渡した
 この手はビラを掴みこの眼は読んだ

 白襟に縛され黒襟に衛(まも)られてゆく朝
 奴のものいえぬ眼は俺らの心臓を刺した

 ビラは判然(はつきり)と語った
 戦争(××)は少数者の利潤を守る殺(×)人行為だ

 週番司令は口髭を顫わせて罵(ののし)りだした
 大尉の三角の眼は焦々(いらいら)しく燃えだした

 きさまらは…… 日本軍人か
 チャンコロが怖いのか うッ

 三歩前に曹長や軍曹伍長が恐縮している
 兵卒達は無言の儘(まま) 暗い前方を睨んでいる

 奴は怒りっぽく優しかった
 演習休止の時 誰彼も奴と煙草を吸った

 奴の頭脳は俺らの教科書 小説だった
 奴の思想を尊び上官を号令蓄音機と見做(みな)した

 奴の言葉 奴の行動
 俺の身体(からだ)に刻まれた疼きをおぼえる

 戦争反対(××)だ
 けれども 銃剣を手離すな!

 火花ちる 奴の言葉が閃く
 よし! われわれは戦地に行く

 三歩前へ! 立止ると……
 兵卒達の眼は一斉に週番司令を睨んだ

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【反戦詩】小牧近江(こまきおうみ)の「この位のことは、あたりまえだ」。「ある半嶋」で「某軍国の兵卒」が「一部落」を襲った事件を告発

  小牧近江(こまきおうみ。近江谷駧=おうみやこまき。一八九四年五月十一日~一九七八年十月二十九日)は、一九ニー年ニ月二十三日に「この位のことは、あたりまえだ」を書きました(『種蒔く人』。一九ニー年三月号)。「ある半嶋」で「某軍国の兵卒」が「一部落」を襲った事件を告発したものでした。

 その後一兵卒の気が狂った
 「居ないよ 居ないよ 一人も居ない」
 靴の穴をのぞいて狂人の一兵卒が手を振る
 「居るぞ 居るぞ しーっ 大勢いらあ」
 鍵の穴をのぞいて狂人の一兵卒が合図する
 悪いと知りながら 人を殺した
 一兵卒の気が狂った
 事件のおこりは 最近ある半嶋で
 某軍国の兵卒約三十名が一部落を襲った
 「あまり惨いことはするな」と命ぜられたが
 その時は明かに動物でいた
 無抵抗の村民は面白い程
 見る間にやっつけられた
 殺さるるままにと云ってもいい
 「むごたらしい屍体を曝らしておくとあとが厄介だ 片つけろ」
 と上官が命じた
 「焼いちまう」と一兵卒が発議した
 それから大人 小供 老人 女
 屍体は荷物のように野原に運ぱれた
 石油(アブラ)をかけて焼いて見たが
 手は手 足は足 ぱらばらに散らばった
 そして 人間の臭気が空気と とけなかった

 これが軍国主義で有名な
 某国除隊兵の実見談だ
 「この位のことは あたりまえだ」と
 彼は平気で語った
 当然!
 それは余りに恐しい当然だ

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【反戦詩】 荒石桓夫はが「夜の明けぬうちに」が描いた反戦のビラを刷っている姿。

 荒石桓夫は『プロレタリア詩』一九三一年十ニ月号に「夜の明けぬうちに」を発表しています。深夜に反戦のビラを刷っている姿を描いています。

 じりじりと音たてて、灯はなびき
 ろうそくの形もくずれはじめる。
 風は増々たけるのでたった一つの窓を仰げぱ
 鋭きまでに星はまたたいている。
 宿直は炬燵(こたつ)にまるまり
 小使はポロふとんにくるまって、疲れた寝息をきいた外
 人間の影ない深夜の学校
 俺達は窓から忍込んで持出した謄写版--。

 四人の手はかじかんで
 ルーラをすべらす者、紙を揃える者
 二人ずつ交替で物置の隅にがん張る。

 明日は在郷軍人の摸擬動員、
 憎いチャンコロを叩きのめせと
 鼻息荒く血判まで並べて全国へ檄を飛ぱした
 何も知らぬ兄弟達
 俺達貧農に禁物な戦争(××)を
 うまうま奴等のデマに乗り謳歌する。
 司令部からはすきなしに講演士官が来て
 チャンコロを煽るのはソヴェトロシア吐(ぬか)す
 何も知らない百姓達兄弟
 煙の如き愛国(×)心にかられて
 おお、俺達の祖国に憎しみの炎を燃そうとする。
 何んで黙っていられよか
 俺達の血潮は奴等への憎しみに燃ゆる

 昨晩はこの学校の講堂で又--
 検閲士官の「時局(××)問題講演会」だ
 知らず知らずに好(×)戦論に引込まれる兄弟を必ず呼び醒まさずにおくものか。
 寒さは四人の身を震わして
 インクは固り能率は上らぬ
 まだらな無色の反(×)戦ビラ!!
 おお此処には同志の熱意をこめた文字は連っている。
 明晩は暗がりにがんばって
 一枚も残さず手渡すのだ。
 星は凍えろうそく(・・・・)の灯にはく息は
 明日の闘いに決意が辰る
 さあもう一息だ--
 この物置きに夜明けの光のささぬうちに
 家へ帰って冷いふとんにもぐり込もうではないか。

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2013.06.23

【ニュース】 生活保護改悪 民・み・維・生 自公の暴走後押し しんぶん赤旗が指摘。

  しんぶん赤旗 2013年6月22日(土)

 生活保護改悪 民・み・維・生 自公の暴走後押し

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-22/2013062202_01_1.html

 生活保護の基準引き下げに続き、申請者を窓口で追い返す「水際作戦」の合法化まで強行しようと狙う安倍・自公政権。自公両党の責任はもちろん、自公政権の暴走を後押しする民主、みんな、維新、生活の各党の責任が厳しく問われます。

 民主 基準引き下げ 未就労者に罰
 原型つくる

 民主党は2009年の総選挙では「生活保護制度の充実」を掲げ、政権交代を果たしました。ところが野党の自民党が生活保護バッシングを始めると、公約を投げ捨てて改悪のレールを敷きました。
 自民党の生活保護基準10%引き下げ要求(12年)に対し、野田佳彦首相(当時)は「建設的なご意見。基本的に問題意識は同じ」と呼応。小宮山洋子厚労相(当時)も「(基準引き下げを)検討する」と述べたうえ、扶養が困難な理由を親族に証明させる方向まで示しました。
 これを受け、民主党政権が始めた社会保障審議会生活保護基準部会は、低所得層と生活保護世帯の消費水準を比較して“生活保護の方が高いから”と、基準引き下げの流れをつくりました。
 野田政権が閣議決定した13年度予算の概算要求基準(同年8月)では、社会保障費を「聖域視することなく、生活保護の見直しをはじめとして、最大限の効率化を図る」と明記。生活保護を対象にした「新仕分け」(同年11月)では▽働ける年齢層が就労の意欲を示さないときは「就労を促すペナルティー」を科す▽医療扶助では後発医薬品の使用を原則化する―ことなどを打ち出しました。(中略)

 「第三極」 改悪案にあっさり賛成
 “補完勢力”

 みんなの党も、申請の厳格化や扶養義務強化の条文を「外したらどうか」(中島克仁衆院議員)と疑問を呈しながら、「修正」で可として賛成しました。
 維新の会は「申請の厳格化ではない」(足立康史衆院議員)と「修正」にさえ異を唱えました。
 生活の党は「(民主党の)政権交代の原点に立ち返った政策を示していく」(小沢一郎氏)との言明に反し、改悪案にあっさり賛成。「修正」で「口頭での申請を含め現行の運用を変えないことが不十分ながら担保された」(6月7日の声明)と苦しい言い訳におわれています。(後略)                                                       (鎌塚由美)

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【反戦詩】 槇村浩の「出征」。『詩・パンフレット第一輯 赤い銃火』の巻頭詩。

 日本プロレタリア作家同盟は、一九三二年四月二十日に『詩・パンフレット第一輯 赤い銃火』を発行しました。「序」は同年三月付です。
 その冊子の最初の詩は槇村浩の「出征」でした。
 
 今宵電車は進行を止め、バスは傾いたまま動かうともせぬ
 沿道の両側は雪崩れうつ群集、提灯と小旗は濤のように蜒り
 歓呼の声が怒濤のやうに跳ね返るなかをおれたちは次々にアーチを潜り、舗道を踏んで
 いま駅前の広場に急ぐ
 おゝ、不思議ではないか
 かくも万歳の声がおれたちを包み
 おれたちの旅が
 かくも民衆の怒雷の歓呼に送られるとは!

 春の街は人いきれにむれ返り
 銃を持つ手に熱気さへ伝はる
 火の海のやうな市街を見詰めながら、おれはふと思ふ
 おれたちこそ
 苦闘する中国の兄弟に送られた××の×軍
 国境を越えて共に暴圧の鎖を断ち切る自由の戦士!
 いま丘を越え
 海を越えて
 武器を携へ急×に赴くおれたちではないかと
 けたゝましく響く喇叭の音におれはふと我に返る
 (……蒋介石ごときは問題ではない
 (わが敵はたゞ第十九路軍……
 砂風の吹き荒れる営庭で、拳を固めて怒鳴つた肥つちよの連隊長の姿が、
 烈しい憎悪と共にまざ〱(まざ)と眼の前に浮ぶ
 おゝ、第十九路軍
 屈辱と飢餓の南京政府を蹴飛ばして
 下からの兵士の力で作り上げた×衛軍
 狼狽する蒋介石を尻目にかけ、敢然と××政府に戦ひを宜した
 英雄的な中国のプロレタリアートと貧農の決死隊
 きみらの隊列の進むところ
 ××××の××は惨敗し
 土豪・劣紳・買弁が影を潜めた
 よし!
 ×仏英米の強盗どもが、君たちに陣地を棄てよとジュネーヴから命じようと
 よし!
 妥協した帝国主義者共の大軍が君たちに襲ひ掛からうと
 君たち第十九路軍の背後には中国ソヴエート政府が厳存し
 君たちの前には
 全世界の同志の差し出す無数の腕がある

 歩廊に整列し
 ステップを踏んでおれたちは乗車する
 おれの頭を掠めるは残された同志
 あの路次の屋根裏で
 Kは今夜もガリ版を切り
 Dは円い眼鏡の奥から、人なつこい笑ひを覗かせながらビラを刷り
 Tは膝の上に「無新」を載せ、黙りこくつて糊を煮てゐるだらう
 おゝ――それとも
 きみらは今宵群集の中に潜り込み
 栗鼠のやうにすばしこく、人人の手から手へ反×のビラを渡してゐるのか

 欺かれた民衆よ
 粧はれた感激よ
 祝福された兵士たちの何と顔色の蒼いことか
 万歳の声に顔をそむけて眼鏡を曇らすおまへ
 白布にくるんだ銃を杖に突いてぢつと考へ込むおまへ
 とつてつけたやうな供笑で話題を女の話に外らせようとするおまへ
 そして恐らくは彼方の車の中で、ごつた返す荷物に腰を下ろし馬の
 首を抱いて泣き濡れてゐるであろうおまへ
 枯れた田地と
 失業に脅える工場を後に残して
 一枚の召集状でむりやりに×××行かれるおまえらにとって、顔色の
 蒼いのは無理ではない
 ――だが
 今宵おれの胸は嬉しさに膨らみ
 心臓は喜ぴにどきんどきんと鼓動をうつ
 おれの喜びは、生れて始めてすばらしい武器を手にしたプロレタリアートの喜びだ!
 おれの嬉しさは
 戦場という大仕掛けの職場の中で兵士の不平を××させる導火線、
 軍隊×××となつた嬉しさだ!

 鎖が鳴り
 汽笛の音が早春の夜空に消える
 風は駅頭の歌声を消して行き
 街の灯は次第にかすかになる
 ゆくてに明滅する赤いシグナルを見詰めながら
 おれは心に誓ふ!

 けふ
 たつた今からさりげない調子で兵卒のひとりひとりに話し掛け
 ××を覆ふ神聖なヴェールを引つぺがし中国ソヴェート建設の×の
 ものがたりをきみらの胸に沁み込ませ

 やがて
 怒濤を蹴つて港を離れる船の中で
 きみらの不平の先頭に立ち

 明日
 上海の塹壕で
 ××委員会の旗幟をたかく掲げ
 士官らを壁に×たせ
 全東洋被圧迫大衆の春の歌を高らかにうたふ、揚子江の河べりに
 十九路軍の兵士と××××
 (……おゝ、おれは×衛軍の一兵卒!

 明後日
 幸におれが                 
 (よし、おれが××士官の銃先に斃れようとその時はおれの屍を踏み越えて
 更にすぐれた、更に多くの同志たちが)
 ×旗を立て
 大衆の心からの歓呼を浴びて
 なつかしい故郷へ帰るとき
 残された同志らよ
 苦闘にやつれた君たちが×旗を振って万歳を唱へえるとき
 おゝ その時こそ
 共に歌はうぞ
 ××××××××××建設の歌を!

 第十九路軍は、国民党の蒋介石の命で蒋光鼐(しょうこうだい。一八八八年十二月十七日~一九六七年六月八日)と蔡廷鍇(さいていかい。一八九二年四月十五日~一九六八年四月二十五日)が一九三〇年八月に組織した国民革命軍第十九路軍のこと。蒋光鼐が総指揮、蔡が軍長に任命されました。
 一九三二年一月、日本軍が上海へ進軍してくると、国民党中央は同軍に撤退を勧めたが、蒋光鼐と蔡廷鍇は防衛線を堅持し、日本軍を迎撃することを決断しました。一月二十八日、両軍の交戦が開始されました(第一次上海事変、淞滬抗戦)。以後、三十日以上にわたりり、蒋、蔡は懸命に抗戦したましが、最後は兵力・火力で勝る日本軍の前に撤退しました。しかし、このときのたたかいぶりは中国国内から賞賛を受けました。

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【反戦詩】中野鈴子の「母の叫び」。

 中野鈴子(一九〇六年~一九五八年。筆名・一田アキ)は、一九三一年一月五日、詩「母の叫び」を書きました。「ああ戦場からいま直ぐに/息子をとりもどしたい」の思いを代弁しました。

 行ってしまった
 もう煙も見えない
 息子を乗せた汽車は行ってしまった
 剣を抜いて待ちかまえている
 耳や 手足の指がくさって落ちるという
 そんな寒い
 戦場の硝煙の中へ
 息子の汽車は走って行った

 生きて帰るようなことはあるまい
 汽車の窓のあの泣き笑いがお
 あれがあの子の見おさめなのか

 親一人子一人の暮らしで
 あの子は毎晩
 わたしの夜具の裾をたたいてくれた
 いつもやさしい笑顔で働いてくれた
 ああ わたしを大事にしてくれたあの子
 わたしのひとり子

 物持ちの子供らは
 きりきず一つ
 鼻風邪一人引いても
 それ医者それ薬と大さわぎして
 ふかふかとまるまると育って行ったけれど
 わたしらの子供は生みっぱなし
 田ノ畔を引っぱりまわすやら
 ぼろくずにおしこめたりして
 ひもじ泣きに死んで行った
 風邪ヒキやハラをこわし 三人の子供が死んでしまった
 その中で あの子だけ行きのこってくれて
 あんな大きな若者に成人してくれたのだ
 いまになって
 戦さで死なせねばならないなんて
 剣が突きさし
 大砲がまい込む
 おお恐ろしや
 あのしゃんとして胸を
 米一俵やすやすとかついだあの大きな肩
 あのような二十三のからだを

 おお そして
 それが万歳だと
 おお恐ろしや
 敵も味方も命に変わりはなかろうに
 旗振り上げて万歳だと
 金持ちののらくら息子は座らせておいて
 わたしらの子供ばかり箱づめにし
 泣きすがる親きょうだいを蹴ちらして
 お上の者どもは、わたしらの殺されるのがうれしいのだ
 平常は平常でしぼり抜き飢え死にさせ
 どこまでもわたしらの生命をふみにじるのだ
 わたしらとて命に変わりはないぞ
 真っ平だ 真っ平だ
 何とチョウバツしようと
 命をかけて絶対反対だ
 ああ戦場からいま直ぐに
 息子をとりもどしたい

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2013.06.24

【ニュース】 東京都議会議員選挙 自民党 三十九から五十九へ、日本共産党 八から十七へ。日本維新の会は三から二に。 

 六月二十三日の東京都議会議員選挙の結果がわかりました。
 ・議席を伸ばした党派。
 自民党 三十九から五十九へ。
 日本共産党 八から十七へ。
 みんな 一から七へ。
 ネット 二から三へ。
 ・議席を減らした党派。
 民主党 四十三から十五に。
 日本維新の会 三から二に。
 無所属 六から一に。
 ・現状を維持した党派。
 公明党 二十三。
 
  【NHK】

 http://www3.nhk.or.jp/shutoken2/senkyo/

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130624/t10015522511000.html

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【ニュース】 東京都議会議員選挙 日本維新の会、三十四人を擁立したが二議席。

 【毎日】

 http://mainichi.jp/select/news/20130624k0000m010087000c.html

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【ニュース】 東京都議選挙 日本共産党の当選者。十八人中十一人が女性。

 【しんぶん赤旗】

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-24/2013062401_01_1.html

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-24/2013062401_02_1.html

 【ニコニコ動画】

 http://www.nicovideo.jp/watch/sm21190751

浜川百合子さんのツィッターに、いい感じの記事が載っています。

@hanjukumabo

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【反戦詩】 槇村浩の「間島[かんとう]パルチザンの歌」。

 槇村浩は、一九三二年三月一三日、詩「間島[かんとう]パルチザンの歌」を書きあげます(『プロレタリア文学』臨時増刊、四・一六、第五回大会紀念号。一九三二年)。

 思ひ出はおれを故郷へ運ぶ
 白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
 蘆の根の黑く凍る沼のかなた
 赭ちゃけた地肌に黝[くろ]ずんだ小舎の續くところ
 高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ

 雪溶けの小徑を踏んで
 チゲを負ひ、枯葉を集めに
 姉と登った裏山の楢林よ
 山番に追はれて石ころ道を驅け下りるふたりの肩に
 背負(しょい)縄はいかにきびしく食ひ入つたか
 ひゞわれたふたりの足に
 吹く風はいかに血ごりを凍らせたか

 雲は南にちぎれ
 熱風は田のくろに流れる
 山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
 父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
 目暈簁[めま]ひのする空き腹をこらへて
 姉と手をつないで越えて行つた
 あの長い坂路よ

 えぞ柳の煙る書堂の蔭に
 胸を病み、都から歸つて来たわかものゝ話は
 少年のおれたちにどんなに樂しかつたか
 わかものは熱するとすぐ咳をした
 はげしく咳き入りながら
 彼はツァールの暗いロシアを語った
 クレムリンに燻[くすぶ]つた爆弾と
 ネヴァ河の霧に流れた血のしぶきと
 雪を踏んでシベリヤに行く囚人の群と
 そして十月の朝早く
 津浪のやうに街に雪崩れた民衆のどよめきを
 ツァールの黒鷲が引き裂かれ
 モスコーの空高く鎌と槌(ハンマー)の赤旗が翻つたその日のことを
 話し止んで口笛を吹く彼の横顔には痛々しい紅潮が流れ
 血が繻衣(チョゴリ)の袖を眞赤に染めた
 崔先生と呼ばれたそのわかものは
 あのすざましいどよめきが朝鮮を揺るがした春も見ずに
 灰色の雪空に希望を投げて故郷の書堂に逝った
 だが、自由の国ロシアの話は
 いかに深いあこがれと共に、おれの胸に泌み入つたか
 おれは北の空に響く素睛らしい建設の轍[わだち]の音を聞き
 故國を持たぬおれたちの暗い殖民地の生活を思つた

 おゝ
 蔑すまれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
 聲なき無数の苦惱を載せる故國の土地!
 そのお前の土を
 飢えたお前の子らが
 苦い屈辱と忿懣[ふんまん]をこめて嚥[の]み下(くだ)すとき――
 お前の暖い胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
  うなだれ、押し默つて國境を越えて行くとき――
 お前の土のどん底から
 二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!

 おゝ三月一日
 民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
 無限の憎惡を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
 一九一九年三月一日を忘れようぞ!
 その日
「大韓獨立萬歳!」の聲は全土をゆるがし
 踏み躙られた××[日章]旗に代へて
 母國の旗は家々の戸ごとに翻った

 胸に迫る熱い涙をもつておれはその日を思ひ出す!
 反抗のどよめきは故郷の村にまで傳はり
 自由の歌は咸鏡の嶺々に谺[こだま]した
 おゝ、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無數の列よ!
 先頭に旗をかざして進む若者と
 胸一ぱいに萬歳をはるかの屋根に呼び交はす老人と
 眼に涙を浮べて古い民衆の謠(うた)をうたふ女らと
 草の根を嚙りながら、腹の底からの嬉しさに歡呼の聲を振りしぼる少年たち!
 赭土(あかつち)の崩れる峠の上で
 聲を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
 おれは決して忘れない!

 おゝ
 おれたちの自由の歡びはあまりにも短かゝった!
 夕暮おれは地平の涯に
 煙を揚げて突き進んでくる黑い塊を見た
 悪魔のやうに炬火を投げ、村々を焔の×に浸しながら、喊聲[かんせい]をあげて突貫す  る日本騎馬隊を!
 だが×[焼]け×[崩]れる部落の家々も
 丘から丘に搾裂する銃彈の音も、おれたちにとつて何であらう
 おれたちは咸鏡の男と女
 搾取者への反抗に歴史を×つたこの故郷の名にかけて
 全韓に狼煙を揚げたいくたびかの蜂起に×を滴らせたこの故郷の土にかけて
 首うなだれ、おめ〳〵と陣地を敵に渡せようか

 旗を捲き、地に伏す者は誰だ?
 部署を捨て、敵の鐡蹄(てってい)に故郷を委せようとするのはどいつだ?
 よし、焔がおれたちを包まうと
 よし、銃剣を構へた騎馬隊が野獸のやうにおれたちに襲ひ掛からうと
 おれたちは高く頭(かしら)を挙げ
 昂然と胸を張つて
 怒濤のやうに嶺をゆるがす萬歳を叫ばう!
 おれたちが陣地を棄てず、おれたちの歡聲が響くところ
 「暴壓の雲光を覆ふ」朝鮮の片隅に
 おれたちの故國は生き
 おれたちの民族の血は脈々と搏(う)つ!
 おれたちは咸鏡の男と女!

 おう血の三月!――その日を限りとして
 父母と姉におれは永久に訣[わか]れた
 砲彈に崩れた砂の中に見失つた三人の姿を
 白衣を血に染めて野に倒れた村びとの間に
 紅松へ逆さに掛つた屍の間に
 銃劍と騎馬隊に隠れながら
 夜も晝もおれは探し歩いた

 あはれな故國よ!
 お前の上に立ちさまよふ屍臭はあまりにも傷々しい
 銃劍に蜂の巣のやうに×き×され、生きながら火中に投げ込まれた男たち!
 強×され、×を刳[えぐ]られ、臓腑まで引きずり出された女たち!
 石ころを手にしたまゝ絞め××[殺さ]れた老人ら!
 小さい手に母國の旗を握りしめて俯伏した子供たち!
 おゝ君ら、先がけて解放の戰さに斃れた一萬五千の同志らの
 棺(ひつぎ)にも蔵められず、腐屍を兀鷲[はげわし]の餌食に曝す軀(むくろ)の上を
 荒れすさんだ村々の上を
 茫々たる杉松の密林に身を潜める火田民(かてんみん)の上を
 北鮮の曠野に萠える野の草の薫りを籠めて
 吹け!春風よ!
 夜中馥(よぢう)、山はぼう〳〵と燃え
 火田を囲む群落(むら)の上を、鳥は群れを亂して散つた
 朝
 おれは夜明けの空に
 渦を描いて北に飛ぶ鶴を見た
 ツルチュクの林を分け
 鬱蒼たる樹海を越えて
 國境へ――
 火のやうに紅い雲の波を貫いて、眞直ぐに飛んで行くもの!
 その故國に帰る白い列に
 おれ、十二の少年の胸は躍った
 熱し、咳き込みながら崔先生の語つた自由の國へ
 春風に翼(はね)を搏(う)たせ
 歡びの聲をはるかに揚げて
 いま樂しい旅をゆくもの!
 おれは頬を火照らし
 手をあげて鶴に應(こた)へた
 その十三年前の感激をおれは今なま〳〵しく想ひ出す

 氷塊が河床にくだける碎ける早春の豆滿江を渡り
 國境を越えてはや十三年
 苦い闘争と試練の時期を
 おれは長白の平原で過ごした
 氣まぐれな「時」をおれはロシアから隔て
 嚴しい生活の鎖は間島におれを繋いだ
 だが かつてロシアを見ず
 生れてロシアの土を踏まなかつたことを、おれは決して悔いない
 いまおれの棲むは第二のロシア
 民族の墻(かき)を撤したソヴェート!
 聞け!銃を手に
 深夜結氷を越えた海蘭(ハイラン)の河瀬の音に
 密林の夜襲の聲を谺した汪淸(ワンシン)の樹々のひとつひとつに
 ×[血]ぬられた苦難と建設の譚を!

 風よ、憤懣の響きを籠めて白頭から雪崩れてこい!
 濤よ、激憤の沫[しぶ]きを揚げて豆滿江に迸[ほとばし]れ!
 おゝ、××[日章]旗を飜す強盗ども!
 父母と姉と同志の血を地に灑[そそ]ぎ
 故國からおれを追ひ
 いま劍をかざして間島に迫る××[日本]の兵匪!
 おゝ、お前らの前におれたちがまた屈從せねばならぬと言ふのか
 太て〳〵しい強盗どもを待遇する途をおれたちが知らぬといふのか

 春は音を立てゝ河瀬に流れ
 風は木犀の香を傳へてくる
 露を帶びた芝草に車座になり
 おれたちはいま送られた素睛らしいビラを讀み上げる
 それは國境を越えて解放のために闘ふ同志の聲
 撃鐡を前に、悠然と階級の赤旗を掲げるプロレタリアートの叫び
 「在滿日本××[革命]兵士委員會」の檄!

 ビラをポケツトに
 おれたちはまた銃を取つて忍んで行かう
 雪溶けのせゝらぎはおれたちの進軍を傳へ
 見覺えのある合歓(ねむ)の林は喜んでおれたちを迎へるだらう
 やつら!蒼ざめた執政の蔭に
 購はれた歡聲を擧げるなら擧げるがいゝ
 疲れ切つた號外賣りに
 嘘つぱちの勝利を告げるなら告げさせろ
 おれたちは不死身だ!
 おれたちはいくたびか敗けはした
 銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした
 だが
 密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!
 十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!
「生くる日の限り解放のために身を献げ
 赤旗のもとに喜んで死なう!」
「東方××[革命]軍」の軍旗に唇を觸れ、宣誓したあの言葉をおれが忘れようか
 おれたちは間島のパルチザン。身をもつてソヴェートを護る鐡の腕。生死を赤旗と共に  する決死隊
 いま長白の嶺を越えて
 革命の進軍歌を全世界に響かせる
 -海 隔てつわれら腕(かひな)結びゆく
 -いざ戰はんいざ、奮ひ立ていざ
 -あゝインターナショナルわれらがもの……

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【反戦詩】 槇村浩の「一九三二・二・二六 ――白テロに斃れた××[四四]聯隊の革命的兵士に――」

 槇村浩は、『大衆の友』一九三二年四月号に詩「一九三二・二・二六 ――白テロに斃れた××[四四]聯隊の革命的兵士に――」を発表します。
 これは陸軍歩兵四十四連隊への反戦ビラ配布をモチーフににしたものでした。

 營舎(えいしゃ)の高窓(たかまど)ががた/\と搖(ゆ)れる
 ばつたのように塀(へい)の下(した)にくつゝいてゐる俺達(おれたち)の上(うへ)を
 風(かぜ)は横(よこ)なぐりに吹(ふ)き、
 芝草(しばくさ)は頬(ほゝ)を、背筋(せすぢ)を、針(はり)のやうに刺(さ)す

 兵營(へいえい)の窓(まど)に往(ゆ)き來(き)する黒(くろ)い影(かげ)と
 時(とき)どき營庭(えいてい)の燈(ひ)に反射(はんしや)する銃劍(じうけん)を見詰(みつ)めながら
 おれは思(おも)ふ、斃(たふ)されたふたりの同志(どうし)を

 同志(どうし)よ
 おれは君(きみ)を知(し)らない
 君(きみ)の經歴(けいれき)も、兵營(へいえい)へもぐり込(こ)んで君(きみ)が何(なに)をしたかも

 兵營(へいえい)の高塀(たかべい)と歩哨(ほせう)の銃劍(じうけん)とはお互(たがひ)の連絡(れんらく)を斷(た)つてしまつた
 おれは君(きみ)たちが
 おれが君(きみ)たちを探(さが)したように、あせりあせり熱心(ねつしん)に俺達(おれたち)に手(て)を差(さ)し出(だ)したのを知(し)つてゐる
 おれと君(きみ)とは塀(へい)を隔(へだ)てゝめくら探(さが)しにお互(たが)いを求(もと)め合(あ)ひ
 おれの手(て)と君(きみ)の手(て)は
 すれ/\になったまゝ塀(へい)の間(あいだ)で行(ゆ)き違(ちが)つたのだ

 おれは想像(さうぞう)する
 破(やぶ)れたストーヴについて、不自由(ふじいう)な外出(ぐわいしゆつ)について、封(ふう)を切(き)られた手紙(てがみ)について、不親切(ふしんせつ)な軍醫(ぐんい)について、横(よこ)つ面(つら)ヘ竹刀(しない)を飛(と)ばす班長(はんちやう)について、夜中(よなか)にみんな叩(たゝ)き起(おこ)す警報(けいほう)について、無意味(むいみ)な教練(けうれん)のやり直(なほ)しについて
 君(きみ)らがいかに行働(かうどう)を以(もつ)て同(おな)じ兵卒(へいそつ)をアジつたかを
 そして
 誰(たれ)が戰争(せんさう)で儲(まう)け、誰(たれ)が何(なん)の恨(うら)みもない俺達(おれたち)に殺(ころ)し合(あ)ひをさせるか、誰(たれ)が死(し)を賭(と)して俺達(おれたち)のために闘(たゝか)ひ、何(なに)が俺達(おれたち)を解放(かいほう)するかを
 くたくたに疲(つか)れた演習(えんしふ)の歸(かえ)りに
 半煮(はんに)えの飯(めし)をかきこむ食事(しよくじ)の合(あ)ひ間(ま)に
 みなが不平(ふへい)をぶちまけ合(あ)ふ寢臺(しんだい)の上(うへ)で
 いかに君(きみ)らが全兵卒(ぜんへいそつ)の胸(むね)の奥(おく)に沁(し)み込(こ)ませたかを

 その日(ひ)
 (忘(わす)れるな、二月(ぐわつ)二十六日(にち)!
 君(きみ)たちは順々(じゆん/\)に呼(よ)び出(だ)され
 後(うしろ)から欺(だま)し討(う)ちに×[切]り倒(たふ)された
 君(きみ)たちの血(ち)はべっとりと廊下(らうか)を染(そ)め
 君(きみ)たちの唇(くちびる)は最後(さいご)まで反戰(はんせん)を叫(さけ)び續(つゝ゛)けた

 よし
 たけり立つて兵士らを宥(なだ)めかねてやつらのひとりが
 自殺(じさつ)せうと、よし
 泥のやうに醉(よ)つ拂(はら)はせた兵士(へいし)らを御用船(ごようせん)へ積(つ)み込(こ)んで送(おく)り出(だ)さうと
 廊下(らうか)に沁(し)み込(こ)んだ君(きみ)たちの血(ち)は
 それで拭(ぬぐ)はれたか
 溢(あふ)れ出(で)る血(ち)どろと共(とも)に口(くち)を衝(つ)いて迸(ほとば)しった
 君(きみ)たちの叫(さけ)びは
 それで消(け)されたか

 おゝ今(いま)
 消燈喇叭(せうとうらつぱ)は夜風(よかぜ)を衝(つ)いて響(ひゞ)き渡(わた)り
 窓(まど)はひとつひとつ闇(やみ)に溶(と)けて行(ゆ)く
 おれは伸(の)び上(あが)り
 かじかんだ手(て)を舉(あ)げて仲間(なかま)に合圖(あいづ)をする
 そして
 俺達(おれたち)は立上(たちあが)りマントを捨(す)て
 すばやく塀(へい)を乗(の)り越(こ)えて突進(とつしん)する

 掩達(おれたち)の手(て)にはビラがあり
 俺達(おれたち)のポケットにはドスがある
 ビラは眠(ねむ)つた營舎(えいしや)を搖(ゆ)り覺(さ)まし
 ドスは倒(たふ)された同志(どうし)の血(ち)を洗(あら)ふだらう
 風(かぜ)よ
 兵營(へいえい)の隅々(すみ/\)までこのビラを蒔(ま)き散(ち)らせ!
 塀(へい)よ
 「兵士委員会(へいしゐゐんくわい)を作(つく)れ!」
 の叫(さけ)びを營庭(えいてい)一ぱいに跳(は)ね返(かえ)せ!

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【反戦詩】 槇村浩の「生ける銃架――満洲駐屯軍兵卒に――」。

 槇村浩は、一九三一年十月二十四日、詩「生ける銃架――満洲駐屯軍兵卒に――」を書きあげます。

 高梁(かうりやう)の畠(はたけ)を分(わ)けて銃架(じうか)の影(かげ)はけふも續(つゞ)いて行(ゆ)く
 銃架(じうか)よ、お前(まへ)はおれの心臓(しんざう)に異様(いやう)な戰慄(せんりつ)を與(あた)へる――血(ち)のやうな夕日(ゆふひ)を浴(あ)びてお前(まへ)が默々(もく/\)と進(すゝ)むとき
 お前(まへ)の影(かげ)は人間(にんげん)の形(かたち)を失(うしな)ひ、お前(まへ)の姿(すがれ)は背嚢(はいのう)に隠(かく)れ
 お前(まへ)は思想(しさう)を持(も)たぬたゞ一箇(こ)の生(い)ける銃架(じうか)だ
 きのふもけふもおれは進(すゝ)んで行(ゆ)く銃架(じうか)を見(み)た
 列(れつ)の先頭(せんとう)に立(た)つ日章旗(につしやうき)、揚々(やう/\) として肥馬(ひま)に跨(またが)る將軍(しやうぐん)たち、色蒼(いろざ)め疲(つか)れ果(は)てた兵士(へいし)の群(むれ)――
 おゝこの集團(しふだん)が姿(すがた)を現(あら)はすところ、中國(ちうごく)と 日本(にほん)の壓制者(あつせいしや)が手(て)を握(にぎ)り、犠牲(ぎせい)の××(1)は二十二省(しやう)の土(つち)を染(そ)めた
 (だが經驗(けいけん)は中國(ちうごく)の民衆(みんしう)を教(をし)へた!)
 見(み)よ、愚劣(ぐれつ)な×(2)旗(き)に対して拳(こぶし)を振(ふ)る子供 (こども)らを、顔(かほ)をそむけて罵(のゝし)る女(をんな)たちを、無言(む ごん)のまゝ反抗(はんこう)の視線(しせん)を列(れつ)に灼(や)きつける男(をとこ)たちを!
 列(れつ)はいま奉天(ほうてん)の城門(じやうもん)をくゞる
 ――聞(き)け、資本家(しほんか)と利權屋(りけんや)の一隊(たい)のあげる歡呼(くわんこ)の聲(こゑ)を、軍楽隊(ぐんがくたい)の吹奏(すゐそう)する勝利(しやうり)の由(よし)を!
 やつら、資本家(しほんか)と將軍(しやうぐん)は確(たし)かに勝(か)つた!―― だがおれたち、どん底(ぞく)に喘(あへ)ぐ労働者(らうどうしや)農民(のうみん)にとつてそれが何(なん)の勝利(しやうり)であらう
 おれたちの唇(くちびる)は歡呼(くわんこ)の聲(こゑ)を叫(さけ)ぶにはあまりに干乾(ひから)びてゐる
 おれたちの胸(むね)は凱歌(がいか)を舉(あ)げるには苦(くる)し過(す)ぎる
 やつらが勝(か)たうと負(ま)けようと、中國国(ちうごく)と日本(にほん)の兄弟(きやうだい)の上(うへ)に×(3)壓(あつ)の鞭(むち)は層(そう)一層(そう)高(たか)く鳴(な)り
暴(ぼう)×(4)の軛(わだち)は更(さら)に烈(はげ)しく喰(く)ひ入(い)るのだ!

 おれは思(おも)ひ出(だ)す、銃劍(じうけん)の冷(つめた)く光(ひか)る夜(よ )の街(まち)に反(はん)×(5)の傳單(でんたん)を貼(は)り廻(まは)して行(い)つた勞働者 (らうどうしゃ)を
 招牌(せうひ)の蔭(かげ)に身(み)を潜(ひそ)め
 軒下(のきした)を忍(しの)び塀(へい)を攀(と)ぢ
 大膽(だいたん)に敵(てき)の目(め)を掠(かす)めてその男(をとこ)は作業(さ げふ)を續(つゞ)けた
 彼(かれ)が最後(さいご)の一枚(まい)に取(と)り掛(かゝ)った時(とき)
 歩哨(ほせう)の鋭(するど)い叫(さけ)びが彼(かれ)の耳(みゝ)を衝(つ)いた
 彼(かれ)は大急(おほいそ)ぎでビラを貼(は)り
 素早(すばや)く横手(よこて)の小路(こみち)に身(み)を躍(をど)らせた
 その時(とき)彼(かれ)は背後(はいご)に迫(せま)る靴音(くつおと)を聞(き) き
 ゆくてに燦(きら)めく銃劍(じうけん)を見(み)た
 彼(かれ)は地上(ちじやう)に倒(たふ)れ、次々(つぎ/\)に×(6)き×(7) される銃(じう)×(8)の下(もと)に、潮(うしほ)の退(しりぞ)くやうに全身 (ぜんしん)から脱(ぬ)けて行(ゆ)く力(ちから)を感(かん)じ
 おとろへた眼(め)を歩哨(ほせう)の掲(かゝ)げた燈(ともしび)に投(ね)げ
 裂(さ)き捨(す)てられ泥(どろ)に吸(す)はれた傳單(でんたん)を見詰(みつ   )め
 手(て)をかすかに擧(あ)げ、唇(くちびる)を慓(ふる)はし
 失(うしな)はれゆく感覺(かんかく)と懸命(けんめい)に闘(たゝか)ひながら、死 (し)に至(いた)るまで、守(まも)り通(とほ)した黨(たう)の名(な)をとぎ れ/\に呼(よ)んだ
 ……中(ちう)、國(こく)、共(きやう)、×(9)、×(10)、萬……

 ――秋(あき)。奉天(ほうてん)の街上(かいじやう)で銃架(じうか)はひとりの同志(どうし)を奪(うば)ひ去(さ)つた
 しかし次(つぎ)の日(ひ)の暮(く)れ方(かた)、おれは歸(かへ)りゆく勞働者(らうどうしや)のすべての拳(こぶ)しの中(うち)に握(にぎ)り占(し)められたビラの端(はし)を見(み)た電柱(でんちう)の前(まへ)に、倉庫(さうこ)の横(よこ)に、風(かぜ)にはためく傳單(でんたん)を見た同志(どうし)よ安(やす)んぜよ、君(きみ)が死(ち)を以(もつ)て貼(は)り付(つ)けたビラの跡(あと)はまだ生々(なま/\)しい
 残(のこ)された同志(どうし)はその上(うへ)へ次々(つぎ/\)に傳單(でんたん)を貼(は)り廻(まは)すであらう

 白樺(しらかば)と赤楊(はんのき)の重(かさ)なり合(あ)ふ森(もり)の茂(しげ)みに銃架(じうか)の影(かげ)はけふも續(つゞ)いて行(ゆ)く
 お前(まへ)の歴史(れきし)は流(りう)×(11)に彩(いろど)られて來(き)たかつて龜戸(かめど)の森(もり)に隅田(すみだ)の岸(きし)に、また朝鮮(てうせん)に臺灣(たいわん)に滿洲(まんしう)に
 お前(まへ)は同志(どうし)の咽(のど)を×(12)き胸(むね)を×(13)り
 堆(うづた)い死屍(しかばね)の上(うへ)を×(14)に醉(よ)ひ痴(つか)れて 突(つ)き進(すゝ)んだ
 生(い)ける銃架(じうか)。おう家(いへ)を離(はな)れて野(の)に結(むす) ぶ眠(ねむ)りの裡(うち)に、風(かぜ)は故郷(こきやう)のたよりをお前(まへ )に傳(つた)へないのか
 愛(あい)するお前(まへ)の父(ちゝ)、お前(まへ)の母(はゝ)、お前(まへ)の 妻(つま)、お前(まへ)の子(こ)、そして多(おほ)くのお前(まへ)の兄妹(き やうだい)たちが、土地(とち)を逐(お)はれ職場(しょくば)を拒(こば)まれ、飢(う)えにやつれ、齒(は)を喰(く)ひ縛(しば)り、拳(こぶし)を握(にぎ) つて、遠(とは)く北(きた)の空(そら)に投(な)げる憎(にく)しみの眼(め) は、かすかにもお前(まへ)の夢(ゆめ)には通(かよ)はぬのか裂(さ)き捨(す)てられる立禁(たちきん)の札(ふだ)。馘首(かくしゆ)に対(  たい)する大衆抗議(たいしうこうぎ)。全市(ぜんし)を搖(ゆる)がすゼネストの 叫(さけ)び。雪崩(ゆきなだ)れを打(う)つ反(はん)×(15)のデモ。吹(ふ)きまく彈(だん)×(16)の嵐(あらし)の中(なか)に生命(せいめい)を賭( と)して闘(たゝか)うお前(まへ)たちおれたちの前衛(ぜんゑい)、あゝ×××× ×(17)!
 ――それもお前(まへ)の眼(め)には映(うつ)らぬのか!
 生(い)ける銃架(じうか)。お前(まへ)が目的(もくてき)を知(し)らず理由(りいう)を問(と)はず
 お前(まへ)と同(おな)じ他(た)の國(くに)の生(い)ける銃架(じうか)を射( しゃ)×(18)し
 お前(まへ)が死(し)を以(もつ)て衛(まも)らねばならぬ前衛(ぜんゑい)の胸( むね)に、お前の銃劍(じうけん)を突(つ)き刺(さ)す時(とき)
 背後(はいご)にひゞく萬国(ばんこく)資本家(しほんか)の哄笑(こうせふ)がお前 (まへ)の耳(みゝ)を打(う)たないのか

 突如(とつじょ)鉛色(なまりいろ)の地平(ちへい)に鈍(にぶ)い音(おんきやう) が搾裂(さくれつ)する
 砂(すな)は崩(くず)れ、影(かげ)は歪(ゆが)み、銃架(じうか)は×(19)を 噴(ふ)いて地上(ちじやう)に倒(たふ)れる。
 今(いま)ひとりの「忠良(ちうりゃう)な臣民(しんみん)」が、こゝに愚劣(ぐれつ )な生涯(しやうがい)を終(を)へた
 だがおれは期待(きたい)する、他(た)の多(おほ)くのお前(まへ)の仲間(なかま )は、やがて銃(じう)を×(20)に×(21)ひ、劍(けん)を後(うしろ)に×(22)へ 自(みづか)らの解放(かいほう)に正しい途(みち)を撰(えら)び、生(い)ける銃架(じうか)たる事(こと)を止(とゞ)めるであらう

 起(た)て滿洲(まんしう)の農民(のうみん)勞働者(らうどうしゃ)
 お前(まへ)の怒(いか)りを蒙古(まうこ)の嵐(あらし)に錬(きた)え、鞍山(あんざん)の溶鑛爐(ようこうろ)に溶(と)かし込(こ)め!
 おう迫(せま)りくる××(23)の怒濤(どとう)!
 遠(とほ)くアムールの岸(きし)を嚙(か)む波(なみ)の響(ひゞ)きは、興安嶺(こうあんれい)を越(こ)え、松花江(しようくわかう)を渡(わた)り、哈爾賓(はるびん)の寺院(じゐん)を搖(ゆ)すり、間島(かんたう)の村々(むら/\)に傳(つた)はり、あまねく遼寧(れいねい)の公司(こんす)を搖(ゆ)るがし、日本駐屯軍(にほんちうとんぐん)の陣營(ぢんえい)に迫(せま)る

 おう、國境(こくきやう)を越(こ)えて腕(うで)を結(むす)び、×(24)の防塞(ぼうさい)を築(きづ)くその日(ひ)はいつ。

 (1)鮮血 (2)軍 (3)弾 (4)虐 (5)日 (6)突 (7)刺 (8)剣 (9)産 (10)党
(11)血 (12)突 (13)抉 (14)血 (15)戦 (16)圧 (17)日本共産党 (18)殺 (19)血 (20)後 (21)狙 (22)構 (23)革命 (24)鉄

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2013.06.25

【反戦詩】 佐藤さち子は「田をうないつつ」。「おらア女でも野良着の便衣隊だ」。

 佐藤さち子は「田をうないつつ」を『プロレタリア文学』一九三二年四月作品増刊号に発表しました(北山雅子名で)。
 戦死した兄に思いをはせて反戦を誓う妹を歌っています。

 野良に早春の風が吹くど。
 今日もしきりと雲雀奴(ひばりめ)がさえずってるが
 ガッチャリと振り下ろした万能で
 昨年の根っ子を掘り返し乍ら
 おらが胸はむれ返るだ
 おっ母ア煙草を吸いつけなれや
 んー
 振り返りもせず黙々と万能を振るおっ母。

 この田が青田のままで差押さえられた時
 立入禁止の立札を引抜いて、へし折った兄ちゃんだったが。
 共同耕作と云えば真先に
 鍬をかついで出掛けて行く兄ちゃんだったが。
 昨年の秋。拘留の中から召集され
 間もなく受けとった戦死の報せ。

 おっ母は五黄の寅年生れ
 うこん木綿を持ち廻り
 一針一針愚痴まじりに年の数ほど縫い
 人様の顔を見れば、針を押しつけ
 縫い綴った千人縫も送ったが
 前からか
 背後からか
 とんで来た弾丸を防ぐどころか。

 今朝
 新家(しんや)のお茶に招ばれた時
 ふと眼についた新聞の写真
 ――これが勇士の母親だ――と、
 泣き笑いしたおっ母のかお。
 「お前ん家のおっ母は幸福者だぞや
 息子のおかげで、ほれ新聞さまであげられて」
 新家のご内儀は、苦もなく鼻の先で振って見せたが。

 兄ちゃんは名誉の戦死
 気の強いおっ母は、涙もこぼさないが
 あれから、ろくろく口もきかず
 万能振りつつ低声(こごえ)でつぶやく
 ――ここは御国を何百里――
 遠い満洲で戦死した勇士の
 母と妹は
 日手間稼いで芋粥すするだ。

 おっ母の一人息子、
 分骨された骨も 誰のもんだか
 おっ母、チャンコロを憎むのは止そうよ、
 「支那の仲間を殺したくない」と
 兄ちゃん手紙にも書いてあったが。
 兄ちゃんを殺(×)したのは兄ちゃんに
 爆弾を背負わせた奴(×)等だ

 おっ母。
 振り上げる万能は鉄砲のように重い
 今こそ泥に塗れ地主の田をうなってるが
 おらア女でも野良着の便衣隊《※》だ
 なあ おっ母
 野良に
 早春の風が吹くぞ。
 
 ※日本軍に抵抗するために、平服のまま一般市民にまぎれ、襲撃や宣伝などをした中国人の部隊。

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2013.06.26

【エッセイ】高知市の警察署で殺された筒井泉吉さんの「灯をつぐもの」の血書

 六月二十日、平和資料館・草の家の岡村正弘さんと、高知県四万十市の筒井泉吉さんの墓を訪ねました。彼のことを展示にできないかという思いでした。日本共産党幡多地区委員長の大西正祐さんが案内してくれました。

 赤鉄橋の近くの須賀神社と法然寺の間の山を登っていくと中腹の左側にありました。

 墓には「筒井泉吉こゝに眠る」、「一九一四年一月一日生 共青 全協 プロレタリア作家同盟の活動に従事 一九三三年九月一九日 時の権力により虐殺される。行年二〇歳/志を継ぐもの之を建つ」とありました。 

 あらためて、北あきら編著『泥の道は長くとも』(一九六九年)、高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡編集委員会』(一九七三年)、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部編『高知県における共産主義運動 戦前の思い出』(一九九〇年)、『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』(一九九九年)、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部編『高知県における共産主義運動 戦前の思い出 第三集』(一九九四年)などを読み筒井さんのことを調べました。

 高知県安芸郡芸西村和喰の生まれ。父・甚吉さん、母・左馬尾さんの長男。

 三歳のとき、両親と中村へ移転。一九二八年、中村高等小学校を卒業し、中村の四国電力会社の給仕に。その後、大阪に出ましたが、中村に帰って野村自動車の切符売りをしました。

 一九三〇年、日本労働組合全国協議会(全協)に入ります。

 仲間とプロレタリア作家同盟高知支部幡多地区を結成し、機関紙『百姓』を出しました(のちに『驀進』と改題)。

 彼は、一九三二年十月ころ、詩「木原よ!」を書いています(『驀進』、一九三三年四・五月合併号に渡川専太の名で発表)。同四月二十一日に逮捕された「木原」にささげたこの作品は、そのころの彼の思いを伝えています。

 〈牢獄の中に春を送り夏を送り/冬を迎えた木原よ!〉、 〈木原よ!/俺達は立上る!/想ひ起す。喧嘩と女の話しか知らなかった/俺達に、本当の世界を教へ来れた――/お前木原よ!〉

 一九三二年暮れごろ、検挙で手うすになっていた高知市に出て運動をはじめました。

 一九三三年五月、共産青年同盟高知市委員会結成。筒井さんは、黒原善太郎さんらと参加します。

 活動中の同年七月七日、筒井さんは、黒原さんらとともに治安維持法違反容疑で検挙されます。七月九日の高知新聞夕刊に二十九人逮捕の記事が大々的に載りました。「……市内江ノ口[三葉寮]のアジト[元高校生の]下田徳幸方に、特高課の命を受けた中野刑事が張り込んでいると、首脳分子の筒井長吉[ママ]がそれとも知らずに入って来たのを検挙、警察に連行しようとした処……。」(この記事は高知新聞社には保存されていなくて、『泥の道は長くとも』に転載されたものを使用しました。

 そして、その二か月半後の九月二十日朝、高知市の高知署で亡くなりました(高知市の水上署でとする文献もあります)。十九歳でした。

〈[筒井泉吉は]各警察署をたらいまわさしにされて、ひどい拷問の末、高岡署から高知署へまわされてきた時はすでに瀕死の状態にあった。祖母が高知署へ面会に行ったが面接は許されなかった。その祖母が中村へ帰りつくと「センキチキトクスグコイ」の電報が来た。祖母はその足で引きかえし午後八時にやっと高知署へ着いた。『会わせろ』というと『落ちつけ、落ちつけ明日は会わす』といってその夜は会わせなかった。(中略)。翌朝祖母が会った時は泉吉は死体となっていた。祖母が泉吉を愛撫しながら話しかけると、鼻や口から、どくどくと黒い血がふき出した。(中略)死亡原因を警察医は『心臓かっけ』と言った。」(『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)。

 七月七日に幡多地方で逮捕された中筋村の国見善弘さん、農業の浜田初広さんは中村署で特別高等警察官から「筒井のようにしてやるぞ」といわれながら拷問を受けました。

 高知市の水上署の監房の壁に筒井さんの血書「灯(ともしび)をつぐもの」が残されていました。

 筒井さんの実家はいまの四万十市中村の山手通り一二番地にあったといいます。

 裏山の墓地には筒井さんの墓がありましたが、くり石が並べられただけで墓標もありませんでした。

 一九七六年七月、国民救援会と解放運動旧友会、筒井泉吉墓碑建設幡多地区委員会が筒井泉吉の墓を建立しました。これが私たちの訪れた墓です。「志を継ぐもの之を建つ」の言葉にぐっときました。彼の「灯をつぐもの」たちです。

 一九九三年九月十九日には筒井泉吉没後六十周年墓前祭がおこなわれました。これには弟の筒井清太さんも参加しました。

                    

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【ニュース】 民主主義文学会の四国文学研究集会は、十一月九日(土曜日)午後一時から十日(日曜日)正午まで高知市で。

 民主主義文学会の四国文学研究集会は、十一月九日(土曜日)午後一時から十日(日曜日)正午まで高知市の平和資料館・草の家でおこなわれます。

 各県の支部誌合評と文芸講演会があります。

 文芸講演会の講師は、民主主義文学会会長の田島一さんです。

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【反戦詩】上野荘夫の「戦争へ!」。

  上野荘夫(通称ソウフ。戸籍上はソウオ。一九〇五年六月二日~)は「戦争へ!」という詩を書いています(一九二九年一月三十日発行の『新興文学全集 第十巻 日本編X』、平凡社)。天皇の中国侵略軍の兵たちの殺し、殺されるたたかいでの苦悩を描いています。

   
 ざつく ざつく ざつく ざつく
 ……どたり どたり ばた ばた………
 ぼろぼろの人間の肢体を見ろ
 蒼ぶくれたでくのぼう(、、、、、)の無限の列を見ろ
 ――こいつは動いて行く灰色の鎖だ
 ――こいつは歩いて行く屍骸の群だ
 口を空けてゐる
 白い眼を見開いてゐる
 銃剣をギラギラと光らせてゐる
 どたり どた ばた ばた………
 ……ざつく ざつく ざつく ざつく
 ――こいつは雑巾のやうに疲れ切った武器の密集部隊だ!

  黄色い海だ
  黄色い港だ
  黄色い街だ
  黄色い高粱畑だ
  支那だ!

 ばたり ばたり どど どど………
 何処かで赤ん坊が泣いてゐる
 ざつく ざつく ばた ばた………
 何処かで赤ん坊が泣いてゐる
 ――おっ母あ
 背中の餓鬼が泣いたら乳を呑ましてやるがええ
 畑にや真黒に烏がたかつて田圃にや水が涸れてゐたつけ
 あゝ
 赤ん坊は草刈籠の中で田のくろに泣いてゐやがった――
 ざつく ざつく どた どた……
 生きちや帰られめえ!
 ……ばたり ばたり

  黄色い高粱畑だ 支那だ!
  埃だ、風だ、射撃だ!

 ――隊長殿、疲れました
 ぢた ぢた…… ざつく ざつく ざつく
 考へても見ろよ、兄貴!
 俺あ娘つ子をやつつけたんだ、色の白い丸つこい十五の娘つ子を!
 俺の妹が会社の野郎にやつつけられた時にや……
 ――進軍だぞオ!
 ぢた ぢた ざつく ざつく ざつく
 ばた…… ばた……

 黄色い埃だ、支那だ!
 だが何だつて支那人を殺すんだ! えゝ?
 あゝ、おれは千人の中の一人なんだ
 千人の中の一人は殺すか殺されるかなんだ
 だが、何だつて――

 ぐわツつ ぐわツつ どど どど
 おれの故郷は海の向ふよ
 おれの寝床は海の向ふよ
 だが、海の向ふでだつて満足に眠れたことなんか無かつた
 いつも……いつも……飢えてゐたんだ
 ばた ばた ざつく ざつく ざつく……と

     進軍だぞオ!
   進軍だ!  
 進軍!
 何処へ行っても何処へ逃げても、あゝ
 進軍!
   進軍だ!
     進軍だぞオ! ばた ばた ばた

 こいつは武装された黄色い死骸の列だ
 こいつはどこまでもどこまでも殺(×)しに行く屠殺者の群だ
 こいつはどこまでもどこまでも殺(×)されに行く豚の群だ
 蛇のやうにのろのろと
 狼のやうにばたばたと
 ――そら、むしり取られた肢だ
 ――そら、えぐり抜かれた眼球だ
 頭と 肩と 腕と 銃と 剣だ
 ばらばらに引き裂かれた雑巾のやうな人間の群だ
 ざらり ざらり ごと ごと ごと……
 千人の中の一人だ、後を向いてゐるのは!
 千人の中の三人だ、殺すより殺されることを欲してゐるのは!
 だが、ばたり ばたり ごと ごと ごと

  えい!
  殺されろ 殺されろ 殺されろ 殺されろ
  畜生、犬殺しの奴等め!

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2013.06.27

【反戦詩】上野荘夫の「一兵卒の俺を」。

  上野荘夫は「一兵卒の俺を」という詩を書いています(一九二九年一月三十日発行の『新興文学全集 第十巻 日本編X』、平凡社)。「射撃を拒否した」「下士の命令に従はなかつた」戦友を撃ち、そして、「子供の血で、女の血で、年寄の血で、仲間の血で、血だらけ」になった侵略軍の兵士の苦悩を伝えました。

 みんな、撲りつけてくれ!
 この泣きつ面の恥知らずのでくのぼうを!
 みんな、嘲笑つてくれ!
 この人殺しの酒呑みの女好きの莫迦野郎を!

 おれはみんなの様な労働者だつたんだ
 おれはみんなの様な若い元気な百姓だつたんだ
 そいつが
 みんな、見てくれ!
 おれは手と足と頭に武装された一兵卒だ
 おれは手と足と頭を×られたでくのぼうなんだ

 おれは仲間の胸を×ち抜いた
 あいつは射撃を拒否したのだ
 あいつは下士の命令に従はなかつた
 あいつは戦争を嘲笑した
 そしておれを憐れむやうに見つめやがつた
 ところでおれはあいつの鼻を×り、眼球を××××、手足を××××たんだ

 おれは畑の中で鉄砲をうつた
 おれは塹壕の中で鉄砲をうつた
 おれは白昼、誰かの家に押し入つて女房を×めた
 おれは白昼、誰かの家に這入りこんで子供の首を×めた
 ――そいつを奴等が要求したんだ
 ――そいつを奴等が命令したんだ

 見てくれ、みんな!
 おれの手は血だらけだ
 子供の血で、女の血で、年寄の血で、仲間の血で、血だらけだ
 見てくれ、兄弟!
 おれはおれの手で仲間を殺しちまつたんだ

 みんな、撲りつけてくれ!
 この人殺しで裏切り者のぬすつと面をしたでくのぼうを!
 兄弟、ぶち殺してくれ
 奴等の手先で機械で犬畜生の一兵卒を!
 この頭のてつぺんから足の先まで武装されたおれを!
 この泣きつ面をした太々しい臆病の腰抜けを!

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【反戦詩】上野荘夫の「兵士の歌」。

  上野荘夫は「兵士の歌」という詩を書いています(一九三三年十一月
の『無産者詩集 第二輯』)。中国に派遣された、ある日本兵にみずからの蛮行の数々を語らせています。

 おれは酔つぱらひのやうに舗道を歩く
 おれは気ちがひのやうに血眼になつて探し廻る
 おれは野良犬だ、血だらけの街を嗅ぎ
 おれは彼奴らの怒りを背中に感じながら憎々し気に笑ふ

 白昼、この破壊された街路で何がなされたか
 夜、この蜂の巣のやうに弾丸の討ち込まれた扉の中で何がなされたか
 昨日、河べりの叢であいつを俺はどうしたか
 今、赤い煉瓦塀の前で支那人どもがどんな眼にあはされてゐるか

 どこからどこまで血だ!
 そして、何から何まで血だ!
 この呪はれた血と破壊の中で俺は声高く笑ふ
 ――憎々し気に、狂犬のやうに

 あの男は扉の前で、眼を剥き、手を空に伸し、からだを慄はせ、喚き、倒れ、血を吐いたのだ
 あの女は部屋の隅に、手で乳房を押へ、恐ろしさに眼を見開き、髪を毮り、素裸のからだを辱(×)しめられたのだ
 子供は天井に釣り下げられ
 妊婦は二つに引き裂(×)かれた――
 至るところの街路で、部屋の中で、叢で、見えない煉瓦塀のかげで――血だ!

 おれは銃を握つてゐる
 おれは剣をブラ下げてゐる
 そしておれは酔つぱらひのやうに街を歩きまはり、建物の中へ侵入して行く

 何処で、誰が、どんなことをされたか?
 何処で、誰が、どんなことをしたか?
 今、支那(××)で、何が起こつてゐるかを考へて見ろ!

 鼻曲りの苦力は眼の前で素つ裸にされる娘を見てゐる
 乳呑児は母親の乳房からもぎとられ、母親は何処かへ連れ去られる
 何処かへ
 おゝ、何処かへだ!

 見ろよ、これが戦争(××)だ!
 これが海を渡つて来た俺たちの仕事だ!

 ――べっとりと血塗られた、街路、家、くさむら、河!

 子供を探す母親の眼が
 恋人を探す娘たちの眼が
 怒り、恐れ、呪ひ、わめき、祈るそれ等の眼が
 流された無数の仲間の血を見凝めてゐる!
 ――そして
 おれは酔つぱらひのやうに舗道を歩き
 狂人のやうにそれらの憎悪に向つて突進する
 おれは野良犬のやうに嗅ぎまはり
 そいつらの怒りに対して声高く笑はうとするのだ!

 たゞ、俺が呪はれた一兵卒であることの故に――

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【反戦詩】上野荘夫の「支那へ行くのか」。

  上野荘夫は「支那へ行くのか」という詩を書いています(『文芸戦線』、一九三七年九月号』。同年同月一日。文芸戦線社)。これは、戦士として中国に派兵される労働者、農民への反戦の呼びかけです。

 兵士よ!
 汗と埃に塗れたからだをひきづつて
 お前達は支那へ行くのか
 たくましい腕には銃を握り
 背嚢には重い弾薬を填め込み
 心臓には黄色の支那に対する侮辱と憎悪とを燃して
 兵士よ!
 お前達は支那へ行くのか

 かつてお前達の腕は
 埃で薄暗い工場に輪転機のハンドルを握り
 真夏の太陽が油のやうに焼けつく街路に
 ハンマアを振りあげてゐた
 それから麦の刈取られた段々畑に、水田に
 お前達の手には残らぬ収穫の種を蒔いてゐたのだ
 今、お前達のたくましい腕は
 恐ろしい銃を握つてゐる!
 おお、お前達は支那へ行くといふのか?
 病み衰へた母親を捨てて
 町へ買はれて行つた妹達を捨てて
 それから泣き叫ぶお前の子供らを捨てて
 支那の労働者たちを○○○○ために
 他でもない、彼らを○○○○ために

 昨日まで、そして今日も
 お前達の背中には
 残酷な地主の鞭が唸つてゐるのだ!
 非道な資本家どもの搾取機が備へつけられてゐるのだ!
 払つても払ひ切れぬ重税と
 耐えても耐え切れぬ迫害とが覆ひかぶさってゐるのだ!
 そいつを、
 散々お前達を苦しめ抜いてゐるそいつを、
 何時の間にお前達は忘れてしまつたのだ?
 昨日までお前達は
 あいつ等を憎んでゐたではないか!
 あいつ等をやつつけようと思つてゐたではないか!
 その反抗を、その憤怒を、
 何時の間に忘れてしまつたのだ、お前達は。

 兵士よ!
 「○○○」とは自分の国を愛することだといふのか?
 自分の国を愛することは
 お前達自身を、お前達の両親を、仲間を、子供らを、
 お前達の畑や、工場を、
 愛することだといふのか?
 さうなのか?
 よろしい、俺は言はう!
 それはかうなのだ
 おれ達をぶちのめした地主どもを
 おれ達を胡魔化してゐる坊主どもを
 おれ達を散々いぢめぬいたあいつ等を
 愛するといふことなのだ!

 昨日まで、お前達の心臓は
 あいつ等に対する歯を喰ひしめた憎悪で
 忍従に耐えられなくなつた叛逆で
 圧迫された生活の苦痛で
 絶望からの自暴自棄で
 破裂しさうになつてゐたのだ!
 その憎悪を、叛逆を、苦痛を、自暴自棄を、
 お前達は支那へ持つて行かうといふのか?
 お前達と同じ憎悪から、叛逆から、
 振い立つた支那の兄弟を○○○○に行くといふのか?
 お前達のやうにぶちのめされてゐる支那の民衆を、
 お前達をぶちのめしたあいつ等のために
 ○○○○に行くといふのか?

 兵士達、兄弟よ!
 今、お前達が何をしようとしてゐるか
 考へて見るがいい!
 あいつ等の口実や
 あいつ等の胡魔化しを信ずるな!
 兵士達、愛する兄弟よ!
 誰がそれを命令しようとも、
 誰がそれを強制しようとも、お前達は
 「敵」のために、「味方」を殺しはしないだらう!

 さうだ!
 お前達はよく知つてゐるのだ!
 誰がお前達を戦争に追ひやるか、
 誰がお前達に「味方」を殺させるか。
 さうだ!

 お前達は支那へ追ひやられるだらう
 お前達は銃を持たせられるだらう
 だが、
 お前達の持つてゐる武器は
 憎むべきあいつ等を、お前達の真実の「敵」を、
 ○○○○ことが出来るのだ!

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【反戦詩】 今野大力(こんの・だいりき)の「凍土を噛む」。

 今野大力の詩「凍土を噛む」が『プロレタリア文学』一九三二年二月号に載りました。〈兵士(××)は故国ヘ/おれたちの仲間/中国の仲間/そしてソヴェート・ロシアの仲間の/共同の戦線(××)こそ勝利(××)を固(×)めよ」と歌っています。

 土に噛りついても故国は遠い
 負いつ 負われつ
 おれもおまえも負傷した兵士
 おまえが先か
 おれが先か
 おれもおまえも知らない
 おれたちは故国へ帰ろ(××)う
 おれたちは同じ仲間のものだ
 お前を助けるのは俺
 俺を助けるのはお前だ
 おれたちは故国へ帰(××)う
 この北満の凍土の上に
 おれとお前の血(×)は流れて凍る
 おお赤い血(×)
 真紅のおれたちの血(×)の氷柱(つらら)

 おれたちは千里のこなたに凍土を嚙む
 故国はおれたちをバンザイと見送りはしたが
 ほんとうに喜こんで見送った奴は
 俺達の仲間ではない
 おれたちは屠殺(××)場へ送られてきた
 馬
 豚
 牛だ!
 いつ殺さ(××)れるかも知らない
 おれたちは今殺さ(××)れかけている

 おれたちは故国へ帰ろ(××)う
 土に嚙りついても故国は遠い
 だがおれたちは故国へ帰ろ(××)う
 戦争とはこういうものだ
 戦地ではおれたちの仲間がどうして殺さ(××)れたか
 あんな罪もない者を
 殺す(××)のがどんなに嫌でも
 何故殺(×)せと命(×)ずるのか
 殺す(××)相手も
 殺さ(××)れる相手も
 同じ労働者の仲間
 おれたちにはいま仲間を殺す(××)理由はない
 この戦争(××)をや(×)めろ

 兵士(××)は故国ヘ
 おれたちの仲間
 中国の仲間
 そしてソヴェート・ロシアの仲間の
 共同の戦線(××)こそ勝利(××)を固(×)めよ

 おお おれたちは今銃創の苦るしさに凍土を嚙み
 傷口から垂れた血(×)の氷柱を砕きつつ
 故国の仲間に呼びかけたい
 おれたちは故国へ帰ろ(××)う
 お前もおれもがんばろう

 今野大力は、天皇制政府による激しい弾圧のもとで、反戦平和と国民が主人公の世の中をつくるために、最後まで命がけでたたかった日本共産党員の詩人です。
 今野は、一九〇四年に宮城県丸森町に生まれ、三歳のとき北海道旭川に移住。父母は馬車鉄道の待合所をかねて雑貨店を営みますが、貧しい中で弟や妹を出生間もなく失います。しかし、今野は、逆境にめげず、幼少のころから心やさしく、仲間たちからも慕われました。旭川時代から郵便局などで働きながらも向学心に燃えて独学に励み、十七歳のころからは叙情性の豊かな作品で詩人としての才能が認められ、文学活動をつづけるなかで、民衆の生活への社会的関心をつよめていきます。
 一九三一年九月、中国東北部への侵略(満州事変)が始まると、今野は、「日本プロレタリア文化連盟(コップ)」(同年十一月結成)でひるまずたたかいました。
 一九三二年三月、文化運動の広がりと発展にたいして、天皇制政府は、文化活動家四百四人を逮捕。今野は駒込警察署での拷問がもとで、人事不省におちいり釈放されます。健康を害した今野は、奇跡的に回復すると、屈することなく、小林多喜二の虐殺、今村恒夫逮捕の後の「赤旗」(せっき)配布などに参加し、一九三三年には野呂栄太郎、宮本顕治の推薦で日本共産党に入党します。しかし、ふたたび結核が悪化し、一九三五年六月十九日、三十三歳で永眠しました。

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【ニュース】やったー、圧倒的多数の党派が賛成していた生活保護改悪が廃案に!!! 追いつめた国民の世論と日本共産党。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-27/2013062701_02_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-27/2013062701_07_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-27/2013062702_01_1.html

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2013.06.28

【反戦詩】 宮木喜久雄の『戦旗』一九二八年十月号の「勲章」。

  宮木喜久雄(一九〇二年~)は、『戦旗』一九二八年十月号に「勲章」を発表しています。
   
 それは眼に止らない位の小さな新聞記事だ
 戦死病歿した六十三人の兵隊に
 勲章をくれる記事だ
 直接交戦に戦死したものには一番いい勲章を
 流弾にやられたものには少しいい勲章を
 日射病やチブスで死んだものには安い勲章を呉れるのだ
 六十三人の息子が死んだかわりに
 百二十六人の両親が またその兄弟 息子が
 勲章一つを貫うのだ。          
 勲章一個は何銭かで出来る
 有難い年金で米の幾升かは買える
 それが苦労して育てて来た息子の代価だ
 夫をとられた妻の手にこっそり残ったものだ。 
 やがて無名戦死者の碑に花環が飾られるだろう
 その前で小学生たちは
 敵を呪う弔詞を教えこまれ 頭を下げさせられるだろう
 雇われた楽隊は悲しみの曲を高々と吹奏するだろう
 この時 これらの小さな魂に
 駄菓子に似た勲章を貰うためには
 このように死ななければならないと馬鹿共が教えこむだろう。

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【反戦詩】 高橋基の「支那兵の死骸に ―北満、昂昂渓より六里の戦線にて―」。

 高橋基は『プロレタリア詩』一九三二年一月号で「支那兵の死骸に ―北満、昂昂渓より六里の戦線にて―」を発表しました。

 どす黒い血(×)が流れているこいつの五体は
 おいらと同じ匂いがする
 こいつの手はゴッゴッだ
 歯をくいしばった面は
 じっと、おいらを見つめている
 こいつは中国の飢えた貧農だろう
 おいらも同じ日本の小作人だ。

 おいらの銃(×)はこいつを打ち倒した
 うらみなんか、ねえ、こいつを―
 なのに殺(×)さにゃならなかったんだ
 おいらは万歳と拍手に送られ
 中国の兄弟を殺(×)しに来たのか!
     
 この戦争(××)は
 兄弟を殺(×)し会うためにあるのか!
 兄弟!
 もうすぐ夜明けだ
 その時、おれたちはきみをふみ越えて前進するだろう
 きみは凍った大地にめり込むだろう
 だが、きみのいかり
 おれたち千万の仲間のいかりは
 奴等のあばらを貫く銃弾(××)となるぞ

 氷点下三十度の蒙古風。
 鉄カブトもけしとベ
 防寒服もぬぎ捨てろ
 ゴツいはだかの腕を握りしめる
 この筒先はおれたちの背後の敵(×)へだ!

 きみ、
 中国の兄弟!
 今、大陸の大地はねむっている
 だが、聞け
 この北満にとどろくおれたちの叫びを。
 おいらは日本の兄弟に呼びかけるぞ
 中国の兄弟に呼びかけるぞ
 殺し合いをやめろ!
 敵(×)は奴等ブルジョア共だ

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【反戦詩】 大道寺浩一は、一九三三年二月の『戦列〔詩・パンフレット第三輯〕』に「軍服を着た百姓」を発表しました。

 大道寺浩一は、一九三三年二月の日本プロレタリア作家同盟出版部刊『戦列〔詩・パンフレット第三輯〕』に「軍服を着た百姓」を発表しました。

 雪に閉ざされた茅屋(ぼうおく)の村々
 激流は山に谺(こだま)し
 空を蔽う雲は胸に群る暗さ
 百姓のくらしは飢え凍えても
 皇軍のいさおしを伝えられる冬
 山脈を殴る北国の吹雪の荒れ狂う日      
 おれは君の名誉の戦死を報らされた

 村のため、国家のためじゃ!
 勇敢なる宮(×)城連隊、東北の健児よ!
 地主の村長はそれを伝え
 村葬の花輪に飾られた君の白骨よ
 君の親父の泪(なみだ)はその誉れにかわき
 二千円の金一封を戴く手は慄え
 それを見るおれの心は戦(おのの)いた!

 おお! 三ヵ月前の君よ
 おれ達は田を奪われた仲間達と
 村有の不毛地を借りて耕した
 いくらかでもの来年の収穫(とりいれ)をあてにしながら
 新田を拵らえるおれだちの手は凍え
 鍬先はひっきりなしに砂利を嚙んだ
 霜柱のとけぬその日
 君は一枚の赤い紙切れを受取った
 一九三二年十月 万歳の轟く停車場で
 親父の皺は君の泪をそそり
 女房の鳴咽(おえつ)は顔を曇らせた
 だがおれたちに差しのべた握手の手は固く
 その眼は虐げらるる者の怒りに満ち
 銃剣を持つ決意はおれたちのものだった

 戦線からの音信(たより)はたった一度――
 雪に埋れた茅屋の中で
 仲間達と語る藁仕事の合い間に
 堆肥をつけた橇を曳きながら
 おれたちはどんなに君を思うていたことか!
 ああ! 飢え凍える川添いの村に
 君は今 名誉の戦死者

 共に語り 共に働いた仲間よ
 ソヴェートの国、
 シベリヤの凍原(ツンドラ)から吹き荒ぶ風に
 蒙古の砂漠を砥めて来る寒風に
 君の孤独は何を孕んだのか?
 荒涼とした草原の上
 北満の野に垂れ下る空は低く
 動くものは灰色の雲と銃剣持てる百姓
 僅かにもりあがるみみず腫れの丘の陰から
 隼(はやて)のように襲いかかる一団
 領土を死守するパルチザンに
 君は銃剣を振りかざしたのか?

 川鳴りの冴え響くころ
 雪の曠野に青空が浮かんだ朝
 君の葬式が済んでから七日目
 窃(ひそ)かにに君の遺族を訪れた二人の憲(×)兵
 やがて、彼等は橇を走らせながら
 おれたちの組合、
 全農××県連×××支部にやって来た
 おお! おれたちと共に語り共に働いた君よ
 今こそおれたちははっきりと知ったのだ!

 豊饒なる満洲国 我が生命線を守るとて
 おれたちの仲間中国の百姓を虐殺(×)するために
 銃剣の嵐を捲き起す日(×)本帝国主義
 白馬の蹄に銃(×)口を向け(××)て斃れたる君
 おお! おれたちの名誉の戦死者よ
 君の白骨よ 党(×)の礎
 礎に誓う幾百万のおれたち!
 ――北国の吹雪は飢餓の嵐
 心には憎悪を刻み 胸には血にいろどられた花輪
 おれたちはそれを手向けて――
 君の白骨に静かなる黙禱を捧げる!

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金井新作の「戦争」 「行きたくありません」

 金井新作は、一九二八年十月二十一日に「戦争」を書いています。

 同年四月十九日、日本は国内の反対論をおしきって第二次山東出兵を強行していますが、そうした状況を反映した詩です。

 ――何故戦争に行きたくないと云うのか。

 ――殺さずにいられない気持ちが自分の中に動いてもいないのに、見もしらぬ人と殺し合わなくなるのが厭[いや]だからです。

 ――みんな喜んで召集に応じて来るではないか。

 ――嘘です。

 ――群衆はあんなに熱狂しているではないか。国中は沸〈わ〉き立っているではないか。

 ――瞞[だま]されているんです。

――瞞された位で、あんなに心底から熱狂出来ると思うのか。

――心底から?

――心底からだ。

――若しそうならたとえ瞞されているとしても、私は沈黙します。だが一人でも無理矢理引き摺()り出されて、仕方なく群衆に和している者があったなら、あなた方を憎悪します。

――憎悪した所で、どうにもなりはしないではないか。

――憎悪する者が無数に生まれてもですか。

――黙れ! 戦争はもう始まっている。お前も召集されているではないか。否(いや)でも応でも行かなければならないではないか。

――行きたくありません。

――銃殺するぞ!

――行きたくありません。

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2013.06.29

身体を気づかっていただいた川さん、松さんへ 近況報告(二〇一三年六月二十九日)

 メール、ありがとうございました。
 五月三十日に退院してから一か月近くなりました。

 治療のほうは、せっせと朝晩、薬を飲んでいます。
 九月に、もう一度、検査することになっています。
 医師に、とくにいわれていることは「一日に二リットルの水を飲んでください。身体をびしょびしょにしておいてください」ということ。やろうとしていますかが、二リットルには届いていないようです。
 ある人からすすめられた健康食品もためしています。

 当初は、十七日間、寝ていたもので足腰がふらついていましたが、最近になって無理がきくようになりました。
 こんな日常をこなしています。

 ・日曜日
 午前九時から午後六時まで大学院の授業。住宅政策。
 ・月曜日
 午前三時ころ起きて東京都議会議員選挙の結果を見ました。
 午後、学部の授業(『万葉集』)。
 午後九時までボランティア。
 英作文、『土佐日記』授業の予習。
 ・火曜日
 午前十時半~六時、学部の授業。文化論、英作文、日本の近代文学、『万葉集』、『土佐日記』。
 高知県立図書館に駆け込んで修士論文用の本を借りました。
 ・水曜日
 午後一時から展示についての打ちあわせ(高知市旭天神町の防空壕のこと)。
 展示の素材の準備。
 展示のパネルの原稿づくり。
 ・木曜日
 午前中から夕方まで、平和資料館・草の家で展示のパネルの組み立て。何人もに手伝ってもらって僕が担当している三テーマのものをつくりあげました(高知市旭天神町の防空壕のこと、一九四五年八月十六日の震洋艇基地の爆発事故、戦前に警察署で殺された文学運動の活動家のこと)。
 勉強。
 ・金曜日
 午前三時まで修士論文の勉強。
 午後二時、ある大学の一年生に電話して、彼が発見した戦争遺跡三か所を案内してと頼みました。
 午後三時から記者と打ちあわせ。
 午後四時~五時半、修士論文の授業。
 平和資料館・草の家の資料室で修士論文の勉強。
 ・土曜日
 午前二時まで修士論文の勉強。
 午後十二時半から六時まで大学院の授業。研究について二科目、文学。
 高知市の繁華街での平和七夕のつるし上げの写真を撮影に行きました。
 英作文の勉強。

 書いてみると、いくつか大事なものをサボっています。
 寝るのが遅すぎるときがあるので改善しなければと思っています。
 パソコンの周辺に本をうず高く積み上げて……という生活になっています。
 「活動」のことがあとまわしになっていますので、あすからがんばることにしています。

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2013.06.30

二〇一三年六月三十日 日曜日 電磁波と健康のテーマに注目。

二〇一三年六月三十日 日曜日 電磁波と健康のテーマに注目。

 曇り。

 午前七時からの地震のときの避難路の草刈りに短時間参加。

 午前九時から午後六時まで授業。電磁波と健康のテーマに注目しました。

 帰って英作文、『土佐日記』の勉強。

 七月からの日程表をつくりました。

 

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