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2013.07.25

連載 三十九 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【二作目を生み出すための苦闘】

 槇村は、「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書いたあと、つぎの詩を生み出そうと苦闘しはじめていました。
 そのころのことを日本プロレタリア文学同盟の仲間の毛利猛夫が書いています。
 一九三一年末のことです。吉田豊道と毛利猛夫が文化運動について話し合いました(毛利猛夫「『旧友』としての槇村のこと――『間島パルチザンの歌』が出来た頃」――」=槇村浩の会『ダッタン海峡 第八号』)。このころの毛利は、一九三二年四月から高知高校に進学する準備をしていました(毛利は、高知市永国寺の高知工業学校卒)。
 <一九三一年の末、二人で文化運動について話しあっていて、われわれの陣営内の詩人たちの作品がレトリック[文章に豊かな表現を与えるための技法]の点において純粋詩派にはなはだ劣っていることが話題となり、レトリックの向上のためには訳詩が良い、まず乃公(だいこう)[わがはい]からというから、やってみよう」ということで、槇村はエドガー・ポウの〝ユリイカ〟を、私はランボーの〝酔いどれ船〟をメーデーまでに仕上げては………と話しがすすんでいたが、槇村が、「ランボーといえば先日図書館で読んだが……富永太郎が」と真顔になって話し出した。
 それは――――富永は何かの雑誌で、
 『抒情の叙事詩的進展という方法の点で ランボーの〝酔ひどれ船〟に学ばなければならない』
と言っていたと言うことである。

槇村はそれについて自分の意見を述べた。「抒情というのは、まず、社会における個人における個人の創造性の自覚であるということだろう。この出発点は純粋詩派でもわれわれプロレタリア詩でもかわりはない。それから凝集[散らばったりしていたものが、一つに集まり固まること]をめざして短詩型をとるか、あるいは論理的若しくは叙事詩展開を心掛けて長い詩となるかは ひとにより、時により、またことによりけりだろうが、この展開で思想性がハッキリするわけだ。」そして自分の詩について語った。
(「生ける銃架」は詩作ノートの中の草稿としてあった)

「『生ける銃架』の素材は、詩の中のビラまきの光景を中心に配列されて、悪く言えば、叙景と抒情と標語の羅列に終わっている感がある。
 「抒情の叙事詩的展開」となるよう文を練り直してみたいと思う。ランボーの『酔ひどれ船』にはよく言われるように、パリ・コンミューンの頃の二、三年の個人的体験がよみこまれている。絢爛[けんらん]たる措辞[そじ。詩歌・文章などの言葉の使い方]の集積だけではない。
 抒情の叙事史的進展とはそれを言うだろう。」
 彼の言うことはこういうことだった。
 そして、『生ける銃架』をも素材をみなおして叙事詩(譚歌(バラード)ではなく)に展開してみたい、ということであった。
 こういう話し合いがある中で『間島パルチザン』の初稿がつくられつつあった。
 パリ・コンミューンや国際婦人デーの盛りたくさんな行事のある三月を前にしての頃である。彼はその草稿を浜田勇や池本良三郎に、また信清悠久にも、一部を読んで聞かせていたとのことである。
 また、一九三二年春、『働く婦人』であったと思うが、パリコンミューンと詩人たちの関連の記事が出ていた。
 多分、大江満雄の文章だったと思うが、ルイズ・ミシェルの詩の紹介が書かれ、地域でのストライキ闘争をうたったものだった。
 その中の一行に
 「わたしたちはブルターニュの男と女」というのがあった。
 槇村は、
 「これは良い、ブルターニュ地方と咸鏡道[かんきょうどう、함경도、ハムギョンド]地方は、フランスと朝鮮にあってともに反抗的ということで中央権力に差別待遇をうけたことがあるのだ」
 と言ってあの 効果的なリフレーンの句
 「おれたちは咸鏡の男と女」
 を書きしるしたことだった。>

 「ユリイカ」(Eureka)は、一八四八年に刊行されたエドガー・アラン・ポー(アメリカ合衆国。一八〇九年一月十九日~一八四九年十月七日)最晩年の著作。
 「酔いどれ船」はアルチュール・ランボー(フランス帝国。一八五四年十月二十日~一八九一年十一月十日)の作品です。
 富永太郎(一九〇一年五月四日~一九二五年十一月十二日)は、詩人、画家。
 大江 満雄(おおえみつお。高知県幡多郡生まれ。一九〇六年七月二十四日~一九九一年十月十二日)。詩人。
 ルイーズ・ミシェル(一八三〇年五月二十九日~一九〇五年一月九日)はフランスの無政府主義者で、パリ・コミューンで活躍した人物の一人。

 毛利猛夫によると、槇村は、このころプロレタリア文学の詩人、評論家・森山啓(もりやまけい。一九〇四年三月十日~一九九一年七月二十六日)の作品にしたしんでいたといいます(毛利猛夫「詩を読んだ仲間としての槇村浩」=太平洋文学会『太平洋文学 五十二号』)。

 当時、森山は、日本プロレタリア芸術連盟の機関誌『プロレタリア芸術』、全日本無産者芸術連盟の機関誌『戦旗』、全日本無産者芸術団体協議会の機関誌『ナップ』に詩を書いていました。

 『プロレタリア芸術』一九二七年十二月号に「犠牲者の身内」。父親が犬にかぎつけられて、犬に引かれていき、犬どもの飼い主に裁かれ、ある日、真っ暗ななかで死骸になりました。そのいかつい建物が見えます。おふくろは半狂乱です。プロレタリアの夜明けの道に群がりほえたてのさばる犬、それにたえている詩です。

 『戦旗』一九二九年二月号に「南葛の労働者」。一九二八年十月の台湾キールンでの日本共産党の渡辺政之輔の死をもりこんだものでした。

 『ナップ』一九三一年三月号には「戦士たちに(三月十八日に)」。一八七一年三月十八日のパリコンミューンの戦士をたたえる詩です。

 『ナップ』一九三一年十月号には「北平(ペイピン)の風の中で」。中国を帝国主義列強に売りわたしていく「南軍」の裏切りをえがいた詩です。

 詩作にふける槇村の姿について日本労働組合全国協議会と共産青年同盟のリーダーだった浜田勉が語っています(貴司山治「『間島パルチザンの歌』への文学的評価を改めて提案する」=雑誌『日中』一九七八年十一月号)。
 槇村は、会議の途中ででも時々座を外して壁に向かい粗末なノートを広げて短い鉛筆で何やら書きこんでいました。
 それをあやしんだ浜田が、槇村のノートをとりあげてみると最初のページに「間島パルチザンの歌」とありました。
 「間島っちうのはどこの島ぞな」
 「朝鮮です」
 「済州島とか対馬とかは知っているが、間島もそのへんにある島か」
 槇村は赤い顔をして「いいです、いいです」と、浜田から自分のノートを取りもどしました。

 

 

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