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2013.07.25

連載 四十五 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【反戦ビラをつくり、配布した青年たちの証言。】

 一九三二年二月から四月の高知での反戦ビラ配布については実行した人たちが著作や手記を残していますので、それを紹介します。
 槇村は日本共産青年同盟高知地区委員会の宣伝扇動部、教育部のキャップとして反戦ビラの原稿を書きました。彼はつねに真面目に仲間の意見を聞き、池本良三郎から何回書き直しを要求されても黙々と書き直し正確に任務を果たしました(『高知県における共産主義運動の足跡』)。
 日本共産青年同盟高知地区委員会の浜田勇さんが陸軍歩兵第四十四連隊への反戦ビラ配布について書いています。槇村浩の会『ダッタン海峡 八号』の「槇村浩のことなど」です。
  「……朝倉の四十四連隊に上海出兵の動員令が来た。もちろん街中が大きな衝撃を受けた。池本[良三郎]と相談して反戦闘争の火ぶたを切ろうということになった。池本は当時[高知の]福井のアジトに居た。池本は私にビラの原稿を書かしておいて、毛利を呼びに行った。当時はすべ凡てガリ版刷りで一枚の原紙でせいぜい二五〇枚の印刷が限度であった。同じ文面の原紙を池本が二枚切り私と毛利が印刷した。五百枚刷り終った頃は、もう午前三時頃になっていた。
 ビラは三等分して三人で朝倉の連隊の兵舎にむけて三方から投入することとした。投げ入れられたビラが、どの程度兵士の手に渡るか皆目見当はつかないが、決して無駄ではないと三人共確信していた。重りをつけたビラは何回かに分けて杉垣の上を乗り越えて飛んだ。そのたび度に中では軍馬のひときわ高いいななきがおこり、これを制する兵士の声も聞えた。その翌日からは武装した憲兵の厳重な警戒が続いているということであったので、同じ場所には近づかないよう皆に注意した。」
 残念ながら、その日にちが書かれていません。
 これは、『日本憲兵昭和史』には書かれていないケースのようです。
 以前に高知大学教育学部小学校課程のある学生が、卒業論文に「高知県における青年運動と学習 槇村浩とその同志達の運動」という卒業論文を書いています。そこで彼は、これが最初の兵舎への反戦ビラ配布で、二月二十六日、二十七日と思われるとしています。あとは、二月二十八日、三月十四日で、計三回、兵舎への反戦ビラ配布がおこなわれたとしています。
 山崎小糸は、二月二十八日の高知歩兵第四四連隊への反戦ビラ配布について書いています。太平洋文学会『太平洋文学 三十六号』と岡村正光、山崎小糸、井上泉編『槇村浩全集』に載っている「槇村浩の生涯とその時代」をもとに書きます。
 反戦ビラ配布がおこなわれたのは、この陸軍歩兵四十四連隊が出港する前でした。
 同連隊が上海に出兵するという情報をつかんだ共産青年同盟高知地区委員会は、緊急委員会をひらき、反戦闘争についての具体的戦術を協議しました。
 二月二十七日夜、高知市の、はりまや橋東詰の土佐電鉄乗務員詰所に、反戦ビラがまかれました。
 そして、二月二十七日には同連隊向けのビラもつくられていました。
 高知市西町の彫刻家・島村治文さん宅の表座敷には、三人の若者が集まっていました。
 ここは、高校生の森山正也(徳島市出身)の下宿でしたが、池本良三郎が同居していました。
 三人の若者とは、池本良三郎、吉田豊道、山崎小糸でした。
 それぞれ、意見を出し合ってビラの文章をつくりました。
 それにもとづいて、吉田さんがガリを切りました。
 ロウを塗った特殊な原紙を鉄板の専用のヤスリ上に置き、鉄筆という先端が鉄でできたペンで文字や絵を彫り込んでゆく、こういう作業です。
 できた原紙を謄写版印刷機にかけて、四百枚のビラが刷り上がったのは、夜の十時ころでした。
 ビラの見出しは、「兵士諸君! 敵と味方を間違えるな」、「兵士諸君! 銃をうしろにむけろ」。日本共産青年同盟高知地区委員会の署名入りでした。
 山崎小糸と、高知市旭下島の片倉製糸の前に住んでいた毛利猛夫とがビラを配布する役でした。
 四百枚のビラを山崎小糸は羽織の下に隠し、毛利猛夫はマントの中に隠しました。
 そして、二人は、高知市旭の毛利のすみかを、二月二十八日午前零時ころに出発。高知市内から五キロ離れた朝倉村(いまは高知市)への道を急ぎました。
 人通りの途絶えた道を黙々と歩いて、陸軍歩兵四十四連隊の兵舎(いまの高知大学の所)に着いたのは夜中の一時近くでした。
 途中、鏡川橋の上で、二人は、こんな話をしました。
 「毛利よ。今夜みつけられたら銃殺ぞね」
 「そりやそうよ」
 兵舎の東側ぞいの道に沿って溝が流れていて、その溝をへだてて兵舎の長い土手がありました。
 土手は、カラタチの垣根でおおわれ、二メートルくらいの高さで続いていましたが、ところどころ犬が出入りできるすき間がありました。
 二人は溝をわたり、カラタチのすき間から、そっと兵舎の中にもぐりこみました。
 もぐった場所は、実弾をこめた銃剣を持って歩哨(ほしょう)が徹夜で警戒している営門から、五十メートルばかり北よりの所でした。
 炊事場を見つけた二人は、ここに数十枚のビラを置きました。朝、炊事当番の兵士たちの目の触れるようにと願ってのことです。
 このあとは度胸もすわり、あちらこちらと様子を見ながら、便所の窓から入れたり、近くの建物のすき間から入れたりしました。
 半数の二百枚のビラは、まわり道をして練兵場に忍びより、塹壕(ざんごう)の中に、少しずつていねいに入れてまわりました。
 無事に池本の下宿に引き上げたのは、明け方も近いころでした。
 池本も、槇村も、一睡もしないで待っていて、無事を喜びました。
 なお、兵舎に入って……という部分では、毛利の証言は、山崎の説明とは少し違います。
 「……私たちは[高知の国鉄の]旭駅の北側にあったアジトからてくてくと歩いて[陸軍歩兵第四四連隊の]兵営に向かい、午前二時頃に兵営に着きました。……そして闇を切って南西の門を乗り越えて侵入しました。山崎小糸さんは女性であることを配慮し外で待っていてもらいました。」(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『続・高知県における共産主義運動 戦前の思い出』)。
 毛利は、高知工業学校(高知市永国寺)の軍事教練で、この連隊で一週間の訓練を受けていました。また、同連隊から出てきた仲間からさまざまの施設やトイレの位置、連隊の習慣などの情報を得ていたといいます。偵察中の歩哨兵(ほしょうへい)が歩いているのはカッカッというはっきりした靴の音でわかること、一回の巡回に一時間かかることもこころえていました。
 この部分の山崎の話と毛利の話のどちらが正しいのか、いまとなってはわかりません。
 山﨑小糸は、のちに、このときのことをつぎのように語っています。
 「深夜零時ごろ、同志と二人で四百枚の反戦ビラを持って旭下島町(当時)のアジトを出発。途中、鏡川橋の上で『今夜見つかったら射殺ぞね』『そりゃそうよ』と二人で顔を見合わせたわ。悲そう感じゃなくて『国家のために重大な任務を遂行している』という一種のヒロイズムね。兵舎(現在高知大学)内にビラをまいて引き揚げる時はすっかり英雄気取り。今考えるとゾッとするけど、あの無鉄砲さが若さね。とにかく怖いものは何もなかったもの。」(高知新聞、一九八四年八月十日付、「やんやんグラフィティ 終戦記念日に寄せて 反戦に燃えた青春 戦前の女性闘士 山崎小糸さん」)。
 前出の山崎さんの手記にもありますが、三月十四日にも陸軍歩兵第四十四連隊の補充隊営内、射撃場へのビラまきがおこなわれました。
 このころは組織が急速に拡大されていて高知高等学校の日本共産青年同盟班による行動隊(片岡薫さんら)、化学の共産青年同盟班のメンバーや、全協化学労働組合稲生分会(石灰製造)の井上泉さんも、ビラまきに参加しています(高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』など)。
 このビラも、日本共産青年同盟高知地区委員会の署名入りの反戦ビラでした。
 これについて井上泉は「詩人の槇村浩などと朝倉の四四連隊に、『兵士の声』という反戦ビラを投げこんだり、全協の石灰岩山の分会をつくったりしたのは一九三〇年代のことである……」(『白い山から』)と書いています。
 井上泉は「……兵士の声という吉田[豊道]さんの書いたビラを(吉田さんは反戦同盟の責任者でもあったと思う)朝倉のいまの高知大学の杉垣の間からほり込み二時過ぎ帰って来た時、ようやったといはれた事が三十年昔の様には思はれません」といっています(近森俊也編『ダッタン海峡 一号』)。
 陸軍歩兵第四十四連隊への反戦ビラ配布には中学生も参加しています。
 堀見俊吉です。
 彼は、高知市の県立城東中学校(いまの県立高知追手前高校)の四年生でした。
 この件で、一九三二年六月上旬、高知警察署に検挙されました。初犯で未成年でもあったため半月ほどの勾留で釈放されました。これにより、同校を中途退学することを余儀なくされました。
 しかし、俊吉は、「俺は、日本で最年少の反戦闘士だった」と自負していたといいます。
 以上のことは『堀見末子(まっす)土木技師 台湾土木の功労者』に書かれています。
 浜田勇は、四月二日、高知県長岡郡五台山村の招魂社祭当日の反戦ビラ配布にも触れています(槇村浩の会『ダッタン海峡 八号』)。
 「しかし如何(いか)に警戒を強めても、一人一人の兵隊に監視をつけるわけにはゆくまいし、家族の面会を禁止する事も出来ないだろう。四月二日五台山の招魂祭には、一般群衆に混って兵士達の行楽の姿が随所に見られた。真面目だが、反骨と、ユーモアに富んだ槇村らの反戦闘争のアジビラは憲兵隊の意表を突いていろいろの形で行われた。」
 高知高等学校の生徒たちの動きも記録されています。
 高知新聞、一九八二年十月九日付の連載「自由の空に 旧制高知高校外史 十五」(片岡薫)です。
 「[高知高校の]社研[社会科学研究会]は強大なものになっていた。学内だけでなく学外の組織ともつながりを持ち、ナップ[全日本無産者芸術連盟、Nippona Artista oletaFederacio、NAPF]」、ブロキー[プロキノ、Prokino、日本プロレタリア映画同盟のことでしょうか]、コツプ[日本プロレタリア文化連盟、Federacio de Proletaj Kultur Organizoj Japanaj、KOPF、コップ]などの文化運動にも加わり、非合法新聞・雑誌の配布責任者となり、山本大和、森山正也、松平博、志賀邦雄、山泉錬太郎、片岡薫(一〇回・文甲一)たちは共産青年同盟員となっていた。社研の組織下には読書会を各クラスに持っており、学内新聞『こだま』を発行し、四十四連隊の上海出動の際には数班を組んで反戦ビラを兵舎付近、[高知]市内各所に張りまわした。」
 その後、発行された『プロレタリア文学』一九三二年六月臨時増刊号の「高知支部活動報告」の中には「高知第四十四聯隊の上海出兵を中心にしつよう執拗な反戦斗争」があがっています。

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