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2013.07.25

連載 四十 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【一九三二年一、二月の世情】

 一九三二年に入ると天皇の侵略戦争はエスカレーションしていきます。
 軍の指揮・命令権を持つ昭和天皇は、「満州事変」に際して、関東軍の軍事行動を容認し、一月には同軍将兵を最大限にたたえる勅語を発表。天皇制政府は特別な戦費も支出しています。
 大新聞は、あいついで満州侵略を支持し、「戦況報道」を競い合いながら部数の拡張をはかりました。
 一月四日の東京大阪朝日新聞紙上に「満州行進曲」(作詞・大江素天、作曲・堀内敬三)が発表されました。この歌は、朝日新聞社が「皇軍慰問」のため作ったものです。
実際は、「皇軍慰問」というよりは、「我等がいのち 捨つるとも なにか惜しまん」と、兵士に死を求める内容でした。

 一、過ぎし日露の 戦いに
   勇士の骨を 埋めたる
   忠霊塔を 仰ぎ見よ
   赤き血潮に 色染めし
   夕日を浴びて 空高く
   千里曠野に 聳えたり
 二、酷寒零下 三十度
   銃も剣も 砲身も
   駒のひずめも 凍る時
   すわや近づく 敵の影
   防寒服が 重いぞと
   互いに顔を 見合せる
 三、しっかり被る 鉄かぶと
   たちまち造る 散兵壕
   わが連隊旗 ひらひらと
   見あげる空に 日の丸の
   銀翼光る 爆撃機
   弾に舞い立つ 伝書鳩
 四、戦いやんで 陣営の
   かがやきさえる 星の下
   黄色い泥靴 くみとって
   かしぐ飯ごうに 立つ湯気の
   ぬくみに探る はだ守り
   故郷いかにと 語り合う
 五、面影さらぬ 戦友の
   遺髪の前に いまひらく
   慰問袋の キャラメルを
   ささげる心 君知るや
   背嚢(はいのう)枕に よもすがら
   ねむれる朝の 大ふぶき
 六、東洋平和の ためならば
   我等がいのち 捨つるとも
   なにか惜しまん 日本の
   生命線は ここにあり
   九千万の はらからと
   ともに守らん 満州を

 この歌は、当時の国策をたくみに歌詞に取り入れています。
 「一」は、中国東北部・満州における日本の権益(満鉄など)は、日露戦争の日本兵の尊い血潮によってあがなわれたものであるというものです。
 「六」は、日本の、この権益を守ることが「日本の生命線」を守ることで、「東洋平和」を守ることです。そのために「我等がいのち 捨つるとも なにか惜しまん」というのです。勝手に他国に押し入って戦争をしかけ、そこを「日本の生命線」と呼んで戦争を拡大していくというやり方です。
 
 「満州行進曲」は、同年二月十五日、ビクターからレコードが発売されました。
 そして、同年三月十日公開された映画「満州行進曲」(製作=松竹キネマ 蒲田撮影所)の主題歌になりました。
 この間にも侵略戦争の事態は進展していきます。
 同年一月十八日夜、中国の上海で、日本人法華宗僧侶、信徒ら五人が中国人に襲われ、二人が死亡、三人が重傷を負うという事件が発生しました。これにたいして、二十日、日本人居留民の青年が報復し抗日運動の拠点を襲って放火、日中双方に死傷者を出しました。
 戦後になって明らかにされたことですが、この「二人死亡、三人重傷」の事件は、中国に展開していた日本軍、関東軍が仕掛けた謀略でした。関東軍の板垣大佐、花谷少佐が、上海駐在武官補佐官・田中隆吉に謀略の実行を命じました。田中は、中国人を買収し、日本人の僧侶が托鉢で回っているのを、狙撃させました。この事件を待ち構えていた日本青年同志会員三十余人が犯人が隠れていると主張して、ナイフと梶棒で、三友実業社を襲って放火し、帰路、警官隊と衝突して、死傷者を出しました。
 こうしたなか、一月二十八日、中国の上海(しゃんはい)で日本海軍の陸戦隊が中国軍と交戦し、上海事件が起こしました。二月二十日、日本は上海を総攻撃しました。
 これについては、つぎのような指摘があります。
 「上海は、対中国貿易の中継地となる都市で、中国人街に接し、治外法権地区のフランス租界、日米英などの共同租界が設けられていた。共同租界には、約二万五〇〇〇人の日本人が居留していたが、満州事変をきっかけに中国の抗日運動の拠点となり、激しい『日貨排斥』(日本商品のボイコット)運動が展開された。
 そこへ、上海駐在公使館付陸軍武官補佐官の田中隆吉少佐が謀略を起こした。田中は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐から、満州への列国の注意をそらせるために『上海で事を起こせ』と指示を受けていたのである。上海事変は、『満州国』を独立させるための陽動作戦だった。」(『昭和二万日の全記録 第三巻 非常時日本 昭和七年→九年』)。
 与謝野晶子は、この数日後の二月一日付消印で香川県高松市の明善高等女学校(現・英明高校)の教諭・椎名六郎に、こんな手紙を出しています。
 「日支事件のため国運の未来が刻々に案ぜられ申し候。軍閥が始めしことながら、かくなれば国民全体の責任を辞し難く候。何とぞ禍(わざわい)を転じて福に致したく候」(四国新聞二〇〇七年二月十六日付)
 彼女が「国運」を論じ、「国民全体の責任」という論理で侵略戦争推進の側に立っていく姿がよくわかる文章です。
 日本海軍陸戦隊の兵力は約二千人。相手の第十九路軍は、抗日意識に燃えておて、日本軍は苦戦しました。
 あわてた陸軍中央部は白川義則大将を司令官とする上海派遣軍を急きょ、増援しました。金沢の第九師団と久留米の第十二師団より編成した混成旅団の総兵力は約一万七千人にのぼりました。

 二月五日、日本軍はハルピンを占領しました。
 
 二月二十日から、日本軍は上海市北郊の廟行鎮の第十九路軍の陣地に攻撃をかけました。しかし、戦死者二百二十四人を出し、廟行鎮の陣地を攻めあぐねていました。
 こんななかの二月二十一日の大阪朝日新聞の日曜コドモノペーシには詩人・北原白秋の「戦(いくさ)ごつこ」が掲載されます。

 鉄(てつ)の兜(かぶと)に、機関銃(きくわんじゆう)、
 機関銃、
 進め、名誉(めいよ)の聯隊旗(れんたいき)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 走れ、野砲(やほう)に装甲車(そうかふしや)、
 装甲車、
 赤い夕日だ、満州(まんしう)だ。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 駆(か)けよ、蹴(け)とばせ、雪、氷(こほり)、
 雪、氷、
 零下(れいか)二十度、こりやすごい。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 
 なんだ塹壕(ざんがう)、鉄条網(てつでうもう)、
 鉄条網、
 うなれ、空から爆撃機(ばくげきき)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 投げよ、手(て)ん手(で)に手榴弾(てりうだん)、
 手榴弾、
 たかが馬賊(ばぞく)だ、追ひちらせ。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 喇叭(ラツパ)ふけふけ、そら進め、
 そら進め。
 つづけ、後(あと)から看護卒(かんごそつ)。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。
 鉄(てつ)の兜(かぶと)に、機関銃(きくわんじゆう)、
 機関銃、
 僕ら、子供の日本軍。
   ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 二月二十二日の明け方、二四旅団の小隊長が強行破壊を命令し、伍長が部下三十五人に事前に爆破筒(竹で造られた即製のもの)を点火して持っていき、それを鉄条網の下へ突っ込んでくるよう命令しました。工兵である江下武二一等兵、北川丞一等兵、作江伊之助一等兵も、爆破筒を抱いて、第十九路軍の陣地の前に敷設されている鉄条網へ突入して突撃路を開きましたが、三人とも爆死。江下は塹壕内まで吹き飛ばされ、虫の息でしたが、兵士に抱かれて死にました。北川は身体が真二つにされ土の上に坐りました。この作戦で、ほかに四人の兵が戦死しています。この突撃路を確保した日本軍は一挙に攻勢に出て、第十九路軍の陣地の占拠に成功しました。
 なぜ、江下、北川、作江が爆死しのでしょう。
 三人が持っていた爆破筒の導火線は、通常のものより短かいものでした。途中で引き返そうとした三人を上官が怒鳴りつけて、仕方なく突入した三人は鉄条網の破壊には成功したものの、離脱が遅れて爆死しました。予定より早い爆発による事故死の原因は、上官が計算を間違え導火線の長さを半分にしてしまったためでした。
 日本軍は、この江下、北川、作江の事故死を「美談」にしたてあげていきます。
 こうした背景の中で、爆弾三勇士は出現します。
 三勇士の記事は、二月二十四日にいっせいに掲載されました。
 「大阪朝日」は、第一面に四段で「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した三勇士」の見出し。
 <〔上海特電二十三日発〕二十三日午後四時〇〇団司令部発表=二十二日〇〇団は独立で廟行鎮の敵陣地を突破し友軍の戦闘を有利に導いたが、その際、自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ身をもって深さ四メートルにわたり鉄条網中に投じ、自己もろ共にこれを粉砕して、勇壮なる爆死を遂げ歩兵の突撃路をきり開いた三名の勇士がある。
 廟行鎮の防御陣地には鉄条網を頑丈に張りめぐらし、塹壕深く後にひかえて、さすがのわが軍もその突破に悩んでいた際、わが〇兵隊の〇兵三名は鉄条網を破壊して敵陣の一角を突き崩すため自ら爆死して皇軍のため、御国のために報ずべく自ら死を志願し出たので、〇兵隊長もその悲壮なる忠心を涙ながらに『では国のため死んでくれ』 と許したので右三人は今生の別れを隊長はじめ戦友らに告げ身体一杯に爆弾を捲付けて帝国万歳を叫びつつ飛出して行き、鉄条網に向って飛込んで真に壮烈なる戦死を遂げた。
 これがため鉄条網は破れ、大きな穴が出来、敵の陣地の一部が放れ、これによってわが軍は、ここより敵陣に突入するを得、廟行鎮に攻め寄せてまんまとその翌朝陥れることが出来たもので、これを聞いた〇団長、はじめ戦友らは涙を流して、その最後を弔った。満州事変以来第一の軍事美談とし聞くものをして感泣せしめている。>
  「東京朝日」は、「 帝国万歳 を叫んで我身は木端微塵、三工兵点火せる爆弾を抱き、鉄条網に躍りこむ」の見出し。
  「東京日日」は、「世界比ありやこの気塊、点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す、廟行鎮攻撃の三勇士」の見出し。
  「大阪毎日」は、「肉弾で鉄条網を撃破す、点火した爆弾を身につけ、躍進した三人の一等兵、忠烈まさに粉骨破身」の見出し。
 高知新聞は二月二十四日、号外で、このことを報じています。十四センチメートル四方のものです。見出しは「点火せる爆弾を 身にくゝりつけ 鐡條(てつじょう)と共に 粉砕せる勇士」です。
 「(上海(しゃんはい)二十三日発聯合)昨二十二日拂曉(ふつぎょう)混成○團は廟行鎭(びょうこうちん)敵陣地に突撃して友軍の戦闘を有利に導いたがその際自分の軆に點火(てんか)せる爆彈を結びつけて挺身して深さ四米の鐡條網に投じ身軆諸共之を粉碎して歩兵の突撃路を開いた勇士があつた○團以下全○隊將士は之を傅へ聞いて大いに感激すると共に哀悼の意を表してゐるこの勇士は工作第○○隊第○一等兵江下武治、北川蒸、作栄之助の三名である。」
 フリー百科事典『ウィキペディア』の「爆弾三勇士」によれば、この三人は、日本陸軍独立工兵第十八大隊(久留米)の、江下武二、北川丞、作江伊之助の各一等兵のこと。蔡廷楷率いる十九軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破(強行破壊)し、みずからも爆死した事件です。「しかし、実際には三人の先頭に立った北川丞が撃たれ、三人とも倒れてしまい、タイムロスを生じてしまったにも拘(かか)わらず、破壊を断念せずに突入したがための事故とみるのが適切である。 ちなみに、同時に攻撃に参加した別の班や、同じ敵陣地の別方面を担当した工兵部隊は無事に任務を終えた。」。
 『日本文化総合年表』でも「実は作られた美談」と注釈がついています。
 各新聞は、これ以降、爆弾三勇士キャンペーンを始めます。
 このキャンペーンのなかで各新聞社は「三勇士の歌」を懸賞募集しました。
 二月二十八日、「朝日」、「毎日」は、に懸賞募集をする一面に社告を出しました。「朝日」は「世界歴史上に類い稀なる三勇士の悲壮なる殉国の精神を一層深く国民に印象せしめ、かつこれを永久に記念するため」とし、「毎日」は「本社はこの忠烈な犠牲的行動を永く後世に伝うべく広く募集する」としました。
 「朝日」は「肉弾三勇士の歌」、「毎日」は「爆弾三勇士の歌」です。賞金はいずれも一等五百円。
 「報知」、「国民」も懸賞慕集しました。
 三月十五日に「朝日」、「毎日」とも三勇士の歌は、入選作を発表しました。
 「朝日」は、長崎日日新聞で経済記者をしていた中野力の作品が選びました。
 歌い出しは「戦友の屍(しかばね)を越えて突撃す……」です。作曲は山田(やまだ)耕筰(こうさく)に依頼されました。作品は、三月十五日の紙面で発表され、二日後の十七日に朝日講堂で発表演奏会がおこなわれました。江文也(こうぶんや)(台湾生まれの日本で活躍した作曲家、声楽家。本名は江文彬)によって吹き込まれ、コロムビアレコードで三月二十五日に発売されました。
  「毎日」は、慶應義塾大学の教授をしていた与謝野寛が書きました。与謝野晶子の夫です。作曲は陸軍戸山学校軍楽隊楽長の辻順治、楽長補の大沼哲の合作で制作されました。
 「爆弾三勇士の歌」は同月十七日夜、大阪中央公会堂で発表演奏会が開かれました。 この発表に先立って、「大阪毎日」本社前から、正午にスタートし、大阪駅前、阪急前、天満橋、大阪城内師団司令部などを戸山学校軍楽隊がパレード。会場の中央公会堂は約六千人が殺到し、超満員で、入り切れなかった人もいました。 (この項は、おもにサイト上の静岡県立大学国際関係学部教授・前坂俊之さんの『兵は凶器なり』 11 15年戦争と新聞メディア-1926-1935- 爆弾三勇士の真実=軍国美談はこうして作られた!>を利用させていいただきました)
 陸軍戸山学校軍楽隊によって吹き込まれ、ポリドールレコードとして四月に発売されました。
 与謝野博の「爆弾三勇士の歌」は、こんな歌詞でした(『決定版 日本軍歌集』。編集・長田曉二。新興楽譜出版社)。

 一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
   われの友隊(ゆうたい)すでに攻む
   折から凍る二月(きさらぎ)の
   二十二日の午前五時
 二、命令下る 正面に
   開け 歩兵の突撃路
   待ちかねたりと工兵の
   誰か後(おくれ)をとるべきや
 三、中にも進む一組の
   江下(えした) 北川 作江(さくえ)たち
   凛(りん)たる心かねてより
   思うことこそ一つなれ
 四、われらが上に戴(いただ)くは
   天皇陛下の大御稜(おおみい)威(つ)
   後(うしろ)に負うは国民の
   意志に代(かわ)れる重き任(にん)
 五、いざこの時ぞ 堂々と
   父祖の歴史に鍛えたる
   鉄より固き忠勇の
   日本男子を顕(あら)わすは
 六、大地をけりて走りゆく
   顔に決死の微笑あり
   他の戦友に遺(のこ)せるも
   軽(かろ)く「さらば」と唯一語
 七、時なきままに点火して
   抱(いだ)き合いたる破壊(はかい)筒(とう)
   鉄条網に到(いた)りつき
   わが身もろとも前に投ぐ
 八、轟然おこる爆音に
   やがて開ける突撃路
   今わが隊は荒海の
   潮(うしお)のごとくに躍(おど)り入る
 九、ああ江南の梅ならで
   裂けて散る身を花となし
   仁義の軍に捧げたる
   国の精華の三勇士
 十、忠魂清き香を伝え
   永く天下を励ましむ
   壮烈無比の三勇士
   光る名誉の三勇士

 大御稜威というのは、天皇の威徳・威光を敬っていう語です。

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