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2013.07.23

連載 二 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【会いたかったわけ】

 私と槇村浩の反戦詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」との出合いは、一九六五年四月、高知市の高知大学文理学部文学科に入ってすぐのことです。
 当時の私は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争をやめさせたい、日本を戦争放棄の日本国憲法をキチンと守る国にしたい、男女同権が貫かれる社会にしたい、高知大学が学びの場としてよりよいものにしたいと思っていました。
 しかし、その事業を誰と、どのような方法でやるのかということがはっきりしていませんでした。
 一時はジグザクデモの好きなグループと行動をともにしました。しかし、高校の二年後輩の女生徒二人の説得もあり、「これは違うな」と、思い始めていました。
 そんなとき、先輩が「読んでみたら」と紹介してくれたのが貴司山治、 中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』(新日本出版社。一九六四年十月十日)でした。その本の詩の最初にあったのが「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」です。
 「あの侵略戦争の時代に、このように真っ向から侵略戦争に反対する詩人がいたのか」。それは背すじがゾクゾクするような感動でした。
 この詩との出合いで、私の生き方が決まりました。この詩人のように生きようと。
そのころ、ペンネームを決めました。石川浩です。高校時代から好きだった歌人・石川啄木と槇村浩をあわせたものでした。
 東京での仕事を六十歳で退職して高知市升形の平和資料館・草の家の研究員になりました(のちに学芸員)。この資料館の仕事の一つが槇村浩の顕彰でした。
私も槇村についてあらためて勉強するようになりました。槇村についての展示を改装しました。彼が加わった反戦ビラ配布について講演する機会もありました。
 そのなかでつきあたったのが、彼が反戦詩を書くまでの彼の詩人として準備過程、彼が考えを変え、大元帥・天皇に弓を引く反戦の詩を書くようになった訳をキチンと知りたいということです。
 二〇一二年から勉強を始めました。
 ・解説書と詩集を読み日清戦争のころから一九三二年までの反戦詩の流れをつかむ。
 ・槇村の小学校以来の文章や詩をていねいに読み直す。
 ・槇村の知人が書き残した槇村についての文章を収集して読みこむ。
 ・槇村の詩などについてついての評論の文章を集めて読む。
 ・槇村や彼の母について書かれたいくつかの小説や演劇のシナリオを参考に読む。
 その作業をしながら、この論文を書きすすめています。

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