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2013年7月

2013.07.01

エミさん、ユリさんへの手紙 第一信 二〇一三年七月一日(お父さん。二人に読ませてあげてください)

 学校、どうですか。

 僕は四月から高知の大学院に通いはじめました。
 大学の授業も聴講で受けています。
 いまは、こんな時間割です。
 日曜日。午前九時から午後六時、一人の先生がぶっ通しで教えてくれます。
 月曜日。午後から一時間。アメリカ人の若い男性の先生です。『万葉集』の授業です。
 火曜日。二時間目、ベルギー人の若い男性の先生の文化論。三時間目、英作文。四時間目、志賀直哉さんの小説のことを学んでいます。四時間目、アメリカ人の先生の『万葉集』です。五時間目、アメリカ人の先生の『土佐日記』の授業です。
 金曜日。午後、修士論文のための授業です。
 土曜日。午後十二時半から午後六時まで三科目です。
 パソコンの部屋に修士論文の勉強のための本を積みあげています。

 資料館の学芸員、公民館館長もやっています。
 あと、多くの人々が幸せになることができる政治をつくりあげる仕事もあります。
 ヒロコさんに「がんばろう」といわれて、あす午前中は、一緒に行動する予定です。

 途中、五月に、ひどい病気になって十七日間、入院しました。
 一時は、「もう、二人に会えないかもしれないなぁ」と思いましたが……。
 いまは、動けるようになりました。

 夏休みには高知に来ませんか。
 僕は、夏休みには論文のための勉強と英語の勉強を集中的にやることにしています。
 一緒に英語の勉強をしませんか。

 学校のようす、教えてください。

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【ニュース】 高知県のアジア太平洋戦争の遺跡ツアーのお知らせ 七月七日(日曜日)。

 第五十九回高知県母親大会見学分科会の紹介です。

 高知県香南市の山中で六十七年間眠っていた本土決戦用の日本海軍の砲台跡を訪ねてみませんか。男性も歓迎。

 七月七日(日曜日)午前九時集合(高知市曙町の高知大学正門前)
 午前九時半発。
 マイクロバスで学びながら香南市へ。

 二〇一二年春、香南市山中で日本海軍の一二センチメートル砲のコンクリート製平射砲台陣地が発見されました。
 アジア太平洋戦争の本土決戦用につくられたものでした(日本海軍の資料によると、近くの弾薬置き場に化学兵器も配備されていました)。
 この平射砲台陣地は、ふもとから十分ほど登った所にあります。

 道中は比較的なだらかな道ですが、運動靴など歩きやすいかっこうと、「カ」などの対策、虫よけスプレーや長そでを準備してご参加ください。
 他にも一、二か所、ご案内します。
 現地ガイドは平和資料館・草の家研究員の福井康人さんが担当します。
 不肖、藤原義一(平和資料館・草の家学芸員)も記録用カメラマンとして参加します。

 【お申し込みについて】

 持ち物:母親大会会員券(五百円)十バス代(五百円)十お弁当代(五百五十円)
 お茶、帽子、長そで長ズボン。

 ・事前申し込みです 088-873-9066へ(高知県母親運勧連絡会)
 ・参加予定人数   二十人(まだ、ほんの少し余裕があります)
 今の平和を守るために、過去の戦争遺跡が語ることを学びましょう。

 * 午後の全体会・記念講演にも参加できます。

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エミさん、ユリさんへ 万葉仮名の文法 二〇一三年七月一日

 きょうはバタバタしました。

 ヒロコさんと手分けしてビラを各戸配布。

 平和資料館・草の家へ。四日からの展示の準備。

 高知県立大学へ。『万葉集』の勉強。
 喫茶店で『土佐日記』の勉強。

 Kさんのケア。彼とじっくり話をしました。

 いま、知りたいのは「万葉仮名の文法」。
 いろんな本を取り寄せている最中です。

 ユリさん、ピアノの練習はどんなですか。
 お便りください。

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2013.07.02

エミさん、ユリさんへ 田んぼのカモの写真 二〇一三年七月二日

エミさん、ユリさんへ 田んぼのカモの写真 二〇一三年七月二日

 雨です。

  高知新聞に高知県立大学人間生活学研究科の記事。授業風景の写真が載っていて、その中には僕の姿も。

 あす、会場にいって展示をしなくてはなりません。

 しかし、少し足りないものがあります。

 で、大学の先生たちに授業欠席のメールを出し、「いざ、出陣」。

 ところが突然、クラクラとしました。

 やばいと思って、横になりました。

 しばらくしてから作業開始、なんとか完成しました。

 夕方、家の所に帰ってくると最近、水を入れた田んぼにツバメが集まっていました。

 エサがたくさんあるのでしょう。

 カモが二羽来ていました。

 カモの写真を送ります。

https://twitter.com/bqv01222/status/352039272053878784/photo/1

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2013.07.03

エミさん、ユリさんへ 横穴壕めぐり 二〇一三年七月三日

 雨、曇り、雨です。

 朝から十数人かがりで高知市自由民権記念館で平和と戦争をテーマにした展示のくみたて。

 でも、僕は、心臓がパクパクしそうだったので休み休みの参加でした。

 午後は、大学生YAさん、短大生YOさんの案内で僕と、もう一人の六十歳代の男性は高知市朝倉、いの町の山々を「歩き」横穴壕を見てあるきました。

 YAさんはランニングで、YOさんは自転車で、六十歳代の男性は歩きで、僕は九〇CCのバイクで。

 数か所の横穴壕を見ました。

 その写真は、ツィッターにアップしました。

   @bqv01222

 です。

 不思議なことに心臓の調子は良くなっていました。

 高知県立大学・高知短期大学に寄って家へ。

 家でヒロコさんに手伝ってもらって戦争遺跡守れの署名のお願いを郵送する作業をしました。

 エミさん、ユリさん、夏には一緒に近所の山を歩きませんか。

 このあいだ、一緒に行ったとき見つけたのは土製のトーチカでしたね。

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2013.07.04

RKC高知放送が「平和祈念式と戦争と平和を考える資料展」を放送。

 見れませんでしたが、こんにニュースを放送したようです。
 RKC高知放送のサイトから。

 2013年07月04日(木) 16:00

 高知市では大原町のりょうまスタジアム前の平和祈念碑で毎年祈念式を開いていて、7月4日の高知大空襲での犠牲者の追悼と平和への祈りを捧げている。4日は遺族らおよそ50人が参列し、岡崎市長が「遺族の哀しみを決して忘れず、平和の大切さを継承し続けたい」と挨拶した。参列者は平和祈念の碑に花を供えたり、空襲の際に命の水となった鏡川の水をかけて犠牲者の冥福を祈った。
  一方、高知市桟橋通りの自由民権記念館では4日から「戦争と平和を考える資料展」が始まった。この展示は高知市の「平和資料館草の家」が、空襲のあったこの時期に毎年開いている。会場には、空襲で焼き尽くされた高知市中心部の写真や今年3月に発見された香南市野市町にある旧日本軍の要塞跡の写真など、戦争を紹介する資料がおよそ300点展示されている。戦争の悲惨さと平和の大切さについて考えてもらう戦争と平和を考える資料展は7月10日(水)まで開かれている。

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2013.07.05

エミさん、ユリさんへ 日本の反戦詩についてのリポート 二〇一三年七月四日

エミさん、ユリさんへ 日本の反戦詩についてのリポート 二〇一三年七月四日

 参議院選挙告示。

 午前九時前、高知市立自由民権記念館に到着。
 本日から始まった戦争と平和を考える資料展の公報担当です。
 あるテレビ局の撮影に協力しました。
 高知市朝倉で風船爆弾をつくっていたという女性に出会いました。

 夜、家に帰って日本の反戦詩についてのリポートの執筆。
 しばらく終わりそうにありません。

 ヒロコさんは、帰ってきて「ただいま帰りました」と僕に声をかけたあと行方不明。
 気がついたらベッドで寝ていました。
 朝から走り回っていたので疲れ切ったのでしょう。
 この人のがんばりには頭がさがります。

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エミさん、ユリさんへ 「第七六二海軍航空隊というは、どういうものでしたか?」 二〇一三年七月五日

 朝から、昨夜に続いて日本の反戦詩についてのリポートの執筆。
 「第七六二海軍航空隊というは、どういうものでしたか?」という質問があり、調べました。

 午後、授業へ。

 「選挙に関心がある」という男子学生と少し立ち話をしました。

 授業は、充実していました。
 来週までには「日本の反戦詩」についての概念をはっきりさせるつもりです。

 夕方、高知市朝倉までバイクを飛ばして、選挙後の取材の約束をとりつけてきました。
 それから、少し遅れて学部の学生の懇親会に参加。
 夢野久作に関心を持っている人がいました。
 僕も作品を読んでみようと思っています。

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2013.07.06

エミさん、ユリさんへ 公民館の役員会 二〇一三年七月六日

 ヒロコさんは、きょうは平和と戦争を考える資料展の受付に。

  午後十二時半から六時、大学院の授業。

 午後七時、公民館の役員会。

  KIさんから「平和と戦争を考える資料展、見ましたよ」の電話。

 さすがに疲れて午後十時ころから寝ました。

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2013.07.07

「日本の反戦詩」とはの文章 ご意見を。

 一九三一年、一九三二年に四編の反戦詩を発表した吉田豊道(槇村浩)のことを論文に書こうともがいています。
 そのなかで「日本の反戦詩の概念」についての説明を求められています。

 明け方に起き上がり、書いてみました。
 この文章について、ご意見をいただければ幸いです。

 私のメールアドレスは

 bqv01222@nifty.com

 です。

 日本の反戦詩とは

 日本の反戦詩についてのべます。

 日本では天皇をようする軍勢が長く続いた江戸幕府を倒し、政権につきました。
 この政権は一八七一年(明治四年)四月、軍隊を創設しました。
 最初は天皇の私兵としての性格の強いものでしたが、一八七三年の徴兵制度の施行にともない「国民軍」としての体裁をととのえます。
 一八八九年、天皇は大日本帝国憲法を決めますが、それで「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とし、日本の軍隊は運営、軍備の拡充、出動についても大元帥である天皇が支配することになります。天皇の軍隊です。
 天皇の軍隊は、うちにあっては内乱鎮圧、一揆や争議、反戦的な運動の鎮圧にあたりました。
 一八七四年の台湾出兵をはじめとして朝鮮、中国への侵略をくりかえしました。
 朝鮮を戦場とした日清戦争(一八九四年~一八九五年)を機に反戦運動が起こり、そのなかで反戦の詩が発表されました。
 日露戦争(一九〇四年)の日露戦争のさなかにも反戦の詩が発表され、この侵略戦争も、反戦詩発表のもりあがりがありました。
 中国への侵略戦争の進行のなかでも、反戦詩が生まれました。
 反戦詩の内容は、軍隊という組織そのものへの懐疑、日本の軍隊が海外に侵略して外国で殺戮、強奪、強姦などの蛮行をすることへの批判、侵略軍に動員された夫や弟の無事を願うもの、大日本帝国の侵略をやめさせようという立場のもの、反戦の運動そのものを伝えるもとの多様です。
 天皇の政権の追随者たちは反戦詩の作者を批判しました。
 天皇の政権も、反戦詩が発表された本や雑誌を発売禁止にする、反戦詩の作者を別件で逮捕、投獄するなど圧迫を加えました。
 そうしたなかで反戦詩の作者の多くは、たとえば与謝野晶子のように、のちには好戦の作品を書くようになります。
 しかし、反戦の立場をつらぬいて圧迫のなか短い命を燃やした詩人も少なくありません。
 この稿では、そのなかの一人、吉田豊道(槇村浩)のことを追っています。
 この稿では、一九三二年の大日本帝国の満州国建国ころまでの反戦詩を研究対象にしています。

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【ニュース】 韓国仁川発サンフランシスコ行きのアシアナ航空機が大破。

 午前五時十六分の時事通信で知りました。

 韓国仁川発サンフランシスコ行きのアシアナ航空機が大破しました。

 乗客二百九十人、乗以下十二人。

 アシアナ航空機、着陸失敗で大破=米サンフランシスコ空港

 【ワシントン時事】韓国のアシアナ航空のボーイング777型旅客機が[7月]6日、米西部のサンフランシスコ国際空港で着陸に失敗し、直後に大破した。NBCテレビによると、同機はソウル発。乗客乗員数や死傷者の有無、大破した原因など詳細は不明。
 CNNテレビの映像によれば、同機は尾翼が失われ、機体上部の構造が広範囲にわたってなくなっている。(2013/07/07-05:06)

  過去にも

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%8A%E8%88%AA%E7%A9%BA733%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%8A%E8%88%AA%E7%A9%BA991%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

 ボーイング

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0

あの日航機事故も

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エミさん、ユリさんへ 弟と河川清掃に参加 二〇一三年七月七日

 エミさん、ユリさんへ 弟と河川清掃に参加 二〇一三年七月七日

 晴れ。

 午前三時に起床。

 勉強。

 韓国機の墜落のニュース。

 午前六時半ころ、ヒロコさんは高知県母親大会の準備のため家を出ました。

 にぎりめし一つの朝ごはん。

 午前八時過ぎまで弟と河川清掃に参加。

 テレビではアメリカの世界的規模の盗聴、スパイ作戦のことが報じられていました。
 アメリカのオバマ大統領は、そのことについていいことをやっているかのように発言しているようです。とんでもない人ですね。

 高知県母親大会の企画の高知県の戦争遺跡めぐりに参加しました。

 そして、会場の高知大学に帰ってきて全体集会の写真撮影をしました。

 家へ帰ったら「一時間ほど寝る。起こしてね」とベットへ。

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2013.07.08

【ニュース】毎日新聞が平和と戦争を考える資料展を報道しています。

 戦争と平和を考える資料展:高知大空襲の惨状伝える 写真や手記300点−−高知で10日まで /高知

 毎日新聞 2013年07月07日 地方版

 高知大空襲(1945年7月)の惨状を伝える資料などを集めた第35回「戦争と平和を考える資料展」が、高知10+件市桟橋通4の市立自由民権記念館で開かれている。10日まで。
 平和資料館「草の家」(高知市升形)などでつくる実行委が主催するイベント「2013ピースウェイブinこうち」の一環。空襲をうけて壊滅した市街地の写真や、空襲で落とされた焼夷(しょうい)弾の破片、特攻隊員の手記など約300点を展示する。
 7歳の長男と訪れた高知市鴨部3、公務員、高石昌諭さん(36)は「自分たちの世代は知識としてしか戦争を知らない。だからこそ、実際の資料に触れて戦争をリアルに想像することが大切だと思う」と感想を語った。(後略)
                                                                                                【最上和喜】

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2013.07.09

エミさん、ユリさんへ 『日本プロレタリア詩集』の一九三一年版、一九三二年版 二〇一三年七月八日

 晴れ。

 午後一時十五分間から『竹取物語』。

 終わってから大学院生研究室へ。
 インターネットの国会図書館の近代デジタルライブラリーで、つぎの本を見つけました。

  1  info:ndljp/pid/1138174 日本プロレタリア詩集. 1932年版 図書
  日本プロレタリア作家同盟 編 (戦旗社, 1932)   
 2  info:ndljp/pid/1138168 日本プロレタリア詩集. 1931年版 図書
  日本プロレタリア作家同盟 編 (戦旗社, 1931)

 印刷もできます。
 探していたものなので小躍りするほどうれしかったよ。

 安芸市の青年から昨夜、アリがたくさん飛んできたという話を聞きました。

 夜七時半からKIさんとゆっくり話しました。
 便利なサイトのことを教えてもらいました。

 家に帰ったら午後十時。
 窓を見たら、わが家にもアリが飛んできていました。

 また、国会図書館の近代デジタルライブラリーを見たら『赤い旗』(プロレタリア童謡集。槙本楠郎。紅玉堂書店, 1930)、『新しき出発』(評論集。徳永直。ナウカ社, 1934)
などが印刷できます。
 「歴史的音源」という項目もありました。

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【槇村浩の研究のために】 槇村浩の反戦詩「生ける銃火」への内務省の検閲の跡。

 日本プロレタリア作家同盟(東京府上落合町 )編『季刊 日本プロレタリア詩集 1932』(戦旗社)が編集されたのは一九三二年八月です。その巻頭の詩は槇村浩の「生ける銃火」でした。

 しかし、この本は内務省に禁止されました。
 国会図書館に、その証拠の本が残っています。
 表紙の右上に「内務省 昭和7・10・5 禁止 第27号」の印が押されています。
 左下には手書きで、つぎのことが書かれています。
 「全部不良 禁止可燃哉 10・5 警視庁手配済 望月 記入済」
 「生ける銃火」の各所に、傍線、「」、()、◎、○などでチェックが施されています。また×の伏字を起こしている所もあります。

 この本、インターネットの国会図書館の近代デジタルライブラリーで、読み、印刷することができます。

   info:ndljp/pid/1138174 日本プロレタリア詩集. 1932年版 図書
 日本プロレタリア作家同盟 編 (戦旗社, 1932)   

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【ニュース】「どんどん心筋こうそくになってください」「一回手術をやったら、病院に二百五十万円入る」 大阪維新の中野隆司さんの参議院選挙応援演説。あんたら、なんてことを……。

 柏原市長「どんどん心筋梗塞に」市立病院PRで

 大阪府柏原市の中野隆司市長が(7日)7日夜、同市内で開かれた参院選大阪選挙区の日本維新の会公認候補の演説会で、市立柏原病院をPRする際、「市民の皆さん、どんどん心筋梗塞になって下さい」と呼びかけた。(中略)
 演説会には市民ら約200人が出席。応援演説に立った中野市長は、心筋梗塞について同病院の診療体制が充実したとアピールしたうえで、「どんどん心筋梗塞になって下さい」「1回手術をやったら、病院に250万円入る」と述べた。(中略)
 中野市長は2月の市長選で、地域政党・大阪維新の会の公認で立候補し、初当選した。
      (2013年7月8日  読売新聞)

  「おのれは、なんてこと、いいさらすんじゃい」なんて怒りの声が聞こえてきそうです。大阪生まれの僕は、いま脳こうそくで苦労しています。橋下・石原日本維新の会、許せへん。 

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【ニュース】 橋下・日本維新さんも沖縄県で「レイプを止めるために、沖縄県の女性が一生懸命になってやってくださった。感謝の念を表す」。なんなの、これは。

  「沖縄女性、慰安所で頑張った」 橋下氏「感謝の念」 2013年7月6日 

 日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は[7月]5日、県内から参院選比例代表に立候補している公認候補を支援するため来県した。橋下氏は応援演説で、米施政権下の県内で日本政府による米兵向け慰安所が設置されたとして「レイプを止めるために、沖縄県の女性が一生懸命になってやってくださった。感謝の念を表す」などと発言した。(中略)
 橋下氏は沖縄本島中南部の4カ所を遊説した。沖縄市の胡屋十字路では「米軍の沖縄占領時、日本の政府が真っ先に作ったのは、RAAという特殊慰安所協会だ」などと主張した。「女性の人権を蔑視していると言うが、沖縄の女性が特殊慰安所協会で一生懸命頑張ったことを全部無しにするのか」と持論を展開した。(後略)

                                                                                               琉球新報

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天皇制政府の内務省に禁止処分にされた一九九三一年版、一九三二年版の『日本プロレタリア詩集』

 「天皇制政府の内務省に禁止処分にされた一九九三一年版、一九三二年版の『日本プロレタリア詩集』」についてまとめました。

 お読みくだされば幸いです。

「purokenetu.pdf」をダウンロード

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エミさん、ユリさんへ うーーっ、授業の日なのに……。 二〇一三年七月九日

 晴れ。

 朝起きたら心臓が早なりしていました。
 うーーっ、授業の日なのに……。
 食事をして、薬を飲んで。
 しょうがない、授業を休んで、とにかく寝よう。

 午後になってゴトゴトと作業を始めました。

 あるテレビの記者から電話がきていました。
 電話しました。

 夜になって勉強のメモを一つつくりました。

 なかなか体が本格的に動きません。
 くやしい。

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2013.07.10

エミさん、ユリさんへ 高知県いの町の九つの横穴のリスト 二〇一三年七月十日

エミさん、ユリさんへ 高知県いの町の九つの横穴のリスト 二〇一三年七月十日

 晴れ。

 友人が入院したとのこと……。何か手伝えることはないでしょうか。

 あるテレビの記者と少し話しました。

 資料展の撤収作業に参加しました。
 まだ無理ができませんので十分なことができませんでした。

 夕方、高知市役所前で日本共産党の浜川百合子・参議院選挙高知選挙区候補、市田書記局長の演説を聞きました。

 大学一年生のUEさんが最近、いの町で見つけた九つの横穴のリストを送ってくれました。感謝。行ってみたと思います。

 帰ってから寝ました。
 午後十時ころに起きて、ごそごそやっています。

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短歌十首 「いまは死ねない」。

 重病の友を想って寝れぬ夜過ごしているよ この数日は

 突然に 口と手と足動かない 床(ゆか)をベッドにピーポーを聴く
 
 「死ねない。いまは死ねない。やらなくちゃ」 救急ベッドの、いちずな思い

 医療機器、体にいっぱいつけたまま 十七日を過ごした五月(さつき)

 「戦跡を守れの署名広げてね」三十人へお願いを書く

 アメリカが落した爆弾展示する 青年たちのパワーに見入る

 クラときて動きのとれない朝のこと しぶしぶ打ってる欠席メール 

 「そっちこそ、気をつけてね」とのメール来る 友、三度目の入院となる

 「新聞で病気のことを知りました」 母の世代の一筆見舞い

 口だけで体がそわない日々のこと どう乗り切るか思案のさ中

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2013.07.11

民主党は「愛国心」のために息子や孫の「命を要求する」のですか。民主党・北神圭朗参議院京都選挙区候補の発言を読む。

 民主党の北神圭朗・参議院京都選挙区候補の発言が「愛国心」を論じています。
 東洋経済ビジネスオンラインの2013年03月18日のこの部分です。
 
http://toyokeizai.net/articles/-/13302?page=3
 http://toyokeizai.net/articles/-/13302?page=4

 尖閣問題で感じた、我ら日本人のビビり根性
 首相補佐官として見た、尖閣問題の真実
 北神 圭朗:前 衆議院議員/首相補佐官

 (前略) 私たち国民自身が、国土のために命を懸けるのかどうか、という安全保障の基本中の基本の話です。
 「お母さん、あなたの息子やお孫さんが、あの小さな島のために死んでくれますか。人殺しをしてくれますか」
 こうした国家からの重たい要請に、喜んでとまでは言わないまでも、少なからぬ決意を持って「わかりました」と応じてくれる国民が、どのくらいいるのでしょうか。(中略)  
 国土のため、命を捨てるどころか、下手をすれば、経済的犠牲さえ払う覚悟がない。こうした国民に選ばれた政権が、民主主義の原則の下、どうして強気の外交交渉をできましょうか。こちらは手を縛られているのです。一方、向こうは、自由自在に手を出せるのです。(中略)  
 国土の防衛は、冒頭で申し上げた「自己犠牲を伴う課題」の最たるものです。私が言う愛国心は、外国に旅行してみそ汁が懐かしくなるような次元の話ではありません。小さな小さな島のために、命を要求する、峻烈な愛情なのです。

  この発言を読んで僕は身震いをしました。こんな人が国会議員では日本の前途は暗い。

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漫画「アッコ物語」が面白い。

  漫画「アッコ物語」は、ここで読めます。

 http://kurabayashi-akiko.jp/comics/2013/07/1.html
 http://kurabayashi-akiko.jp/comics/2013/07/2.html
 http://kurabayashi-akiko.jp/comics/2013/07/3.html

 つづきを待ってます。

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高知の自民党候補の「九条を改定し集団自衛権を行使できるようにする」に「×」の失礼。

 〈第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。>
  自民党の参議院議員選挙政策を見ると、自民党は、この日本国憲法第九条を投げ捨てることをうたっています。
 しかし、高知県の高野光二郎・自民党参議院選挙区候補は、公開の場で、これに反対することを表明しています。
 七月二日の高知青年会議所主催の参議院選挙候補の討論会でのびっくり! です。
 彼は「九条を改定し集団自衛権を行使できるようにする」の説明に「×」のボードをかげました。
 そして、「世界に類をみない平和憲法」、「国民主権、基本的人権、平和主義は徹底してつらぬく」、「戦争なんかしませんよ。絶対せん」と。
 高知県は日本国憲法第九条を守らせようの運動がさかんなところです。
 各地の道路ぞいや山里に日本国憲法第九条を守らせましょうという看板がたっています。
 会社の壁に同様のスローガンを書いているところあります。
 こうしたスローガンを書いた路面電車も走っています。
 ここで、九条ぶっつぶせといったら反発を受けて当選できなくなるという思いがあったのでしょうか。本音を隠して……。
 自民党公認なのに自民党の基本政策に反対してみせて、票をかすめとろうという考えなら、すごく、いや。
 本気で九条を守るつもりなら自民党候補であることをやめるべきです。

 これまでにも高知の自民党の国政候補は、TPP反対とか、まやかしの公約をして当選してきました。こんどは、こういうことを許してはいけないと思っています。

 この高野さんの発言のこと、「高知民報」七月十四日号の一面にもくわしく載っています。

 【自民党の参議院議員選挙政策から】

 さあ、
 時代が求める
 憲法を。

 憲法は、国家の最高法規。まさに国の原点です。
 既に自民党は、現行憲法の全ての条項を見直し、時代の要請と新たな課題に対応できる「日本国憲法改正草案」を発表しています。
 憲法を、国民の手に取り戻します。

 自民党「日本国憲法改正草案」(平成24 年4 月発表)の主な内容
 ①前文では、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つの基本原理を継承しつつ、日本国の歴史や文化、国や郷土を自ら守る気概、和を尊び家族や社会が互いに助け合って国家が成り立っていることなどを表明しました。
 ②天皇陛下は元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であることを記し、国や地方公共団体主催行事へのご臨席など「公的行為」の規定を加えました。国旗・国歌・元号の規定も加えました。
 ③自衛権を明記し、国防軍の設置、領土等の保全義務を規定しました。
 ④家族の尊重、家族は互いに助け合うことを規定しました。
 ⑤国による「環境保全」「在外邦人の保護」「犯罪被害者等への配慮」「教育環境整備」の義務を新たに規定しました。
 ⑥内閣総理大臣の権限や権限代行を規定しました。
 ⑦財政健全性の確保を規定しました。
 ⑧地方自治の本旨を明らかにし、国及び地方自治体の協力関係を規定しました。
 ⑨武力攻撃や大規模な自然災害などに対応するための「緊急事態条項」を新設しました。
 ⑩憲法改正の発議要件を「衆参それぞれの過半数」に緩和し、主権者である国民が「国民投票」を通じて憲法判断に参加する機会を得やすくしました。
 ★自民党は、広く国民の理解を得つつ、「憲法改正原案」の国会提出を目指し、憲法改正に積極的に取り組んでいきます。

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2013.07.12

倉林明子さん(日本共産党京都選挙区候補)の政見放送。

 倉林明子さん(日本共産党京都選挙区候補)の政見放送が、ここにありました。

 http://www.youtube.com/watch?v=3WTtuLfUow4&list=PLRS_nMoSg4-dMIvJYQ7X_0IIf7hFlWqgd&index=4

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急告! 高知大学関係者のみなさんへ。卒業生の浜川百合子さんのブログをご覧ください。

 ここです。

 http://hamazou.exblog.jp/

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真下飛泉の歌「戦友」についての論文がありました。

http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00012508&elmid=Body&lfname=016000210007.pdf

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【エッセイ】 ペリー艦隊が武力を背景に押しつけた片務的最恵国待遇。

 アメリカ人のなかでペリーが日本に来たのは日本人にとっていいことだったという考えがあることを知ってのけぞってしまいました。
 で、ペリーらの行為について僕なりにまとめておこうと思います。(データはウィキペディアなどを使用させていただきます)

 〇マシュー・ペリーは日本開国任務が与えられる一年以上前の一八五一年一月、日本遠征の独自の基本計画をウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出していました。そこで彼は、以下のようにのべています。「任務成功のためには四隻の軍艦が必要で、その内三隻は大型の蒸気軍艦であること。日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。中国人に対したのと同様に、日本人にたいしても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう。オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。」。
 日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「サラトガ」、「プリマス」に加え、本国艦隊の蒸気艦四隻、帆走戦列艦一隻、帆走スループ二隻、帆走補給艦三隻からなる合計十三隻の大艦隊の編成を要求しました。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦四隻の内、使用できるのは「ミシシッピ」のみでした。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「ポーハタン」が加わることになりました。

 〇マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が日本に来たのは一八五三年、一八五四年のことです。
 ペリーは軍艦でやってきたのです。ペリーの『日本遠征記』によると、二度の来航で百発以上の空砲を撃っています。
 武力を背景にアメリカの要求を江戸幕府に飲ませようということでやって来たのです。

 〇マシュー・ペルー側は、アメリカ合衆国大統領国書を幕府に渡しました。そして、翌年三月三十一日の日米和親条約締結にいたりました。
 その内容は、アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港(条約港の設定)すること(第二條)、漂流民の救助、引き渡し(第三條)、アメリカ人居留地を下田に設定する(第五條)、片務的最恵国待遇(第九條)などです。
 一番ひどいなのは「日本政府外國人え當節亞墨利加人え不差免候廉相免し候節は亞墨利加人えも同樣差免可申右に付談判猶豫不致候事」という片務的最恵国待遇(へんむてきさいけいこくたいぐう)です。
 日本が、アメリカ以外の国と条約を結び、アメリカよりも有利な優遇措置を約束した場合、アメリカにも自動的にその優遇措置を適応するというものです。アメリカから輸入する商品にX%の税金をかける条約を結んだあとに、日本が別の国にたいして輸入商品に税金をかけない優遇措置をとる条約を結んだとします。そうしたら、自動的にアメリカから輸入する商品にも同様に税金がかからなくなるというのが最恵国待遇です。「片務的」なのでアメリカ側には日本と同じ義務がありません。

 〇マシュー・ペルーは、アメリカの日本侵略の突破口を開いたのです。

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2013.07.13

いよいよやねー、高知の自民党の高野光二郎さんの公約。同じテーマに賛成やら反対やら……。 

 インターネットで自民党の高野光二郎・参議院選挙区候補の公約を見ました。

 http://senkyo.yahoo.co.jp/kouho/s/16754.html

 ここでは「憲法9条を改正し国防軍の保有について明記すべきだ」に「賛成」。

 公示前は「九条を改定し集団自衛権を行使できるようにする」に「×」でしたね。

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/07/post-bfcc.html

 あなたは、日本国憲法第九条を変えることに賛成なんですね。
 でも、なんとなんと、この人は……。

 僕? 僕は「政府に日本国憲法を全面的に守らせよう派」です。

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エミさん、ユリさんへ 高知の文化は女性でもっちゅう 二〇一三年七月十一日

エミさん、ユリさんへ 高知の文化は女性でもっちゅう 二〇一三年七月十一日

 午後、会議に参加。

 夕方は高知文学学校に。
 映画を見に行っても演劇を見に行っても観客の多くは、高知の文化は女性でもっちゅうという話がでました。
 女性司会者いわく。
 「高知文学学校は男性が多いです。三分の一もいます」
 男性は、どうしゅうろう?
 これって高知だけですかねー。

 そのあとは、ひたすら日本の反戦詩についての調査。明治のころのが、まだわからないのがあります。

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エミさん、ユリさんへ テッポウユリがパッと咲きました 二〇一三年七月十二日

エミさん、ユリさんへ テッポウユリがパッと咲きました 二〇一三年七月十二日

 晴れ。

 玄関先のテッポウユリがパッと咲きました。

 反戦詩の勉強の続き。

 大学院の講義に出て、講演を聞いて……。

 また、反戦詩の勉強。

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エミさん、ユリさんへ パワーポイントでやってきなさいという課題 二〇一三年七月十三日

エミさん、ユリさんへ パワーポイントでやってきなさいという課題 二〇一三年七月十三日

 晴れ。

 午後十二時半から午後六時半まで大学院の授業を受けました。
 パソコン室での授業。パスワードがうまく打てず、今回も若い女性のケアを受けました。ウルルルン。1とIを打ち間違っていました。
 パワーポイントでやってきなさいという課題がでました。苦手なんですが……。

 授業が終わってから、ある人のお見舞いに。

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ツィッターに、こんな記事を投稿。 「こんどは共産党がとおるがやないろうか」 参議院選挙の、定数一の高知選挙区、浜川百合子候補のことです。

  • 「こんどは共産党がとおるがやないろうか。自民党候補は、あれじゃぁ……。民主党もなぁ……」。高知の、ある社長さん(男性)と話していたら、突然、こんな話に。参議院選挙の、定数一の高知選挙区のことです。 日本共産党は浜川百合子候補です。

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2013.07.14

高知県 市民目線の○○参院員選挙候補って誰のこと?

 高知新聞七月十四日朝刊、三十三面トップ。参議院議員選挙のリポート。

  <高知市内のショッピングセンター。複数の候補者が駐車場近くで声を上げる。(中略)/(中略)誘導整備の男性は炎天下、複数の候補の話を聞いた。/「〇〇さんは市民目線。△△さんの言葉は現実感がなかった。〇〇さんの党は支持してないけど、今回は入れようと思う」> 。

 〇〇候補って!?

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高知の自民党が参議院選挙で「公明党外し」の作戦か。いつもと様子が違っています。

 選挙戦では公明党と一体になって「成果」をあげてきた高知県の自民党が今度の参議院議員選挙では「公明党外し」の遊説をしているようです。
 七月十四日朝刊の高知新聞の「自公協力〝すきま風〟」の記事です。

 ・七日、高知市での自民党候補の個人演説会では自民党側が公明党側に「出席は遠慮して」と通告。
 ・こうした「公明党外し」の演説会は土佐清水市でも起きている。
 ・八日、公明党の山口邦津男代表が来高して演説したさい、自民党は選挙区候補本人ではなく、その妻を出席させた。
 ・九日、自民党の安倍晋三総裁が高知で演説した際、公明党の比例候補はともに演説しなかった。

 これは「たまたま」だったのでしょうか。自民党の基本的な方針でなのでしょうか。
 この記事が出たのをきっかけに両党の関係が「修復」されるのでしょうか、自民党の「公明党外し」が加速するのでしょうか。

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参院選高知選挙区(定数一) 浜川百合子さん 七月十四日午前、高知市帯屋町で。映像がここにあります。

 http://www.youtube.com/watch?v=3Gyx3GbXwMM&feature=youtu.be

 僕もツィッターに写真八枚をアップしました。

 藤原 義一 @bqv01222

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スポーツ報知の記事=【参院選】橋下氏後輩が「維新に痛打」 辰巳氏・共産党15年ぶり議席獲得へ「何としても」。

 自民党・柳本卓治氏と、日本維新の会の東徹氏が、トップ当選を競う参院選大阪選挙区(定数4)で、日本共産党の鼻息が荒い。橋下徹大阪市長(44)の高校の後輩・辰巳孝太郎氏(36)が政権&維新批判の受け皿として存在感をアピール。民主党の梅村聡氏が苦戦する中、1998年以来15年ぶりの議席獲得を狙う--という内容です。

 http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20130714-OHT1T00057.htm

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【ニュース】 ネットに日本共産党のコマーシャルが、ここにあります。

 http://www.youtube.com/watch?v=2KpjnWtMSn0&list=PL3M7AtnZgh3WHbcSEnu4xmbU04vJqdj6b

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【ニュース】 フジテレビの政党支持調査 二〇一三年七月十一日のものです。

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/shin2001/chousa/index.html

(まだきめていない) 36.4%

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2013.07.15

【近現代文学の勉強】志賀直哉 『十一月三日午後の事』を読んで。

 【あらすじ】

 一九二〇年一月の作品です。
 一九一八年十一月三日、自分が住んでいる千葉県我孫子では七十三度(華氏)にのぼっていました(摂氏で二十二・五度)。この日、自分と従弟は、カモを買いに行き、途中で陸軍の騎兵、歩兵の演習を目撃します。外套(がいとう)を着て背嚢(はいのう。革製の四角いリュックサック)を背負い、肩に銃を担いでいる兵隊たちは暑さのため、ばたばたと倒れてしまいます。
 〈「止っちゃいかん」と士官が大きい声で言った。流れの水が石で分れるように人々は其処で二つに分れて過ぎた。人々の眼(め)は倒れた人を見た。しかし黙っている。みんなは見ながら黙って急ぐ。
 「おい起(た)て。起たんか」頭の所に立っていた伍長(ごちょう)が怒鳴(どな)った。一人が腕を持って引き起こそうとした。伍長は続け様(ざま)に怒鳴った。倒れた人は起きようとした。俯(う)つ伏(ぶ)しに延び切った身体を縮めてちょっと腰のところを高くした。しかしもう力はなかった。すぐたわいなくつぶれてしまう。二、三度その動作を繰り返した。芝居で殺された奴が俯つ伏しになった場合よくそういう動作をする。それがちょっと不快に自分の頭に映った。倒れた人は一年志願兵だった。ほかの兵隊から見ると背も低く弱そうだった。
「これは駄目(だめ)だ。物を去(と)ってやれ」と士官が云った。踏切番人のかみさんが手桶(ておけ)に水をくんで急いで来た。自分はそれ以上見られなかった。何か凶暴に近い気持が起って来た。そして涙が出て来た。〉
 この作品は、この事件の描写が中心で、買ったカモが半死に状態になったこと事件と重ねあわせます。

 【考察】

 一つの出来事を見つめて細かく描写して作品として仕上げる志賀の手腕に感心しました。
 十一月三日は、明治天皇(最初の大元帥)の誕生日にあたり天長節という祭日でした(その後、明治節→文化の日)。この日付を題名にして、この日に、こんな不快なことがあったよと書くのは勇気のいることだったと思います。
 一九一八年十一月三日といえば、三か月前の八月二日、政府はシベリアへの出兵を宣言しました。それと同時期にコメの価格急騰にともないコメよこせの運動が全国で起こっています。参加者は数百万人を数え、鎮圧のため三府二十三県で十万人以上の軍隊が投入されました。こういう状態のもとでの演習でした。 
 なお、作品で自分が中学校時代の行軍のことを思い起こすシーンがありますが、志賀は一八九五年、宮内省直轄の学習院中等科(六年制)に入学します(七年間在学)。この時代に、ここでは行軍がおこなわれていたようです。中学校などでの学校での軍事教練は一九二五年に始まっています。

 【参考文献】

・志賀直哉『清兵衛と瓢箪 小僧の神様』。集英社。一九九二年二月二十五日。
・米騒動については
 http://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95(二〇一三年七月十五日閲覧)

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エミさん、ユリさんへ 「今度は共産党に入れる」の声 二〇一三年七月十四日

エミさん、ユリさんへ 「今度は共産党に入れる」の声 二〇一三年七月十四日

 晴れ。

 朝の夫婦の会話を「アップ」。

 午前十時半ころから、高知市の、ひろめ市場前での、浜川百合子候補宣伝行動に参加しました。
 仕事で来ていた若い女性が「お体、だいじょぶですか」と声をかけてくれました。
 近くに中学校の同学年の男性がいて「暑いのに大変やねー」。
 僕の役割は候補者のビラの配布。
 最初に配った中年の男性は「今度は共産党に入れる」。これまでは民主党に入れていたそうです。

 午後からは大学。涼しくてパソコンが使える部屋へ。
 四時間ほど格闘しました。

 家に帰ってからインターネットへのデータの「アップ」。
 それから、うせものさがし。二つ見つかりました。

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エミさん、ユリさんへ ヒロコさんが反核平和コンサートに出演 【写真一枚】 二〇一三年七月十五日

Photo

エミさん、ユリさんへ ヒロコさんが反核平和コンサートに出演 二〇一三年七月十五日

 晴れ。

早朝からセミの声がすごいということに今朝気がつきました。妻にいうと「何日も前からよ」とあきれていました。何かに熱中すると他のことが見えなくなる僕の性格のせいでしょうか。

 午前中をリポートづくり。前から悩んでいましたが何とかできあがりました。

 ヒロコさんは、朗読劇の練習に。
 午後一時から高知市の県民文化ホールで開かれる第三十回反核平和コンサートに出演するのです。今回が三度目の出演です。

  【追伸】

 僕も第三十回反核平和コンサートを見に行きました。

 朗読劇もすてきでした。

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【ニュース】「反戦詩人 槇村浩(まきむらこう)」が演劇になります。劇団the・創が九月七日、高知で公演。

  「反戦詩人 槇村浩(まきむらこう)」が演劇になります。

 劇団the・創が九月七日、高知で公演します。

 脚本・演出は西森良子さん。
 主役はすてきな青年・松本顕治さん。 
 平和資料館・草の家の岡村正弘館長、藤原義一学芸員も出演します。
 入場料・破格の千円。
 高知県外のかたも、この機会に槇村浩に会いにきていただけませんでしょうか。
 藤原にメールをいただければチケットを、お送りします。
 bqv01222@nifty.com

 詳しくは、以下のビラをダウンロードしてください。

 「hansensijin.pdf」をダウンロード

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演劇「反戦詩人 槇村浩」のビラです

Omote

Ura

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2013.07.16

エミさん、ユリさんへ 演劇「反戦詩人 槇村浩(まきむらこう)」出演できることになりました 二〇一三年七月十五日

エミさん、ユリさんへ 演劇「反戦詩人 槇村浩(まきむらこう)」出演できることになりました 二〇一三年七月十五日

 ばんざーい。 演劇「反戦詩人 槇村浩(まきむらこう)」(劇団the・創が九月七日、高知で公演)に出演できることになりました。

 午後六時からの脚本の読み合わせに参加しました。

 俳優は、学齢前に生まれてからイエスキリストになったのと、大学生の時に「あの人の生きたように グエン・バンチョイ物語」に出たのと……。

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【ニュース】 「古賀誠氏、平和憲法は“世界遺産”」 日刊スポーツの記事。

 「古賀誠氏、平和憲法は“世界遺産”」 日刊スポーツの記事、興味深かったです。

 ここにあります。

 http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20130714-1157345.html

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「『慰安婦』問題の真実を読む」の参考文献

 吉川春子さんが、しんぶん赤旗、二〇一三年七月十四日付「『慰安婦』問題の真実を読む」で、つぎの参考資料をあげていました。
 僕も手に入れて読んでみるつもりです。

  〇「慰安婦」バッシングを越えて: 「河野談話」と日本の責任 「戦争と女性への暴力」リサーチアクションセンター 大月書店 (2013/6/28) ¥ 2,310

 〇「慰安婦」強制連行―史料 オランダ軍法会議資料×ルポ 私は“日本鬼子”の子 梶村 太一郎、糟谷 廣一郎、 村岡 崇光  金曜日 (2008/6)  ¥ 2,835

 〇司法が認定した日本軍「慰安婦」―被害・加害事実は消せない! (かもがわブックレット) 坪川 宏子 (著), 大森 典子 (著) 価格: ¥ 630 

 〇日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784) 吉見 義明 (2010/6/10)
¥ 525

 〇保守主義と歴史認識:/4 否定できぬ慰安婦強制 石原信雄氏に聞く

 毎日新聞 2013年06月19日 東京朝刊

 http://mainichi.jp/select/news/20130619ddm005010155000c.html
 http://mainichi.jp/select/news/20130619ddm005010155000c2.html

 −−日本維新の会の橋下徹共同代表の従軍慰安婦をめぐる発言が物議を醸しました。
 ◆慰安婦を募集した際の強制性について政府はあいまいだと橋下氏は批判しているが、河野談話の取りまとめに関わった人間からすると強制性は認めている。調査員を派遣して、慰安婦とされた人たちで政治活動をしていない人を選び、中立的な雰囲気の下で話を聞いた結果、明らかに本人の意思に反するものがあったことは否定できないという心証を我々は得た。
 −−通達などの物証は出ませんでした。
 ◆文献その他からは、日本政府なり軍部が強制的に慰安婦を募集せよといったものはない。焼いてしまったという人がいるが、そうじゃないと思う。当時の軍だって、本人の意に反してでも集めろなんて文書を出すはずがない。慰安婦の募集は軍部が直接やったわけではない。業者に委託し委託料を払った。業者がノルマを達成するために、朝鮮総督府の巡査などが業者の依頼を受けて強引に応募させた。工場の挺身(ていしん)隊に行くと言われて行ったら、慰安所で帰してもらえず、だまされたという人もいた。
 −−物証がないのに強制性を認定したことに批判もあります。
 ◆当事者のヒアリングで認定したことには、当時から間違いだという批判はあった。今でもある。しかし、宮沢内閣としては、戦時中の不幸な出来事、そうした負の遺産は決着をつけて、日韓の未来志向の関係にもっていきたいと考えた。
 −−慰安婦問題や太平洋戦争を正当化しようとの動きはどう見ていますか。
 ◆戦後、日本は西欧型民主主義を受け入れた。自由社会のパートナーとしてアメリカとの関係を良好にしていこうというのが代々の政権のスタンスだ。これに対して、石原慎太郎(日本維新の会共同代表)さんたちは、アメリカは日本を占領政策の延長線で考えているととらえ、日本民族の主体性、独自性をもっと強調しろというようなことを言うもんだから、アメリカからすれば日米の協力体制を見直すという動きに取れるのだろう。
 −−安倍晋三首相と石原共同代表に共通点はありませんか。
 ◆安倍首相は日本の政治の最高責任者という立場から、日米協力体制を変えるとか、疑問視する立場はとっていないのではないか。安倍さんは首相になる前は、ややタカ派的な発言をしていたようだが、首相になってからは用心深く発言し行動している。私は村山富市元首相を尊敬している。日米安保破棄が意見だったが、首相になって軌道修正した。首相とはそういうものだと思う。【聞き手・高塚保】=つづく

 ■人物略歴
 1952年地方自治庁入庁。自治事務次官、内閣官房副長官を歴任。河野談話の取りまとめに副長官として当たった。現在は地方自治研究機構会長。

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「『慰安婦』問題の真実を読む」の参考文献 追加

 「『慰安婦』問題の真実を読む」と同日付の、しんぶん赤旗に載っていた、つぎの記事も参考になります。

 参院選―シリーズ「自共対決」 これが争点だ 歴史認識 共産 逆流と対決「日本の良心」 自民 侵略に無反省 国際問題に

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-14/2013071404_01_1.html   

 日本がアジアと世界に信頼されるためには、過去の侵略戦争と植民地支配の誤りを認め、負の遺産を清算する立場にたつことが不可欠です。
 ところが安倍内閣が発足して以来、侵略戦争と植民地支配を正当化、美化する勢力が本性をむき出しにし、大きな国際問題となっています。麻生太郎副総理ら4閣僚が侵略戦争を美化する靖国神社に参拝。安倍晋三首相も「真榊(まさかき)」を奉納しました。
 靖国神社は侵略戦争を“自存自衛の正義のたたかいだった”“アジア解放の戦争だった”とまるごと美化し、宣伝することを存在意義とする特殊な施設です。戦前は陸軍省と海軍省が共同管理し、「死んだら九段(靖国神社の所在地)で会おう」との合言葉で国民を侵略戦争に駆り立てる精神的支柱となりました。
 さらに安倍首相は、「村山談話」(1995年)の見直しを表明し、国会で「侵略の定義は定まっていない」と答弁。党首討論会(7月3日)では「そういう(侵略の)定義をした方がうまくいくという考え方は間違っている」と語り、日本政府も賛成したはずの国連の「侵略の定義に関する決議」を否定するところまできています。
 「村山談話」の一番の核心部分は、日本が「国策を誤り」「植民地支配と侵略」をおこなった反省とおわびを表明したことです。安倍首相は、いまだに「村山談話」の核心部分を引き継ぐと言いません。
 これに対して米議会調査局リポート(5月1日)から「安倍首相の発言は、彼が日本の侵略とアジア諸国民の犠牲の史実を直視することを拒絶する歴史観を持っていることを示している」と指摘されるなど国際問題になっています。
 戦後の国際政治は、日本・ドイツ・イタリアがおこなった戦争が不正不義の侵略戦争だったことを共通の土台にしており、安倍首相の立場とは相いれません。
 日本維新の会は「慰安婦制度が必要だった」(橋下徹共同代表)、「戦争に売春はつきもの」「(先の戦争は)侵略じゃない」(石原慎太郎共同代表)と述べ、自民党と同じく侵略戦争と戦争犯罪を正当化する妄言を続けています。
 日本共産党は、「橋下氏にもはや公人たる資格はなく、橋下氏を党まるごと擁護する維新の会には政治に参加する資格はない」と批判しています。
 安倍首相は、橋下暴言に対して国会で問われ、「立場が異なる」というだけで、批判も否定もしていません。安倍首相自身が日本軍「慰安婦」問題での軍の関与と強制性を認めた「河野談話」(93年)の見直しを狙っているからです。
 安倍首相は第1次内閣の2007年、「強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」として日本軍の関与と強制性を否定する答弁書を決定しました。しかし、その後、日本共産党の質問に対して、強制連行を示す証拠を政府が保有していることを認めざるをえなくなっています。
 日本共産党は、侵略戦争と植民地支配に命がけで反対を貫いた唯一の党として、歴史を逆流させる勢力と真正面から対決。首相や閣僚は靖国参拝をはじめ侵略戦争を美化するような行動をとらないこと、日本軍「慰安婦」問題では、日本政府として公式に謝罪し、個人補償を行うことが不可欠だと主張しています。(後略)

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ええ!! 高知県内での米軍機低空飛行訓練にも賛成=自民党の高野光二郎参院選高知選挙区候補。

  高知新聞の七月十六日付朝刊、二十五面の参院選高知選挙区の各候補へのアンケート結果を見たら自民党の高野光二郎候補は「憲法9条を改正し、国防軍創設」に賛成です。
 戦争放棄の日本国憲法第九条改正は、「国防軍」という名の「アメリカ軍くっつき虫」の軍隊をつくり、アメリカ軍にしたがって海外にいってドンパチをやれるようにというためのものです。

 高野候補は、参院選公示前、七月二日の高知青年会議所主催の参議院選挙候補の討論会では、「九条を改定し集団自衛権を行使できるようにする」の説明に「×」のボードをかげました。そして、「世界に類をみない平和憲法」、「国民主権、基本的人権、平和主義は徹底してつらぬく」、「戦争なんかしませんよ。絶対せん」といいました。
 ところが、参院選挙が公示されたら、これです。
 なんなの、この人は……。

 アンケート結果によると、高野候補は、日本国憲法を変えやすくする「憲法96条改正」にも賛成。
 そのうえ、「[高知]県内での米軍機低空飛行訓練」、「沖縄の負担軽減ため、全国で米軍訓練の受け入れ」に賛成。
 アメリカさまのためなら、えんやこら……ということでしょうか。

 「TPP参加」には反対とのことですが、自民党・公明党の政府は、参加に向かって突っ走っているのに、自民党のあなたが、こんなことをいうのは不自然です。

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【ニュース】 自民党、公明党が「物価が上がるなら年金支給額も同じだけ上げるべきか」にイエスの札を上げましたが……。

  七月十三日朝の「サタデーずばッと」(TBSテレビ)で、年金について「物価が上がるなら年金支給額も同じだけ上げるべきか」との問いに、自民党の鴨下一郎衆院議員、公明党の斉藤鉄夫衆院議員はイエスの札を挙げました。
 日本共産党の小池晃副委員長は、この二人を批判しました。
 小池 (前の)自公政権の時に決めたマクロ経済スライドは、物価上昇分から0・9%年金支給額を減らすもの。それなのに「物価上昇分を上げるべき」とは、どういう話ですか。鴨下さん、はっきり答えていただきたい。
 自民・鴨下氏は、説明不能になり「物価上昇分だけ上げるべきだという考えを述べた」と答えたので、小池氏は「でたらめだ。テレビ番組でいい加減なことをいうべきでない」と、政権与党のごまかしを批判しました。
 そして、「支給開始年齢を遅らせるのは、今の四十代以下の世代を直撃する。年金支給額の削減も年金に対する信頼を崩す。こういうやりかたをキッパリやめるべきです」とのべました。

 年金生活者なのに年金問題があまりわかっていない僕。このやりとりを理解しようと、最近の、しんぶん赤旗の記事を読みました。

 〇2013年2月2日(土)

 首相答弁 事実に反する 「社会保障削減計画ない」?! 生活保護・介護・医療・年金… 改悪案 目白押し

 安倍晋三首相は、1月31日の衆院本会議の代表質問で日本共産党の志位和夫委員長が社会保障削減計画の中止を求めたのに対し、「ご指摘の社会保障の削減計画というものは存在しない」と答弁しました。しかしこれはまったく事実に反します。(中略)
 年金では、今年10月から3年間で2・5%削減が決定しています。その後は、▽「マクロ経済スライド」による毎年0・9%の連続引き下げ▽支給開始年齢の65歳から68~70歳への引き上げ検討―が社会保障と税の「一体改革」の工程表に明記されています。(後略)

 〇2013年6月15日(土)

 国民に増税 大企業に減税 安倍内閣 「骨太方針」など決定

 安倍内閣は14日の閣議で、経済財政運営の基本指針(「骨太方針」)と成長戦略、規制改革の実施計画を決定しました。(中略)
 「骨太方針」は、消費税率を2014年4月に8%、15年10月に10%へ引き上げることを前提にしながら社会保障は「聖域とはせず」削減すると明記。年金給付額を抑制する「マクロ経済スライド」の導入などを盛り込みました。一方で、首都圏空港・国際コンテナ戦略港湾・三大都市圏環状道路など「国際競争力を強化するインフラ」に集中投資するとしました。
 成長戦略は「3年間でリーマン・ショック前の設備投資水準を回復する」ことを目標に、大企業向けの設備投資減税を新たに盛り込みました。企業には15年3月の復興特別法人税の終了とあわせてダブル減税となります。また、原発再稼働を明記。原子炉メーカーの要求にこたえた原発輸出などインフラ輸出を推進するとしました。
 規制改革の実施計画では、解雇しやすい限定正社員導入にむけ、雇用ルールを14年度中に整備すると明記。労働者派遣制度の緩和も13年度中に検討するとしました。

 〇2013年6月24日(月)

 年齢引き上げ許されぬ 年金改悪に田村議員反対 参院厚労委

 日本共産党の田村智子参院議員は18日の参院厚生労働委員会で、政府の社会保障制度改革国民会議が検討している年金の支給開始年齢の引き上げは許されないと追及しました。田村憲久厚労相は「近い将来において引き上げることは考えていない」とのべました。
 年金の支給開始年齢をめぐっては、同国民会議が早期に引き上げ検討の必要性で大筋一致。清家篤会長が「67、68歳、あるいはもう少し上の方まで引き上げていくのは、あってしかるべき」とのべています。
 田村議員は「前の自公政権で『100年安心』といって、年金改悪を行った。ところが、開始年齢引き上げなどの無責任な議論が展開されている」と批判しました。厚労相は「67、68、70歳まで働ける環境になることが前提の上で、そういう議論もしなければいけないという話だ。近い将来、引き上げることは考えていない」と答弁しました。
 田村氏は、同国民会議がデフレ下でも年金支給額を抑え込む「マクロ経済スライド」を行うべきだとしている点を指摘。「名目年金支給額が減り、高齢者の生活に重大な影響を与える」と批判しました。

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エミさん、ユリさんへ 演劇「反戦詩人 槇村浩」 僕のセリフは十も!! 二〇一三年七月十六日

エミさん、ユリさんへ 演劇「反戦詩人 槇村浩」 僕のセリフは十も!! 二〇一三年七月十六日

 二時間目、四時間目、五時間目と授業日に出ました。

 夜七時から演劇「反戦詩人 槇村浩(まきむらこう)」(劇団the・創が九月七日、高知で公演)の練習に参加。
 セリフが十もある役をいたただきました。

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【ニュース】 橋下維新さんの記者攻撃の異様さ=「そこに朝日新聞記者がいるけど、『朝日』や『毎日』の新聞や、その他のテレビが『大誤報』をやってくれたおかげだ」、「そのバス停にいる人が名前は言わないけど朝日新聞の記者」。

ここに記事があります。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-16/2013071615_01_1.html

 2013年7月16日(火)

 橋下氏が記者攻撃 聴衆から「ファシズム」の声 大阪・街頭演説

 (前略)日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長が15日、大阪府の寝屋川市駅前の街頭演説で、特定新聞社の記者を手で示しながら非難し、数百人の熱心な支持者らの拍手で周囲は異様な雰囲気に包まれました。
 橋下氏は「慰安婦制度は必要だった」など一連の暴言について、いくら言い訳してもその言い訳も含めて批判されているのに「そこに朝日新聞記者がいるけど、『朝日』や『毎日』の新聞や、その他のテレビが『大誤報』をやってくれたおかげだ」と責任を転嫁。「そのバス停にいる人が名前は言わないけど朝日新聞の記者」と述べ、繰り返し手で示して聴衆をあおりました。
 自身の執拗(しつよう)な記者攻撃と、熱心な聴衆の反応をまずいと思ったのか最後には「記者個人をあんまりいじめないでくださいね。これをやったらおかしな世の中になっちゃうんで…」などと発言しました。(後略)

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2013.07.17

【ニュース】今でしょ! 憲法講座 高知市 七月二十五日「憲法と日米安保のせめぎ合い」。

20130717081513

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えっ、命令にしたがえない兵士は死刑にするの……!?。日本国憲法変えてこんな国にする 自民党幹部の語り

http://m.youtube.com/watch?v=m2BXY8684cg&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3Dm2BXY8684cg

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日本共産党の反戦ビラを配布したら特高警察に逮捕され懲役二年、執行猶予五年に。こんな時代にはしたくありませんね。

 反戦詩人・槇村浩のことを勉強していたら、こんなことを書いている文書に出合いました。

 一九三三年二月四日 早朝、大阪市の鉄工所の労働者・岡村新一さんは出勤する住友製鋼所の労働者に「侵略戦争やめろ」、「中国革命に干渉するな」、「植民地朝鮮と台湾を独立させろ」などという日本共産党関西地方委員会名のビラを手渡しました。午前八時過ぎ、朝日橋署の特高室に連行されます。午後三時ころまで拷問され、留置所にほうりこまれました。
 一九三四年十月三十日 大阪控訴院で岡村新一への判決。懲役二年、執行猶予五年

 【参考文献】

・治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部編『高知県における共産主義運動』。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部。一九九〇年七月一日。

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高校の二年後輩という公明党の参議院比例選挙区の山本ひろし候補の運動員からの電話。憲法九条を変えさせないためにという論理。

 七月十七日正午、公明党の参議院比例選挙区の山本ひろし候補を応援しているという男性(高知市内に住んでいて、わが高校の二年後輩という未知の人)から電話がかかってきました。

 「安倍首相が憲法九条を変えるといいましたね。自民党が九条を変えようとしています。参院選で自民党が圧勝しそうですが、その自民党の暴走を内からそれを止とめるために比例選挙で公明党を多く当選させてほしい。外から止めようとしている共産党ではだめです。公明党は圧勝するといわれている自民党に埋没しています。公明党は、きびしい。比例の山本ひろしをよろしくおねがいします。高知に幹部が来て、あとひとりが十人票をといわれています。高知選挙区では共闘している自民党の高野光二郎にお願いします。」

 「憲法九条を変えたらいかんというやったら自民党の高野さんを応援するのをやめたらどうですか。最近は自民とにソデにされているというのも新聞にのっていましたよね。」

 「いや、それは共闘ですき」。

 自民党と政権を組んでいるので、そんなことはダメということのようです。

 「そういうふうにし、選挙で自民党と共闘して、自民党と一緒に政権運営して国民を苦しめてきたのが公明党ですね。」と、いってあげたかったのですが、相手は、そうそうに電話を切ってしまいました。 

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【ニュース】 これが日本共産党の参院選法定ビラ一号です。

http://jcpeast.blog.ocn.ne.jp/blog/files/houtei1.pdf

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【ニュース】 日本共産党の参院選法定ビラ三号が発行されています。これです。

http://www.jcp.or.jp/web_download/bira/2013_2/pdf_4/20130716_sanin_ho3.pdf

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【ニュース】 日本共産党が大学院のみなさんへの政策。すごいね。

http://www.jcp.or.jp/web_download/bira/2013_2/pdf_4/1307-sanin-graduater_scholar.pdf

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【ニュース】 日本共産党が配布したビラです。瀬戸内寂聴さんの談話も載っています。

http://www.jcp.or.jp/web_download/bira/2013_2/pdf_4/1306-sanin-stop.pdf

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【ニュース】 日本共産党のビラです。賃金引上げのための具体策です。

http://www.jcp.or.jp/web_download/bira/2013_2/pdf_4/1307-sanin-man.pdf

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【ニュース】 ブラック企業にお仕置きよ 日本共産党の配布しているビラです。

http://www.jcp.or.jp/web_download/bira/2013_2/pdf_4/1307-kakusan-bira-blak.pdf

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【ニュース】 えっ、俳優の木内みどりさんが、日本共産党の新聞に「原発も再稼働もノー」の談話を。

  俳優の木内みどりさんが、しんぶん赤旗日曜版七月二十一日号に「原発も再稼働もノー」の談話を発表しています。
 彼女って、たしか西武百貨店社長だった水野誠一さんのつれあい……。
 ここに彼女のツィッターがあります。

  https://twitter.com/cocostoy/status/357442742630092800

【参考 木内みどりさんって、こんな人】

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%86%85%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A

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【提案です】 自民党さん。あのコーシャル、「暗い日本を、取り戻す」にしてはいかがですか。

 安倍総理が出てくるテレビのコマーシャルを見るたびに「暗い日本を、取り戻す。」という本音が聞こえてくるようです。

 ちなみに、これが自民党の「取り戻す」コマーシャルです。

 http://www.youtube.com/watch?NR=1&feature=endscreen&v=GM4KYaHqJyc

 自民党は、参院選中にも、力づくで、こんな言論抑制をやっていますね。

 僕は、日本国憲法の戦争放棄の第九条をなくすことを公約したりの自民党の実際の行動を見ると、本当は、こんなふうにいいたいんだろうなぁと思って熱心に見ています。

 取り戻す、侵略戦争のできる日本を(ただし、アメリカさんのけらいとしてね)。
 取り戻す、超大手だけが儲けられる日本を。
 取り戻す、国のために血を流せという教育を。
 取り戻す、権力者に文句をいわせない言論封殺の日本を。

 

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エミさん、ユリさんへ 漫画「花より男子」を読みたい 二〇一三年七月十六日

エミさん、ユリさんへ 漫画「花より男子」を読みたい 二〇一三年七月十六日

 勉強、ブログのアップ、ビラの配布と力投した一日でした。

 きょう、ちらっとテレビをみたら「花より男子」をやっていました。
 うーん、これっておもしろそう。
 しばらくしてから漫画の、を買って読んでみようと思っています。

 【参考】

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%82%88%E3%82%8A%E7%94%B7%E5%AD%90

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高知市柳原のチャンピオン碑のこと、ごぞんじのかたはいらっしゃいませんか。

 ある本をもとに、つぎのようなことを書いていますがチャンピオン碑というのがわかりません。わかるかた、おしえていただけませんでしょうか。

 「堤を降りてクワ畑の…」ともありますが、これは堤からいうとどこに(北、南)あったのでしょうか。

  一九三一年秋、吉田豊道(のちの反戦詩人・槇村浩)は、高知の街を乗り出し(グランド通り)から柳原の堤に出て、すぐ西にそびえるチャンピオン碑(●→調査する)の礎石の上に横たわり、胸に刻みつけた未完成の詩の一節一節を口ずさむみました。それから、堤を降りてクワ畑(●→調査する)の日当たりでビラの裏に新しい一節を書きくわえ、もう一度、高く冒頭から読みあげて、推こうに推こうを重ねました。

 チャンピオン碑つて、もしかしたら、このことでしょうか。

 http://kochi.michikusa.jp/newpage687.html

 当時から、こんな形であったのでしょうか。

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2013.07.18

【ニュース】日本共産党の参院挙比例候補の政見放送が、ここにあります。

 聴きました。
 よかったです。
 多くの人々に見てほしいです。

 http://www.youtube.com/watch?v=bzLAjrHqXBU

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自民党幹部出演の映像。日本国憲法を変えて「死刑」、「懲役三百年」で威圧し戦場に行くようにさせる……。

 http://www.youtube.com/watch?v=m2BXY8684cg&feature=youtu.be

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2013.07.19

【ニュース】「アベノミクス」で潤うのは大増益トヨタ 社長年収1.6倍 従業員は前年比わずか1.5%増

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-18/2013071808_01_1.html

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【ニュース】 「国防軍」命令に従わなければ軍法会議で「死刑」 自民党の石破茂幹事長、あからさまに語る

 しんぶん赤旗  2013年7月19日(金)

  石破幹事長が「軍法会議」で暴言 出動命令拒否は「死刑」も

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-19/2013071901_04_1.html

 自民党の石破茂幹事長が、「国防軍」命令に従わなければ軍法会議で「死刑」と発言していたことが明らかになりました。(中略)
 “石破発言”は4月21日放映の「週刊BS―TBS報道部」でのもの。(中略)

 (自民党改憲案は)憲法のほかの条項で軍事裁判所的なものを創設するという規定がございます。
 「自衛隊が軍でない何よりの証拠は軍法裁判所が無いことである」という説があって、それは今の自衛隊員の方々が「私はそんな命令は聞きたくないのであります」「私は今日かぎりで自衛隊をやめるのであります」と言われたら、「ああそうですか」という話になるわけです。「私はそのような命令にはとてもではないが従えないのであります」といったら、(今の法律では)目いっぱいいって懲役7年です。
 これは気をつけてモノを言わなければいけないけれど、人間ってやっぱり死にたくないし、けがもしたくない。「これは国家の独立を守るためだ」「出動せよ」って言われた時、「死ぬかもしれないし、行きたくないな」と思う人がいないという保証はどこにもない。
 だからその時に、それに従え、それに従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国なら死刑、無期懲役なら無期懲役、懲役300年なら300年(を科す)。「そんな目にあうぐらいだったら出動命令に従おう」っていうことになる。
 「お前は人を信じないのか」って言われるけど、やっぱり人間性の本質から目をそむけちゃいけないと思う。今の自衛官たちは服務の宣誓というのをして、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえる」っていう誓いをして、自衛官になっているんです。でも、彼らのその誓いだけがよすがなんです。本当にそれでいいですかっていうのは問わねばならない。軍事法廷っていうのは何なのかっていうと、すべては軍の規律を維持するためのものです。

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【槇村浩研究のために】 槇村浩が『間島パルチザンの歌』を書くなかで考えていたこと。

 一九三一年末、槇村浩と毛利猛夫が文化運動について話し合いました。毛利猛夫の「『旧友』としての槇村のこと――『間島パルチザンの歌』が出来た頃」――」(槇村浩の会『ダッタン海峡 第八号』。槇村浩の会。一九九二年六月一日)に載っています。
 <一九三一年の末、二人で文化運動について話しあっていて、われわれの陣営内の詩人たちの作品がレトリック[文章に豊かな表現を与えるための技法]の点において純粋詩派[?]にはなはだ劣っていることが話題となり、レトリックの向上のためには訳詩が良い、まず乃公(だいこう)[わがはい]からというから、やってみよう」ということで、槇村はエドガー・ポウの〝ユリイカ〟を、私はランボーの〝酔いどれ船〟をメーデーまでに仕上げては………と話しがすすんでいたが、槇村が、「ランボーといえば先日図書館で読んだが……富永太郎が」と真顔になって話し出した。
 それは――――富永は何かの雑誌で、
 『抒情の叙事史[ママ]的進展という方法の点で ランボーの〝酔ひどれ船〟に学ばなければならない』
と言っていたと言うことである。

槇村はそれについて自分の意見を述べた。「抒情というのは、まず、社会における個人における個人の創造性の自覚であるということだろう。この出発点は純粋詩派でもわれわれプロレタリア詩でもかわりはない。それから凝集[散らばったりしていたものが、一つに集まり固まること]をめざして短詩型をとるか、あるいは論理的若しくは叙事詩展開を心掛けて長い詩となるかは ひとにより、時により、またことによりけりだろうが、この展開で思想性がハッキリするわけだ。」そして自分の詩について語った。
(「生ける銃架」は詩作ノートの中の草稿としてあった)

「『生ける銃架』の素材は、詩の中のビラまきの光景を中心に配列されて、悪く言えば、叙景と抒情と標語の羅列に終わっている感がある。
 「抒情の叙事史的展開」となるよう文を練り直してみたいと思う。ランボーの『酔ひどれ船』にはよく言われるように、パリ・コンミューンの頃の二、三年の個人的体験がよみこまれている。絢爛[けんらん]たる措辞[そじ。詩歌・文章などの言葉の使い方]の集積だけではない。
 抒情の叙事史的進展とはそれを言うだろう。」
 彼の言うことはこういうことだった。
 そして、『生ける銃架』をも素材をみなおして叙事詩(譚歌(バラード)ではなく)に展開してみたい、ということであった。
 こういう話し合いがある中で『間島パルチザン』の初稿がつくられつつあった。
 パリ・コンミューンや国際婦人デーの盛りたくさんな行事のある三月を前にしての頃である。彼はその草稿を浜田勇や池本良三郎に、また信清悠久にも、一部を読んで聞かせていたとのことである。
 また、一九三二年春、『働く婦人』であったと思うが、パリコンミューンと詩人たちの関連の記事が出ていた。
 多分、大江満雄の文章だったと思うが、ルイズ・ミシェルの詩の紹介が書かれ、地域でのストライキ闘争をうたったものだった。
 その中の一行に
 「わたしたちはブルターニュの男と女」というのがあった。
 槇村は、
 「これは良い、ブルターニュ地方と咸鏡道[かんきょうどう、함경도、ハムギョンド]地方は、フランスと朝鮮にあってともに反抗的ということで中央権力に差別待遇をうけたことがあるのだ」
 と言ってあの 効果的なリフレーンの句
 「おれたちは咸鏡の男と女」
 を書きしるしたことだった。

 『間島パルチザンの歌は、槇村もまた私も活字になったのを見たのは一九三六(昭和十一)年なってからであった。 >

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【教えていただけませんか】 ルイズ・ミシェルさんの「わたしたちはブルターニュの男と女」という詩句のある詩を探しています。

 パリコンミューンの詩人・ルイズ・ミシェルさんの「わたしたちはブルターニュの男と女」という詩句のある詩を探しています。
 邦訳で、ありませんでしょうか。

 一九三二年春、『働く婦人』の大江満雄の文章にも、この詩が紹介されていたと書いている人がいるのですが、これも確認できていません。
 ごぞんじないでしたら教えていただけませんでしょうか。

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2013.07.20

エミさん、ユリさんへ ネットで論戦 二〇一三年七月十七日

エミさん、ユリさんへ ネットで論戦 二〇一三年七月十七日

 晴れ。

 修士論文のための勉強。
 勉強ばかりになっています。
 なんとかしなくては。

 ネットで論戦。
 ブログのアクセスが普段の二倍ほどになっています。

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エミさん、ユリさんへ 修士論文のための勉強 二〇一三年七月十八日

エミさん、ユリさんへ 修士論文のための勉強 二〇一三年七月十八日

 晴れ。

 ネットで論戦。

 会議に出席。

 修士論文のための勉強。
 何か、もうすぐあさーーっという感じになりました。

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エミさん、ユリさんへ 演劇のけいこ 二〇一三年七月十九日

エミさん、ユリさんへ 演劇のけいこ 二〇一三年七月十九日

 晴れ。

 演劇のけいこ。妻の指導で。

 ぎりぎりまで四時間目の修士論文の授業のためのリポートの作製。

 喫茶店でダウン。半時間ほど寝てしまいました。

 夜七時から演劇のけいこ。きょうから演技指導も受けています。けいこ三日目です。

 ネットで論戦。

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【短歌】 反戦の 詩人の劇も けいこ中 高知の人の 熱き心よ

 反戦の 詩人の劇も けいこ中 高知の人の 熱き心よ

 電車にも 「憲法を守れ」の 文字がある 高知の街の 憲法論議

 特攻の 男、からくも 生き残り なした娘が わが宿にいる

 憲法の 戦争放棄の おかげうけ 兵にとられず 老いを楽しむ 

 殺戮(さつりく)と 人間破壊の その過去を 美談のように 語る党って……

 「出兵を ことわったらば 死刑だぞ」 そんな日本 取り戻すのいや

 アクセルを ともに踏んて なんなんだ  「ブレーキ役」と いいだした党

 百年の 反戦の詩を たどりつつ いま立たねばと われを励ます

 槇村の 「生ける銃架」を 読み返す 十九の君の 横に立ってる

 憲法を ぶっつぶしたい 大声に 「ゆくぞ、アトム」の わが世代立て

 炎天下 老いの妻、僕 配りゆく この一枚の 熱き思いを

 「あの日から 平和攻勢 始まった」 そういわしめる 日にしたいよね

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【ニュース】2013年7月20日3:52 JST.日本共産党のマスコットキャラ「カクサン部」、参院選を後押し?

http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323809104578616871515742846.html?mod=wsj_share_tweet

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【ニュース】日本共産党・浜川百合子参院選高知選挙区候補、村上信夫比例代表候補 走りぬき、熱く訴えぬきました。

http://www.youtube.com/watch?v=MCoLX1Bklzw&feature=youtu.be

  日本共産党・浜川百合子参院選高知選挙区候補、村上信夫比例代表候補 走りぬき、熱く訴えぬきました。二候補とも明るい、ひきしまった表情。 「県民の声を国会に真っ直ぐ届ける日本共産党を」。見ていてジーンとしました。撮影され、アップされたかたにも感謝。

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【ホットニュース】今回、初めて日本共産党に入れますというお便り、その理由は……。 

 二十日午後七時半、中国地方の知人から電話。「藤原さんが喜ぶと思って電話しました。私、初めて日本共産党に、あす投票します。原発のことだけど、このままでは、日本は駄目になるわ。いろいろ読んでみたけど、原発をすぐとめるべきだと一番はっきり、まっすぐいっているのは日本共産党よね」。
 高知の男性からは「憲法改悪、反対などの意味合いで、期日前選挙で共産党に投票しました。」。
 大阪の女性からは「猛暑の炎天下、最後のメガホン宣伝。やはり『反戦平和』ひとすじ、九十一年の歴史と先達のたたかいの重みを感じます。コータロー[日本共産党大阪選挙区候補]は、ひたむきで胸を打たれる。一九九八年以来の選挙区奪還なるか、楽しみです」とのたより。

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【ニュース】自民党、公明党政権の暴走に待ったをかけたいかたへ

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-20/2013072003_01_1.html

 

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【ニュース】「俺は共産党とその候補者に投票しました。」と書いたゴッチさんの決断。 

 

http://6109.jp/akg_gotch/

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2013.07.22

【ニュース】   参院選開票速報 共産党躍進 東京・大阪・京都で議席 比例5議席確保 山下・小池氏当確 選挙区 吉良(東京)・辰巳(大阪)・倉林(京都)氏

  しんぶん赤旗 2013年7月22日(月)

 参院選開票速報 共産党躍進 東京・大阪・京都で議席 比例5議席確保 山下・小池氏当確 選挙区 吉良(東京)・辰巳(大阪)・倉林(京都)氏

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-22/2013072201_01_1.html

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エミさん、ユリさんへ パワーポイントでの発表 二〇一三年七月二十日 土曜日

エミさん、ユリさんへ パワーポイントでの発表 二〇一三年七月二十日 土曜日

 晴れ。

 午後十二時半から六時まで大学院の授業。
 パワーポイントでの発表でした。

 夜、ネットで論戦。

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エミさん、ユリさんへ 参院選の投開票 二〇一三年七月二十一日 日曜日

エミさん、ユリさんへ 参院選の投開票 二〇一三年七月二十一日 日曜日

 晴れ。

 午前六時半起床。
 参院選挙の投票に。

 午前九時から大学院の授業。
 午後からは屋外での授業。
 前日、よく寝ていないせいか「やっとのか」でついていきました。
 それにしても、きょうは、何だか両足が快活には動きません。

 夜は、高知短期大学経済学クラブの懇親会に。

 家に帰って、開票を見ました。

 ところで、本日、男性二人から「入れたよ」の声がかかりました。

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エミさん、ユリさんへ 論文の書き直しを開始 二〇一三年七月二十二日 月曜日

エミさん、ユリさんへ 論文の書き直しを開始 二〇一三年七月二十二日 月曜日

 晴れ。

 きょうも寝不足。

 午後一時十五分から学部の授業。
 そのあと、大学院生研究室で勉強。
 新たな構想で論文の書き直しを始めました。
 
 食事をすませて、高知県立大学の所で一息ついて座り込んでいたら、目の前に女性が立ちました。
 高知県立短期大学のとき一緒だった女性、KIさんでした。
 短大の聴講にきているとのことです。
 「大丈夫ですか」と声をかけてくれました。

 そのあと、Kさんのケア。
 帰り着いたら本が二冊、到着していました。

 本日、「娘と一緒に入れました」の声がかかりました。

  「浜川さんは頑張りましたね。子どもにも選挙頼みました。比例には、にひさんを書いてもらいました!」の声も。

 うれしくて涙ぐんでいる私です。

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【ニュース】 水道をとめられ、灯もロウソクで…… 六十四歳の孤立死。

 http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20130722-01483/1.htm

 最後に郵便開封したのは5年前?…越谷で孤立死

 2013年7月22日(月)20時30分配信 読売新聞

 22日午前10時5分頃、埼玉県越谷市蒲生東町の民家で、税金の徴収に訪れた市役所の男性職員(61)が白骨化した男性の遺体を見つけ、越谷署に届け出た。
 同署が調べたところ、部屋に持ち込まれた最後の郵便物は2008年6月のものだった。同署は、遺体はこの家に一人で住む男性(64)で、この時期に死亡した可能性が高いとみている。
 発表によると、遺体は半袖シャツに長ズボン姿で、台所であおむけで倒れていた。近くには靴下も落ちていた。(中略) 水道は04年10月に止められ、男性はろうそくを使って生活していたとみられる。

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いま読み直してみたい。宮本百合子さんの思い。「ファシズムは生きている」

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3468_12374.html

  一九四九年二月、僕が二歳のころに書かれたものです。

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2013.07.23

【ニュース】 創価学会員が公明党を応援するのは「功徳」をつむため? 公明党と創価学会って、どんな関係? こんな映像がありました。

http://www.youtube.com/watch?v=BHhurRSLPkg

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連載 一 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生 【出発の前に】。

 吉田豊道(よしだとよみち。一九一二年六月一日、高知市廿代町八十九番屋敷に生まれ)は、大元帥・天皇が中国に侵略の手を広げているころの一九三一年十月二十四日、槇村浩(まきむらこう)の名で反戦詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書きました。十九歳でした。その詩は、プロレタリア文化同盟の啓蒙誌『大衆の友』一九三二年二月創刊号に掲載されました。小学時代に参謀本部編纂官にも神童ともてはやされ、大日本帝国の海外侵略の偉業を評価する文章を書いていた吉田の飛躍でした。
 この論文は、十九歳ではじめて反戦詩を書くまでの彼の詩人として準備過程、彼が考えを変え、中学校を卒業してから半年たったときに大元帥・天皇に弓を引く反戦の詩を書くようになった訳(吉田が、その問題についてどう考え、考え方が、いつの時点から、どうして、どう変わったのか)を追求します。
 (引用文の中の[]のなかは藤原のつけた読み仮名です)

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連載 二 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【会いたかったわけ】

 私と槇村浩の反戦詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」との出合いは、一九六五年四月、高知市の高知大学文理学部文学科に入ってすぐのことです。
 当時の私は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争をやめさせたい、日本を戦争放棄の日本国憲法をキチンと守る国にしたい、男女同権が貫かれる社会にしたい、高知大学が学びの場としてよりよいものにしたいと思っていました。
 しかし、その事業を誰と、どのような方法でやるのかということがはっきりしていませんでした。
 一時はジグザクデモの好きなグループと行動をともにしました。しかし、高校の二年後輩の女生徒二人の説得もあり、「これは違うな」と、思い始めていました。
 そんなとき、先輩が「読んでみたら」と紹介してくれたのが貴司山治、 中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』(新日本出版社。一九六四年十月十日)でした。その本の詩の最初にあったのが「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」です。
 「あの侵略戦争の時代に、このように真っ向から侵略戦争に反対する詩人がいたのか」。それは背すじがゾクゾクするような感動でした。
 この詩との出合いで、私の生き方が決まりました。この詩人のように生きようと。
そのころ、ペンネームを決めました。石川浩です。高校時代から好きだった歌人・石川啄木と槇村浩をあわせたものでした。
 東京での仕事を六十歳で退職して高知市升形の平和資料館・草の家の研究員になりました(のちに学芸員)。この資料館の仕事の一つが槇村浩の顕彰でした。
私も槇村についてあらためて勉強するようになりました。槇村についての展示を改装しました。彼が加わった反戦ビラ配布について講演する機会もありました。
 そのなかでつきあたったのが、彼が反戦詩を書くまでの彼の詩人として準備過程、彼が考えを変え、大元帥・天皇に弓を引く反戦の詩を書くようになった訳をキチンと知りたいということです。
 二〇一二年から勉強を始めました。
 ・解説書と詩集を読み日清戦争のころから一九三二年までの反戦詩の流れをつかむ。
 ・槇村の小学校以来の文章や詩をていねいに読み直す。
 ・槇村の知人が書き残した槇村についての文章を収集して読みこむ。
 ・槇村の詩などについてついての評論の文章を集めて読む。
 ・槇村や彼の母について書かれたいくつかの小説や演劇のシナリオを参考に読む。
 その作業をしながら、この論文を書きすすめています。

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連載 三 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【反戦詩の歩み】

 この原稿は反戦詩人のことをテーマにしていますので、まずは、日本における反戦詩について書いておきます。
 日本では一九六八年、天皇をようする軍勢が長く続いた江戸幕府を倒し、政権につきました。この政権は一八七一年四月、軍隊を創設しました。天皇の私兵としての性格の強いものでしたが、一八七三年の徴兵制度の施行にともない国家の軍隊としての体裁をととのえます。一八八九年、天皇は大日本帝国憲法を決めますが、そこで「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とし、日本の軍隊は運営、軍備の拡充、出動についても大元帥である天皇が支配することになります。天皇の軍隊です。
 天皇の軍隊は、うちにあっては内乱鎮圧、一揆や争議、反戦的な運動の鎮圧にあたりました。そして、一八七四年五月二十二日の台湾上陸をはじめとして朝鮮、中国への侵略戦争をくりかえしました。
 侵略戦争とは、ある国の軍隊、軍属が他国に乗り込んで、その国の施設を破壊し、物資や人を略奪し、人々を傷つけ殺し、その国を意のままにしようとする行為です。自国の民衆を家族から切り離し兵として駆り出し、そうした行為をすることを強います。その過程で自国の兵士の多くも傷つき、死にいたります。
 一九二八年八月二十八日、日本は、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した「戦争抛棄ニ関スル条約」という多国間条約に署名します。しかし、日本は、これ以降も侵略戦争をくりかえしていきました。
 侵略戦争の進展のなかで国民のなかから、そのことを批判する声が起こりました。朝鮮を戦場とした日清戦争(一八九四年~一八九五年)のなかで初めて反戦の思いを抱いた詩が発表され、戦後もそうした詩の発表が続きます。
 日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)のさなかにも反戦の詩が発表され、この戦争のあとも、反戦詩発表のもりあがりがありました。
 中国への侵略戦争の進行のなかでも、反戦詩が生まれました。
 これらの反戦詩の内容は、・軍隊という組織そのものへの懐疑、・日本の軍隊が海外に侵略して外国で殺戮、強奪、強姦などの蛮行をすることへの批判、・侵略軍に動員された夫や兄弟、息子の無事を願うもの、・大日本帝国の侵略をやめさせようという立場のもの、・反戦の運動そのものを伝えるもとの多様です。
 日本の反戦の詩の群は、侵略戦争をくりかえし、拡大していった天皇制権力のまえに両手を広げて立ちはだかろうとした人々の幸せ、平和を希求した詩人たちの魂の記録です。
 天皇の政権は、反戦詩が発表された本や雑誌を発売禁止にする、反戦詩の作者を別件で逮捕、投獄するなど圧迫を加えました。天皇の政権の追随者たちは反戦詩の作者を批判しました。
 そうしたなかで反戦詩の作者の多くは、たとえば与謝野鉄幹、与謝野晶子やのちの一群のプロレタリア詩人のように、のちには好戦の作品を書くようになります。
 しかし、反戦の立場をつらぬいて圧迫のなか短い命を燃やした詩人も少なくありません。
 この研究では、そのなかの一人、吉田豊道(槇村浩)のことを追っています。彼の反戦詩は、大日本帝国の侵略をやめさせようという立場のものでした。
 この原稿では、一九三二年の大日本帝国の満州国建国ころまでの反戦詩を研究対象にしています。

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連載 四 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が生まれたころ】

 一九三一年の九月十八日夜、中国東北部の奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で鉄道爆破事件が発生しました。日本の陸軍部隊・関東軍が、南満州鉄道(満鉄)線路上で自分で爆薬を爆発させながら、これを中国軍のしわざだとして、近くの中国軍兵営を攻撃し、中国侵略を拡大しました(「満州事変」)。
 翌日の九月十九日、日本共産党は、全国の労働者、農民、兵士にたいする檄(げき)を発表して、満州における日本軍の進撃の意味と目的を説明し、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」と、国民に呼びかけました。
 日本労働組合全国協議会(全協)は、九月二十五日付の「労働新聞」で、政府のいつわりを指摘して「侵略戦争に対し大衆的罷業(ひぎょう)へ」、「大衆的デモで抗議しろ」、「兵士及び軍需品輸送を拒否せよ」と呼びかけました。
 こんななかの十月二十四日、槇村浩は詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書きます。
 槇村は、この詩で、中国東北部の満州に派遣された満州駐屯軍兵卒に侵略の先兵たることをやめよう、銃をうしろ後に狙い、剣をうしろ後に構え、みずからの解放に正しい道を選び、生ける銃架たることをやめよと訴えています。民族と国境を超えた日本と中国の民衆の連帯と決起で大日本帝国の侵略をやめさせようと呼びかけています。

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連載 五 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」 第一連】

 詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を紹介します(初出のものからです。ふり仮名は()ないに入れました)。

 高粱(かうりやう)の畠(はたけ)を分(わ)けて銃架(じうか)の影(かげ)はけふも続(つゞ)いて行(ゆ)く
 銃架(じうか)よ、お前(まへ)はおれの心臓(しんぞう)に異様(いやう)な戦慄(せんりつ)を与(あた)へる――血(ち)のやうな夕日(ゆふひ)を浴(あ)びてお前(まへ)が黙々(もくもく)と進(すゝ)むとき
 お前(まへ)の影(かげ)は人間(にんげん)の形(かたち)を失(うしな)ひ、お前(まへ)の姿(すがた)は背嚢(はいのう)に隠(かく)れ
 お前(まへ)は思想(しさう)を持(も)たぬたゞ一箇(こ)の生(い)ける銃架(じうか)だ
 きのふもけふもおれは進(すゝ)んで行(ゆ)く銃架(じうか)を見(み)た
 列(れつ)の先頭(せんとう)に立(た)つ日章旗(につしやうき)、揚々(やうやう)として肥馬(ひま)に跨(またが)る将軍(しやうぐん)たち、色蒼(いろざ)ざめ疲(つか)れ果(は)てた兵士(へいし)の群(むれ)――
 おゝこの集団(しふだん)が姿(すがた)を現(あら)はすところ、中国(ちうごく)と日本(にほん)の圧制者(あつせいしや)が手(て)を握(にぎ)り、犠牲(ぎせい)の××は二十二省(しやう)の土(つち)を染(そ)めた
 (だが経験(けいけん)は中国(ちうごく)の民衆(みんしう)を教(おし)へた!)
 見(み)よ、愚劣(ぐれつ)な×旗(き)に対(たい)して拳(こぶし)を振(ふ)る子供(こども)らを、顔(かほ)をそむけて罵(のゝし)る女(をんな)たちを、無言(むごん)のまゝ反抗(はんこう)の視線(しせん)を列(れつ)に灼(や)きつける男(をとこ)たちを!
 列(れつ)はいま奉天(ほうてん)の城門(じやうもん)をくゞる
 ――聞(き)け、資本家(しほんか)と利権屋(りけんや)の一隊(たい)のあげる歓呼(くわんこ)の声(こえ)を、軍楽隊(ぐんがくたい)の吹奏(すゐそう)する勝利(しやうり)の由(よし)を!
 やつら、資本家(しほんか)と将軍(しやうぐん)は確(たし)かに勝(か)つた!――だがおれたち、どん底(ぞく)に喘(あへ)ぐ労働者農民(らうどうしやのうみん)にとつてそれが何(なん)の勝利(しやうり)であろう
 おれたちの唇(くちびる)は歓呼(くわんこ)の声(こゑ)を叫(さけ)ぶにはあまりに干乾(ひから)びている
 おれたちの胸(むね)は凱歌(がいか)を挙(あ)げるには苦(くる)し過(す)ぎる
 やつらが勝(か)たうと負(ま)けようと、中国(ちうごく)と日本(にほん)の兄弟(きやうだい)の上(うへ)に×圧(あつ)の鞭(むち)は層(そう)一層高(そうたか)く鳴(な)り
 暴×の軛(わだち)は更(さら)に烈(はげ)しく喰(く)ひ入るのだ!

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連載 六 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」 第二連】

 おれは思(おも)ひ出(だ)す、銃剣(じうけん)の冷(つめた)く光(ひか)る夜(よ)の街(まち)に
 反×の伝単(でんたん)を貼(は)り廻(まは)して行(い)つた労働者(らうどうしや)を
 招牌(せうひ)の蔭(かげ)に身(み)を潜(ひそ)め
 軒下(のきした)を忍(しの)び塀(へい)を攀(と)ぢ
 大胆(だいたん)に敵(てき)の目(め)を掠(かす)めてその男(をとこ)は作業(さげふ)を続(つゞ)けた
 彼(かれ)が最後(さいご)の一枚(まい)に取(と)り掛(かゝ)つた時
 歩哨(ほせう)の鋭(するど)い叫(さけ)びが彼(かれ)の耳(みみ)を衝(つ)いた
 彼(かれ)は大急(おほいそ)ぎでビラを貼(は)り
 素早(すばや)く横手(よこて)の小路(こみち)に身(み)を躍(をど)らせた
 その時彼(ときかれ)は背後(はいご)に迫(せま)る靴音(くつおと)を聞(き)き
 ゆくてに燦(きら)めく銃剣(じうけん)を見(み)た
 彼(かれ)は地上(ちじやう)に倒(たふ)れ、次々(つぎつぎ)に×[突]き×[刺]される銃(じう)×の下(もと)に、潮(うしほ)の退(しりぞ)くやうに全身(ぜんしん)から脱(ぬ)けて行(ゆ)く力(ちから)を感(かん)じ
 おとろへた眼(め)を歩哨(ほせう)の掲(かゝ)げた燈(ともしひ)に投(ね)げ
 裂(さ)き捨(す)てられ泥(どろ)に吸(す)はれた伝単(でんたん)を見詰(みつ)め
 手(て)をかすかに挙(あ)げ、唇(くちびる)を慄(ふる)はし
 失(うしな)はれゆく感覚(かんかく)と懸命(けんめい)に闘(たゝか)ひながら、死(し)に至(いた)るまで守(まも)り通(とほ)した党(とう)の名(な)をとぎれとぎれに呼(よ)んだ
 ……中(ちう)、国(こく)、共(きやう)、×、×、万……

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連載 七 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」 第三連】

 ――秋(あき)。奉天(ほうてん)の街上(かいじやう)で銃架(じうか)はひとりの同志(どうし)を奪(うば)ひ去(さ)つた
 しかし次(つぎ)の日(ひ)の暮(く)れ方(かた)、おれは帰(かへ)りゆく労働者(らうどうしや)のすべての拳(こぶ)しの中(うち)に握(にぎ)り占(し)められたビラの端(はし)を見(み)た電柱(でんちう)の前(まえ)に、倉庫(さうこ)の横(よこ)に、風(かぜ)にはためく伝単(でんたん)を見(み)た同志(どうし)よ安(やす)んぜよ、君(きみ)が死(し)を以(もつ)て貼(は)り付(つ)けたビラの跡(あと)はまだ生々(なまなま)しい
 残(のこ)された同志(どうし)はその上(うへ)へ次々(つぎつぎ)に伝単(でんたん)を貼(は)り廻(まは)すであらう

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連載 八 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」 第四連】

 白樺(しらかば)と赤楊(はんのき)の重(かさ)なり合(あ)ふ森の茂(しげ)みに銃架(じうが)の影(かげ)はけふも続(つゞ)いて行(ゆ)く
 お前(まへ)の歴史(れきし)は流(りう)×[血]に彩(いろど)られて来(き)た
 かつて亀戸(かめど)の森(もり)に隅田(すみだ)の岸(きし)に、また朝鮮(てうせん)に台湾(たいわん)に満州(まんしう)に
 お前(まへ)は同志(どうし)の咽(のど)を×き胸(むね)を×り
 堆(うづた)い死屍(しかばね)の上(うへ)を×に酔(よ)い痴(つか)れて突(つ)き進(すゝ)んだ
 生(い)ける銃架(じゆうが)。おう家(いへ)を離(はな)れて野(の)に結(むす)ぶ眠(ねむ)りの裡(うち)に、風(かぜ)は故郷(こきやう)のたよりをお前(まえ)に伝(つた)へないのか
 愛(あい)するお前(まへ)の父(ちゝ)、お前(まへ)の母(はゝ)、お前(まへ)の妻(つま)、お前(まへ)の子(こ)、そして多(おほ)くのお前(まへ)の兄妹(きやうだい)たちが、土地(とち)を逐(お)はれ職場(しよくば)を拒(こば)まれ、飢(う)えにやつれ、歯(は)を喰(く)い縛(しば)り、拳(こぶし)を握(にぎ)つて、遠(とほ)く北(きた)の空(そら)に投(な)げる憎(にく)しみの眼(め)は、かすかにもお前(まへ)の夢(ゆめ)に通(かよ)はぬのか
 裂(さ)き捨(す)てられる立禁(たちきん)の札(ふだ)。馘首(かくしゆ)に対(たい)する大衆抗議(たいしうこうぎ)。全市(ぜんし)を揺(ゆる)がすゼネストの叫(さけ)び。雪崩(ゆきなだ)れを打(う)つ反(はん)×のデモ。吹(ふ)きまく弾(だん)×の嵐(あらし)の中(なか)に生命(せいめい)を賭(と)して闘(たゝか)ふお前(まへ)たちおれたちの前衛(ぜんゑい)、あゝ×××××!
 ――それもお前(まへ)の眼(め)には映(うつ)らぬのか!
 生(い)ける銃架(じゆうが)。お前(まへ)が目的(もくてき)を知(し)らず理由(りいう)を問(と)はず
 お前(まへ)と同(おな)じ他(た)の国(くに)の生(い)ける銃架(じゆうが)を射(しや)×[殺]し
 お前(まへ)が死(し)を以(もつ)て衛(まも)らねばならぬ前衛(ぜんゑい)の胸(むね)に、お前(まへ)の銃剣(じうけん)を突(つ)き刺(さ)す時(とき)
 背後(はいご)にひゞく万国資本家(ばんこくしほんか)の哄笑(こうせふ)がお前(まへ)の耳(みゝ)を打(う)たないのか

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連載 九 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」 第五連】

 突如鉛色(とつじよなまりいろ)の地平(ちへい)に鈍(にぶ)い音響(おんきやう)が炸裂(さくれつ)する
 砂(すな)は崩(くづ)れ影(かげ)は歪(ゆが)み、銃架(じゆうが)は×を噴(ふ)いて地上(ちじやう)に倒(たふ)れる
 今(いま)ひとりの「忠良(ちうりやう)な臣民(しんみん)」が、こゝに愚劣(ぐれつ)な生涯(しやうがい)を終(お)へた
 だがおれは期待(きたい)する、他(た)の多(おほ)くのお前(まへ)の仲間(なかま)は、やがて銃(じう)を×に×ひ、剣(けん)を後(うしろ)に×へ
 自(みづか)らの解放(かいほう)に正しい途(みち)を撰(えら)び、生(い)ける銃架(じうが)たる事(こと)を止(とゞ)めるであらう

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連載 十 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」 第六連】

 起(た)て満州(まんしう)の農民労働者(のうみんらうどうしや)
 お前(まへ)の怒(いか)りを蒙古(まうこ)の嵐(あらし)に鍛(きた)へ、鞍山(あんざん)の溶鉱炉(ようこうろ)に溶(と)かし込(こ)め!
 おう迫(せま)りくるも×の怒濤(どどう)!
 遠(とほ)くアムールの岸(きし)を噛(か)む波(なみ)の響(ひゞ)きは、興安嶺(こうあんれい)を越(こ)え、松花江(しようくわこう)を渡(わた)り、哈爾賓(はるぴん)の寺院(じゐん)を揺(ゆ)すり、間島(かんたう)の村々(むらむら)に伝(つた)はり、あまねく遼寧(れいねい)の公司(こんす)を揺(ゆ)るがし、日本駐屯軍(にほんちうとんぐん)の陣営(ぢんえい)に迫(せま)る

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連載 十一 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」 第七連】

 おう、国境(こくきやう)を越(こ)えて腕(うで)を結(むす)び×の防塞(ぼうさい)を築(きづ)くその日(ひ)はいつ。

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連載 十二 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」の解説】

 詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を解説します。
 「銃架」は、銃を支えて保持する器具です。銃を地面に設置したり車両や船舶などに取り付けるために用いられます。ここでは、日本軍の中国東北部の満州に派遣された満州駐屯軍兵卒を兵隊を「生ける銃架」だとしています。
 【第一連】
 その兵士の一隊が高粱(コーリャン。イネ科の一年草。モロコシの一種で、実を食用、醸造用とします)の畠の中を黙々と進んで行きます。
 〈お前の影は人間の形を失ひ、お前の姿は背嚢に隠れ/お前は思想を持たぬたゞ一箇の生ける銃架だ〉。日常の幸せを求める同じ働く者の一員なのに、いまは天皇の軍隊の、殺人のための機械にされている男たち。
 その集団のひるがえす軍旗の行く先々の街や村で中国の民衆は彼らを憎しみと反抗をもって迎えています。
 軍列は奉天の城門をくぐりました。「資本家」と「利権屋」の一隊が歓呼の声をあげます。「資本家」と「将軍」は戦闘に勝ちましたが、それが日本の[労働者農民]にとって何の勝利になることでしょうか。彼らが勝とうと負けようと「中国と日本の兄弟」への弾圧はいっそう激しくなります(満洲事変が勃発後、遼寧省奉天に関東軍の土肥原賢二を首班とする奉天市政府が成立。十月十五日、趙欣伯が奉天市市長に就任します)。
 【第二連】
 日本軍の侵攻にたいし反戦のビラをはりめぐらす中国の労働者。
 彼は日本軍の兵士に見つかり銃剣で刺され、「中国共×××、万……」と呼んで息を引きとります。
 【第三連】
 しかし、次の日の暮れかた、「おれ」は帰りゆく労働者のすべてのコブシのうちに握ぎりしめられたビラのはしを見ました。電柱の前に、倉庫の横に、風にはためくビラを見また。〈同志よ安んぜよ、君が死を以て貼り付けたビラの跡はまだ生々しい〉。
 【第四連】
 銃架の影は、きょうも続いて行きます。
 〈お前の歴史は流×に彩られて来た/かつて亀戸の森に隅田の岸に、また朝鮮に台湾に満州に/お前は同志の咽を×き胸を×り/堆い死屍の上を×に酔い痴れて突き進んだ〉。 (「亀戸の森に隅田の岸に」は、亀戸事件のことです。一九二三年九月一日午前十一時五十八分、関東大震災が起きました。二日成立したばかりの山本権兵衛内閣は翌三日、東京府と神奈川県に戒厳令をしき、軍隊を動員しました。混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流され、多くの町内で在郷軍人や青年団が「自警団」を組織し、朝鮮人に襲いかかりました。軍隊も、とくに江東方面では朝鮮人を「敵」として追いたて殺害しました。三日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(二十一歳)=日本共産青年同盟委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(二十歳)、鈴木直一(二十三歳)、近藤広造(十九歳)、加藤高寿(二十六歳)、北島吉蔵(十九歳)、さらに同会の吉村光治(二十三歳)、佐藤欣治(二十一歳)、純労働組合の平沢計七(三十四歳)、中筋宇八(二十四歳)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。同署では、その夜から翌日にかけて、多数の朝鮮人が虐殺されました。川合ら十人は軍に引き渡され、五日未明、近衛師団の騎兵第十三連隊の兵士によって刺殺されました。)。
 〈生ける銃架。おう家を離れて野に結ぶ眠りの裡に、風は故郷のたよりをお前に伝へないのか/愛するお前の父、お前の母、お前の妻、お前の子、そして多くのお前の兄妹たちが、土地を逐はれ職場を拒まれ、飢えにやつれ、歯を喰い縛り、拳を握つて、遠く北の空に投げる憎しみの眼は、かすかにもお前の夢に通はぬのか/裂き捨てられる立禁の札。馘首に対する大衆抗議。全市を揺がすゼネストの叫び。雪崩れを打つ反×のデモ。吹きまく弾×の嵐の中に生命を賭して闘ふお前たちおれたちの前衛、あゝ×××××!〉(「ゝ×××××」は、日本共産党です。)。
 【第五連】
 いま、戦闘で日本兵が地上に倒れ、息を引きとりました。
 〈だがおれは期待する、他の多くのお前の仲間は、やがて銃を×に×ひ、剣を後に×へ/自らの解放に正しい途を撰び、生ける銃架たる事を止めるであらう〉(「銃を×に×ひ、剣を後に×へ」は、銃を後ろに狙い、剣を後ろに構え。)。
 【第六連】
 起て満州の農民労働者。
 〈遠くアムールの岸を噛む波の響きは、興安嶺を越え、松花江を渡り、哈爾賓の寺院を揺すり、間島の村々に伝はり、あまねく遼寧の公司を揺るがし、日本駐屯軍の陣営に迫る〉。「公司」は、会社のことです。
 【第七連】
 <おう、国境を越えて腕を結び×の防塞を築くその日はいつ。〉

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連載 別項 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【参考文献】

 ・吉田豊道『吉田豊道作 唱歌集』。高知市第六尋常小学校。一九二一年十二月。土佐山内家宝物資料館(高知市鷹匠町二丁目)蔵。

 ・「“天才児”吉田豊道君」。土陽新聞。一九二二年五月二十九日。

 ・『吉田豊道創作 童謡と童話』。高知市第六・尋常小学校お伽会。一九二二年七月。

 ・『吉田豊道創作 童謡と童話』。高知市第六尋常小学校お伽会。一九二二年八月。

 ・『大正十一年八月 吉田豊道創作 童謡と童話』。高知市第六尋常小学校。一九二二年八月。

 ・『新青年』三巻十一号。博友社。一九二二年九月一日。

 ・「高知の天才児 吉田豊道君」。週刊婦女新聞。一九二二年十一月十三日。

 ・槇村浩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」=『大衆の友』。日本プロレタリア文化連盟。一九三二年二月創刊号。

 ・貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』。新日本出版社。一九六四年十月十日。

 ・近森俊也編集『ダッタン海峡』二・三合併号。小路貞次郎。一九六四年十一月。

 ・槇村浩の会『ダッタン海峡 第九号』。槇村浩の会。二〇〇四年一月二十六日。

 ・槇村浩の会『槇村浩詩集』。平和資料館・草の家。二〇〇三年三月十五日。

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連載 十三 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【小学生のころは「眞に世界の大帝国」と歌っていました】

 吉田豊道は、高知市第六尋常小学校の児童のころ、大日本帝国の侵略政策を是とする文章を書きます。一九二一年十二月に出た『吉田豊道作 唱歌集』(高知市第六尋常小学校)の中の「日本歴史」(一九二一年十一月、高知市本町自宅で)です。
 以下、抜き書きします。

 (一)我が日の本の光輝ある
    清き歴史は三千年
    動かぬ御代は天つ日の
    光と共に限りなし

 (二)北は樺太千嶋[からふとちしま]より
    南台湾澎湖島[ほうことう]
    曇らぬ御代の御稜威[みつい。天皇の威光]
    暮らす同胞(ハラカラ)七千萬

 (三)豊葦原[とよあしはら]の瑞穂の国
    出す忠君英雄は
    天地と共につきはてず
    いざや語らん其のあとを

 (四)天皇陛下の御先祖の
    天の御神の御孫の
    にゝぎの尊は日の本の
    高千穂峯に降らるゝ
 
 (一四)日清日露の戰役に
    一躍東洋最強国
    大正三年六月に
    起るは世界大戰役

 (一五)聯合軍は大勝し
    我が日の本の帝国は
    国威宣揚三強の
    列に入つて活動す
 
 (一六)建国以来三千年
    敗をばとりし事はなく
    皇統一系連綿と
    眞に世界の大帝国

 (一七)三強国の列に入り
    東洋平和の盟主となり
    国威隆々と輝きて
    萬世不滅果もなし

 天皇の戦争政策に忠実な頭の良い少年という感じですね。
 この文章を書いたあとの、彼の人生のいとなみが「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を彼に書かせました。

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連載 十四 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【吉田豊道の子ども時代① 幼いころから文字への感覚がすぐれていました】

  それでは、子どものころの吉田豊道が、どんな少年だったのか見ていきましょう。
まずは、年表風に示します。
 一九一二年六月一日、吉田豊道が、高知市廿代町八十九番屋敷に生まれました。本籍・高知市比島町七十八番地(のち比島七百三十八番地)。父・才松、母・丑恵。「父才松は三重県の出身、九星学を専攻し周易を業とする。母は高知市弘岡町一三〇番地屋敷の野村束稲、熊の長女として生まれる。野村家は土佐藩の下級武士、三人扶持六石、束稲は戊辰の役に出征、のち近衛連隊の下士官を経て高知県営林局の官吏となる。丑恵は産婆を業としている。豊道は出産予定日より二八日早く生まれたため、牛乳を五倍にうすめて母乳の不足を補った。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』。新日本出版社。一九六四年十月十日 初版)。
 一九一三年、「誕生日前後、言葉のまだいえない頃から字にたいする感覚がすぐれていた。たとえば自分の名豊道とかいた団扇[うちわ]を使っていた。カルタなどの人物の名前もよく判じた。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 一九一四年、「母に背負われて街筋の看板の字をよんだりした。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 一九一五年~一九一六年、「高知市楠病院で待合室においてある医学雑誌を音読していたのを医師の横山鉄太郎(耳鼻咽喉科医)がみて驚いた。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。

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連載 十五 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【吉田豊道の子ども時代② 学齢前に父を失って……】

  一九一八年十一月四日、吉田の父が胃がんで死亡しました。
 母一人、子一人の暮らしになります。
 一九一九年四月、吉田が高知市第二尋常小学校に入学しました。
 しかし、同年八月、吉田が母とともに、母の叔父で郵船会社の重役をしていた森田葆先を頼って福岡県門司市に転居しました(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 一九二〇年九月、吉田が母と一緒に高知市へ帰ってきます。寄留先は、高知市中島町二八六、山崎産医院。母は、この医院の手伝いとなりました(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。

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連載 十六 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【吉田豊道の子ども時代③ 高知市第六尋常小学校の役割】

 吉田は、一九二〇年同年十月二十五日、高知市第六尋常小学校の二年生に転入します。
 この学校の教師らによって吉田の文字についての才能が引き出されます。
 横山鉄太郎医師が、吉田の文才を高知市第六尋常小学校の教師の海治国喜に告げ、海治は、吉田を可愛がり、その文才を特別に育てることになりました。
 一九二一年ころの吉田の身長三尺九寸六分(約九十センチメートル)、体重五貫四百二十匁(約二十キログラム)(貴司山冶、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 一九二一年四月、高知市第六尋常小学校三年生に。主任は、海冶国喜先生。
 このころ、「第六小学校に神童あり」と、高知県下に噂されはじめます。
 同年八月、地理歴史の講演で高知入りした参謀本部編纂官・長瀬鳳輔が旅館で吉田と面会。ナポレオン一世のこと、欧州大戦後の新興国の名、西郷隆盛のことなどを質問、吉田は、それに答えました。長瀬は、吉田の地理歴史の記憶力が絶倫であること、数学の理解力も驚くばかりであるところに感心しました。長瀬は、吉田を養子にと母に申し入れました。当時、吉田は病院の看護婦長である母と二人暮らし。長瀬鳳輔「神童 吉田豊道君」=『新青年』三巻十一号)。
 同年十一月十三日の週刊婦女新聞が「高知の天才児 吉田豊道君」を掲載。「…四歳にして文字を解しその博学多識は人をして舌を巻かしむるもの…」とあります。尋常小学校三年生の吉田が、歴史書五十二冊、地理書三十九冊を所持とあります。
 同年十二月、『吉田豊道作 唱歌集』(高知市第六尋常小学校お伽会)が出ます。この冊子に前述の「日本史」が載っていました。 
 一九二二年四月、吉田が高知市第六尋常小学校四年生に。
 同年五月二十九日、土陽新聞が「“天才児”吉田豊道君」の記事を掲載します。
 同年七月八日、吉田が文部省の塚原督学官の提題で「時事論 支那問題」を書きます。「……あヽ此[こ]の国に統一の使命をもたらして次に出づる大英雄はそも誰ぞ支邦四億の人民其[そ]の人を待つ事や久し」と、結ばれています。
 同年七月、『吉田豊道創作 童謡と童話』(高知市第六・尋常小学校お伽会)が出ます。
 同年八月、『吉田豊道創作 童謡と童話』(高知市第六尋常小学校お伽会)が出ます。
 同年九月、雑誌『新青年』九月号に長瀬鳳輔の「神童吉田豊道君」掲載。
 同年十一月、吉田が、高知を訪問した皇族・久邇宮邦彦に進講します。久邇宮からアレキサンダーについてのべよといわれて「アレキサンダーといっても何人もいる。どのアレキサンダーか」とききかえしました(貴司山冶・中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 一九二三年ころ、高知市第四尋常小学校で吉田のおとぎ話を聞く催しが開かれました。吉田は教員にともなわれて出席。聴衆は同校の教師と千人近い児童。同校の児童だった永吉すヽむのそのときの吉田の印象=「……小さな身体で、ひどく頭のデッカイ、ぱっちりと開いた瞳が美しく澄みきっていた吉田君は、ぐるりと異校の教員達に囲まれ、千人近い学童の前で話をするのに、いささかのおくする気配も無く、子供とも思えぬタイゼンたる姿であった……」(吉永すヽむ「あの頃の思い出」=近森俊也編集『ダッタン海峡』二・三合併号)。

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連載 十七 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【郷土史家・寺石正路が援護者に】

  吉田は、高知市第六尋常小学校を一九二三年三月の四年生の終わりに修了することになります。普通は六年生ですので二年も早い修了です。
 この時期に吉田の援護者として登場したのが高知九反田の中学南海学校の地理、歴史科の教師・寺石正路(一八六八年十月十七日~一九四九年十二月二十三日)です。寺石は、吉田が秀才学校として特殊教育をしていた高知市の私立土佐中学校に進学するさいの橋渡しをしています(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡』第九号)。
 寺石は、東京大学予備門(第一高等中学校の前身)で正岡子規、秋山真之、南方熊楠などと同級。高知の宿毛貝塚、愛媛の平塚貝塚を発見し縄文文化の調査をしました。そして、一八九二年から母校の中学海南学校で地理・歴史科の嘱託教諭をつとめていました。郷土史、考古学、民俗学、人類学などの分野での論文執筆を重ねていました。当時までに、『土佐遺聞録』、『土佐古跡巡遊録』、『食人風俗考』、『土佐に於ける菅公古伝』、『土佐名勝志』、『土佐偉人伝』、『南国遺事』、『維新土佐歴史』、『従五位大石円翁略伝』、『江藤新平ト土佐人』の著書がありました。
  一九二三年三月初め、吉田が、高知市の私立土佐中学校の入学試験を受けます。同じ教室で試験を受けた下司順吉の、その日の吉田の印象=「吉田は小柄で、青白い顔をした、頭の大きい少年で、縞[しま]の袴[はかま]をはいていました。黒い大きな瞳がぬれたように輝いて、かしこさがにじみでている感じでした」(下司順吉「吉田豊道の思い出」=『ダッタン海峡』第五号)。その日の夕方、十五人ほどの合格者が発表されます。吉田、下司、山本大和、川島哲郎らが合格しました。
 同月、吉田は、高知市第六尋常小学校四年生を修了しました。

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連載 十八 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【日本文学、外国文学を読みあさりました。】

 高知市の私立土佐中学校の校長は美根円次郎(東京帝国大学卒で初代校長。三根徳一=ディック・ミネの父)でした。
  一九二三年四月、吉田は、私立土佐中学校の本科一年生に入学しました。
 本来は予科に入学するのを二年とびこえました。
 しかし、勉学はうまくいきませんでした。
 「十歳で神童、十五歳で秀才、二十歳すぎればただの人」いった調子の教師の虐待を受けました(貴司山冶、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 これを見かねて中学南海学校の地理、歴史科の教師・寺石正路が特別に可愛がりました。
 同年二学期、吉田は、私立土佐中学校予科一年生に戻され元の仲間と一緒になります。
 このころの吉田についての同級生の下司順吉の文章があります。
 〈予科のとき、清少納言の『枕の草子』を読んでいるのをみておどろきました。この本は少年たちにはまったく難解な古文です。おもしろいかと私がたずねると、おもしろいというのです。かれは日本文学、外国文学を手あたりしだいに読みあさっていました。かれは、もの静かで、ひかえめな人柄で、口に手をあててはずかしそうにものをいう癖がありましたが、ときには文学についての博識をとうとうとのべて、私たちを敬服させました〉(下司順吉「吉田豊道の思い出」=槇村浩の会『ダッタン海峡 第五号』)。
 一九二四年一月二十四日に『高知市第六小学校児童文集 蕾』が出ます。吉田の八つの文章が載りました。

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連載 十九 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【尊敬していた為政者の天皇に疑問をいだくようになりました。】

 一九二四年四月、吉田は私立土佐中学校予科二年生になりました。
 このころ吉田の考え方に変化がおきていました。小学生のころは、尊敬していた為政者の天皇に疑問をいだくようになったのです。
 同級だった川島哲郎が、「大正十二[一九二三年]~三年[一九二四年]の頃」のこととして語っています。
 〈私は当時[高知市]小高坂におりまして親父に自転車をかってもらいまして、自転車で通学しておりましたけれど吉田は歩いて通学していたと思います。それで帰り道に吉田と話をする為に帰り道は吉田の家の前まで自転車をついて歩きながら、毎日そうやって通ったことでした。なぜそれほど吉田と一緒に歩くのが楽しみだったかといいますと、毎日毎日ルパンの話を続きものでやってくれるわけですね。(中略)それで吉田の家にも何回か寄ったことがあるんですが、(中略)薄暗い長屋のようになっていまして、二階が吉田の部屋でしたが、第一に驚いたことは膨大な書物があるということですね。(中略)大鏡や増鏡の本があったのをおぼえています。大正十二~三年の頃です。〉、〈吉田の話の中で一つだけ印象に残っているのは雄略天皇の話なんです。雄略天皇が暴虐の限りをつくしたという話なんです。(中略)天皇がそういう非道なことをするということは実に青天の霹靂[へきれき]でしたね〉(槇村浩生誕七十周年記念の集い 『槇村浩(吉田豊道)と同時代を語る』=槇村浩の会編『ダッタン海峡 第七号』)。
 日本の古典、『古事記』、『日本書紀』を読むなかでの発見だったと思います。この時点で吉田は大元帥である天皇への忠君愛国という観念から脱出していたと思います。
 吉田について、この考えは思いつきのようなものではありませんでした。
 彼は反戦詩を書き出したあと『日本詩歌史』という評論を書きましたが、そこでも、つぎのようにのべています。
 〈そして圧制の時代がきた。記紀はじめすべての文書は、一せいに歴史はじまって以来の日本の最大の暴君について、特筆大書している。惨殺、クーデター、侵略戦争、共同倉庫の掠奪、女性と奴隷に対するはてしなき悪行――これが大悪天皇と呼ばれた雄略天皇の治世だった。〉
 天皇を「万世一系」で「神聖ニシテ侵スヘカラス」と国民に宣伝するうえで政府は『古事記』(七一二年に太朝臣安萬侶=おほのあそみやすまろ=によって献上されたとされています)、『日本書紀』(舎人親王らの撰で七二〇年に完成したといわれます)の内容の一部を神話として宣伝しましたが、よく読むと、それらに描かれた天皇の姿は残虐非道なケースが多く、この宣伝は矛盾に満ちたものでした。
 たとえば、『古事記』ではどうか。
 それについては、雁屋哲作・シュガー佐藤画『マンガ 日本人と天皇』(いそっぷ社。二〇〇〇年十二月二十日)が登場人物の東塔大学理事長に語らせていますので引用させていたただきます。
 〈『日本書紀』は天皇家自身が編纂した史書であるにもかかわらず 天皇家代々の残虐な行いや醜聞が多く記録されている〉
 〈たとえば第二〇代の安康(あんこう)天皇は大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺し その妻を自分の皇后とする ところが大草香皇子と皇后の子どもである眉輪王(まよわおう)は後に安康天皇が酒に酔って自分の母である皇后の膝を枕にして寝ているところを殺してしまう すると後の第二一代の雄略(ゆうりゃく)天皇になる安康天皇の弟がその眉輪王を殺してしまう〉
 〈さらに雄略天皇は自分の兄たちを何人も殺す わがまま勝手に部下を斬り殺す 自分の求めに背いて他の男と通じた婦人とその夫を焼き殺すなど人を殺すことが多かったので人々は天皇を「大悪の天皇」と誹謗(ひぼう)したとある〉
 〈凄(すご)いのは第二五代の武烈(ぶれつ)天皇だ 天皇は妊婦の腹を割き 人の生爪をはいでその手で芋を掘らせ 人を池の樋(とい)に入らせて流れ出てくるところを矛で突き殺して遊び 人の髪の毛を抜いて木に登らせてその木を倒して殺すのを楽しみにし いつも酒に酔いしれて遊びほうけて贅沢(ぜいたく)をし人民が飢えているのも気にしなかったと書紀には書いてある〉
 〈継体天皇以降も大変だ 天智(てんじ)天皇の息子大友皇子(おおとものおうじ)を叔父の天武(てんむ)天皇が殺す すると 天智天皇の娘である天武天皇の后になりその亡き後女帝となる持統(じとう)天皇が 叔父で夫である天武天皇の息子・大津皇子(おおつのおうじ)を殺す 近親相姦・親子兄弟伯父甥の殺し合い 何でもありだ〉

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2013.07.24

連載 二十 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【熱心に吉田の勉学を支える寺石正路】

 寺石正路の日記(高知県立歴史民俗資料館蔵)の一九二四年十二月三日からを見ると、寺石正路が熱心に吉田の勉学を支えようとしているのがわかります。
 吉田の勉学について相談のため吉田や吉田の母・吉田丑恵や私立土佐中学校長の美根円次郎に何回も会います。
 四男の忠弘に週三回ほど勉強をみさせています(一九二五年六月十五日から)。
 吉田が病気になれば(一九二五年七月三十一日)本人や忠弘が見舞いにいっています。
 また、高知市升形の「川島家」からの吉田への援助資金を受け取り定期的に丑恵にわたしています。

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連載 二十一 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【軍事教練の成績は丙】

 一九二五年四月四月十一日、陸軍現役将校学校配属令(勅令第百三十五号)が公布されました。
 同令によって、一定の官立、または公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属されました。
 各学校は配属将校に学校教練(軍事教練)を実施させました。
 これを履修した者は陸軍では一年現役兵を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられました。
 学校教練教材要目としては、各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、手旗信号、距離測量、測図学、軍事講話、戦史などで、教材の配当は学校の程度に応じて差異がありました。
 吉田の通っていた私立土佐中学校でも軍事教練が実施されます。
 同年四月二十二日、治安維持法が公布されました。
 一九二六年、吉田は、腸チフスにかかって長期療養、休学となりました。
 吉田は、この軍事教練をいやがっていたふしがあります。
 一九二七年一月十五日、三月二十三日の吉田の私立土佐中学校本科二年生の「成績証明証」によると彼の席次は二十八人中二十八位でした。成績は、いいほうから甲、乙、丙、丁ですが、吉田は、教練は丙、修身は丁です。
 吉田は、私立土佐中学校から去らざるをえなくなります。

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連載 二十二 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【「青春 献じる詞(牢獄にて)」でうたった私立土佐中学校時代】

 吉田は、のちに書いた詩「青春 献じる詞(牢獄にて)」で、私立土佐中学校でのことを書いています。

 <ひょろ長いみづきが銀木犀の傍で猫のように枝をふっている
 アルマーニュの谷間の忘れられた寺院が
 春さきのせゝらぎの中から
 こってり厚化粧して飛び出して来たように
 横肩を落してその上からのぞきこむ――
 古ぼけた銅像と校舎と庭園と運動場を
 そして持主のブルジョアが水っぽい壁の上にはりつけたレッテル――T・M・S
 ずり落ちそうな古カバンを抱え
 だぶ/\のズボンをたくしあげ
 鍔(つば)広い帽子をめくって額の生際をふきながら
 十一から十四までを僕はこゝに通った
 神経質な電鈴が、錆(さ)びついた壁のひゞわれにしみこんでは
 百人の少年たちの海燕(うみつばめ)のような心臓をひんまげては急かし立てる校舎で
 猫背になり
 僕は室の中で真直ぐに立とうとするねずみもちのような時代を過したのだ

 止めよう! 石膏のぼろ/\落ちた美術館の飾棚の上で
 首の落ちた少年像をまたまさぐるなんて!
 カラーの折り込みに苦心する級友の間で、
 ぼろ/\の帽子を目深かに引っかぶって
 僕は曲げられぬねずみもちの誇りを捨てなかった
 この幼い誇りが
 ひねくれた庇(ひさし)からふてくされた顔を面とさらすまでには
 孤独な情熱を燃やしきる鉄の火炉(ろ)が沢山まだ必要だったのだ

 おゝ人がかたくなな青春の銅扉の前にたじろいだ時
 感傷のニュアンスは何と流れるように日の旋(めぐ)りを経(へ)たしめたことだろう

 この期間のなつかしい友人たちを僕は永久に忘れない
 低い鉄柵と石楠(しゃくなげ)の並木の間で
 何となく友欲しさに交わしさ愛情は
 ヒューマニズムの昂奮に燃えて探し廻った「正義」は
 決して忘れられるものぢゃないのだ!>
 <さようなら! と僕が言った
 それは不遜な少年たちが次々に放校される順番が
 僕に廻って来た時だった
 (中略)Kが姿を見せなくなってから間もなく
 ひっぺがした上のホックと
 下から二番目のM・ボタンをかけぬ学校に
 僕は永別したのだ>
 「M・ボタン」というのは男性用のズボンの前のボタンのことです。

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連載 二十三 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【寺石正路が中学海南学校の二年生への編入に尽力】

 私立土佐中学にいられなくなった吉田。
 つぎにどうするかの模索が始まります。
 ここでも寺石正路が手を差し出します。
 寺石正路の一九二七年一~五月の日記から関連記事を抜きだします。

 一月一二日 吉田豊道母病院退家件来訪
 一月二二日 吉田豊道帯屋町転宅[弘人屋敷=ひろめやしき=の長屋のことか] 母丑[丑恵]来る
 三月一一日 吉田丑江[丑恵]氏来 豊道前途要談
 三月一二日 吉田豊道家に参り豊道将来のこと相談す
 三月一三日 吉田豊道来り良弘[正路の二男]面会
 三月一四日 吉田豊道一件相談
 三月一九日 朝吉田丑江[丑恵]来訪
 三月二四日 吉田豊道来 明日再来約
 三月二五日 吉田豊道□難 病院に吉田丑江[丑恵]を訪ひ豊道件要談
 三月二六日 三根円次郎氏[私立土佐中学校校長]に吉田豊道件依頼状
 四月 四日 北奉公人町高橋氏に吉田豊道一件依頼
 四月一〇日 吉田丑江[丑恵]女史来 明日[豊道の]成績発表
 四月一一日 吉田氏来 豊道二年入学件相談す云々
 四月一二日 夜多田氏訪問(中略)吉田豊道要談
 四月一三日 吉田豊道海校[中学海南学校]二年入学 吉田家訪問通知 吉田丑江[丑恵]来
 五月 三日 吉田丑恵転宅留件来訪
 五月 六日 吉田丑恵に授業料受取送

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連載 二十四 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【中学海南学校の二年生へ編入】

 一九二七年四月、吉田は高知県立中学海南学校(高知市九反田)の二年生に編入しました。
 当時の身長百六十センチメートル足らず。
 このころ、天皇の中国への侵略が拡大されていきます。
 吉田が中学海南学校の二年生へ編入した一か月後の、一九二七年五月二十八日、大日本帝国の第一次山東出兵が始まりました(~九月八日)。
 侵略政策に反対する国民の運動が広がり、それへの天皇制政府の弾圧が激しくなっていました。

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連載 二十五 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【吉田は、科学的社会主義に興味を持つようになります。】

 一九二七年四月、高知県立中学海南学校の二年生に編入した吉田は、この科学的社会主義に興味を持つようになります。
 ここで、当時の科学的社会主義の運動について少し書いておきます。
 カール・マルクス(一八一八年五月五日~一八八三年三月十四日)はドイツ人で科学的社会主義をうちたてました。それは、人民大衆の力こそが歴史をつくり社会進歩をおしすすめるという考え方です。
  日本でも、彼の考えかたを学ぶ人が出てきました。
 一九二〇年六月十五日、高畠素之訳でカール・マルクスの『資本論』刊行されます(一九二四年完結)。
 一九二二年七月十五日、科学的社会主義の党・日本共産党が創立されました。
 一九二三年四月五日、日本共産党とともに歩む青年団体・日本共産青年同盟が創立されました。
 同年九月一日の関東大震災の混乱に乗じて日本共産青年同盟委員長の川合義虎ら十人が、東京・亀戸署で軍隊に虐殺されます(九月三日から四日)。
 一九二五年四月二十二日、日本共産党などを標的に、天皇制政府は治安維持法を制定しました。「国体を変革」「私有財産制度を否認」することを目的とする結社の組織・加入・扇動・財政援助を罰するとしました。「国体」とは天皇が絶対的な権力をもつ戦前の政治体制で、「私有財産制度を否認」とは社会主義的な思想や運動をねじまげて描いた政府の表現です。この法律は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、前例のないものでした。
 同年九月二十六日、日本共産党の影響が強い無産者新聞が創刊されました。
 同年十月一日、無産者新聞(第二号)が「支邦から手をひけ」、「支邦の解放運動を熱烈に応援せよ」と訴えました。
 一九二七年一月十五日、無産者新聞は「対支非干渉運動を全国に起こせ!」と訴えました。
 同年二月二十六日には、無産者新聞が「即時撤兵を要求せよ――対支非干渉同盟を組織せよ」の社説を発表します。
 同年五月二十八日の無産者新聞は、第一次山東出兵のねらいを暴露し「支邦から手を引け」、「出兵に断固反対せよ」と主張しました。
 同月三十一日、日本で対支非干渉全国同盟が結成されます(一九二八年には戦争反対同盟に発展します)。
 一九二八年二月一日、日本共産党は、中央機関紙「赤旗」を創刊します。
 同年三月十五日、政府は日本共産党、労農党、日本労働組合全国評議会、無産青年同盟の千五百六十八人を検挙しました(三・一五事件)。そして、四百八十四人を治安維持法違反で起訴しました。
 同年三月二十五日、全国無産者芸術連盟が結成されます。プロレタリア文学の陣営は、いくつかの団体がありました。そのなかで日本プロレタリア芸術連盟=中野重治たちが所属=と前衛芸術家同盟=蔵原惟人、上野壮夫たちが所属=とは、同年三月十五日の弾圧をきっかけに、組織の合同をはかり、同年三月二十五日、全日本無産者芸術連盟を結成しました。日本プロレタリア芸術連盟、前衛芸術家同盟、雑誌『大学左派』の高見順、アナキズム系の三好十郎、江口渙、壺井繁治らを包括しました。

 いっぽうで、この時期、ソビエト社会主義共和国連邦は、国民と世界の敵対物になっていっていました。

 一九二九年七月ころ、ソビエト社会主義共和国連邦のスターリンが農業の強制集団化を開始、階級としての富農の絶滅政策を強行しました。同年七月、ソビエト社会主義共和国連邦は満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破ると同年十二月二十二日にハバロフスク議定書を締結し満州における影響力を強めました。
 その後も、その状態は悪化しました。
 〈(前略)30年代のなかば、ソ連国内では、革命と社会主義のために身をささげた何万何十万、さらにはそれを超える人たちが「外国帝国主義の手先」という無実の罪を着せられてテロの犠牲になりました。コミンテルンで活動していたわが党[日本共産党]の山本懸蔵などの同志を含め、多くの外国の共産党員もそれに巻き込まれました。
 その嵐が過ぎたあと、ソ連は、スターリンがすべての重要政策を1人で決定する、だれもがそれに無条件に従うという専制国家にすっかり変わっていたのです。
 スターリンは、この体制をつくりあげると、ソ連の領土と勢力圏の拡大を国家の至上目的とする大国主義、覇権主義の道に乗り出しました。まず、ヨーロッパで大戦が始まる直前、それまで掲げていたファシズム反対の旗を捨てて、ヒトラー・ドイツと手を結び、秘密条約(39年8月)で東ポーランド、バルト3国などを併合してしまったのです。(後略)〉(不破哲三「日本共産党創立90周年記念講演会 日本共産党の九十年をふりかえる」=しんぶん赤旗。二〇一二年七月二十一日)。

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連載 二十六 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【吉田がマルクスに屈服したとき】

 一九二七年四月、高知県立中学海南学校の二年生に編入した吉田は、この科学的社会主義の勉強を始めます。
 その動機や過程を彼自身が、のちに書いた文書があります。
 <自分は世上の俗論に迷わされて、マルクス主義は一個のユートピアに過ぎない信じて居た。しかも地上の反マルクス主義論は矛盾百出迷理錯雑一も理論として取るに足るべきものはない。よって自分はマルクス主義の正しくない事を完全に理論的に証明せんとして研究を始めたが、その結果は却[かえ]って同主義はあくまで正当であり、且[か]つ無産階級解放の唯一の途[みち]である事を認めるに至った。真理である以上実践するのは当然である。自分はかく信じてこれを行動に移したのである。 >(吉田が、治安維持法違反で入獄していたときの「入所時感想録」です。カタカナはひらがなにしました。)。
 猛烈な勉強ぶりだったようです。
 一九二七年の「ある日」、海南中学校四年生の横山三男(ペンネーム・光夫)が学校休んで高知市の高知県立図書館でトルストイの小説を読んでいると、「眉目秀麗の色白の学生が数冊の本をかかえて私の隣りにきた。見ると、なんとマルクスの資本論である。当時難解と膨大さで私たちの手のとどかなかった資本論を彼は刻明に読んでいる。しかも、そのスピードはかなり早い。私はかれが下級生なので気安く声をかけた。その男が吉田豊道であった。」(横山光夫『解放運動のあけぼの(高知県左翼運動覚書)』)。
 科学的社会主義の運動にかかわれば不利な目にあうことも心得ていました。
 一九二八年四月、吉田が高知県立中学海南学校三年生となった始業式の朝、吉田は、級友の富永三雄に治安維持法のことを話しました。
 「富やん、治安維持法という名の法律を知っているのか?」。「そういう名前の法律は聞いたことがある。それがどうした?」。「一九二五年三月成立。国民[ママ]の変革、私有財産制度を否認するものを罰する最高懲役を十年とするもの。そうした目的の結社への加入、その未遂、扇動をも対象とする、行動のみでなく、国民の思想をも対象とするもの。普通選挙を実現することの引きかえに、日ソ国交回復に備えて共産主義思想の流入を防ごうとするもの。この法律は絶対的官僚的勢力が、政党と妥協した、国体を守るための、天皇制擁護、革命防止の弾圧体制を整えたもので、世界でも比を見ない思想弾圧立法である」。「ソ連の共産主義とはどんなもんか?」。「これから勉強するよ」。(富永三雄『ひとつの出合い』)。
 この年の六月二十九日、治安維持法が緊急勅令によって改悪されます。最高刑が懲役十年だったのを、国体変革目的の行為に対しては死刑・無期懲役を加え天皇制批判には極刑でのぞむ姿勢をあらわにしました。「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。
 同年七月三日、特別高等警察課が全県に設置されました。
 二学期には学校で吉田の読む書物のなかに「赤い表紙のもの」が見えはじめます。
 始めは階段式の教室でやっていた化学の時間だけでしたが、そのうち、すべての教科を放棄し、授業中にカール・マルクスの著作を読みはじめます(富永三雄『ひとつの出合い』)。

 吉田は、自筆の年表で「懸賞論文の金でやっと長いことの憧れだった資本論を購入し、直ちにマルクスに傾倒する。」と書いています(「槇村浩(吉田豊道)の年譜」=貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌』)。
 この懸賞論文については、どういうものだったか分かっていません。

吉田が選んだ科学的社会主義の運動は、いばらの道でした。

 吉田が四年生になろうとしていた一九二九年三月五日夜、山本宣治が、一九二九年三月五日夜、右翼テロリストに暗殺されました。三十九歳でした。その日は、衆院で前年に緊急勅令で改悪した治安維持法の事後承認案の審議があり、山本は発言原稿を準備して議会に臨みますが、妨害にあって発言できず、東京・神田の宿舎に戻ったところを刺殺されたのです。山本は、京都大学や同志社大学で生物学を教えていた学者でしたが、学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって産児制限運動など世の中をよくする運動に身を投じます。一九二八年、労農党の代表として京都二区から衆議院議員に当選していました。

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連載 二十七 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【吉田の『戦旗』との出合い】

 全国無産者芸術連盟は、一九二八年五月に機関誌『戦旗』を創刊します(一九三一年十二月まで。全四十一号)。初代編集長は、佐藤武夫(一九〇六年九月二十日~一九二九年四月三日)。上野壮夫(通称ソウフ。戸籍上はソウオ。一九〇五年六月二日~一九七九年六月五日)は、創刊から終刊まで一時を除いて編集に携わります。
 翌月の六月、『戦旗』高知支局が確立しました。地域や学校にサークルがつくられました。学校では、高校班(伊与木ほか数十人)、師範班(田村乙彦、薮田忠夫ほか数人)、中学班(吉田豊道、毛利猛夫、畠中ほか数人)、女学校班(山崎小糸、横山、尾崎、小石ほか数人)(『高知県における共産主義運動の足跡』)。
 吉田は、この雑誌から、どのようなことを学んだでしょうか。
 全国無産者芸術連盟は、一九二八年五月に機関誌『戦旗』を創刊します(一九三一年十二月まで。全四十一号)。初代編集長は、佐藤武夫(一九〇六年九月二十日~一九二九年四月三日)。上野壮夫(通称ソウフ。戸籍上はソウオ。一九〇五年六月二日~一九七九年六月五日)は、創刊から終刊まで一時を除いて編集に携わります。
 翌月の六月、『戦旗』高知支局が確立しました。地域や学校にサークルがつくられました。学校では、高校班(伊与木ほか数十人)、師範班(田村乙彦、薮田忠夫ほか数人)、中学班(吉田豊道、毛利猛夫、畠中ほか数人)、女学校班(山崎小糸、横山、尾崎、小石ほか数人)(『高知県における共産主義運動の足跡』)。
 吉田は、この雑誌から、どのようなことを学んだでしょうか。
 なお、毛利猛夫、山崎小糸は、のちに反戦ビラを配布するときの仲間です。

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連載 二十八 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【『戦旗』の反戦詩群】

 吉田に影響を与えたと思われる機関誌『戦旗』の反戦詩を読んでみましょう。
 上野壮夫は、一九二八年七月号に「戦争へ!」を書きます。日本の中国侵略軍の兵たちの殺し、殺されるたたかいでの苦悩を描いています。

   
 ざつく ざつく ざつく ざつく
 ……どたり どたり ばた ばた………
 ぼろぼろの人間の肢体を見ろ
 蒼ぶくれたでくのぼう(、、、、、)の無限の列を見ろ
 ――こいつは動いて行く灰色の鎖だ
 ――こいつは歩いて行く屍骸の群だ
 口を空けてゐる
 白い眼を見開いてゐる
 銃剣をギラギラと光らせてゐる
 どたり どた ばた ばた………
 ……ざつく ざつく ざつく ざつく
 ――こいつは雑巾のやうに疲れ切った武器の密集部隊だ!

  黄色い海だ
  黄色い港だ
  黄色い街だ
  黄色い高粱畑だ
  支那だ!

 ばたり ばたり どど どど………
 何処かで赤ん坊が泣いてゐる
 ざつく ざつく ばた ばた………
 何処かで赤ん坊が泣いてゐる
 ――おっ母あ
 背中の餓鬼が泣いたら乳を呑ましてやるがええ
 畑にや真黒に烏がたかつて田圃にや水が涸れてゐたつけ
 あゝ
 赤ん坊は草刈籠の中で田のくろに泣いてゐやがった――
 ざつく ざつく どた どた……
 生きちや帰られめえ!
 ……ばたり ばたり

  黄色い高粱畑だ 支那だ!
  埃だ、風だ、射撃だ!

 ――隊長殿、疲れました
 ぢた ぢた…… ざつく ざつく ざつく
 考へても見ろよ、兄貴!
 俺あ娘つ子をやつつけたんだ、色の白い丸つこい十五の娘つ子を!
 俺の妹が会社の野郎にやつつけられた時にや……
 ――進軍だぞオ!
 ぢた ぢた ざつく ざつく ざつく
 ばた…… ばた……

 黄色い埃だ、支那だ!
 だが何だつて支那人を殺すんだ! えゝ?
 あゝ、おれは千人の中の一人なんだ
 千人の中の一人は殺すか殺されるかなんだ
 だが、何だつて――

 ぐわツつ ぐわツつ どど どど
 おれの故郷は海の向ふよ
 おれの寝床は海の向ふよ
 だが、海の向ふでだつて満足に眠れたことなんか無かつた
 いつも……いつも……飢えてゐたんだ
 ばた ばた ざつく ざつく ざつく……と

     進軍だぞオ!
   進軍だ!  
 進軍!
 何処へ行っても何処へ逃げても、あゝ
 進軍!
   進軍だ!
     進軍だぞオ! ばた ばた ばた

 こいつは武装された黄色い死骸の列だ
 こいつはどこまでもどこまでも殺(×)しに行く屠殺者の群だ
 こいつはどこまでもどこまでも殺(×)されに行く豚の群だ
 蛇のやうにのろのろと
 狼のやうにばたばたと
 ――そら、むしり取られた肢だ
 ――そら、えぐり抜かれた眼球だ
 頭と 肩と 腕と 銃と 剣だ
 ばらばらに引き裂かれた雑巾のやうな人間の群だ
 ざらり ざらり ごと ごと ごと……
 千人の中の一人だ、後を向いてゐるのは!
 千人の中の三人だ、殺すより殺されることを欲してゐるのは!
 だが、ばたり ばたり ごと ごと ごと

  えい!
  殺されろ 殺されろ 殺されろ 殺されろ
  畜生、犬殺しの奴等め!

 同じ号に三好十郎(みよしじゅうろう。一九〇二年四月二十三日~一九五八年十二月十六日)の「山東へやった手紙」が載ります。中国の山東に出兵している「甚太郎オジサン」への手紙のかたちをとって」中国人を殺してはならないと訴えていました。

   1

 甚太郎オジサン
 コノ袋ノ中ニワ
 仁丹ト ウカイ散ト
 手ヌグイガ入ットル
 ソレカラ、ノンキーガ入ットル
 昨日、裏ノ、オ染サントニ人デ
 町カラ買ッテ来タモノデス。
 ウカイ散ワ、
 腹ノ痛カ時二飲ムトデス。
 ソシテ、甚太郎オジサン
 剣ツキ鉄砲デ
 突キ殺ロサレンヨーニシナサイ

   2

 水ガ ケダモノノヨウニ
 ウォーウォー ト言ッテ流レタ。
 ソレデモ ソレデモ、
 僕達ワ 田ヲ作ランナラン
 ダカラ 皆ワ ダマッテ
 黒イ姿デ 水ヲ睨ンデイタ。
 帰ッテミタラ
 足ニ ビルガ 三匹ツイテイタ
 甚太郎オジサン
 殺サレンヨーニナサイヨ。

   3

 オ染サンガ新聞ヲ読ンデクレタラ
 日本軍ガ合戦二勝ッタソーデスネ
 オジサンモ戦ッタノデスカ
 ソシテ敵ヲ殺シタノデスカ。
 オジサンワ 言イマシタ
 支那ワ ホントワ俺達ノ敵デワ無イヨ
 シカシ 出征シナンナラン
 行キタク無イノ二行カンナラン
 殺シタク無イノニ殺サンナラン
 四五日前ニ、コチラデワ
 田植ヲ ミンナ スマセタ。
 土手ノワキノニ段田ヲ
 ーバン終リニ 植エマシタ。
 ナガセ ガ アンマリ長クテ
 ー度、土手ガ切レソーニナリ
 ニ晩モ村ノ人達ワ、番ヲシマシタ。
 僕モ番二行ッタケレドモ
 今年カラ田植エノ手伝イヲシタノデ
 腰ガ折レソーニ痛カッタ。
 シカシ、土手ガ切レルト
 又、田ガ メチャメチャ ニナル
 スルト 米ガ オサメラレンケン
 地主ノ鬼ガ イジメル。
 米ヲ作ルノワ 僕達デ
 ソレヲ取ルノワ 鬼ダ。
 暗イ土手ノ上カラ
 暗イ大川ノ水ヲ ジット見テ
 ミンナデ ジット 立ッテイタ
 ミンナ 何ントモ ロヲキカン
 僕ワ 涙ガ出ソーニナッタ。
 ドータンノゴト
 ホントノ敵ワ支那ジャナカ
 殺サンナランノワ 外国ニワ居ラン
 ソイデモ出征セニャナラン
 支那兵ヲ殺サンナラン
 ゾータンノゴト。
 オジサンワ、ソー言ッタ
 シカシ、ヤッパリ殺シテイル
 歯ヲ食イシバッテ殺シテイル。
 甚太郎オジサン
 殺サンゴトジナサイ
 殺サンゴトシナサイ
 シカシ、ソレデモ、オジサンワ
 剣ツキ鉄砲デ突カンナラン。
 ソシテ僕達ワ ガーガー言ウ暗イ水ヲ睨ンデ、
 田ノ番ヲセンナラン
 コレワ、ドースレバヨイカ
 ドンナコトヲスレバョイカ
 学校ノ先生モッテクレンケン
 修身ノ本ニモ書イテアリマセンケン
 甚太郎オジサン
 ドースレバヨイカ
 ソレヲ山東カラ書イテヨコシテクレ
 ザンゴーノ中カラ
 殺シテワイケナイ支那兵ヲ
 殺シタ手デ
 カチカチ フルエル手デ
 血ダラケニナッタ手デ。
 ソレマデ 僕達ワ
 ダマッテ
 地蔵サンノョーニ立ッテ
 鬼共ノ田ヲ守ッテ
 土手ノ上カラ
 ドブリドブリ 流レル
 ニゴッタ水ヲ見ツメテオリマス。
 足ヲビルニ喰ワレテ立ッテイマス。

 一九二八年十月号に宮木喜久雄(一九〇二年~)は、「勲章」を発表します。

 
 それは眼に止らない位の小さな新聞記事だ
 戦死病歿した六十三人の兵隊に
 勲章をくれる記事だ
 直接交戦に戦死したものには一番いい勲章を
 流弾にやられたものには少しいい勲章を
 日射病やチブスで死んだものには安い勲章を呉れるのだ
 六十三人の息子が死んだかわりに
 百二十六人の両親が またその兄弟 息子が
 勲章一つを貫うのだ。          
 勲章一個は何銭かで出来る
 有難い年金で米の幾升かは買える
 それが苦労して育てて来た息子の代価だ
 夫をとられた妻の手にこっそり残ったものだ。 
 やがて無名戦死者の碑に花環が飾られるだろう
 その前で小学生たちは
 敵を呪う弔詞を教えこまれ 頭を下げさせられるだろう
 雇われた楽隊は悲しみの曲を高々と吹奏するだろう
 この時 これらの小さな魂に
 駄菓子に似た勲章を貰うためには
 このように死ななければならないと馬鹿共が教えこむだろう。

 

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連載 二十九 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【中学校海南学校の四年生の全員が軍事教練の試験に白紙答案を提出します。】

 一九二八年二月、陸軍省は、「学生教練及び青年訓練修了者検定規定」を公布しました。学校教練は正課となり、成績簿にも記載されることになりました。
 吉田の通っていた中学校海南学校でも軍事教練が実施されました。
 吉田は、軍事教練に反発します。
 〈極めて批判的であった彼がマルクスに屈服した瞬間、軍事訓練反対の「のろし」があがることになる。彼の徹底抗戦がT大尉を目標に始まる。ゲートルをろくにまかない。銃をななめにかつぐ、銃の掃除は放棄する。手旗を無茶苦茶にふる。なぐりたいだけ、なぐらせる、彼の配属将校に対する愚弄的態度は止まらない〉(富永三雄「想い出」=槇村浩の会『ダッタン海峡 九号』)。
 一九二九年四月、吉田は海南学校の四年生となります。
 同年、吉田は奴田原三郎、富永三雄らの同級生と語らい、軍事教練反対運動を組織します。
 〈[吉田が]全四年生を集合さして大演説をぶった。「真理は軍事教練にはない。天皇制絶対的君主制こそ打倒すべきもの、陸士[陸軍士官学校]を止めよ、海兵[海軍兵学校]に行くな、筆記試験を書くな。」>(富永三雄「『槇村浩』の思い出」)。
 二クラスあった四年生の全員が白紙答案を提出します。

 これが何月ころかは不明ですが、同年の寺石正路の日記に、つぎのような記事があります。

 

 六月二六日 吉田豊道一件聴取す 豊道氏に川島家葬式件申遣候

 六月二九日 午前吉田豊道母吉田丑江[丑恵]四人連席要談

 六月二〇日 吉田丑恵来る □計算要件

 八月二九日 午前川島家[吉田に資金援助してくれていた家]に参り吉田豊道一件返書をきくそれ云々

 八月三一日 吉田豊道母来る 川嶋[川島か]継続件

 一〇月三日 野村亀吉吉田豊道件来訪

 

 

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連載 三十 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【岡山の関西中学校が吉田の入学を許可してくれました。】

 中学海南学校の四年生全員が軍事教練の試験を白紙で出しました。
 学校側は、その行動を組織したことで吉田を同校から追おうとします。
 その後の経緯を寺石正路の日記から追います。
 一九二九年十月二十二日午後、高知県立中学海南学校の職員会で「白紙問題」で吉田

などの「諭退」が決定します。
 寺石は、翌二十三日、中学海南学校の教師・寺石は退学の決定を受けて吉田、母・丑恵と相談します。
 相談の結果、二十六日、寺石は、高知市の城東商業学校の校長・中島和三(一八六五年~一九四四年)に吉田のことを相談しますが「不調」でした。
 同年十一月二日、寺石は、吉田を岡山市の私立関西(かんぜい)中学五年に編入させようと動きはじめます。
 ていねいに、ねばり強く働きかけます。
 同年十二月二日、寺石宅に関西中学校から吉田入学許可の電報が来ます。
 一九三〇年四月、吉田は、岡山市の私立関西中学校五年生に編入します。 

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連載 三十一 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【岡山市の関西中学校のこと。】

 一九三〇年四月、吉田を迎えてくれた岡山市の私立関西(かんぜい)中学校は、どんな学校だったでしょうか。
 同校は、岡山市北区西崎本町にありました。
 創立は、一八八七です。当時の日本は江戸から明治へという歴史のうねりのなかにあり、西洋文明の影響下、教育分野でも変化が見られた時代でした。岡山の地でも「岡山薬学校」という医学・薬学分野のパイオニアを育成しようとする学校が創設されました。それが同中学校の始まりです。創立時の精神は「天分発揮」、「敢為の精神」、「質実剛健」。校風は自由で、生徒の気風は荒々しいとされていました。
 かつて槇本楠郎(まきもとくすろう。本名・楠男。一八九八年年八月一日~一九五六年九月十四日)、石川達三(一九〇五年七月二日~一九八五一月三十一日)も在校していました。
 槇本は、童話作家、詩人、評論家。一九二六年、『文芸戦線』に評論を発表。翌年には同誌にプロレタリア童謡と称した童謡「小さな同志」を発表。一九二七年に藤森成吉らと前衛芸術家同盟を結成。一九二八年には日本プロレタリア芸術連盟と合同となり、全日本無産者芸術連盟(のちに全日本無産者芸術団体協議会に改組)を結成。また小川未明らと新興童話作家連盟を結成。槇本はそれぞれの機関誌『戦旗』、『童話運動』に、童話や評論などを執筆しました。一九二九、新興童話作家連盟は解散。一九三〇年四月、評論集『プロレタリア児童文学の諸問題』(世界社)を出版するが、発売禁止となりました。一九三一年七月二十五日には『小さい同志』(自由社、川崎大治との共著)を出版、これも即日発売禁止処分となりました。
 『小さい同志』に「兵隊さん」があります。

 おいらの兄(にい)さん兵隊(へいたい)さん
 しつかりおしよ、氣(き)をおつけ
 ――右向(みぎむ)け、右(みぎ)ツ
  前(まへ)エ進(すゝ)めツ!
 金持(かねもち)アうしろで手(て)を叩(たた)く
 (あぶない/\、××の的(まと))

 おいらの兄(にい)さん、兵隊(へいたい)さん
 しつかりおしよ、氣(き)をおつけ
 ――左向(ひだりむ)け、左(ひだり)ツ
   前(まへ)エ進(すゝ)めツ!
 金持(かねもち)アうしろで手(て)を叩(たゝ)く
 (あぶない/\、××の的(まと))

 おいらの兄(にい)さん、兵隊(へいたい)さん
 しつかりおしよ、氣(き)をおつけ
 ――廻(まは)れエ、右(みぎ)ツ
   前(まへ)エ進(すゝ)めツ!
 金持(かねもち)アうしろで手(て)を叩(たゝ)く
 (あぶない/\、××の的(まと))

 石川は、当時、小説を書きはじめていたところでした。
 当時、同校の学生には中国人、朝鮮人も多く、朝鮮人では宋世東(ソンセジョン。日本名・西原浩)もいました(一九三二年三月一日、「除籍」に)。

 【参考】

 『プロレタリア児童文学の諸問題』
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138359

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連載 三十二 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【岡山市の関西中学校での吉田。】

 一九三〇年四月から岡山市の私立関西(かんぜい)中学校の五年生になった吉田は、ここで何を学び、どう活動し、暮らしたのでしょうか。
 実は、ここがわかりません。
 ・下宿したのでしょうか、寮に入ったのでしょうか。
 ・勉強は、どうだったでしょうか。
 ・友だちはできたでしょうか。
 ・当時の岡山での科学的社会主義の運動はどんなだったでしょうか。
 ・活動はしたのでしょうか。
 ・のちのペンネーム・槇村浩は、前節での登場人物からとったものでしょうか。
 世界の情勢は、侵略の拡大と、それへの反撃が激しいせめぎ合いを見せていました。
 前年から年表的に見てみます。
 一九二九年十月十三日、プロレタリア科学研究所が設立されます。現実社会の科学的社会主義的分析や啓蒙活動をした科学者の民間学術研究団体です。同年十一月五日、月刊機関誌『プロレタリア科学』を創刊しました(一九三四年二月まで)。
 吉田は、関西中学校に行ってから『プロレタリア科学』の読者会の活動にかかわっていたとしていている本もあります。
 一九三〇年四月二十五日、福島県会津若松市の鶴ケ城の近くの陸軍第二師団歩兵第二十九歩兵連隊が軍旗祭を開いていたさなかに反戦ビラが配布されました。ビラは「戦争の機が迫っている」「あなた達自身もこの戦争に反対せざるをえない」というものでした。日本共産党員・相良(さがら)新一によると、十数人がいっせいに正門から入り、整理箱や寝台、トイレなど兵舎のさまざまな場所に四百枚のビラを入れたといいます。当時の地元紙「新会津新聞」は「昨二十五日軍旗祭の人出を利用して二十九連隊の内部及市内各所に或種の宣傳ビラを撒布した事實あり」、「若松憲兵隊及[および]若松警察特高課は俄然色めき立ち」と伝えています。(しんぶん赤旗、二〇一三年四月二十五日付の「潮流」など)。
 一九三〇年五月二十七日、間島の薬水洞上村の八間家の庭先で開かれた群衆集会で申春が“薬水洞ソビエト政府が樹立された!”と宣布しました。
 同年五月三十日、間島で抗日の「五・三〇暴動」がおこります(延辺の龍井に 「“五卅暴動”指揮部址」の石碑(龍井市人民政府建立。二〇一〇年五月三十日)があります。五卅は、五月三十日です。「中國網 china.com.cn」に、こんな解説が出ています。「延辺の朝鮮族の五・三〇暴動は、延辺の朝鮮族人民の反帝反封建的闘争です。一九三〇年五月三十日、中共延辺党組織は延辺の龍井、頭道溝、大拉子、南陽坪、湖泉街、開山屯、石建坪、延吉、老頭溝などの地でたちあがり暴動をおこしました。当地の反動機関を狙ったものでした。ある夜、龍井発電所を爆破し、東洋拓殖会社間島出張所を焼きうちし、日本領事館を襲撃し、天圖鉄道の橋梁などを破壊し、多くの日本の警察官を殺しました。同時に、軍閥政府機関と地主の家を襲い、借用書を焼き、地主の糧食を没収し、日本帝国主義と反動軍閥の統治に大きな打撃を与えました。」 
 同年六月二日の高知の土陽新聞が「学校を焼き電線を切断 間島に不逞鮮人 爆弾を投じ各所に放火 全一焼土化計画暴露す」、「間島の焼討に 間島人心恟々 支邦官憲と協力し 奥地深く追込む」、「鮮人暴徒の為 邦人警官負傷 午後六時何れかへ引上ぐ」。「学校を焼き、電線を切断/間島に不逞鮮人蜂起/爆弾を投じ各所に放火/全市焼土化計画暴露す」)。
 同年十月二十七日、台湾の住民が反日武装蜂起をおこします(霧社事件)。
 ひとつだけ、当時の吉田をしのぶ文書があります。
 一九三一年三月五日、吉田はこの学校を卒業しますが、そのさいの成績を見ると、歴史(一学期)、地理(一学期)、法経(三学期)が百点であるいっぽう、教練は二十点、十点、三十点です。
 吉田の教練への嫌悪は続いていたのです。

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連載 三十三 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【『プロレタリア科学』高知支局を確立しました。】

 小学生のときから文章を発表し、中学生のころは文学書にしたしみ文学の力をたくわえ、プロレタリア文学の作品も読んできた吉田。
 天皇にたいして批判的で、軍事教練を嫌い、科学的社会主義の文献や研究運動に親しんだ吉田。
 その吉田が反戦詩人として登場するには、一九三一年三月に中学校を卒業してからの高知での日々が必要だったようです。
 高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』には、こうあります。
 〈一九三一年(昭和六年)四月、岡山から帰った槇村は〝プロレタリア科学者同盟〟中央との連絡の線を持って帰ってきた。そして友人の毛利孟夫、奴田原三郎らをメンバーとしてプロ科高知支局を確立した。〉
 ここでいう〝プロレタリア科学者同盟〟は、プロレタリア科学研究所のことだと思います。月刊機関誌『プロレタリア科学』を出していました。
 毛利とは中学南海学校のころの『戦旗』読書班でいっしょでした。
 奴田原は中学南海学校の同級生でした。

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2013.07.25

連載 三十四 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【プロレタリア作家同盟高知支部準備会の事務所ができました。】

 一九三一年七月六日、日本共産党の機関紙・赤旗(第四十五号)に「日本帝国主義の戦争準備と斗へ!」を発表しました。
 同年八月一日、日本共産党は、国際反戦デーに非合法の集会やデモを各地で組織し、「日本軍隊の満州、朝鮮及び台湾からの即時召還」を要求しました。
 同年九月十八日、大日本帝国が中国の東北地方に侵略戦争を開始しました。
 翌十九日、日本共産党は労働者、農民、兵士にたいする檄を発表、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」と、よびかけました。
 二十五日には、第二無産者新聞が社説で、日本軍の侵略を暴露し、「帝国主義戦争と闘え!」、「一人の兵士も送るな!」、「武器の輸送製作を中止せよ!」と、主張しました。
 翌月の五日、赤旗は「事変の原因」を中国側に求める商業新聞を批判し、中国での日本軍の軍事行動が「精密に計画され、実行された」中国略奪戦争であることを暴露しました。
 こうしたなかの七月上旬、高知市松淵にプロレタリア作家同盟高知支部準備会の事務所ができました。
 進歩的文学運動の中での青年たちの動きについては弘田競(きそう)(一九〇七年六月四日~一九八七年十一月二十七日)が書いています。
 〈一九三〇年(昭和五年)といえば、わが国は空前の大恐慌下にあって、支配階級は経済的危機の深刻化と、民衆に対する支配の絶望的行詰りからの活路を、インフレと満州の植民地化に賭けて、対中侵略戦争の準備に狂奔しつつある時代であった。
 当時、関西大学の英文科生だった弘田競は、客観情勢の窮迫化に資本主義体制の不可避的矛盾を直視して、良心の命ずるままに革命的プロレタリアートの側にたたざるを得なくなった。そして、その年卒業すると、旧知の久枝栄二郎が指導する作家同盟大阪支部に参加し、翌一九三一年(昭和六年)四月、徴兵検査のため帰高した。
 それは弘田が在学中甲種合格にとられて入営を延期し、卒業後一年志願兵志望を拒否したことから、甲種合格を剥奪されたからであった。再検査の結果、弘田は乱視と近視を理由に第一乙種合格を宣告されて、召集順位第十三番の通知をうけると、近い将来の召集を覚悟しなければならなくなった。
 そこで、弘田は赤紙のくる日まで高知にとどまり、作家同盟高知支部を組織して、郷土からもペンの戦士が輩出する素地を築いておかねばと決心した。
 こうして、ひそかに同志を探すうち、山本直憲の潮江の仮住居で、弘田は近眼の冗舌な小男に会った。これがプロキノ高知支部責任者の佐野順一郎といい、本心は作家志望だと知って意中をうちあけると、佐野は「オラの目をかけちゅう連中と引合せてやろうかねや」と恩着せがましくいい、雨あがりのむし暑い五月のある日曜日、二人は中水道の桑畑に囲まれた閑静な一軒家を訪ねた。そこが信清悠久の住居であり、佐野と毛利猛夫、井上清の三人が待っていた。
 信清は城東商業の創立者、信清権馬の三男という毛並みのよさか、温厚な白面の御曹子であったが、やや病弱らしい点が気づかわれた。毛利も教育者を父に持ち、高知工業を出て日赤のレントゲン科に勤めており、なかなか社会科学の文献には通じているものの、発言の少ない内気な性格だった。
 井上は稲生の灰屋の三男、高知高校(現高知大)文科生で学内の社会科学研究会員でもあった。性格は明朗かつ達でひょうきんな面もあった。
 彼らはいずれもイデオロギー的には信頼できるものを身につけており、佐野にむかって「佐野順」と呼び捨てにするところから察して、佐野が「目をかけてやっている」どころか、逆に佐野の方が軽く見られているのであった。
 佐野にはそんなハッタリ気のある反面、プロ文学への打ちこみかたはなみなみでなく、「弘田君も望んじゅうきに、この際オラらあだけで作家支部を結成してみんかや?」と、弘田の意図を先取りして問題を提起した。しかし一同との討議の課程(ママ)で、佐野は作家同盟支部をいわゆる既成文壇進出への足がかり的な同人雑誌グループと同一視して、文学の階級性に対する認識の甘さを暴露した。一方、弘田と信清たちは次のような意見に一致した。今後のプロ作家は中央、地方の在住者をとわず、プロレタリア解放運動の一環として闘う文学者集団ー作家同盟に結集し、ブルジョア文化に対決するプロレタリア文化を被支配階級の間に浸透させ、これを育成発展さすことに作家の誇りを見出すべきであり、地方在住の作家は当然彼らの地域社会において、その役割を分担すべきであるというのである。
 「プロ作家とはそんなに窮屈なものかねや」佐野は泣きだしそうになったが、「まあええ、要はオラがプロレタリア小説の傑作を書けばええきねや」と、自分に言い聞かせて、同盟支部の結成に同意した。七月上旬、信清は片町―堀詰から南へ松淵を通りぬけて堤防へかかる手前、西側のしもた屋に転居し、二階の八畳間を作家同盟高知支部準備会に提供した。〉(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)。

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連載 三十五 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【「ぼくを作家同盟に入れてください。きっと期待を裏切りませんから」。】

 弘田競の文章をつづけます。
 一九三一年のことです。
 〈こうして支部準備会発足のニュースが新聞に出て数日後の日暮れどき、紺かすりの単衣に草履ばきの男が訪ねてきて、「ぼくを作家同盟に入れてください。きっと期待を裏切りませんから」とたのむのであった。
 男は二十歳前後か、背丈は佐野と同様一メートル五十程度、頭髪は天然パーマで、ニキビだらけの白い顔だったが、その青いまでに澄んだ瞳に、弘田は、純粋で、しかも、退くことを知らない強固な意志を感じとった。これが弘田と吉田豊道(槇村浩)の初対面であり、支部準備会は槙村の加入を認めたうえ、九月はじめ、全員を同盟員に推薦することを決議した。
 ……
 九月十日過ぎ、弘田は本部へ送る同士たちの推薦状を書いた。
 弘田はその文中で、信清たちが、政治的、文学的経歴よりも、その将来性を期待して審議すべきことを要望した。それは『ナップ』六月号所載の“プロレタリア芸術問題―蔵原惟人”によって、芸術(文学を含めて)運動の再組織が提唱されたことから、弘田は文学を武器として階級闘争に参加するものは、たとえ無名の作家志望者、文学愛好者であろうとも、ひとしく同盟員として活動の場を与えるべきだと解釈したからであり、また、同志全員の熱意に応えるためでもあった。だから弘田は必要なら自ら上京して高知県の政治的、文化的闘争の現状ー壊滅した街頭座にかわり、再建途上の『全協』と協力すべき文化団体として作家同盟結成の急務を力説しようかとも考えてみた。
 ここに、弘田は、同志たちの熱意という言葉を使ったが、これを各個について取上げてみると、彼らは今後、凶暴化しはじめる弾圧に抗して、組織を守りぬく決意は当然ながら堅く、その反面家庭とか肉親とかのきずなによって行動を制約されないよう、すでにそれぞれ手だてを講じていた。
 まず、信清だが、彼は当時城東商業の英語の教師であった。その彼が退職して転宅したのは、この道に投じることによって、城商経営の責任者としての、長兄の立場が不利になってはとの懸念によるものだが、その決断は収入の途絶えとなり、肉親との義絶ともなることであった。そして、漬物ぎらいで粗食になれない病弱の彼に、そのときから貧に追われる苦難の毎日がはじまったのである。しかし、彼には夫を理解し、その支えとなるなら、恥も外聞も捨て、借金もしよう、働きにも出ようとする愛妻がいた。このよき妻を持ったことが彼を敢然と文学運動に身を投じさせる跳躍となったのである。吉田の場合は自ら進む道について、あくことなく母子の対話をつづけた末、母はいまではわが子の選んだ道を理解して快よく彼を励ましてくれているこのごろであった。年老いた母は収入の少ない病院の付添婦であった。
 毛利は教育者である父の立場を無視することに、いかに苦痛をおぼえたことか、また、いずれは日赤を馘になる日の到来を覚悟していたであろうが、それ以後、どうして食いつないでゆくかについて、なにも語らず黙々とサークル組織や新しい同志の獲得に出向くのであり、その後姿にいい知れない悲壮感をおぼえたのは弘田一人ではないはずである。
 彼らとは対照的に、井上は退学をくらえば村の石灰山で働きながら、労働者出身作家として再出発するのだと楽天的だったし、佐野は十歳以上も年上の楮草けずりの女工さんと同棲していて、行動の自由を与えられていた。
 弘田は没落して貧乏暮しの父のすねかじりであった。父は彼を英語教師にしようとして、県外に就職先まできめかけていたが、彼は来年一月、新兵の入営期に補欠入営か、それ以後は現役の補充として召集のくる身だから、シャバにいる間は好き勝手にさせてくれと、父の願いに耳をかさず、半ば勘当同様になっていたが、ぬけぬけと父のもとで飯を食い寝起きもしていた。だから彼ら全員は世俗的にはいずれ劣らぬ我がままな、女房泣かせか親不孝ものであったが、階級闘争の一環を受け持つことに、より高い使命感を抱いて、家も肉親もかえりみなかったのである。
 次は組織の運営費であるが、会社や商店のように自己資金はもとより、運転資金の借り先きはなかった。家賃は信清がわずかな退職金と貯金で払ってくれたが、それとてもいつまでつづくわけのものでもなく、正常にはいる資金といえば、本部発行の出版物を売りさばいて入る歩合いと、シンパのカンパだけであった。したがって、切手代、交通費、原紙、用紙代など同志の持ちよりであり、これも信清におんぶすることが多かった。その上、臨時の支出を必要とするときは、信清の細君に泣きつくと、彼女は泣きほくろの愛くるしい顔にいやな表情もみせず、快よくたんすの衣類を質屋に運ぶのであった。このような経済的に苦しいことはかねての覚悟と、同志たちはほがらかそのものであり、創作とその合評会、サークルづくり、本部出版物の販売など、多忙な毎日を送っていた。こうして、日本の中国大陸侵略が南満から北満へと拡大しつつある九月末に、本部書記局の猪野省三から、中央委員会において全員を同盟員として承認したことを通知してきた。
 その日、同志たちは事務所の机を取り巻いて、本部の承認通知を回読したが、その一人ひとりの表情には、輝かしい作家同盟の一員として、正式に加盟を認められた誇りに若い胸を躍らせているようであった。「おめでとう………」
 弘田が机上に手をのばすと、われもわれもと彼の手を握り返した。
 二十四歳の弘田を最年長に、二歳年下の佐野、信清とつづき、毛利、井上、吉田の十代三人とともに、総員六名の日本プロレタリア作家同盟高知支部が、ここに誕生したのである。
 ……
 日本プロレタリア作家高知支部のメンバーたちは、字の上手下手もさまざまで、同志中随一の達筆は信清であった。だから、サークルあての連絡文やアジビラのガリ切りは彼の一手引き受けとなり、その筆力は回をかさねるごとに冴えて、たちまち、彼の戦闘的な謄写文字は、一流の域に達するにいたったのである。信清についでまあまあ読めるのは意外にも佐野の字で、原稿用紙の一こま一こまに角のとれた丸まった小さな文字をていねいに埋めてゆくのであった。弘田と毛利、井上はともに個性のないへたくそだったが、なんといっても悪筆ナンバーワンは吉田にとどめをさし、運筆も字画も無視したかな釘流の見本であった。
 この吉田と井上がときどき喧嘩をすることがあった。二人の議論が始まると、たがいに自説を譲らず、腕ずくで相手を屈服させようとして取っ組みあうのだ。井上は自他ともに認める村一番の秀才であり、吉田も幼時を神童と騒がれて育った自負を抱いており、そこから無意識的に相手をライバル視でもするのか、格闘は犬と猫のかみあいそのままの壮烈さであった。そして井上のボタンがとび、吉田の袖がむしりとられるところまでいって、彼らは疲れはてて畳に寝転び、ハーハーと荒い息づかいをしながら、『オラらァはなぜこんなに喧嘩をするろうねや』と首をかしげて、顔を見あわせどっと大声で笑ったあとは、もとの親しい同志に帰るのが常であった。〉

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連載 三十六 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【「蔵原惟人論文に感動して……」。】

 前節で「『ナップ』六月号所載の“プロレタリア芸術問題―蔵原惟人”」という言葉が出てきました。
 吉田は、自筆の年表で「蔵原惟人[くらはらこれひと]の論文に感動して、ついにプロレタリア政治=経済=文化運動に投じ」と書いています(「槇村浩(吉田豊道)の年譜」=貴司山冶、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 蔵原惟人(一九〇二年一月二十六日~一九九一年一月二十五日)は、評論家。ペンネームは古川荘一郎。
 つぎのような文章も書いています。
 一九二八年五月   「プロレタリア・リアリズムへの道」(『戦旗』)
 同年八月      「芸術運動の緊急問題」(『戦旗』)
 同年十月      「芸術運動に於ける左翼清算主義」(『戦旗』)
 同年十一月     「理論的な三、四の問題」(東京朝日新聞、二十八日)
 一九二九年八月   「マルクス主義文芸批評の下に」(『近代生活』)
 同年十二月     「新芸術形式の探求へ」(『改造』)
 一九三〇年六月   「芸術大衆化の問題」(『中央公論』)
 一九三一年十一月 (古川荘一郎)「芸術理論に於けるレーニン主義のための闘争」(『ナップ』)

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連載 三十七 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【吉田が、反戦詩を書きはじめます。】

  一九三一年九月十八日、中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、新たな戦争がはじまります(満州事変)。

 九月十九日、日本共産党は労働者、農民、兵士にたいする檄を発表、「帝国主義戦争反対、中国から手をひけ」と呼びかけます。

 九月二十五日、第二無産者新聞は、社説で日本軍の侵略を暴露し、「帝国主義戦争と闘え!」、「一人の兵士も送るな!」、「武器の輸送製作を中止せよ!」と、訴えます。

 十月五日の「赤旗」は、「事変の原因」を中国側にもとめる商業新聞を批判し、中国での日本の軍事行動が「精密に計画され、実行された」中国略奪戦争であると暴露しました。

 こうしたなかで、吉田が、反戦詩を書きはじめます。
 プロレタリア作家同盟高知市支部員だった弘田競(きそう)が書いています(「誇り高き青春群像(四)」=『高知県における共産主義運動 戦前の思い出』)。
 〈一九三一年十月(昭和六年)中旬のある日、弘田が[プロレタリア作家同盟高知市支部の]事務所へ帰ると押し入れから、「オオ、セマリクルカクメイノドトウ、アムールノ……」といっているような低い声がもれてきた。押し入れをあけると、吉田がひる寝をしていて、寝言をいったのである。
 吉田はこのごろ詩作に没頭していた。当時、作家同盟本部では中央委員や有名同盟員が、党員またはシンパの嫌疑で次々と検挙されたり、地下に潜入したりして、機関紙『ナップ』誌上の文学作品の質が低下しつつあり、地方支部から新鋭作家と詩人の台頭を期待する声が高かったので、これに応えようとして弘田は一市民の反戦闘争記を、佐野は漁民騒動記を、また、吉田も負けじと長編詩の構想をねっていたのであり、その詩の一節を夢にみていたのかも知れなかった。吉田が押し入れから寝ぼけ眼で出てきた。そして、ふところ手をして部屋をぐるぐる歩きはじめ、しばらくして立ち止まると、たもとから広告のチラシを取りだして、その裏になにかを書きつけては、また、ゆっくり歩きはじめた。これが吉田が詩作にふけるときの癖であるが、そうかと思うと、彼は暇を見つけては図書館へゆき、参考資料をあさり読んだが、それに疲れると、ほこりっぽい街を乗り出し(グランド通り)から柳原の堤に出て、すぐに西にそびえるチャンピオン碑の礎石の上に横たわり胸に刻みつけた未完成詩の一節一節を口ずさむのであった。それから堤をおりて桑畑の日当たりで、チラシの裏に新しい一節を書きくわえ、もう一度声高く冒頭から読みあげて、推敲に推敲をかさねるのである。
 ある日、弘田が新京橋を通りかかると、彼の前を一台の荷車が映画の絵看板を積んでゆくのにあった。車をひくのは南栄喜(この直後結成した日本プロレタリア美術家同盟―PP高知支部の中心人物)であり、あとを押すのが吉田であった。吉田は尻からげで鉢巻き姿であった。南が世界館の看板書きを請負っていて、その顔で吉田はときどきロハで映画をみせてもらっていたのだが、それがあまり度かさなるので、その日は看板運びを手伝って、切符切りのおっさんの機嫌をとろうとの考えでこの姿かもしれなかった。彼にはそんな茶目っ気な面もあった。
 弘田も車を押してやろうとしたとき、吉田が車から手を放して、ふところから二つに折った原稿用紙をとりだして「目を通してから意見をきかしとうぜよ」といった。
 弘田はその原稿を受け取ると、使者屋橋をこえて南へまっすぐに歩いた。彼がその原稿をよんだのは、引き潮に干あがった鏡川原であり、それが、「生ける銃架」の原稿だったが、作者名は未記入のままであり、その最後の一節に「おお、迫りくる革命の怒涛、遠くアムールの岸をかむ波の響きは……」とあるところで、弘田は先日の吉田の寝言が、やはりこの一節を生むための苦心だったことに思いあたって胸をうたれた。
 弘田はその詩を二度三度と読み返しながら、これは日本帝国主義の強盗的大陸侵略に対する告発状であるとの感銘をおぼえた。
 それはプロ文学者のすべてが、いまこそ取りあげるべき緊急課題でありながら、誰もが卑怯にも避けているテーマであり、吉田はそれをこの詩の中で大胆に取り上げて、日本帝国主義に挑戦状をたたきつけたわが国最初の反戦長編詩だと評価した。しかし、詩の本質が読者大衆の意識の底に潜在する、かすかな記憶の世界に呼びかけて新しい心理的経験と感動を与える言葉の暗示力だとすれば、その影響力をより効果的に果たすため、作詩上の技術面での不満がないでもなかった。それはこの詩で呼びかける対象によって、主体となる人物―「おれ」と「おれ達」が日中両国人に分裂していることであり、これを日中人いずれかに統一することによって、読者により激しい衝撃を与えることに役だち、完ぺきな傑作となりうるからである。弘田が批判すべき箇所をこの一点にしぼったとき、吉田が川原へおりてきた。「どうじゃったぞのう?」とはにかみ顔であった。弘田が卒直に右の一点を指摘すると、吉田はうなずいてきいていたが、「ありがとう……」と一言いって原稿をふところに入れ、さっさと川原を歩いていった。そして、道路にあがると、落陽のなかにたたずみ、弘田を振り返ってほほえみながら手を振ってみせた。〉

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連載 三十八 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が生まれました。】

 一九三一年十月二十四日、吉田は「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書きあげます。
 槇村浩のペンネームを使いました。
 原稿を、東京で出している雑誌『戦旗』に送りました。
 そして、「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書いた月、吉田は日本共産青年同盟に加入します。
 槇村は、つぎの詩を生み出そうと苦闘しはじめました。

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連載 三十九 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【二作目を生み出すための苦闘】

 槇村は、「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書いたあと、つぎの詩を生み出そうと苦闘しはじめていました。
 そのころのことを日本プロレタリア文学同盟の仲間の毛利猛夫が書いています。
 一九三一年末のことです。吉田豊道と毛利猛夫が文化運動について話し合いました(毛利猛夫「『旧友』としての槇村のこと――『間島パルチザンの歌』が出来た頃」――」=槇村浩の会『ダッタン海峡 第八号』)。このころの毛利は、一九三二年四月から高知高校に進学する準備をしていました(毛利は、高知市永国寺の高知工業学校卒)。
 <一九三一年の末、二人で文化運動について話しあっていて、われわれの陣営内の詩人たちの作品がレトリック[文章に豊かな表現を与えるための技法]の点において純粋詩派にはなはだ劣っていることが話題となり、レトリックの向上のためには訳詩が良い、まず乃公(だいこう)[わがはい]からというから、やってみよう」ということで、槇村はエドガー・ポウの〝ユリイカ〟を、私はランボーの〝酔いどれ船〟をメーデーまでに仕上げては………と話しがすすんでいたが、槇村が、「ランボーといえば先日図書館で読んだが……富永太郎が」と真顔になって話し出した。
 それは――――富永は何かの雑誌で、
 『抒情の叙事詩的進展という方法の点で ランボーの〝酔ひどれ船〟に学ばなければならない』
と言っていたと言うことである。

槇村はそれについて自分の意見を述べた。「抒情というのは、まず、社会における個人における個人の創造性の自覚であるということだろう。この出発点は純粋詩派でもわれわれプロレタリア詩でもかわりはない。それから凝集[散らばったりしていたものが、一つに集まり固まること]をめざして短詩型をとるか、あるいは論理的若しくは叙事詩展開を心掛けて長い詩となるかは ひとにより、時により、またことによりけりだろうが、この展開で思想性がハッキリするわけだ。」そして自分の詩について語った。
(「生ける銃架」は詩作ノートの中の草稿としてあった)

「『生ける銃架』の素材は、詩の中のビラまきの光景を中心に配列されて、悪く言えば、叙景と抒情と標語の羅列に終わっている感がある。
 「抒情の叙事詩的展開」となるよう文を練り直してみたいと思う。ランボーの『酔ひどれ船』にはよく言われるように、パリ・コンミューンの頃の二、三年の個人的体験がよみこまれている。絢爛[けんらん]たる措辞[そじ。詩歌・文章などの言葉の使い方]の集積だけではない。
 抒情の叙事史的進展とはそれを言うだろう。」
 彼の言うことはこういうことだった。
 そして、『生ける銃架』をも素材をみなおして叙事詩(譚歌(バラード)ではなく)に展開してみたい、ということであった。
 こういう話し合いがある中で『間島パルチザン』の初稿がつくられつつあった。
 パリ・コンミューンや国際婦人デーの盛りたくさんな行事のある三月を前にしての頃である。彼はその草稿を浜田勇や池本良三郎に、また信清悠久にも、一部を読んで聞かせていたとのことである。
 また、一九三二年春、『働く婦人』であったと思うが、パリコンミューンと詩人たちの関連の記事が出ていた。
 多分、大江満雄の文章だったと思うが、ルイズ・ミシェルの詩の紹介が書かれ、地域でのストライキ闘争をうたったものだった。
 その中の一行に
 「わたしたちはブルターニュの男と女」というのがあった。
 槇村は、
 「これは良い、ブルターニュ地方と咸鏡道[かんきょうどう、함경도、ハムギョンド]地方は、フランスと朝鮮にあってともに反抗的ということで中央権力に差別待遇をうけたことがあるのだ」
 と言ってあの 効果的なリフレーンの句
 「おれたちは咸鏡の男と女」
 を書きしるしたことだった。>

 「ユリイカ」(Eureka)は、一八四八年に刊行されたエドガー・アラン・ポー(アメリカ合衆国。一八〇九年一月十九日~一八四九年十月七日)最晩年の著作。
 「酔いどれ船」はアルチュール・ランボー(フランス帝国。一八五四年十月二十日~一八九一年十一月十日)の作品です。
 富永太郎(一九〇一年五月四日~一九二五年十一月十二日)は、詩人、画家。
 大江 満雄(おおえみつお。高知県幡多郡生まれ。一九〇六年七月二十四日~一九九一年十月十二日)。詩人。
 ルイーズ・ミシェル(一八三〇年五月二十九日~一九〇五年一月九日)はフランスの無政府主義者で、パリ・コミューンで活躍した人物の一人。

 毛利猛夫によると、槇村は、このころプロレタリア文学の詩人、評論家・森山啓(もりやまけい。一九〇四年三月十日~一九九一年七月二十六日)の作品にしたしんでいたといいます(毛利猛夫「詩を読んだ仲間としての槇村浩」=太平洋文学会『太平洋文学 五十二号』)。

 当時、森山は、日本プロレタリア芸術連盟の機関誌『プロレタリア芸術』、全日本無産者芸術連盟の機関誌『戦旗』、全日本無産者芸術団体協議会の機関誌『ナップ』に詩を書いていました。

 『プロレタリア芸術』一九二七年十二月号に「犠牲者の身内」。父親が犬にかぎつけられて、犬に引かれていき、犬どもの飼い主に裁かれ、ある日、真っ暗ななかで死骸になりました。そのいかつい建物が見えます。おふくろは半狂乱です。プロレタリアの夜明けの道に群がりほえたてのさばる犬、それにたえている詩です。

 『戦旗』一九二九年二月号に「南葛の労働者」。一九二八年十月の台湾キールンでの日本共産党の渡辺政之輔の死をもりこんだものでした。

 『ナップ』一九三一年三月号には「戦士たちに(三月十八日に)」。一八七一年三月十八日のパリコンミューンの戦士をたたえる詩です。

 『ナップ』一九三一年十月号には「北平(ペイピン)の風の中で」。中国を帝国主義列強に売りわたしていく「南軍」の裏切りをえがいた詩です。

 詩作にふける槇村の姿について日本労働組合全国協議会と共産青年同盟のリーダーだった浜田勉が語っています(貴司山治「『間島パルチザンの歌』への文学的評価を改めて提案する」=雑誌『日中』一九七八年十一月号)。
 槇村は、会議の途中ででも時々座を外して壁に向かい粗末なノートを広げて短い鉛筆で何やら書きこんでいました。
 それをあやしんだ浜田が、槇村のノートをとりあげてみると最初のページに「間島パルチザンの歌」とありました。
 「間島っちうのはどこの島ぞな」
 「朝鮮です」
 「済州島とか対馬とかは知っているが、間島もそのへんにある島か」
 槇村は赤い顔をして「いいです、いいです」と、浜田から自分のノートを取りもどしました。

 

 

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連載 四十 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【一九三二年一、二月の世情】

 一九三二年に入ると天皇の侵略戦争はエスカレーションしていきます。
 軍の指揮・命令権を持つ昭和天皇は、「満州事変」に際して、関東軍の軍事行動を容認し、一月には同軍将兵を最大限にたたえる勅語を発表。天皇制政府は特別な戦費も支出しています。
 大新聞は、あいついで満州侵略を支持し、「戦況報道」を競い合いながら部数の拡張をはかりました。
 一月四日の東京大阪朝日新聞紙上に「満州行進曲」(作詞・大江素天、作曲・堀内敬三)が発表されました。この歌は、朝日新聞社が「皇軍慰問」のため作ったものです。
実際は、「皇軍慰問」というよりは、「我等がいのち 捨つるとも なにか惜しまん」と、兵士に死を求める内容でした。

 一、過ぎし日露の 戦いに
   勇士の骨を 埋めたる
   忠霊塔を 仰ぎ見よ
   赤き血潮に 色染めし
   夕日を浴びて 空高く
   千里曠野に 聳えたり
 二、酷寒零下 三十度
   銃も剣も 砲身も
   駒のひずめも 凍る時
   すわや近づく 敵の影
   防寒服が 重いぞと
   互いに顔を 見合せる
 三、しっかり被る 鉄かぶと
   たちまち造る 散兵壕
   わが連隊旗 ひらひらと
   見あげる空に 日の丸の
   銀翼光る 爆撃機
   弾に舞い立つ 伝書鳩
 四、戦いやんで 陣営の
   かがやきさえる 星の下
   黄色い泥靴 くみとって
   かしぐ飯ごうに 立つ湯気の
   ぬくみに探る はだ守り
   故郷いかにと 語り合う
 五、面影さらぬ 戦友の
   遺髪の前に いまひらく
   慰問袋の キャラメルを
   ささげる心 君知るや
   背嚢(はいのう)枕に よもすがら
   ねむれる朝の 大ふぶき
 六、東洋平和の ためならば
   我等がいのち 捨つるとも
   なにか惜しまん 日本の
   生命線は ここにあり
   九千万の はらからと
   ともに守らん 満州を

 この歌は、当時の国策をたくみに歌詞に取り入れています。
 「一」は、中国東北部・満州における日本の権益(満鉄など)は、日露戦争の日本兵の尊い血潮によってあがなわれたものであるというものです。
 「六」は、日本の、この権益を守ることが「日本の生命線」を守ることで、「東洋平和」を守ることです。そのために「我等がいのち 捨つるとも なにか惜しまん」というのです。勝手に他国に押し入って戦争をしかけ、そこを「日本の生命線」と呼んで戦争を拡大していくというやり方です。
 
 「満州行進曲」は、同年二月十五日、ビクターからレコードが発売されました。
 そして、同年三月十日公開された映画「満州行進曲」(製作=松竹キネマ 蒲田撮影所)の主題歌になりました。
 この間にも侵略戦争の事態は進展していきます。
 同年一月十八日夜、中国の上海で、日本人法華宗僧侶、信徒ら五人が中国人に襲われ、二人が死亡、三人が重傷を負うという事件が発生しました。これにたいして、二十日、日本人居留民の青年が報復し抗日運動の拠点を襲って放火、日中双方に死傷者を出しました。
 戦後になって明らかにされたことですが、この「二人死亡、三人重傷」の事件は、中国に展開していた日本軍、関東軍が仕掛けた謀略でした。関東軍の板垣大佐、花谷少佐が、上海駐在武官補佐官・田中隆吉に謀略の実行を命じました。田中は、中国人を買収し、日本人の僧侶が托鉢で回っているのを、狙撃させました。この事件を待ち構えていた日本青年同志会員三十余人が犯人が隠れていると主張して、ナイフと梶棒で、三友実業社を襲って放火し、帰路、警官隊と衝突して、死傷者を出しました。
 こうしたなか、一月二十八日、中国の上海(しゃんはい)で日本海軍の陸戦隊が中国軍と交戦し、上海事件が起こしました。二月二十日、日本は上海を総攻撃しました。
 これについては、つぎのような指摘があります。
 「上海は、対中国貿易の中継地となる都市で、中国人街に接し、治外法権地区のフランス租界、日米英などの共同租界が設けられていた。共同租界には、約二万五〇〇〇人の日本人が居留していたが、満州事変をきっかけに中国の抗日運動の拠点となり、激しい『日貨排斥』(日本商品のボイコット)運動が展開された。
 そこへ、上海駐在公使館付陸軍武官補佐官の田中隆吉少佐が謀略を起こした。田中は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐から、満州への列国の注意をそらせるために『上海で事を起こせ』と指示を受けていたのである。上海事変は、『満州国』を独立させるための陽動作戦だった。」(『昭和二万日の全記録 第三巻 非常時日本 昭和七年→九年』)。
 与謝野晶子は、この数日後の二月一日付消印で香川県高松市の明善高等女学校(現・英明高校)の教諭・椎名六郎に、こんな手紙を出しています。
 「日支事件のため国運の未来が刻々に案ぜられ申し候。軍閥が始めしことながら、かくなれば国民全体の責任を辞し難く候。何とぞ禍(わざわい)を転じて福に致したく候」(四国新聞二〇〇七年二月十六日付)
 彼女が「国運」を論じ、「国民全体の責任」という論理で侵略戦争推進の側に立っていく姿がよくわかる文章です。
 日本海軍陸戦隊の兵力は約二千人。相手の第十九路軍は、抗日意識に燃えておて、日本軍は苦戦しました。
 あわてた陸軍中央部は白川義則大将を司令官とする上海派遣軍を急きょ、増援しました。金沢の第九師団と久留米の第十二師団より編成した混成旅団の総兵力は約一万七千人にのぼりました。

 二月五日、日本軍はハルピンを占領しました。
 
 二月二十日から、日本軍は上海市北郊の廟行鎮の第十九路軍の陣地に攻撃をかけました。しかし、戦死者二百二十四人を出し、廟行鎮の陣地を攻めあぐねていました。
 こんななかの二月二十一日の大阪朝日新聞の日曜コドモノペーシには詩人・北原白秋の「戦(いくさ)ごつこ」が掲載されます。

 鉄(てつ)の兜(かぶと)に、機関銃(きくわんじゆう)、
 機関銃、
 進め、名誉(めいよ)の聯隊旗(れんたいき)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 走れ、野砲(やほう)に装甲車(そうかふしや)、
 装甲車、
 赤い夕日だ、満州(まんしう)だ。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 駆(か)けよ、蹴(け)とばせ、雪、氷(こほり)、
 雪、氷、
 零下(れいか)二十度、こりやすごい。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 
 なんだ塹壕(ざんがう)、鉄条網(てつでうもう)、
 鉄条網、
 うなれ、空から爆撃機(ばくげきき)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 投げよ、手(て)ん手(で)に手榴弾(てりうだん)、
 手榴弾、
 たかが馬賊(ばぞく)だ、追ひちらせ。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 喇叭(ラツパ)ふけふけ、そら進め、
 そら進め。
 つづけ、後(あと)から看護卒(かんごそつ)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 鉄(てつ)の兜(かぶと)に、機関銃(きくわんじゆう)、
 機関銃、
 僕ら、子供の日本軍。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 二月二十二日の明け方、二四旅団の小隊長が強行破壊を命令し、伍長が部下三十五人に事前に爆破筒(竹で造られた即製のもの)を点火して持っていき、それを鉄条網の下へ突っ込んでくるよう命令しました。工兵である江下武二一等兵、北川丞一等兵、作江伊之助一等兵も、爆破筒を抱いて、第十九路軍の陣地の前に敷設されている鉄条網へ突入して突撃路を開きましたが、三人とも爆死。江下は塹壕内まで吹き飛ばされ、虫の息でしたが、兵士に抱かれて死にました。北川は身体が真二つにされ土の上に坐りました。この作戦で、ほかに四人の兵が戦死しています。この突撃路を確保した日本軍は一挙に攻勢に出て、第十九路軍の陣地の占拠に成功しました。
 なぜ、江下、北川、作江が爆死しのでしょう。
 三人が持っていた爆破筒の導火線は、通常のものより短かいものでした。途中で引き返そうとした三人を上官が怒鳴りつけて、仕方なく突入した三人は鉄条網の破壊には成功したものの、離脱が遅れて爆死しました。予定より早い爆発による事故死の原因は、上官が計算を間違え導火線の長さを半分にしてしまったためでした。
 日本軍は、この江下、北川、作江の事故死を「美談」にしたてあげていきます。
 こうした背景の中で、爆弾三勇士は出現します。
 三勇士の記事は、二月二十四日にいっせいに掲載されました。
 「大阪朝日」は、第一面に四段で「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した三勇士」の見出し。
 <〔上海特電二十三日発〕二十三日午後四時〇〇団司令部発表=二十二日〇〇団は独立で廟行鎮の敵陣地を突破し友軍の戦闘を有利に導いたが、その際、自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ身をもって深さ四メートルにわたり鉄条網中に投じ、自己もろ共にこれを粉砕して、勇壮なる爆死を遂げ歩兵の突撃路をきり開いた三名の勇士がある。
 廟行鎮の防御陣地には鉄条網を頑丈に張りめぐらし、塹壕深く後にひかえて、さすがのわが軍もその突破に悩んでいた際、わが〇兵隊の〇兵三名は鉄条網を破壊して敵陣の一角を突き崩すため自ら爆死して皇軍のため、御国のために報ずべく自ら死を志願し出たので、〇兵隊長もその悲壮なる忠心を涙ながらに『では国のため死んでくれ』 と許したので右三人は今生の別れを隊長はじめ戦友らに告げ身体一杯に爆弾を捲付けて帝国万歳を叫びつつ飛出して行き、鉄条網に向って飛込んで真に壮烈なる戦死を遂げた。
 これがため鉄条網は破れ、大きな穴が出来、敵の陣地の一部が放れ、これによってわが軍は、ここより敵陣に突入するを得、廟行鎮に攻め寄せてまんまとその翌朝陥れることが出来たもので、これを聞いた〇団長、はじめ戦友らは涙を流して、その最後を弔った。満州事変以来第一の軍事美談とし聞くものをして感泣せしめている。>
  「東京朝日」は、「 帝国万歳 を叫んで我身は木端微塵、三工兵点火せる爆弾を抱き、鉄条網に躍りこむ」の見出し。
  「東京日日」は、「世界比ありやこの気塊、点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す、廟行鎮攻撃の三勇士」の見出し。
  「大阪毎日」は、「肉弾で鉄条網を撃破す、点火した爆弾を身につけ、躍進した三人の一等兵、忠烈まさに粉骨破身」の見出し。
 高知新聞は二月二十四日、号外で、このことを報じています。十四センチメートル四方のものです。見出しは「点火せる爆弾を 身にくゝりつけ 鐡條(てつじょう)と共に 粉砕せる勇士」です。
 「(上海(しゃんはい)二十三日発聯合)昨二十二日拂曉(ふつぎょう)混成○團は廟行鎭(びょうこうちん)敵陣地に突撃して友軍の戦闘を有利に導いたがその際自分の軆に點火(てんか)せる爆彈を結びつけて挺身して深さ四米の鐡條網に投じ身軆諸共之を粉碎して歩兵の突撃路を開いた勇士があつた○團以下全○隊將士は之を傅へ聞いて大いに感激すると共に哀悼の意を表してゐるこの勇士は工作第○○隊第○一等兵江下武治、北川蒸、作栄之助の三名である。」
 フリー百科事典『ウィキペディア』の「爆弾三勇士」によれば、この三人は、日本陸軍独立工兵第十八大隊(久留米)の、江下武二、北川丞、作江伊之助の各一等兵のこと。蔡廷楷率いる十九軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破(強行破壊)し、みずからも爆死した事件です。「しかし、実際には三人の先頭に立った北川丞が撃たれ、三人とも倒れてしまい、タイムロスを生じてしまったにも拘(かか)わらず、破壊を断念せずに突入したがための事故とみるのが適切である。 ちなみに、同時に攻撃に参加した別の班や、同じ敵陣地の別方面を担当した工兵部隊は無事に任務を終えた。」。
 『日本文化総合年表』でも「実は作られた美談」と注釈がついています。
 各新聞は、これ以降、爆弾三勇士キャンペーンを始めます。
 このキャンペーンのなかで各新聞社は「三勇士の歌」を懸賞募集しました。
 二月二十八日、「朝日」、「毎日」は、に懸賞募集をする一面に社告を出しました。「朝日」は「世界歴史上に類い稀なる三勇士の悲壮なる殉国の精神を一層深く国民に印象せしめ、かつこれを永久に記念するため」とし、「毎日」は「本社はこの忠烈な犠牲的行動を永く後世に伝うべく広く募集する」としました。
 「朝日」は「肉弾三勇士の歌」、「毎日」は「爆弾三勇士の歌」です。賞金はいずれも一等五百円。
 「報知」、「国民」も懸賞慕集しました。
 三月十五日に「朝日」、「毎日」とも三勇士の歌は、入選作を発表しました。
 「朝日」は、長崎日日新聞で経済記者をしていた中野力の作品が選びました。
 歌い出しは「戦友の屍(しかばね)を越えて突撃す……」です。作曲は山田(やまだ)耕筰(こうさく)に依頼されました。作品は、三月十五日の紙面で発表され、二日後の十七日に朝日講堂で発表演奏会がおこなわれました。江文也(こうぶんや)(台湾生まれの日本で活躍した作曲家、声楽家。本名は江文彬)によって吹き込まれ、コロムビアレコードで三月二十五日に発売されました。
  「毎日」は、慶應義塾大学の教授をしていた与謝野寛が書きました。与謝野晶子の夫です。作曲は陸軍戸山学校軍楽隊楽長の辻順治、楽長補の大沼哲の合作で制作されました。
 「爆弾三勇士の歌」は同月十七日夜、大阪中央公会堂で発表演奏会が開かれました。 この発表に先立って、「大阪毎日」本社前から、正午にスタートし、大阪駅前、阪急前、天満橋、大阪城内師団司令部などを戸山学校軍楽隊がパレード。会場の中央公会堂は約六千人が殺到し、超満員で、入り切れなかった人もいました。 (この項は、おもにサイト上の静岡県立大学国際関係学部教授・前坂俊之さんの『兵は凶器なり』 11 15年戦争と新聞メディア-1926-1935- 爆弾三勇士の真実=軍国美談はこうして作られた!>を利用させていいただきました)
 陸軍戸山学校軍楽隊によって吹き込まれ、ポリドールレコードとして四月に発売されました。
 与謝野博の「爆弾三勇士の歌」は、こんな歌詞でした(『決定版 日本軍歌集』。編集・長田曉二。新興楽譜出版社)。

 一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
   われの友隊(ゆうたい)すでに攻む
   折から凍る二月(きさらぎ)の
   二十二日の午前五時
 二、命令下る 正面に
   開け 歩兵の突撃路
   待ちかねたりと工兵の
   誰か後(おくれ)をとるべきや
 三、中にも進む一組の
   江下(えした) 北川 作江(さくえ)たち
   凛(りん)たる心かねてより
   思うことこそ一つなれ
 四、われらが上に戴(いただ)くは
   天皇陛下の大御稜(おおみい)威(つ)
   後(うしろ)に負うは国民の
   意志に代(かわ)れる重き任(にん)
 五、いざこの時ぞ 堂々と
   父祖の歴史に鍛えたる
   鉄より固き忠勇の
   日本男子を顕(あら)わすは
 六、大地をけりて走りゆく
   顔に決死の微笑あり
   他の戦友に遺(のこ)せるも
   軽(かろ)く「さらば」と唯一語
 七、時なきままに点火して
   抱(いだ)き合いたる破壊(はかい)筒(とう)
   鉄条網に到(いた)りつき
   わが身もろとも前に投ぐ
 八、轟然おこる爆音に
   やがて開ける突撃路
   今わが隊は荒海の
   潮(うしお)のごとくに躍(おど)り入る
 九、ああ江南の梅ならで
   裂けて散る身を花となし
   仁義の軍に捧げたる
   国の精華の三勇士
 十、忠魂清き香を伝え
   永く天下を励ましむ
   壮烈無比の三勇士
   光る名誉の三勇士

 大御稜威というのは、天皇の威徳・威光を敬っていう語です。

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連載 四十一 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【『大衆の友』二月創刊号に槇村浩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が載りました。】

 侵略戦争が拡大されるなかの一九三二年一月初旬、プロレタリア文化同盟の啓蒙誌『大衆の友』二月創刊号に槇村浩の「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が載りました。槇村浩は吉田豊道のペンネームでした。
 弾圧が激しくなっていました。
 二月一日、高知高等学校では、一円一億、島村三郎が高知警察署特高課に検挙されました。一円は、戦旗班の責任者でした。
 翌二月二日、高知高等学校の百人余の学生たちが四列縦隊の隊伍を組み高知警察署(いまの高知新聞社の所)に押しかけ、特高課主任・松田警部補に不当弾圧の抗議をし、一円、島村を釈放せよとシュプレヒコールをあげました(岡村新一、川島哲郎も参加)。
 二月五日、共産青年同盟高知地区委員会が確立されました。第一回会議を高知市内大川筋廿代橋から東へ四、五軒目の家を借りて開催。委員会のメンバーは、池本良三郎、浜田勇、信清悠々、吉田豊道、毛利猛夫、山崎小糸でした。キャップは浜田勇に。当時の高知高等学校のキャップは山本大和でした。
 二月はじめ、全協高知地方協議会が確立されました。

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連載 四十二 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【高知市の陸軍歩兵第四十四連隊に出動命令。】

 一九三二年二月、高知県でも侵略戦争熱が高まっていました。
 二月六日の大阪朝日新聞高知版が「軽爆撃機を献納 愛国心の発露とし 一般[高知]県民の手により」の記事を載せました。軽飛行機の購入費約八万円を県民の寄付によって賄おうと、県と軍司令部が働きかけているという内容でした。
 二月九日、高知連隊に高岡郡川内村・金子正美さんからの小包郵便が届きました。その中には、大判奉書紙に「自分は女ではあるが今回の事変に何かの御用に立てゝもらひたい」との血書したものが入っていました。また、一尺四角の白木綿に赤十字が血で書いたものも入っていました。川内村の「十九年」の人でした(大阪朝日新聞高知版、一九三二年二月二十三日付)。
 大阪朝日新聞社が、同社特派員が撮影した「上海総攻撃」などの映画を連続的に上映しました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年二月九日付、十二日付、十三日付、十四日付、十八日付)。
 ○ 二月九日夜、高知市の潮江自動車学校練習所、高知市の第一小学校、高知市の下地(しもぢ)小学校で。
 ○ 二月十二日夜、高知市の潮江自動車学校練習所、高知市の第四小学校校庭、高知市の朝倉曙座で。
 ○ 二月十三日夜、高知市外、秦村(はだむら)小学校で。
 ○ 二月十四日夜、高知市外、一宮村(いっくむら)小学校で。
 ○ 二月十八日夜、長岡郡稲生村(いなぶむら)小学校で。
 二月二十四日、高知県学務部長が県下市町村長に「下士卒その他支那派遣軍の戦死者の遺族傷病兵の家庭に対する救護および慰藉(いしゃ)ついてはすでに配慮中と思ふが、軍事救護法による救護については要救護者を調査し必要あるものには出願させまた救護法に該当しない者でも必要ある者に対しては軍人救護資金を活用し軍人援護団体の活動を促すなど救護に万遺憾なきを期し派遣兵をして後顧(こうこ)の憂ひなからしめるよう配意ありたし」との通牒(つうちょう)を発しました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年二月二十六日付)。
 軍事救護法は、一九一七年に制定された、傷病兵および戦死者の遺家族にたいする救護法です。
 そんななかの二月二十三日(「肉弾三勇士」が戦死した翌日)、陸軍第十一師団(香川県善通寺)に緊急動員令が下りました。
 同師団に属する陸軍歩兵第四十四連隊(高知県朝倉村。秦雅尚連隊長)は、この動員令によって、二月二十八日、兵営を出発し、中国の上海(しゃんはい)に向かいました。
 陸軍歩兵第四十四連隊の『連隊歴史』(一九三六年三月)は、このときの様子を「二月二十八日屯営出発沿道官民の熱誠なる見送り裡に二月二十九日筑波丸、八雲丸に乗船須崎港帆征途に就く」と書いています。

 三月三日、善通寺師団の「土佐部隊」が上海の砲台占拠に参加しました。
 三月四日、出征軍人の遺家族保護、恤兵(じゅっぺい)をするための官民合同の高知県恤兵団を結成しました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年三月六日付。見出しは「県恤兵団を 組織して活躍 出征軍人に後顧の憂ひを 絶対に持たすな」)。
  恤兵というのは、戦地の兵士に送られる品々、またそれらを送ることをいいます。
 話をもとに戻して、同、三月四日、浦戸駐在所詰(づめ)の市川源吉巡査が、名を秘して、出征している吾川郡御畳瀬村(みませむら)の杉岡悦馬・陸軍予備一等兵の家庭に白米一斗を贈りました。残された家族、病床にある盲目の老父と一人の妹の窮状に同情しての行為と紹介されています(大阪朝日新聞高知版、一九三二年三月十七日付)。
 三月七日、上海で土佐郡朝倉出身の大坪武雄・海軍二等水兵が戦闘で左大腿部(だいたいぶ)を負傷(大阪朝日新聞高知版、一九三七年三月十六日付)。
 三月八日の大阪朝日新聞高知版に「出征懇願書に 現れた熱誠 [高知]連隊司令部に届いたもの すでに百通を超ゆ」の記事。「うら若い女から何かの役に立てゝくださいといつてゐるのも少くなく司令部員を感激せしめてゐる……」。
 三月九日、高知市の高知県公会堂で高知連隊区司令部主催の軍事講演会が開かれました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年三月十日付)。
 大阪朝日新聞は、同社写真班撮影の上海総攻撃の映画を高知県下各地で上映しました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年三月十一日付、二十日付)。
 ○ 三月九日夜、高知市の柳原公園(観衆約二千人)。高知市の高知県公会堂での軍事講演会でも。
 ○ 三月十二日夜、県下安芸町小学校で。
 三月十三日の大阪朝日新聞高知版は「刑務所内から 愛国の寄付金 受刑者が自発的に 愛国機建造のため」と報じました。
 三月十六日の大阪朝日新聞高知版のトップに「善通寺師団の嚇々(かくかく)たる武勲 第三回の総攻撃に大奮戦 砲台占拠の土佐部隊」の記事が載りました。三月三日のできごとでした。
 三月十七日、高知憲兵分隊へ「或る家の女中」という「二十五、六歳の女の人」が出頭、出征兵士を出している吾川郡御畳瀬村(みませむら)の杉岡悦馬・陸軍予備一等兵宅に慰問金として二円を寄託しました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年三月二十二日付)。
 三月十八日、前出の女性が高知憲兵隊に来て、ふたたび着物の寄託を依頼しました(前同)。
 三月十九日、上海に出征していた高知市菜園場町横町の福留正巳・特務兵(二十四歳)が戦死しました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年三月二十二日付)。
 高知県下では、大阪朝日新聞社上海特派記者の新宮寿天丸さんの「上海事件と肉弾三勇士」の講演会(高知県学務部などが主催)が連続的におこなわれました。「武勲嚇々(かくかく)たる肉彈三勇士の事績」などについて「血涙を絞る熱弁」をふるいました(大阪朝日新聞高知版、一九三二年三月二十七日付)。
 ○ 三月二十六日、安芸町第一小学校、高知市帯屋町の県公会堂。
 ○ 三月二十七日、高岡町小学校講堂、後免町県立農業学校講堂、伊野町小学校講堂。
 ○ 三月二十八日、佐川町小学校講堂、須崎町小学校講堂。

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連載 四十三 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【高知市内や陸軍歩兵四十四連隊に反戦ビラを配布した若者たち。】

 一九三二年二月二十八日(日曜日)、高知市朝倉の陸軍歩兵第四十四連隊(連隊長・秦雅尚大佐)が兵営を出発し、中国に行きました。
 このことに関連して高知の青年たちは反戦のビラを高知市内や高知市の陸軍歩兵四十四連隊で配布します。
 それは、二月から四月二十日まで、十回以上の行動でした。
 このとき、反戦ビラをつくり配布した若者たちのことを紹介します。
 ○ 浜田勇
 一九一〇年、高知県香美郡三島村(いまの南国市日章)生まれ。野市高等小学校高等科三年を中退しました。労農党高知支部に加入。一九三一年十二月、日本共産青年同盟に加入しました。一九三二年二月五日、池本良三郎、信清悠久(のぶきよゆうきゅう)、吉田豊道、毛利猛夫、山崎小糸(やまさきこいと)と日本共産青年同盟高知地区委員会を確立しました。同同盟高知地区委員長(横山光夫『解放運動のあけぼの 高知県左翼社会運動覚え書』。入交好保『高知県社会運動史』。
 ○ 信清悠久(のぶきよゆうきゅう)
 一九一〇年八月八日、高知市生まれ。一九二八年、高知市の高知県立城東中学校卒業。城東商業学校教員。一九三一年六月、日本プロレタリア作家同盟に加入。一九三二年二月五日、浜田勇さんらと日本共産青年同盟高知地区委員会を確立しました(信清悠久『不肖の子』など)。
 ○ 池本良三郎
 一九一〇年五月二十九日、高知県長岡郡大篠村(いまは、南国市)の素封家の生まれ。一九二五年、高知県立城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)を三年で中退。奈良県で天理教の布教師をしました。その後、病気療養のために高知に帰ります。日本労働組合全国協議会(全協)化学労組の責任者となって、丸一製紙や稲生石灰に細胞をつくっていきました。一九三一年十二月、日本共産青年同盟に加入。一九三二年二月五日、浜田勇さんらと日本共産青年同盟高知地区委員会を確立しました。高知市築屋敷の住み家は、しばしば全協関係者の会合場所になりました。(『高知県人事典 新版』刊行委員会『高知県人事典 新版』。横山光夫『解放運動のあけぼの 高知県左翼社会運動覚え書』)。当時、二十一歳です。
 ○ 吉田豊道
 一九一二年六月一日、高知市廿代町生まれ。一九三一年十二月、弘田競(きそう)、信清悠久、佐野順一郎、毛利猛夫らと日本プロレタリア作家同盟高知市支部を結成。その後、槇村浩(まきむらこう)のペンネームで作家活動をします。一九三二年二月創刊の『大衆の友』で、詩「生ける銃架」を発表し、新人賞をうけます。同月、日本共産青年同盟に加盟します。当時、十九歳です。
 ○ 毛利猛夫(たけお)
 一九一二年十二月十二月十五日、高知県香美郡槇山村(いまは香美市香北町)生まれ。高知市永国寺町の高知工業学校に在学中から『戦旗』の読者会を組織。一九二九年六月、吉田豊道と『戦旗高知支局』中学班を構成。卒業後、日赤に勤務。一九三一年、プロレタリア作家同盟、日本プロレタリア映画同盟に加わります。吉田豊道らとプロレタリア科学を結成します。同年十二月、日本共産青年同盟に加入。一九三二年二月、日本共産青年同盟高知地区委員会の結成に参加します(『高知県人事典 新版』刊行委員会『高知県人事典 新版』)。当時、十九歳です。
 ○ 山崎小糸(やまさきこいと)
 一九一三年二月十五日、高知県長岡郡高須村絶海生まれ。父・山崎巌は高須村長をやったこともあります。一九三一年春、高知市下知の下川じゅうたん工場に就職。夏までに婦人労働組合を結成。更衣室の設置や健康保険加入などを要求してストライキを起こし高知署に一週間拘留され、解雇されます。同年十二月、日本共産青年同盟員になりました。同月、治安維持法事件で検挙され一か月間、高知署に拘留され、起訴猶予になります。一九三二年二月に、日本共産青年同盟地区委員会の結成に参加します。同時に結成された日本労働組合全国協議会高知地方協議会の繊維部門の責任者となりました(『高知県人事典 新版』刊行委員会『高知県人事典 新版』)。十九歳になったばかりです。
 ○ 井上泉
 一九一六年一月十六日、高知県稲生村(いなぶむら)生まれ。日本労働組合全国協議会高知支部に参加。南国市稲生にある「井上泉顕彰之碑」(一九九〇年十一日。井上泉稲生後援会建立)には「……幼少より石灰山の厳しい労働に従事し且[か]つ石灰労働者の指導者として団結と生活向上のため奮闘……」とあります。(横山光夫『解放運動のあけぼの 高知県左翼社会運動覚え書』。 など)。
 ○ 片岡薫
 一九一二年、高知県香美郡野市町生まれ。高知高校生徒(横山光夫『解放運動のあけぼの 高知県左翼社会運動覚え書』など)。
 ○ 堀見俊吉
 一九一五年三月五日、高知県高岡郡佐川町生まれです。当時、高知市の県立城東中学校(いまの県立高知追手前高校)の四年生でした。
 これらのメンバーを見ると、彼等は当時の進歩的文学運動、労働運動、学生運動、科学的社会主義の運動の担い手たちだったことがわかります。

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連載 四十四 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【高知市内の反戦ビラ配布は、こうして……。】

 一九三二年二月から四月の高知市内への反戦ビラ配布は、どのようにして実行されたのでしょうか。

 一九三九年に憲兵司令部が編集した『日本憲兵昭和史』によると、この間、二月二十七日から四月二日にかけて計八件の反戦ビラ配布の「事件」がおこっています。
 ① 「……(高知)市中央に在(あ)る播磨屋(はりまや)橋(ばし)土佐電気株式会社運輸課に『戦争反対ビラ』を投入し……」
 ② 「……二月二十七日午前二時に至(いた)り、戦争反対のビラを[高知]市内数箇所に貼付(てんぷ)したる者あり、石井上等兵は逸早(いちはや)く之(これ)を発見、当夜中に全部回収したる為(ため)、之を見聞したる者なく従って何(なん)等(ら)の反響なきを得たるも、此(こ)の種策動益々(ますます)尖鋭化すべきことを予知せられたるを以(もっ)て松村分隊長は県警察と連絡の上一段の予防に努力せり。」
 ③ 「然(しか)るに翌二十八日午前二時頃又(また)もや連隊兵器庫裏街路に、日本共産党青年同盟高知地区委員会署名の二種の反戦ビラ数枚投棄しあるを警防巡察中の西原上等兵発見直(ただち)に収拾すると共に連隊衛兵に連絡営内を検索したる処(ところ)、同連隊南門及(および)東門附近に約五十部の同ビラの投入しあるを認め直に之(これ)を収拾したるを以(もっ)て其(その)反響なかりき。」
 ④ 「……三月九日午前一時三十分[高知]市内播磨屋(はりまや)橋(はし)土佐電気株式会社運輸課従業員詰所に対し、共青高知地区委員会署名の過激なる反戦ビラを投入したるを以(もっ)て同社監督某が憲兵に此(こ)の旨を連絡せるを以(もっ)て直(ただち)に之(これ)を押収しその其反響を防止し得たり。」
 ⑤ 「高知市帯屋町には毎日曜日に日曜市開かるゝ為(ため)、非常なる人出あるを以(もっ)て三月十三日歩兵第四十四連隊外出兵三名新京橋本町筋五丁目付近歩行中同市方面に向ひつゝある時一名の若者が過激なる三種の反戦檄文(げきぶん)ニュースをハトロン紙に入れたるものを該(がい)兵士に手交(しゅこう)せり、恰度(ちょうど)同市雑沓(ざっとう)中を警戒せる松岡上等兵之(これ)を探知し直(ただち)に之(これ)を押収し犯人を追跡したるに遂(つい)に発見せざりし為(ため)、此(こ)の旨連隊当局に連絡し該(がい)三名に就(つ)き犯人の人相特徴等を調査したる処(ところ)、捜査中の毛利一雄と浜田武夫の人相に匹敵しあり、因(よっ)て先ず之(これ)ら等両名の所在捜査を為(な)すことに全力を注ぎたるが、……」
 ⑥ 「又々(またまた)三月十四日午前三時頃歩四四補充隊営内及(および)射撃場に三種の反戦檄文(げきぶん)ニュースをハトロン封筒に入れ投入、又(また)は配布せり、その其数三十六袋なるが何(いず)れも幸ひ所属隊並(ならび)憲兵の探知早く、之(こ)れを押収したる為(ため)何(なん)等(ら)の反響もなかりしが、執拗(しつよう)なる彼等の行動は憲兵の憎悪極度に達し、憤激の涙を催ほし分隊員中には霊験著しと称せらるゝ[高知市の]藤並神社に参拝祈願せる者さへありて憲兵必至[ママ]の努力は涙を催ほす情況なりき。……」
 ⑦ 「然(しか)るに三月二十六日午後一時頃共青高地[ママ]地区委員会署名の反戦闘争基金袋が[高知]市役所前に撒布(さんぷ)され全く官憲をぐろう愚弄(ぐろう)しあるが如(ごと)く彼等の行動は極めて大胆不敵なりき、……」
 ⑧ 「……四月二日午後零時三十分[高知]市外五台山に於(お)ける招魂祭に参拝せる補充兵が叉銃休憩中[叉銃(さじゅう)というのは、野外で軍隊などが休憩するとき、銃を組み合わせて三角錐状に立て合わせることです]、何者かハトロン封筒にカフェーの広告を印刷したるもの五通置きあるを取締中の石井上等兵現認し之(これ)を披見(ひけん)するに、何(いず)れも四五枚宛封入する過激なる反軍宣伝ビラなりしを発見し直(ただち)に全部を蒐集(しゅうしゅう)したるため為軍人は勿論(もちろん)一般客にも何(なん)等(ら)反響なかりしが……」
 ここで憲兵とは何かということを書いておきます。
 左腕に「憲兵」の腕章をしている写真をよく見ます。陸軍と海軍の両方ににらみをきかせていた軍隊の警察です。陸軍大臣の管轄で、主として軍事警察をつかさどり、かねて行政警察、司法警察をつかさどります。海軍には独自の憲兵は置かれず、海軍大臣は軍事警察にかかわるものについては憲兵を直接指揮できるものとされました。全国の憲兵の頂点に憲兵司令官(当時の憲兵司令官は、山田良之助少将)が置かれました。憲兵の部隊は、各地に配置される憲兵隊が基本単位で、その下に、警察署に相当する数十人の憲兵分隊があります。その下に憲兵分遣隊があります。
 憲兵は、司法警察権もつかさどることから、治安警察法および治安維持法などを、一般警察同様に一般国民に対しても適用する立場であり、次第に反戦思想取締りなど、国民の思想弾圧にまでおよぶこととなりました。

 ⑥の反戦ビラ配布があったあと、一九三二年三月十五日の土陽新聞は、「高知○隊出征前夜」に「○隊ならび並に高知市」へ反戦ビラを配布したものがいると報じました(高知市自由民権記念館蔵)。
 この記事で、多くの県民は、この事件があったことを知りました。
 その記事は、こんな内容でした。
 見出しは、「高知○隊出征前夜 ○隊並に高知市へ 反戦ビラを配布したもの 憲兵分隊と特高課が活動」です。
 「高知○隊に動員下命して、ために全県下は戦争気分が横溢(おういつ)し、召集兵は続々高知市に集まつてゐる際(さい)即(すなは)ち隊が出征する前々夜二月○○○日午前二時頃深夜高知市中島町医学博士武田鹿雄氏の門前ならびに其(そ)の附近に反戦ビラを撒布(さんぷ)してあることを夜間警戒中の高知憲兵分隊特務石井上等兵が発見し直(ただち)に県特高課に通知して共産党員のものを捜査警戒中、更(さら)に其(そ)の翌日即(すなは)ち出征前日の午前三時頃高知○隊内を憲兵分隊の特務西原上等兵が巡視中隊内杉垣附近にこれまた反戦ビラを多数散布(さんぷ)されてゐることを発見し直(ただち)に○隊ならび並に分隊に通知して取り調べたが隊内のビラはビラ数十枚を垣外より投げ込んでいゐたもので夜間であり何人にも見附らない以前に憲兵隊の手にて発見されたもので憲兵隊にては万一出征当日を慮(おもんは)かり松村分隊長以下之等の不穏分子の警戒に当つた、而(しか)して右反戦ビラ配布の犯人はその後憲兵隊並(ならび)に特高課にて捜査中であるが、右は先(さき)に某校に配布した事件と同一系統と見て当局にては更(さら)に捜査並(ならび)に取調を進めてゐる」
 「高知○隊」とは、陸軍歩兵第四十四連隊(高知県朝倉村。いまは高知市朝倉)のことです。
 これは、先に引用した『日本憲兵昭和史』にある③の件と同じ件だと思われます。
 「極秘」と書かれた『特高月報』(内務省警保局保安課)にも出てきます。
 『特高月報 昭和七年[一九三二年]二月分』(同年三月二十日発行)。
 「[二月二十八日、日本共産青年]同盟高知地区名反戦ビラを歩兵第四四連隊附近に撒布す。」
 『特高月報 昭和七年四月分』(同年五月二十日発行)。
 「[四月二日、日本共産青年]同盟高知地区委員会は、歩兵第四四連隊内に反戦の檄(げき)を撒布す。」
 一九三二年十月刊の司法省の秘密の刊行物『思想研究資料』(入交好保『高知県社会運動史』)には、つぎのような記述があります。
「浜田[勇。日本共産青年同盟高知地区委員長]、池本[良三郎。日本共産青年同盟高知地区委員会化学細胞キャップ、化学石灰山細胞キャップ]及(および)毛利[猛夫。日本共産青年同盟高知地区委員会丸一細胞キャップ、コップフラクションキャップ]等ハ……朝倉歩兵第四十四連隊ノ上海(しゃんはい)出征ニ際シテハ反戦斗争ノビラヲ作成シテ兵営ニ投入シ更(さら)ニ引続数回ニ亘(わた)リ、反戦斗争ノビラヲ各所ニ撒布シテ一般大衆ニ宣伝煽動(せんどう)シ……」
   「(日本反帝同盟]支部そ其ノ物ノ組織ハナキモ歩兵第四十四連隊ノ上海(しゃんはい)出征ニ当リ、昭和七年二月二十七日過般検挙セラレタル共青同盟高知地区委員会ノ影響下ニアル分子ガ日本反帝同盟高知支部署名ヲ以(もっ)テ反戦ビラヲ高知市内ニ撒布シタルコトアルノミ……」 
 ②のビラに、日本反帝同盟高知支部と署名されていたのでしょうか。 
 一九三二年十二月二十日の、浜田勇、毛利猛夫、池本良三郎の治安維持法違反事件についての高知地方裁判所の判決文(『高知県社会運動史』。入交好保。高知市立市民図書館。一九六一年十一月一日)には、つぎのことがのべられています。
 「浜田勇は……[昭和]七年[一九三二年]二月の総選挙及(およ)び四四連隊上海(しゃんはい)出兵に当つては、反戦ビラ、軍隊班ニュースを撒布し反戦闘争資金を集めた。」   
 一九三三年四月二十八日の、信清悠久さん、小松益喜さん、吉田豊道さんへの治安維持法違反被告事件についての高知地方裁判所刑事部の判決文(岡村正光、山崎小糸、井上泉編『槇村浩全集』)には、吉田豊道さんがかかわったこととして、つぎの三件がのべられています(以下、整理して、いまふうの文章になおしました)。
 ○ 三月六日ころ、吉田豊道は、高知市農人町・浜田勇方において上海出兵に対する闘争のため、同人らと共に協議の上、「革命的兵士の虐殺云々」と題する共産主義青年同盟高知地区委員会署名の反戦ビラの原稿を作成し、同市小高坂、同盟員・森山正也方において毛利猛夫、池本良三郎らと共に謄写版をもって約八百枚を印刷作成し毛利らをして高知市内一円および附近村落に撒布せしめ ○ 三月八日ころ、吉田豊道は、浜田勇方において同人らと協議の上、高知市ほか陸軍歩兵第四十四連隊内に軍隊新聞を発行せんことを企(くわだ)て自ら軍隊内における組織ならびに宣伝扇動などにかんする全責任者となりて、「兵士の声」と題する新聞を発行することとなし、自ら原稿を書きて原紙に切り、当時同市小高坂、森山正也方において毛利猛夫、池本良三郎などと共に「大衆的に上海出兵に反対せよ」、または「日本共産党の旗の下に全兵士は日本共産青年同盟に入れ」と矯激(きょうげき)なる辞句を連ねたる印刷物約四百枚を印刷作成し、これを毛利猛夫に交付し、同人をして右連隊営庭内あるいは射的場などに撒布せしめ、また外出中の多数兵士に交付せしめ
 ○ 三月末ころ、吉田豊道は、高知市金子橋、毛利猛夫方において同人および浜田勇などと協議の上、四月二日、高知県長岡郡五台山村(いまは高知市です)、招魂社祭当日、反戦ビラを撒布すべきことを協議し、自ら「兵士諸君は皆読め」と題する原稿を作成し、浜田勇と共に約五百枚を印刷作成し、これをカフェー開店広告に模したる封筒に封入し自ら毛利、浜田ほか二名と共に右招魂社付近に到り、通行中の軍人に交付し、あるいは撒布し
 招魂社というのは、いまの高知県護国神社のことです。四月二日は、いまの春季例大祭の日です(橋詰延寿・森下臣一編『高知県護国神社百年史』)。
 どのような意図か、高知地方裁判所は、二月二十八日に陸軍歩兵第四十四連隊が兵営を出発したあとの「事件」だけを認定しています。

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連載 四十五 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【反戦ビラをつくり、配布した青年たちの証言。】

 一九三二年二月から四月の高知での反戦ビラ配布については実行した人たちが著作や手記を残していますので、それを紹介します。
 槇村は日本共産青年同盟高知地区委員会の宣伝扇動部、教育部のキャップとして反戦ビラの原稿を書きました。彼はつねに真面目に仲間の意見を聞き、池本良三郎から何回書き直しを要求されても黙々と書き直し正確に任務を果たしました(『高知県における共産主義運動の足跡』)。
 日本共産青年同盟高知地区委員会の浜田勇さんが陸軍歩兵第四十四連隊への反戦ビラ配布について書いています。槇村浩の会『ダッタン海峡 八号』の「槇村浩のことなど」です。
  「……朝倉の四十四連隊に上海出兵の動員令が来た。もちろん街中が大きな衝撃を受けた。池本[良三郎]と相談して反戦闘争の火ぶたを切ろうということになった。池本は当時[高知の]福井のアジトに居た。池本は私にビラの原稿を書かしておいて、毛利を呼びに行った。当時はすべ凡てガリ版刷りで一枚の原紙でせいぜい二五〇枚の印刷が限度であった。同じ文面の原紙を池本が二枚切り私と毛利が印刷した。五百枚刷り終った頃は、もう午前三時頃になっていた。
 ビラは三等分して三人で朝倉の連隊の兵舎にむけて三方から投入することとした。投げ入れられたビラが、どの程度兵士の手に渡るか皆目見当はつかないが、決して無駄ではないと三人共確信していた。重りをつけたビラは何回かに分けて杉垣の上を乗り越えて飛んだ。そのたび度に中では軍馬のひときわ高いいななきがおこり、これを制する兵士の声も聞えた。その翌日からは武装した憲兵の厳重な警戒が続いているということであったので、同じ場所には近づかないよう皆に注意した。」
 残念ながら、その日にちが書かれていません。
 これは、『日本憲兵昭和史』には書かれていないケースのようです。
 以前に高知大学教育学部小学校課程のある学生が、卒業論文に「高知県における青年運動と学習 槇村浩とその同志達の運動」という卒業論文を書いています。そこで彼は、これが最初の兵舎への反戦ビラ配布で、二月二十六日、二十七日と思われるとしています。あとは、二月二十八日、三月十四日で、計三回、兵舎への反戦ビラ配布がおこなわれたとしています。
 山崎小糸は、二月二十八日の高知歩兵第四四連隊への反戦ビラ配布について書いています。太平洋文学会『太平洋文学 三十六号』と岡村正光、山崎小糸、井上泉編『槇村浩全集』に載っている「槇村浩の生涯とその時代」をもとに書きます。
 反戦ビラ配布がおこなわれたのは、この陸軍歩兵四十四連隊が出港する前でした。
 同連隊が上海に出兵するという情報をつかんだ共産青年同盟高知地区委員会は、緊急委員会をひらき、反戦闘争についての具体的戦術を協議しました。
 二月二十七日夜、高知市の、はりまや橋東詰の土佐電鉄乗務員詰所に、反戦ビラがまかれました。
 そして、二月二十七日には同連隊向けのビラもつくられていました。
 高知市西町の彫刻家・島村治文さん宅の表座敷には、三人の若者が集まっていました。
 ここは、高校生の森山正也(徳島市出身)の下宿でしたが、池本良三郎が同居していました。
 三人の若者とは、池本良三郎、吉田豊道、山崎小糸でした。
 それぞれ、意見を出し合ってビラの文章をつくりました。
 それにもとづいて、吉田さんがガリを切りました。
 ロウを塗った特殊な原紙を鉄板の専用のヤスリ上に置き、鉄筆という先端が鉄でできたペンで文字や絵を彫り込んでゆく、こういう作業です。
 できた原紙を謄写版印刷機にかけて、四百枚のビラが刷り上がったのは、夜の十時ころでした。
 ビラの見出しは、「兵士諸君! 敵と味方を間違えるな」、「兵士諸君! 銃をうしろにむけろ」。日本共産青年同盟高知地区委員会の署名入りでした。
 山崎小糸と、高知市旭下島の片倉製糸の前に住んでいた毛利猛夫とがビラを配布する役でした。
 四百枚のビラを山崎小糸は羽織の下に隠し、毛利猛夫はマントの中に隠しました。
 そして、二人は、高知市旭の毛利のすみかを、二月二十八日午前零時ころに出発。高知市内から五キロ離れた朝倉村(いまは高知市)への道を急ぎました。
 人通りの途絶えた道を黙々と歩いて、陸軍歩兵四十四連隊の兵舎(いまの高知大学の所)に着いたのは夜中の一時近くでした。
 途中、鏡川橋の上で、二人は、こんな話をしました。
 「毛利よ。今夜みつけられたら銃殺ぞね」
 「そりやそうよ」
 兵舎の東側ぞいの道に沿って溝が流れていて、その溝をへだてて兵舎の長い土手がありました。
 土手は、カラタチの垣根でおおわれ、二メートルくらいの高さで続いていましたが、ところどころ犬が出入りできるすき間がありました。
 二人は溝をわたり、カラタチのすき間から、そっと兵舎の中にもぐりこみました。
 もぐった場所は、実弾をこめた銃剣を持って歩哨(ほしょう)が徹夜で警戒している営門から、五十メートルばかり北よりの所でした。
 炊事場を見つけた二人は、ここに数十枚のビラを置きました。朝、炊事当番の兵士たちの目の触れるようにと願ってのことです。
 このあとは度胸もすわり、あちらこちらと様子を見ながら、便所の窓から入れたり、近くの建物のすき間から入れたりしました。
 半数の二百枚のビラは、まわり道をして練兵場に忍びより、塹壕(ざんごう)の中に、少しずつていねいに入れてまわりました。
 無事に池本の下宿に引き上げたのは、明け方も近いころでした。
 池本も、槇村も、一睡もしないで待っていて、無事を喜びました。
 なお、兵舎に入って……という部分では、毛利の証言は、山崎の説明とは少し違います。
 「……私たちは[高知の国鉄の]旭駅の北側にあったアジトからてくてくと歩いて[陸軍歩兵第四四連隊の]兵営に向かい、午前二時頃に兵営に着きました。……そして闇を切って南西の門を乗り越えて侵入しました。山崎小糸さんは女性であることを配慮し外で待っていてもらいました。」(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『続・高知県における共産主義運動 戦前の思い出』)。
 毛利は、高知工業学校(高知市永国寺)の軍事教練で、この連隊で一週間の訓練を受けていました。また、同連隊から出てきた仲間からさまざまの施設やトイレの位置、連隊の習慣などの情報を得ていたといいます。偵察中の歩哨兵(ほしょうへい)が歩いているのはカッカッというはっきりした靴の音でわかること、一回の巡回に一時間かかることもこころえていました。
 この部分の山崎の話と毛利の話のどちらが正しいのか、いまとなってはわかりません。
 山﨑小糸は、のちに、このときのことをつぎのように語っています。
 「深夜零時ごろ、同志と二人で四百枚の反戦ビラを持って旭下島町(当時)のアジトを出発。途中、鏡川橋の上で『今夜見つかったら射殺ぞね』『そりゃそうよ』と二人で顔を見合わせたわ。悲そう感じゃなくて『国家のために重大な任務を遂行している』という一種のヒロイズムね。兵舎(現在高知大学)内にビラをまいて引き揚げる時はすっかり英雄気取り。今考えるとゾッとするけど、あの無鉄砲さが若さね。とにかく怖いものは何もなかったもの。」(高知新聞、一九八四年八月十日付、「やんやんグラフィティ 終戦記念日に寄せて 反戦に燃えた青春 戦前の女性闘士 山崎小糸さん」)。
 前出の山崎さんの手記にもありますが、三月十四日にも陸軍歩兵第四十四連隊の補充隊営内、射撃場へのビラまきがおこなわれました。
 このころは組織が急速に拡大されていて高知高等学校の日本共産青年同盟班による行動隊(片岡薫さんら)、化学の共産青年同盟班のメンバーや、全協化学労働組合稲生分会(石灰製造)の井上泉さんも、ビラまきに参加しています(高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』など)。
 このビラも、日本共産青年同盟高知地区委員会の署名入りの反戦ビラでした。
 これについて井上泉は「詩人の槇村浩などと朝倉の四四連隊に、『兵士の声』という反戦ビラを投げこんだり、全協の石灰岩山の分会をつくったりしたのは一九三〇年代のことである……」(『白い山から』)と書いています。
 井上泉は「……兵士の声という吉田[豊道]さんの書いたビラを(吉田さんは反戦同盟の責任者でもあったと思う)朝倉のいまの高知大学の杉垣の間からほり込み二時過ぎ帰って来た時、ようやったといはれた事が三十年昔の様には思はれません」といっています(近森俊也編『ダッタン海峡 一号』)。
 陸軍歩兵第四十四連隊への反戦ビラ配布には中学生も参加しています。
 堀見俊吉です。
 彼は、高知市の県立城東中学校(いまの県立高知追手前高校)の四年生でした。
 この件で、一九三二年六月上旬、高知警察署に検挙されました。初犯で未成年でもあったため半月ほどの勾留で釈放されました。これにより、同校を中途退学することを余儀なくされました。
 しかし、俊吉は、「俺は、日本で最年少の反戦闘士だった」と自負していたといいます。
 以上のことは『堀見末子(まっす)土木技師 台湾土木の功労者』に書かれています。
 浜田勇は、四月二日、高知県長岡郡五台山村の招魂社祭当日の反戦ビラ配布にも触れています(槇村浩の会『ダッタン海峡 八号』)。
 「しかし如何(いか)に警戒を強めても、一人一人の兵隊に監視をつけるわけにはゆくまいし、家族の面会を禁止する事も出来ないだろう。四月二日五台山の招魂祭には、一般群衆に混って兵士達の行楽の姿が随所に見られた。真面目だが、反骨と、ユーモアに富んだ槇村らの反戦闘争のアジビラは憲兵隊の意表を突いていろいろの形で行われた。」
 高知高等学校の生徒たちの動きも記録されています。
 高知新聞、一九八二年十月九日付の連載「自由の空に 旧制高知高校外史 十五」(片岡薫)です。
 「[高知高校の]社研[社会科学研究会]は強大なものになっていた。学内だけでなく学外の組織ともつながりを持ち、ナップ[全日本無産者芸術連盟、Nippona Artista oletaFederacio、NAPF]」、ブロキー[プロキノ、Prokino、日本プロレタリア映画同盟のことでしょうか]、コツプ[日本プロレタリア文化連盟、Federacio de Proletaj Kultur Organizoj Japanaj、KOPF、コップ]などの文化運動にも加わり、非合法新聞・雑誌の配布責任者となり、山本大和、森山正也、松平博、志賀邦雄、山泉錬太郎、片岡薫(一〇回・文甲一)たちは共産青年同盟員となっていた。社研の組織下には読書会を各クラスに持っており、学内新聞『こだま』を発行し、四十四連隊の上海出動の際には数班を組んで反戦ビラを兵舎付近、[高知]市内各所に張りまわした。」
 その後、発行された『プロレタリア文学』一九三二年六月臨時増刊号の「高知支部活動報告」の中には「高知第四十四聯隊の上海出兵を中心にしつよう執拗な反戦斗争」があがっています。

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連載 四十六 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【反戦ビラを読んだ兵士が考えたこと。】

 反戦ビラ配布のインパクトは、どうだったでしょうか。
 一九三九年に憲兵司令部が編集した『日本憲兵昭和史』の、この「事件」の記述で、反戦ビラなどの「反響」を気にしていたことが何度ものべられているのを見ても軍隊のろうばいぶりがわかります。
 高知県朝倉村の陸軍歩兵第四十四連隊の兵士だった高橋繁義(一九〇九年、高知県東津野村生まれ)は、同連隊内で反戦ビラを拾いました。
 〈召集されて行った晩、といっても[一九三二年二月]二十八日二時ごろ、忙しすぎて干してあったパンツの取り込みを忘れていたことに気付きパンツを取りに外へ出ました。そのとき、第一号炊事のある垣根の穴にヒラヒラしているビラを見つけ、その二、三枚を拾い小さく折りたたんで、ズボンの右ポケットへ入れました。キコクとスギの間に鉄条網を張っている生け垣で子犬が入るような穴でした。
 中隊へ走り込み石廊下から班の方を見ると、班の入り口に腕章を巻いた週番士官と憲兵が、
 「共産党がビラを撒いた」
 と、皆を並ばせて服装検査をしています。
 “このビラの事だ”と瞬間的に便所へ走り込み、立つと電灯の光が入るので、立ったまま読みました。
 「兵士諸君 銃口を後ろに向けろ お前たちの敵はむこうにはいない……」という出だしで、わかりやすく、短い文章だったので完全に読み終えて、丸めて便所へすてました。
 素知らぬ顔で元へ戻ったが、その事は胸にしまい込み誰にも言えなかった。……〉(飛鳥出版室「かわら版 第九十号」)。
 〈ビラがまかれて兵舎は沸き返りました。憲兵が「共産党がビラを入れた」などと大声で叫び、兵士たちをたたき起こして身体検査を始めたのです。私はその時起きていて干し場におり、偶然そのビラを手にしていたのですが、憲兵の声にとっさに身を隠しました。持っていると重罪の“師団送り”です。しかしどんなことが書いてあるのか興味もあり、一気に読んだところ「兵士諸君!敵と味方を間違えるな」「本当の敵はうしろにいる。上海出兵に反対しよう」などの文字が目にとび込んできました。〉
 〈私は愕然(がくぜん)としました。この戦争は間違いだというのですから、それから私は「戦争」や「軍隊」にかすかな疑問を抱くようになり、軍隊が必死になって共産党を追うのはなぜだろうと考えてきました」(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『続・高知県における共産主義運動 戦前の思い出』)。

  高知の青年・中沢啓作は、陸軍歩兵第四十四連隊の出征の翌日、反戦ビラのことを聞きます。
 〈それは特高、憲兵たちのうたえぶりをあざわらう市民の声であった〉(中沢啓作「槇村浩没後四十周年によせて--はしり書き的覚書--」=雑誌『日中』一九七八年十一月号)。
 この年、中沢は高知高等学校文科に入学して共産青年同盟の学内組織に近づいていきます。

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連載 四十七 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【「間島パルチザンの歌」を書きあげます。】

 
 一九三二年、高知の青年たちが反戦ビラを配布している間にも大日本帝国は侵略政策を拡大していました。
 三月一日、日本は、中国東北部に、カイライ国・満州国を成立させました。
 槇村は、そうしたなかの三月十三日、反戦詩「間島[かんとう]パルチザンの歌」を書きあげます。槇村の化身(けしん)が、中国の朝鮮人の多い地域・間島で天皇の軍隊とたたかう間島パルチザンの一員になって日本軍とたたかっている、そんなイメージの詩でした。

 

 思ひ出はおれを故郷へ運ぶ
 白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
 蘆の根の黑く凍る沼のかなた
 赭ちゃけた地肌に黝[くろ]ずんだ小舎の續くところ
 高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ

 雪溶けの小徑を踏んで
 チゲを負ひ、枯葉を集めに
 姉と登った裏山の楢林よ
 山番に追はれて石ころ道を驅け下りるふたりの肩に
 背負(しょい)縄はいかにきびしく食ひ入つたか
 ひゞわれたふたりの足に
 吹く風はいかに血ごりを凍らせたか

 雲は南にちぎれ
 熱風は田のくろに流れる
 山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
 父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
 目暈[めま]ひのする空き腹をこらへて
 姉と手をつないで越えて行つた
 あの長い坂路よ

 えぞ柳の煙る書堂の蔭に
 胸を病み、都から歸つて来たわかものゝ話は
 少年のおれたちにどんなに樂しかつたか
 わかものは熱するとすぐ咳をした
 はげしく咳き入りながら
 彼はツァールの暗いロシアを語った
 クレムリンに燻[くすぶ]つた爆弾と
 ネヴァ河の霧に流れた血のしぶきと
 雪を踏んでシベリヤに行く囚人の群と
 そして十月の朝早く
 津浪のやうに街に雪崩れた民衆のどよめきを
 ツァールの黒鷲が引き裂かれ
 モスコーの空高く鎌と槌(ハンマー)の赤旗が翻つたその日のことを
 話し止んで口笛を吹く彼の横顔には痛々しい紅潮が流れ
 血が繻衣(チョゴリ)の袖を眞赤に染めた
 崔先生と呼ばれたそのわかものは
 あのすざましいどよめきが朝鮮を揺るがした春も見ずに
 灰色の雪空に希望を投げて故郷の書堂に逝った
 だが、自由の国ロシアの話は
 いかに深いあこがれと共に、おれの胸に泌み入つたか
 おれは北の空に響く素睛らしい建設の轍[わだち]の音を聞き
 故國を持たぬおれたちの暗い殖民地の生活を思つた

 おゝ
 蔑すまれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
 聲なき無数の苦惱を載せる故國の土地!
 そのお前の土を
 飢えたお前の子らが
 苦い屈辱と忿懣[ふんまん]をこめて嚥[の]み下(くだ)すとき――
 お前の暖い胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
  うなだれ、押し默つて國境を越えて行くとき――
 お前の土のどん底から
 二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!

 おゝ三月一日
 民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
 無限の憎惡を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
 一九一九年三月一日を忘れようぞ!
 その日
「大韓獨立萬歳!」の聲は全土をゆるがし
 踏み躙られた××旗に代へて
 母國の旗は家々の戸ごとに翻った

 胸に迫る熱い涙をもつておれはその日を思ひ出す!
 反抗のどよめきは故郷の村にまで傳はり
 自由の歌は咸鏡の嶺々に谺[こだま]した
 おゝ、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無數の列よ!
 先頭に旗をかざして進む若者と
 胸一ぱいに萬歳をはるかの屋根に呼び交はす老人と
 眼に涙を浮べて古い民衆の謠(うた)をうたふ女らと
 草の根を?りながら、腹の底からの嬉しさに歡呼の聲を振りしぼる少年たち!
 赭土(あかつち)の崩れる峠の上で
 聲を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
 おれは決して忘れない!

 おゝ
 おれたちの自由の歡びはあまりにも短かゝった!
 夕暮おれは地平の涯に
 煙を揚げて突き進んでくる黑い塊を見た
 悪魔のやうに炬火を投げ、村々を焔の×に浸しながら、喊聲[かんせい]をあげて突貫す  る日本騎馬隊を!
 だが×け×れる部落の家々も
 丘から丘に搾裂する銃彈の音も、おれたちにとつて何であらう
 おれたちは咸鏡の男と女
 搾取者への反抗に歴史を×つたこの故郷の名にかけて
 全韓に狼煙を揚げたいくたびかの蜂起に×を滴らせたこの故郷の土にかけて
 首うなだれ、おめ/\と陣地を敵に渡せようか

 旗を捲き、地に伏す者は誰だ?
 部署を捨て、敵の鐡蹄(てってい)に故郷を委せようとするのはどいつだ?
 よし、焔がおれたちを包まうと
 よし、銃剣を構へた騎馬隊が野獸のやうにおれたちに襲ひ掛からうと
 おれたちは高く頭(かしら)を挙げ
 昂然と胸を張つて
 怒濤のやうに嶺をゆるがす萬歳を叫ばう!
 おれたちが陣地を棄てず、おれたちの歡聲が響くところ
 「暴壓の雲光を覆ふ」朝鮮の片隅に
 おれたちの故國は生き
 おれたちの民族の血は脈々と搏(う)つ!
 おれたちは咸鏡の男と女!

 おう血の三月!――その日を限りとして
 父母と姉におれは永久に訣[わか]れた
 砲彈に崩れた砂の中に見失つた三人の姿を
 白衣を血に染めて野に倒れた村びとの間に
 紅松へ逆さに掛つた屍の間に
 銃劍と騎馬隊に隠れながら
 夜も晝もおれは探し歩いた

 あはれな故國よ!
 お前の上に立ちさまよふ屍臭はあまりにも傷々しい
 銃劍に蜂の巣のやうに×き×され、生きながら火中に投げ込まれた男たち!
 強×され、×を刳[えぐ]られ、臓腑まで引きずり出された女たち!
 石ころを手にしたまゝ絞め××[殺さ]れた老人ら!
 小さい手に母國の旗を握りしめて俯伏した子供たち!
 おゝ君ら、先がけて解放の戰さに斃れた一萬五千の同志らの
 棺(ひつぎ)にも蔵められず、腐屍を兀鷲[はげわし]の餌食に曝す?(むくろ)の上を
 荒れすさんだ村々の上を
 茫々たる杉松の密林に身を潜める火田民(かてんみん)の上を
 北鮮の曠野に萠える野の草の薫りを籠めて
 吹け!春風よ!
 夜中馥(よぢう)、山はぼう/\と燃え
 火田を囲む群落(むら)の上を、鳥は群れを亂して散つた
 朝
 おれは夜明けの空に
 渦を描いて北に飛ぶ鶴を見た
 ツルチュクの林を分け
 鬱蒼たる樹海を越えて
 國境へ――
 火のやうに紅い雲の波を貫いて、眞直ぐに飛んで行くもの!
 その故國に帰る白い列に
 おれ、十二の少年の胸は躍った
 熱し、咳き込みながら崔先生の語つた自由の國へ
 春風に翼(はね)を搏(う)たせ
 歡びの聲をはるかに揚げて
 いま樂しい旅をゆくもの!
 おれは頬を火照らし
 手をあげて鶴に應(こた)へた
 その十三年前の感激をおれは今なま/\しく想ひ出す

 氷塊が河床にくだける碎ける早春の豆滿江を渡り
 國境を越えてはや十三年
 苦い闘争と試練の時期を
 おれは長白の平原で過ごした
 氣まぐれな「時」をおれはロシアから隔て
 嚴しい生活の鎖は間島におれを繋いだ
 だが かつてロシアを見ず
 生れてロシアの土を踏まなかつたことを、おれは決して悔いない
 いまおれの棲むは第二のロシア
 民族の墻(かき)を撤したソヴェート!
 聞け!銃を手に
 深夜結氷を越えた海蘭(ハイラン)の河瀬の音に
 密林の夜襲の聲を谺した汪淸(ワンシン)の樹々のひとつひとつに
 ×ぬられた苦難と建設の譚を!

 風よ、憤懣の響きを籠めて白頭から雪崩れてこい!
 濤よ、激憤の沫[しぶ]きを揚げて豆滿江に迸[ほとばし]れ!
 おゝ、××旗を飜す強盗ども!
 父母と姉と同志の血を地に灑[そそ]ぎ
 故國からおれを追ひ
 いま劍をかざして間島に迫る××の兵匪!
 おゝ、お前らの前におれたちがまた屈從せねばならぬと言ふのか
 太て??しい強盗どもを待遇する途をおれたちが知らぬといふのか

 春は音を立てゝ河瀬に流れ
 風は木犀の香を傳へてくる
 露を帶びた芝草に車座になり
 おれたちはいま送られた素睛らしいビラを讀み上げる
 それは國境を越えて解放のために闘ふ同志の聲
 撃鐡を前に、悠然と階級の赤旗を掲げるプロレタリアートの叫び
 「在滿日本××兵士委員會」の檄!

 ビラをポケツトに
 おれたちはまた銃を取つて忍んで行かう
 雪溶けのせゝらぎはおれたちの進軍を傳へ
 見覺えのある合歓(ねむ)の林は喜んでおれたちを迎へるだらう
 やつら!蒼ざめた執政の蔭に
 購はれた歡聲を擧げるなら擧げるがいゝ
 疲れ切つた號外賣りに
 嘘つぱちの勝利を告げるなら告げさせろ
 おれたちは不死身だ!
 おれたちはいくたびか敗けはした
 銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした
 だが
 密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!
 十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!
「生くる日の限り解放のために身を献げ
 赤旗のもとに喜んで死なう!」
「東方××軍」の軍旗に唇を觸れ、宣誓したあの言葉をおれが忘れようか
 おれたちは間島のパルチザン。身をもつてソヴェートを護る鐡の腕。生死を赤旗と共に  する決死隊
 いま長白の嶺を越えて
 革命の進軍歌を全世界に響かせる
 ――海 隔てつわれら腕(かひな)結びゆく
 ――いざ戰はんいざ、奮ひ立ていざ
 ――あゝインターナショナルわれらがもの……

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連載 四十八 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【陸軍歩兵四十四連隊への反戦ビラ配布を詩でうたいます。】

 槇村は、ひきつづき、反戦詩「一九三二・二・二六 ――白テロに斃された××聯隊の革命的兵士に――」を書きます。
 陸軍歩兵四十四連隊への反戦ビラ配布をテーマにしていました。

  營舎(えいしゃ)の高窓(たかまど)ががた/\と搖(ゆ)れる
 ばつたのように塀(へい)の下(した)にくつゝいてゐる俺達(おれたち)の上(うへ)を
 風(かぜ)は横(よこ)なぐりに吹(ふ)き、
 芝草(しばくさ)は頬(ほゝ)を、背筋(せすぢ)を、針(はり)のやうに刺(さ)す

 兵營(へいえい)の窓(まど)に往(ゆ)き來(き)する黒(くろ)い影(かげ)と
 時(とき)どき營庭(えいてい)の燈(ひ)に反射(はんしや)する銃劍(じうけん)を見詰(みつ)めながら
 おれは思(おも)ふ、斃(たふ)されたふたりの同志(どうし)を

 同志(どうし)よ
 おれは君(きみ)を知(し)らない
 君(きみ)の經歴(けいれき)も、兵營(へいえい)へもぐり込(こ)んで君(きみ)が何(なに)をしたかも

 兵營(へいえい)の高塀(たかべい)と歩哨(ほせう)の銃劍(じうけん)とはお互(たがひ)の連絡(れんらく)を斷(た)つてしまつた
 おれは君(きみ)たちが
 おれが君(きみ)たちを探(さが)したように、あせりあせり熱心(ねつしん)に俺達(おれたち)に手(て)を差(さ)し出(だ)したのを知(し)つてゐる
 おれと君(きみ)とは塀(へい)を隔(へだ)てゝめくら探(さが)しにお互(たが)いを求(もと)め合(あ)ひ
 おれの手(て)と君(きみ)の手(て)は
 すれ/\になったまゝ塀(へい)の間(あいだ)で行(ゆ)き違(ちが)つたのだ

 おれは想像(さうぞう)する
 破(やぶ)れたストーヴについて、不自由(ふじいう)な外出(ぐわいしゆつ)について、封(ふう)を切(き)られた手紙(てがみ)について、不親切(ふしんせつ)な軍醫(ぐんい)について、横(よこ)つ面(つら)ヘ竹刀(しない)を飛(と)ばす班長(はんちやう)について、夜中(よなか)にみんな叩(たゝ)き起(おこ)す警報(けいほう)について、無意味(むいみ)な教練(けうれん)のやり直(なほ)しについて
 君(きみ)らがいかに行働(かうどう)を以(もつ)て同(おな)じ兵卒(へいそつ)をアジつたかを
 そして
 誰(たれ)が戰争(せんさう)で儲(まう)け、誰(たれ)が何(なん)の恨(うら)みもない俺達(おれたち)に殺(ころ)し合(あ)ひをさせるか、誰(たれ)が死(し)を賭(と)して俺達(おれたち)のために闘(たゝか)ひ、何(なに)が俺達(おれたち)を解放(かいほう)するかを
くたくたに疲(つか)れた演習(えんしふ)の歸(かえ)りに
 半煮(はんに)えの飯(めし)をかきこむ食事(しよくじ)の合(あ)ひ間(ま)に
 みなが不平(ふへい)をぶちまけ合(あ)ふ寢臺(しんだい)の上(うへ)で
 いかに君(きみ)らが全兵卒(ぜんへいそつ)の胸(むね)の奥(おく)に沁(し)み込(こ)ませたかを

 その日(ひ)
 (忘(わす)れるな、二月(ぐわつ)二十六日(にち)!
 君(きみ)たちは順々(じゆん/\)に呼(よ)び出(だ)され
 後(うしろ)から欺(だま)し討(う)ちに×[切]り倒(たふ)された
 君(きみ)たちの血(ち)はべっとりと廊下(らうか)を染(そ)め
 君(きみ)たちの唇(くちびる)は最後(さいご)まで反戰(はんせん)を叫(さけ)び續(つゝ゛)けた

 よし
 たけり立つて兵士らを宥(なだ)めかねてやつらのひとりが
 自殺(じさつ)せうと、よし
 泥のやうに醉(よ)つ拂(はら)はせた兵士(へいし)らを御用船(ごようせん)へ積(つ)み込(こ)んで送(おく)り出(だ)さうと
 廊下(らうか)に沁(し)み込(こ)んだ君(きみ)たちの血(ち)は
 それで拭(ぬぐ)はれたか
 溢(あふ)れ出(で)る血(ち)どろと共(とも)に口(くち)を衝(つ)いて迸(ほとば)しった
 君(きみ)たちの叫(さけ)びは
 それで消(け)されたか

 おゝ今(いま)
 消燈喇叭(せうとうらつぱ)は夜風(よかぜ)を衝(つ)いて響(ひゞ)き渡(わた)り
 窓(まど)はひとつひとつ闇(やみ)に溶(と)けて行(ゆ)く
 おれは伸(の)び上(あが)り
 かじかんだ手(て)を舉(あ)げて仲間(なかま)に合圖(あいづ)をする
 そして
 俺達(おれたち)は立上(たちあが)りマントを捨(す)て
 すばやく塀(へい)を乗(の)り越(こ)えて突進(とつしん)する

 掩達(おれたち)の手(て)にはビラがあり
 俺達(おれたち)のポケットにはドスがある
 ビラは眠(ねむ)つた營舎(えいしや)を搖(ゆ)り覺(さ)まし
 ドスは倒(たふ)された同志(どうし)の血(ち)を洗(あら)ふだらう
 風(かぜ)よ
 兵營(へいえい)の隅々(すみ/\)までこのビラを蒔(ま)き散(ち)らせ!
塀(へい)よ
 「兵士委員会(へいしゐゐんくわい)を作(つく)れ!」
 の叫(さけ)びを營庭(えいてい)一ぱいに跳(は)ね返(かえ)せ!

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連載 四十九 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【陸軍歩兵四十四連隊で「殺された」兵士のこと。】

 
 槇村の「一九三二・二・二六 白テロに斃(たふれ)た××[四十四]連隊の革命的兵士に」にはつぎの詩句があります。

 その日
   (忘れるな、二月二十六日!)
  君たちは順々に呼び出され
 後(うしろ)から欺(だま)し討ちに×り倒された
 君たちの血はべっとりと廊下(ろうか)を染め
 君たちの唇(くちびる)は最後まで反戦を叫び続けた
 
 これについて井上清は、『井上清史論集三 日本の軍国主義』で「出征を前にしたこの日、高知連隊の一将校が自殺するという事件があり、それに関連して、県民の間にいろいろのうわさが流れた。……(高知連隊で反戦兵士が殺されたという事実はない。それは槇村の詩的創作である)。」としています。
 

  中沢啓作は、兵士が殺された事件はあったという見方で、拳銃自殺したのは、かつては 中沢の出身中学である城北中学(旧高知二中)の軍事教練の教官をつとめたことのある陸軍歩兵四十四連隊の中隊長の日野中尉(陸軍士官学校卒)だといいます(中沢啓作「槇村浩没後四十周年によせて--はしり書き的覚書--」=雑誌『日中』一九七八年十一月号)。

 <当時の高知新聞の記事には出兵と陸大[陸軍大学]入試を前にしたあせりで、ノイローゼとなり自殺したとこの中隊長の死を報じている。>

 <推察する処[日野中尉は]その殺人の責任を自ら背負ったものとおもわれる。この事件の当事者たちはまもなく出兵するが、若干のものはつながれて善通寺の師団本部にひらかれた軍法会議にかけられたときいている。>

 ここで、当時の軍隊内での動きについて史料をあたってみます。
 ○ 一九二八年十月十四日付、十六日付の土陽新聞に連載「逃亡兵 後日物語」の「二」、「三」が載っています。高知市朝倉村の陸軍歩兵四十四連隊のことです。「一ケ月に一人二人と云(い)う割合で、逃亡兵の濫造(らんぞう)を行つた高知連隊は一躍して日本一の逃亡連隊となつて了(しま)つた。」。逃亡兵のほとんどは連隊に連れ戻されているといいます。しかし、二度目の脱走中の「秋山二等卒」は、いまだに行方不明だといいます。
 ○ このころ、前出の陸軍歩兵第四十四連隊の兵士だった高橋繁義さんは「私は四十四連隊で軍事教練を受ける学生を教育しましたが、私たち兵士の言うことをきかない学生が多勢いました。ある時など学生に隊列を組ませて移動させていると、輪になって座っているグループがありました。私が注意すると学生たちは『おんちゃんそんなこといいやないか』などと答えてくるのです。」と、語っています(『続・高知県における共産主義運動 戦前の思い出』。治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部。一九九一年四月十五日)。
 ○ 一九三二年三月二十二日号の日本共産党中央機関紙「赤旗」の「日本軍隊内の動揺」から。
 「パリ 二月十七日
 『リユマニテ』の報道によれば、満州の日本占領軍と上海に於[お]ける日本軍部隊との間には不満の深刻な動きが見られる。
 同紙の報導によれば、二月八日多数の日本兵士は中国軍に対して進撃することを拒んだ。二百人以上の日本兵士は逮捕され、日本に送返された。
 上海への援軍の出発に際し、兵士達は、戦地に送られることに対して公然たる不満を表明した。
(プラウダ 二月十九日)」
 「上海 二月二十一日
 支那紙『ダワン・バオ』は、上海に到着せる日本兵士の間で中国軍との闘争のために最前線に出ることを拒んだといふ場合がしばしば屡々あつたと報じてゐる。
 一月二十九日二百人以上の兵士が命令に服従しなかつた。彼等は武装解除され、日本に送還された。
 二月十二日虹口(ホンキコー)地区に於(おい)て約二、三百人の兵士が集会を開かうと試みた。集会者の間には、中国兵士に対する戦争を拒絶せよ、中国侵略を妨害せよ、兵士大衆の間にこの煽動(せんどう)を行へと呼びかけた革命的兵士委員会の署名のある宣言が配布された。
 同紙は尚(なお)その後更(さら)に六百人以上の日本兵士が再び命令を拒否したと報じてゐる。その中百人余りが銃殺に処せられ、残余の者は内地に送還された。」
 「上海 二月二十二日
 上海日本紙『日々新聞』は、軍需品及び援兵を満載して到着した日本汽船『上海丸』は、『故郷忘れ難く、戦闘を欲しない』数十名の日本兵士を載せて日本に帰航する事となつたと報じてゐる。支那紙『イースタン・タイムス』は、最近到着した六百名の日本兵士が戦争を拒んだ事を報じてゐる。二月二十日植田司令官の命によりこれらの兵士は武装解除され巡洋艦に乗せられて日本に送還された。日本軍隊内には頻々(ひんぴん)として非戦伝単(反戦ビラ)が撒布されてゐる。」
 ○ 一九三二年四月十三日号の日本共産党中央機関紙「赤旗」の「十五連隊の兵士大挙して 将校宿舎を襲ひ 一名を狂人にす」の記事。
 「……三月八日の夜、第二次出兵を知つた[陸軍高崎]十五連隊の兵士達は、大挙して将校連の兵営内宿舎を襲ひ内部に乱入したが、この物凄(ものすご)ひ勢ひに恐れをなした将校ども共は日頃の威厳にも似ず悲鳴を挙げて狂奔し二階から飛下り大(おお)怪我(けが)をし、そのうち中一名はつい遂に発狂した。……」 
 ○ 大阪朝日新聞、一九三二年四月十四日付、「呉の赤い水兵公判」。
 「治安維持法違反による呉海軍赤化事件の公判は十七日午前八時五十分から裁判長太田大佐、裁判官鈴木法務官、検察官染川法務長係りで開廷、被告五名に對し裁判長から身許調べがあって審理にうつらんとするや検察官から事件の内容がら裁判長に傍聴禁止を求め、同十時五分裁判長は一般部外の傍聴を禁止して審理に入ったのち一旦休憩、午後一時再開四時すぎ第一回公判を終った。(呉)」
 ○ 新聞「兵士の友」(日本共産党。一九三二年九月創刊)、一九三三年三月十日号の「北満姫路師団兵士叛乱 二百名全部銃殺さる!」の記事。
 満州の姫路第十師団の中隊兵士たちが、除隊期日が過ぎても帰国できずにいることに反発し、即時帰国を要求、勝手に隊を解散し、単独帰国を始めました。師団司令部は、兵士らを包囲し捕えて銃殺しました。これらの兵士たちは、最後の一人になるまで抵抗をやめず「帝国主義戦争反対!」「中国から兵をひきあげろ!」と叫びました。
○ 一九三三年三月三十日、関東軍間島(かんとう)日本しちょう輜重隊員の伊田助男さんは、十万発の弾薬をトラックに積み間島(いまは中国吉林省延辺朝鮮族自治州)の小汪清抗日遊撃区に運んだのち 、つぎのような遺書を残し自殺します(『中国人民解放軍戦史 星火燎原〔4〕日中戦争(上)』。光岡玄編訳。新人物往来社)。
 「親愛なる遊撃隊の同志のみなさん
 わたしは、あなたがたが山あいにまいた宣伝物を読み、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました。あなたがたは、愛国主義者であり、また国際主義者でもあります。わたしはあなたがたにお会いし、ともに共同の敵を打倒したいと、切に思っています。しかし、わたしはファシストのけだものたちに取り囲まれていて、あなた方のところへ行くことができません。わたしはみずから命を絶つことにしました。わたしが運んできた十万発の弾薬は、あなたがたの軍隊に贈ります。どうかみなさん、日本のファシストをねらいうちしてください。わたしの身は死のうとも、革命の精神は生き続けます。神聖な共産主義の事業の一日もはやい成功を祈って。
 関東軍間島日本輜重隊 日本共産党員 一九三三年三月三十日 伊田助男」

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連載 五十 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【陸軍歩兵四十四連隊の「出征」をうたいました。】

 槇村は、陸軍歩兵四十四連隊の出征も詩にしました。
 「出征」です。

 今宵電車は進行を止め、バスは傾いたまゝ動かうともせぬ
 沿道の両側は雪崩うつ群集、提灯と小旗は濤(なみ)のように蜒(うね)り
 歓呼の聲が怒涛(どとう)のやうに跳ね返るなかをおれたちは次々にアーチを潜り、舗道(ほどう)を踏んで
 いま駅前の広場に急ぐ

 おゝ、不思議ではないか
 かくも万歳の声がおれたちを包み
 おれたちの旅が
 かくも民衆の怒雷の歓呼に送られるとはー

 春の街は人いきれにむれ返り
 銃を持つ手に熱気さへ伝はる
 火の海のやうな市街を見詰めながら、おれはふと思ふ
 おれたちこそ
 苦闘する中国の兄弟に送られた××(革命)の×(援)軍
 国境を越えて共に暴圧の鎖を断ち切る自由の戦士!
 いま丘を越え
 海を越えて
 武器を携え急×(援)に赴くおれたちではないかと
 
 けたゝましく響く喇叭の音におれはふと我に返る
  (……蒋介石ごときは問題ではない
  (わが敵はただ第十九路軍……
 砂風の吹き荒れる営庭で、拳を固めて怒鳴った肥っちょの聯隊長の姿が
 烈しい憎悪と共にまざまざと眼の前に浮ぶ
 おゝ、第十九路軍
 屈辱と飢餓の南京政府を蹴飛ばして
 下からの兵士の力で作り上げた×衛軍
 狼狽する蒋介石を尻目にかけ、敢然と××政府に戦ひを宣した
 英雄的な中国のプロレタリアートと貧農の決死隊
 きみらの隊列の進むところ
 ××××の××は惨敗し
 土豪・劣紳・買弁が影を潜めた
 よし!
 ×仏英米の強盗ともが、君たちに陣地を棄てよとジュネーヴから命じようと
 よし!
 妥協した帝国主義者共の大群が君たちに襲い掛からうと
 君たち第十九路軍の背後には中国ソヴェート政府が厳存し
 君たちの前には
 全世界の同志の差し出す無数の腕がある

 歩廊に整列し
 ステップを踏んでおれたちは乗車する
 おれの頭を掠めるは残された同志
 あの路地の屋根裏で
 Kは今夜もガリ版を切り
 Dは円い眼鏡の奥から、人なつこい笑ひを覗かせながらビラを刷り
 Tは膝の上に「無新」を載せ、黙りこくって糊を煮てゐるだらう
 おゝ、――それとも
 きみらは今宵群集の中に潜(もぐ)り込み
 栗鼠のようにすばしこく、人人の手から手へ反×のビラを渡してゐるのか

 欺かれた民衆よ
 粧われた感激よ
 祝福された兵士たちの何と顔色の蒼いことか
 万歳の声に顔をそむけて眼鏡を曇らすおまへ
 白布にくるんだ銃を杖に突いてぢっと考へ込むおまへ
 とってつけたやうな哄笑で話題を女の話に外らせようとするおまへ
 そしておそらくは彼方の車の中で、ごった返す荷物に腰を下ろし馬の首を抱いて泣き濡れてゐるであらうおまへ
 枯れた田地と
 失業に脅える工場を後に残して
 一枚の召集状でむりやりに×××行かれるおまへらにとって、顔色の蒼いのは無理ではない
 ――だが
 今宵おれの胸は嬉しさに膨(ふく)らみ
 心臓は喜びにどきんどきんと鼓動をうつ
 おれの喜びは、生れて始めてすばらしい武器を手にしたプロレタリアートの喜びだ!
 おれの嬉しさは
 戦場といふ大仕掛けの職場の中で兵士の不平を××させる導火線、
 軍隊×××となった嬉しさだ!

 鎖が鳴り
 汽笛の音が早春の夜空に消える
 風は駅頭の歌声を消して行き
 街の灯は次第にかすかになる
 ゆくてに明滅する赤いシグナルを見詰めながら
 おれは心に誓ふ!

 けふ
 たった今からさりげない調子で兵卒のひとりひとりに話し掛け
 ××を覆う神聖なヴェールを引っぺがし中国ソヴェート建設の×のものがたりをきみらの胸に泌み込ませ

 やがて
 怒濤を蹴って港を離れる船の中で
 きみらの不平の先頭に立ち

 明日
 上海の塹壕で
 ××委員会の旗幟(きし)をたかく掲げ
 士官らを壁に×たせ
 全東洋被圧迫大衆の春の歌を高らかにうたふ、揚子江の河べりに
 十九路軍の兵士と××××(手を握り)
 (……おゝ、おれは×衛軍の一兵卒!

 明後日
 幸におれが
 (よし、おれが××士官の銃先に斃れようとその時はおれの屍を踏み越えて
  更にすぐれた、更に多くの同志たちが)
 ×旗を立て
 大衆の心からの歓呼を浴びて
 なつかしい故郷へ帰るとき
 残された同志らよ
 苦闘にやつれた君たちが×旗を振って万歳を唱へるとき
 おゝその時こそ
 共に歌はうぞ
 ××××××××××建設の歌を!

 第十九路軍は、国民党の蒋介石の命で蒋光鼐(しょうこうだい。一八八八年十二月十七日~一九六七年六月八日)と蔡廷鍇(さいていかい。一八九二年四月十五日~一九六八年四月二十五日)が一九三〇年八月に組織した国民革命軍第十九路軍のこと。蒋光?が総指揮、蔡が軍長に任命されました。一九三二年一月、日本軍が上海へ進軍してくると、国民党中央は同軍に撤退を勧めたが、蒋光鼐と蔡廷鍇は防衛線を堅持し、日本軍を迎撃することを決断しました。一月二十八日、両軍の交戦が開始されました(第一次上海事変、淞滬抗戦)。以後、三十日以上にわたり、蒋、蔡は懸命に抗戦したましが、最後は兵力・火力で勝る日本軍の前に撤退しました。しかし、このときのたたかいぶりは中国国内から賞賛を受けました。

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連載 五十一 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【井上泉の「動員令が下つた」と槇村の「出征」との観点の違い。】

 陸軍歩兵第四十四連隊の上海出征については槇村の仲間・井上泉が文章を書いています。
 それを読めば、槇村と井上の観点の違いがわかります。
 それは、井上泉が『大衆の友』一九三二年四月号書いた「動員令が下つた」です。
 「高知・青木一郎」名で書いています。

 <「土佐にも動員令が下つた。そして召集された家の者には戦争の害、被害が露骨にやって来た。
 そして出発したのが三月の三日位であつた 兵士の通る道は見送人(みおくりにん)でギッシリだつた。正にブル新聞の言ふ国民的見送(みおくり)だ。朝日や毎日、高知の各新聞は宣伝の為(た)め社のマーク入(いり)の旗をこしらえみんな振廻してゐいる活動カンも休んでデカデカタイコやラッパを鳴らしてやつてゐる。
 動員令が下るとすぐ戦争反対を叫んで数々の革命的兵士は銃×された。同志を残して彼等は遠く上海(シャンハイ)へ×されに行くのだ。
 何にも荷物を持たずに馬に乗つて行く上官、それにひきかえ鉄カブト鉄砲ハイノウ等十四五貫もある重い物を背負つて汗を流しながら歩いて行かねばならぬ兵士、疲れ切った足取(あしどり)を俺の前に表はした時、俺は兵士の姿をまともに見る事は出来なかった。遠く上海へ資本家の為(た)めに戦争に出された兵士の顔は余(あま)りにも悲惨なのだつた。まなじりの赤くなつてゐる者、顔の青白くなつてゐる者、見送人に笑(わらひ)を送らうとして泣きそうになるその深コクな表情、それに対して市民達はうれしそうに兵士の顔え[ママ]旗をばさばさなげて万歳々々と叫んでゐるのがにくかつた。
 彼等兵士は人の前では涙を見せまい見せまいと出来得るだけ心をはりつめてゐるが、汽車の中、船の中では貧しい故郷の家の事を思ひ出して泣くだらうと想像された。
 ブル新等の言ふ元気にみちみちた兵士とか、紅潮しきつた顔などは、ドコをさがしても見当(あた)らないのだ。彼等は××の為(た)め、国家の為とか言ふ何(な)にか分からんインチキなギマンの下(した)に出征してゐるのだ。遠く北海道より飛んできた者父の死に掛(かゝ)つてゐるのをすてゝやつてきたものなど、幾多の悲劇を生んで国家の干城(かんじやう)、日本帝国の為(た)めにとブルジヨア共にだまされてやつてきたのだ。そして其(そ)の大多数は俺達労働者・農民ばかりだ。家に残つた者はどうなる、唯(ただ)一人の働き手をうばはれ、米は高くなる、税金も高くなる、揚げ句の果て餓死だ。戦争で死んでも名誉の戦死と言ふ名と、少しの涙金位(なみだきんくらい)だ。
 そして少数の資本家ばかり儲けさすのみだ。そして彼等はあらゆる機関を動かし、戦争を都合よくやらうやらうと考えて居る。キネマは肉弾三勇士や、古賀レンタイ、満洲行進曲など戦争物ばかり造つたり、新聞は新聞で自己の立場を利用し、戦争宣伝にヤツキとなつてゐる。文学の方面においても、直木(なおき)一派が五日会を造つて軍部と手をつなぎ合つてやつて居るしもう彼等は唯(ただ)革命化した日本の労働者・農民を戦争に都合よく送り出すのに必死となつてゐる。
 昨日(きのふ)も近所の出征した人の妻が二人きて話すには、『戦争へ夫がいつたから唯(たゞ)おつても食えんので、山へたきものを取りに行つたがたきものは無かつた、それ位でも気がしづまつて……』と言つて、それなりオイオイ泣き出して仕舞つた。戦争と言ふ者が出征した者だけではなく、家に残つた者に対してもどれだけの物質的、精神的損害をあたえるかは、この若い妊婦の言葉によつてもよく分(わか)るだらうと思ふ。
 するとも、一人の人も又(また)思ひ出して泣きそうになって『そうそう御上(おかみ)ももう少し考へてやつてくれたらよいのに、戦争をやるにも、時期があらあのう、この不景気に戦争なんかやつて、やらす御上はどうか知らんが、残つたわし等(ら)には一文もくれんに、ほんとうに餓死だよ。二十一の年(とし)までやつと育てたと思ふとすぐ兵隊に取られ、戦争に行くなど、わしは残念で、残念で……』とオイオイ泣き出した。この二人の残つた妻の話しは、はつきりと戦争の本質をつかみ、そして彼等(かれら)は御上がいかに自分の(彼等は即ち全民衆だ)為(ため)にやつて、俺達無産者のものでないと言ふ事をはつきりつかんでゐるのだ。俺達プロレタリヤは資本家の為(ため)の戦争中国ソヴエートぶツつぶしの戦争に対し断乎として反対し、勇ましくそれに対して闘争しやう。>

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連載 五十二 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【一気に世の中に出た槇村の三編の反戦詩。】

 一九三二年四月には雑誌や冊子に槇村の詩が三篇発表されます。
 『プロレタリア文学』四月増刊号に「間島パルチザンの歌」。
 『大衆の友』四月号に「一九三二・二・二六 白テロに斃(たふれ)た××[四十四]連隊の革命的兵士に」。
 日本プロレタリア作家同盟が四月二十日に出した『詩・パンフレット第一輯 赤い銃火』のトップに「出征」が掲載されました(この冊子の「序」は同年三月付です)。
 槇村は、この四月ごろ日本共産党に入党しました。
 槇村は、これらの詩が載った雑誌、冊子を、すぐには読むことができませんでした。
 槇村は、一九三二年四月二十一日、自宅のあった高知市ひろめ屋敷(現・帯屋町二丁目)で検挙されたのです。
 反戦ビラ配布に参加したことが治安維持法違反にとわれたのです。
 高知県下の高岡署に連行され拷問を受けます。
 未決一年。
 そして、非転向のため三年の刑となりました。
 「外」では槇村の反戦詩が評価されていました。
  『プロレタリア文学』四月増刊号には、詩人・佐野嶽夫が「詩に関する断片」という文章を書いています。彼は、そのなかの「反戦詩」という項目で「サトーハチロー、北原白秋、西條八十等のブルジョア詩人が好戦的な小唄を次々と発表してゐるのに対して、我々プロレタリア詩人の立ち遅れは厳重に批判する必要がある。」としています。この論考で彼が反戦詩と唯一評価しているのが『大衆の友』創刊号に載った槇村浩の「生ける銃架」です。<……「生ける銃架」には部分的な欠点はあるが全体として、相当高く評価されるべき詩だと思ふ。>としています。
 六月出版の中野重治編輯『プロレタリア詩の諸問題』(叢文閣)では、森山啓が、「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を評価しつつ、「一人の×××の身になり切つて充分な醗酵[はっこう]の後に歌つたらもつと成功したに違ひない」と「欠点」を指摘。「一九三二・二・二六 ――白テロに斃された××聯隊の革命的兵士に――」ついては「題材においてもその扱ひ方においても今日の詩の領域で最も重要な位置を占めるものだ」としました。
 一九三二年八月に出た日本プロレタリア作家同盟編『日本プロレタリア詩集 一九三二年版』(戦旗社)では、「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」がトップで掲載されます。

  「間島パルチザンの歌」は、中国の間島の子どもたちにも届いていました。

 韓国に住む作家・戸田郁子(一九五九年生まれ)は、二〇〇九年、中国の延辺大教授だった朴昌昱から、一九三五年ころに朝鮮総督府の管轄下にあった間島の橋東小学校の教室で「間島パルチザンの歌」を教師が朝鮮語で朗読するのを聞いたという話を聞かされたといいます。当時小学校三、四年生だった朴は、教師が「日本にもこの戦争に反対している人がいる。日本帝国主義と日本人民は分けて考えよと説いていた」のを覚えていました。

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連載 五十三 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【高知刑務所の獄中での誌友・毛利猛夫との交流。】

 槇村は、獄中でも詩の勉強をします(毛利猛夫「詩を読んだ仲間としての槇村浩」=太平洋文学会『太平洋文学 五十二号』)。
 槇村に好意を寄せた図書係の独歩許可の雑役夫の仲介で槇村と毛利猛夫は図書や文書の交換が可能でした。
 毛利は槇村に「一部分でも暗記している詩について書いてよこせ」と注文しました。 
 その注文にこたえて槇村は五、六編の詩を書きました。
 そのなかには上田敏の訳した「放羊神」、厨川白村(くりやがわはくそん) の訳したエドガー・アラン・ポー(アメリカ合衆国。一八〇九年一月十九日~一八四九年十月七日)の「ヘレン」、永井荷風の訳したシャアル・ボオドレエル(フランス。一八二一年~一八六七年)の「死のよろこび」、でした。
 槇村は、官本のなかから、柳田泉の『東洋古典物語』を見つけて、雑役夫の仲介で毛利に「僕の好きな曹士建(曹植)のものをみつけた」と、知らせました。

 「ヘレン」は、つぎのような詩でした。

 うるわしきヘレンのきみは
 似たるかないにしえのニケの小舟に
 しづけくもうまし薫りの浪路をはるか
 つかれやつれし旅人のせて
 故郷の浜辺へと向かう
 ………

 「死のよろこび」(永井荷風訳。訳詩集『珊瑚集』。一九一三年)はつぎのものです。

 蝸牛[かたつむり]匍[は]ひまはる泥土(ぬかるみ)に、
 われ手づからに底知れぬ穴を掘らん。
 安らかにやがてわれ老いさらばひし骨を埋め、
 水底に鱶[ふか]の沈む如[ごとく]忘却の淵に眠るべし。

 われ遺書を憎み墳墓をにくむ。
 死して徒[いたづら]に人の涙を請わんより、
 生きながらにして吾寧[むし]ろ鴉[カラス]をまねぎ、
 汚れたる脊髄の端々をついばましめん。

 ああ蛆蟲[うじむし]よ、眼なく耳なき暗黒の友、
 汝が為めに腐敗の子、放蕩の哲学者、
 よろこべる無頼の死人は来れり。

 われ亡骸[なきがら]にためらふ事なく食入りて、
 死の中に死し、魂失せし古びし肉に、
 蛆虫よ、われに問え。猶(なお)も悩みのありやなしやと。

 曹植(そうしょく、そうち)は、中国後漢末から三国時代の詩人です。槽稙は「野田黄雀行」という詩もつくっています。

 高樹多悲風 (高い木々には悲しい風が吹きすさび)
 海水揚其波 (海原は荒波を打ち上げる)
 利剣不在掌 (剣を持たぬ心細い私は)
 結友何須多 (友を作るにもびくびくしている)
 不見籬間雀 (垣根にいる雀を見たかい)
 見鷂自投羅 (鷹の姿に驚いて網に飛び込んでしまったじゃないか)
 羅家得雀喜 (猟師は雀が捕まって喜ぶだろうが)
 少年見雀悲 (私はそんな雀を見て悲しくなった)
 抜剣哨羅網 (剣を抜いて網を切り裂いてやると)
 黄雀得飛飛 (黄色い雀は空へ飛んでいった)
 飛飛摩蒼天 (青空の彼方まで飛び上がり)
 来下謝少年 (再び私の元へ降りてきて礼を言った)

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2013.07.26

連載 五十四(最終回) タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【高知刑務所出所前の槇村の発言(!!)。】

 槇村が高知刑務所を出所したのは、一九三五年六月でした。
 高知刑務所を出所する前の槇村の様子を伝える話があります。
 東京の府中刑務所内の予防拘禁所に入れられていた松本一三(まつもとかずみ。一九〇七年八月二十七日~一九八八年。一九三三年に日本共産党に入党。二度の検挙で敗戦までのほとんどを獄中ですごしました)が、高知刑務所からここへ転勤してきた「中村某」という教誨師が松本に、こう話したといいます(中沢啓作「槇村浩没後四十周年によせて--はしり書き的覚書--」=雑誌『日中』一九七八年十一月号)。
 「あなた方のがんばりには全く感心します。立場をはなれて言えば立派です。しかし私は高知刑務所にいたころ、一つの経験がありますが、全く頭のさがるおもいをしたことがあります。
 これは槇村浩という青年ですが、刑期を終えて出所する一九三五(昭和一〇)年六月のこと、私は職務上若干の質問をした、ここを出ておまえはどうするつもりだ。今の日本はこれまでどおりではない。非常時である。その心がまえは出来ているかときくと、いや出来ています。矢張戦争反対はつづけます。私にはこの日中戦争は正しいものとおもえませんと答えた。それならばとても日本ではくらせない。おまえは日本人でなくなるぞと一言すると、少し考えていたが、それならソヴエトへでも脱出しますよ。そうして反戦という立場はつづけますと。
 昂然[こうぜん]とした態度で綻[ほころ]び見える浴衣の肩をびやかした姿と、スタスタと出所をしていくうしろを見送りながら、私は全くあきれてしまいました。なんという強情な信念のつよさだと、あなた方の主義主張は別として、こうした態度をつらぬいたあの一見弱々しさののこる青年槇村浩には今でも感服しています」
 警察署、刑務所での虐待がもとで精神を痛めていた槇村は、出所後も、病気とたたかいながら運動をつづけます。 
 そして、一九三八年九月三日亡くなります。満二十六歳でした。

 槇村の警察署、高知刑務所でのたたかい、出所後の活動などについては別の稿にゆずります。

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2013.07.29

 『嵐が丘』のキャサリンに寄せて

 この年齢になって(一九四七年二月二十三日生まれ)、一八〇一年にイギリスの女性、エミリー・ブロンテが発表した小説『嵐が丘(Wuthering Heights)』を読みました。
 『嵐が丘』の舞台はイギリス。「嵐が丘」という屋敷に住む人々の物語です。
 ここには、アーンショー、アーンショー夫人、息子のヒンドリー、娘のキャサリンが住んでいました。
 ある日、アーンショーは、外出先で知り合った身寄りのない男児を家に連れて帰ってきました。アーンショーは、彼をヒースクリフと名づけ自分の子ども以上に可愛がりました。
 アーンショー氏が亡くなり館の主人がヒンドリーになりました。

 今までヒースクリフを良く思っていなかったヒンドリーはヒースクリフを下働きにしてしまいます。
 それでもヒースクリフとキャサリンは仲が良く、お互いに恋心を抱くようになっていました。
 しかし、キャサリンは、あるきっかけから「スラッシュクロス」の家の青年の求婚を受け入れます。
 それを知ったヒースクリフは、家人に何もつげないで姿を消します。
 しばらくして、金持ちになって帰ってきたヒースクリフは、策略で「嵐が丘」を乗っ取り、自分からキャサリンを奪ったと思われる者たちに復讐していきます。しかし、いまでも愛しているキャサリンには直接の危害はくわえません……。

  読んでいて歯がゆくなるのは、ヒースクリフが、「肝心の」、金銭的に恵まれた暮らしのためにヒースクリフを裏切って別の男性と結婚したキャサリンには直接報復しないことです。

 これは、僕の心の「ゆがみ」がいわせる言葉です。

 ヒーフロックがキャサリンには直接的な報復をしないことが、多くの人々にとっては、この作品の魅力になっているのだと思います。

 この小説を読んで、私は、大学二、三年生くらいのころ、べったりとくっついていた同じ大学の一学年下の女性のことを思い出していました。

 髪の長い、美形で、すらっとした女性で、頭もばつぐんにいい人でした。

 彼女は他の学部でしたので授業で一緒になることはありませんでしたが、家が同じ町だったこともあり、毎日のように待ち合わせて一緒に帰りました。
 冬には彼女の長いマフラーに二人でくるまって抱き合うようにして帰りました。
 彼女に付きあってほしいと言いよる男性が何人かいました。僕は、彼女にあれこれといって断らせました。

 まわりの人たちの多くは、二人は将来、結婚するだろうと思っていました。
 僕も、そう思っていました。
 しかし、ある行き違いで僕が身を引きました。彼女の本心をたしかねることもなしに……。
 その後、お互いに、別の人と結婚し、別々の人生を送っています。

 わがキャサリンに出会ったころ「嵐が丘」を読んでいたら、僕は、この小説を、いたい教訓にして、わがキャサリンと、もっと「賢く」付き合っていたかもしれないなと思いました。すくなくても一方的な判断で彼女の前から去るということはしなかったと思います。
 人生の最後のステージで、この小説に出会うとは。皮肉ななりぬきでした。

 (長年つれそってきた現在の妻が不満だとか、そういう趣旨の文章ではありませんのでねんのため。)

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2013.07.31

 「暑いねえー」に妻は「そらそうよ。夏やも」……。フジハラ日記 二〇一三年七月三十一日

 二〇一三年七月三十一日 朝

 自宅の冷房を入れていない部屋で、朝食後。

 おもわず、「暑いねー」

 と、いったら。

 妻は、

 「そらそうよ。夏やも(夏ですから)」

 夏だから暑いにきまっている、そんなことをいって何になるという気持ちだそうです。

 僕は、「たまにはクーラーをいれたらどうですか」と、いうことをいいたかったのですが……。

 「………。おまん(あんた)、そんなこと、そとでいいなよ。きらわれるぜー」

 「そとでは、いいやあせん(いってない)」

 なぜ、ぼくにだけ、こんないやがらせを……。

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暑い中の、僕たちの激闘。 フジハラ日記 二〇一三年七月三十一日

二〇一三年七月三十一日 晴れ

  午前十時から午後六時ころまで、「高知の戦争」のテーマでテレビの記者と新聞の記者を案内して外歩き(目的地までは車に乗せてもらいましたが……)。

  最初は、テレビの記者と。二か所での取材と交渉ごと、いずれるオーケー。

 つづいて青年と一緒に新聞記者と。新しい戦争遺跡ともであえました。グッド。

 しかし、きょうは暑くて、ぶっ倒れそうでした。

 いま、自宅の二階の勉強部屋でクーラーを楽しんでいます。

 節約、節約の妻は、もう寝ましたので……。

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