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2013.07.25

連載 三十五 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【「ぼくを作家同盟に入れてください。きっと期待を裏切りませんから」。】

 弘田競の文章をつづけます。
 一九三一年のことです。
 〈こうして支部準備会発足のニュースが新聞に出て数日後の日暮れどき、紺かすりの単衣に草履ばきの男が訪ねてきて、「ぼくを作家同盟に入れてください。きっと期待を裏切りませんから」とたのむのであった。
 男は二十歳前後か、背丈は佐野と同様一メートル五十程度、頭髪は天然パーマで、ニキビだらけの白い顔だったが、その青いまでに澄んだ瞳に、弘田は、純粋で、しかも、退くことを知らない強固な意志を感じとった。これが弘田と吉田豊道(槇村浩)の初対面であり、支部準備会は槙村の加入を認めたうえ、九月はじめ、全員を同盟員に推薦することを決議した。
 ……
 九月十日過ぎ、弘田は本部へ送る同士たちの推薦状を書いた。
 弘田はその文中で、信清たちが、政治的、文学的経歴よりも、その将来性を期待して審議すべきことを要望した。それは『ナップ』六月号所載の“プロレタリア芸術問題―蔵原惟人”によって、芸術(文学を含めて)運動の再組織が提唱されたことから、弘田は文学を武器として階級闘争に参加するものは、たとえ無名の作家志望者、文学愛好者であろうとも、ひとしく同盟員として活動の場を与えるべきだと解釈したからであり、また、同志全員の熱意に応えるためでもあった。だから弘田は必要なら自ら上京して高知県の政治的、文化的闘争の現状ー壊滅した街頭座にかわり、再建途上の『全協』と協力すべき文化団体として作家同盟結成の急務を力説しようかとも考えてみた。
 ここに、弘田は、同志たちの熱意という言葉を使ったが、これを各個について取上げてみると、彼らは今後、凶暴化しはじめる弾圧に抗して、組織を守りぬく決意は当然ながら堅く、その反面家庭とか肉親とかのきずなによって行動を制約されないよう、すでにそれぞれ手だてを講じていた。
 まず、信清だが、彼は当時城東商業の英語の教師であった。その彼が退職して転宅したのは、この道に投じることによって、城商経営の責任者としての、長兄の立場が不利になってはとの懸念によるものだが、その決断は収入の途絶えとなり、肉親との義絶ともなることであった。そして、漬物ぎらいで粗食になれない病弱の彼に、そのときから貧に追われる苦難の毎日がはじまったのである。しかし、彼には夫を理解し、その支えとなるなら、恥も外聞も捨て、借金もしよう、働きにも出ようとする愛妻がいた。このよき妻を持ったことが彼を敢然と文学運動に身を投じさせる跳躍となったのである。吉田の場合は自ら進む道について、あくことなく母子の対話をつづけた末、母はいまではわが子の選んだ道を理解して快よく彼を励ましてくれているこのごろであった。年老いた母は収入の少ない病院の付添婦であった。
 毛利は教育者である父の立場を無視することに、いかに苦痛をおぼえたことか、また、いずれは日赤を馘になる日の到来を覚悟していたであろうが、それ以後、どうして食いつないでゆくかについて、なにも語らず黙々とサークル組織や新しい同志の獲得に出向くのであり、その後姿にいい知れない悲壮感をおぼえたのは弘田一人ではないはずである。
 彼らとは対照的に、井上は退学をくらえば村の石灰山で働きながら、労働者出身作家として再出発するのだと楽天的だったし、佐野は十歳以上も年上の楮草けずりの女工さんと同棲していて、行動の自由を与えられていた。
 弘田は没落して貧乏暮しの父のすねかじりであった。父は彼を英語教師にしようとして、県外に就職先まできめかけていたが、彼は来年一月、新兵の入営期に補欠入営か、それ以後は現役の補充として召集のくる身だから、シャバにいる間は好き勝手にさせてくれと、父の願いに耳をかさず、半ば勘当同様になっていたが、ぬけぬけと父のもとで飯を食い寝起きもしていた。だから彼ら全員は世俗的にはいずれ劣らぬ我がままな、女房泣かせか親不孝ものであったが、階級闘争の一環を受け持つことに、より高い使命感を抱いて、家も肉親もかえりみなかったのである。
 次は組織の運営費であるが、会社や商店のように自己資金はもとより、運転資金の借り先きはなかった。家賃は信清がわずかな退職金と貯金で払ってくれたが、それとてもいつまでつづくわけのものでもなく、正常にはいる資金といえば、本部発行の出版物を売りさばいて入る歩合いと、シンパのカンパだけであった。したがって、切手代、交通費、原紙、用紙代など同志の持ちよりであり、これも信清におんぶすることが多かった。その上、臨時の支出を必要とするときは、信清の細君に泣きつくと、彼女は泣きほくろの愛くるしい顔にいやな表情もみせず、快よくたんすの衣類を質屋に運ぶのであった。このような経済的に苦しいことはかねての覚悟と、同志たちはほがらかそのものであり、創作とその合評会、サークルづくり、本部出版物の販売など、多忙な毎日を送っていた。こうして、日本の中国大陸侵略が南満から北満へと拡大しつつある九月末に、本部書記局の猪野省三から、中央委員会において全員を同盟員として承認したことを通知してきた。
 その日、同志たちは事務所の机を取り巻いて、本部の承認通知を回読したが、その一人ひとりの表情には、輝かしい作家同盟の一員として、正式に加盟を認められた誇りに若い胸を躍らせているようであった。「おめでとう………」
 弘田が机上に手をのばすと、われもわれもと彼の手を握り返した。
 二十四歳の弘田を最年長に、二歳年下の佐野、信清とつづき、毛利、井上、吉田の十代三人とともに、総員六名の日本プロレタリア作家同盟高知支部が、ここに誕生したのである。
 ……
 日本プロレタリア作家高知支部のメンバーたちは、字の上手下手もさまざまで、同志中随一の達筆は信清であった。だから、サークルあての連絡文やアジビラのガリ切りは彼の一手引き受けとなり、その筆力は回をかさねるごとに冴えて、たちまち、彼の戦闘的な謄写文字は、一流の域に達するにいたったのである。信清についでまあまあ読めるのは意外にも佐野の字で、原稿用紙の一こま一こまに角のとれた丸まった小さな文字をていねいに埋めてゆくのであった。弘田と毛利、井上はともに個性のないへたくそだったが、なんといっても悪筆ナンバーワンは吉田にとどめをさし、運筆も字画も無視したかな釘流の見本であった。
 この吉田と井上がときどき喧嘩をすることがあった。二人の議論が始まると、たがいに自説を譲らず、腕ずくで相手を屈服させようとして取っ組みあうのだ。井上は自他ともに認める村一番の秀才であり、吉田も幼時を神童と騒がれて育った自負を抱いており、そこから無意識的に相手をライバル視でもするのか、格闘は犬と猫のかみあいそのままの壮烈さであった。そして井上のボタンがとび、吉田の袖がむしりとられるところまでいって、彼らは疲れはてて畳に寝転び、ハーハーと荒い息づかいをしながら、『オラらァはなぜこんなに喧嘩をするろうねや』と首をかしげて、顔を見あわせどっと大声で笑ったあとは、もとの親しい同志に帰るのが常であった。〉

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