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2013.07.25

連載 四十九 タイムマシンで「生ける銃架」の十九歳に会い行く 反戦詩人・槇村浩の誕生。【陸軍歩兵四十四連隊で「殺された」兵士のこと。】

 
 槇村の「一九三二・二・二六 白テロに斃(たふれ)た××[四十四]連隊の革命的兵士に」にはつぎの詩句があります。

 その日
   (忘れるな、二月二十六日!)
  君たちは順々に呼び出され
 後(うしろ)から欺(だま)し討ちに×り倒された
 君たちの血はべっとりと廊下(ろうか)を染め
 君たちの唇(くちびる)は最後まで反戦を叫び続けた
 
 これについて井上清は、『井上清史論集三 日本の軍国主義』で「出征を前にしたこの日、高知連隊の一将校が自殺するという事件があり、それに関連して、県民の間にいろいろのうわさが流れた。……(高知連隊で反戦兵士が殺されたという事実はない。それは槇村の詩的創作である)。」としています。
 

  中沢啓作は、兵士が殺された事件はあったという見方で、拳銃自殺したのは、かつては 中沢の出身中学である城北中学(旧高知二中)の軍事教練の教官をつとめたことのある陸軍歩兵四十四連隊の中隊長の日野中尉(陸軍士官学校卒)だといいます(中沢啓作「槇村浩没後四十周年によせて--はしり書き的覚書--」=雑誌『日中』一九七八年十一月号)。

 <当時の高知新聞の記事には出兵と陸大[陸軍大学]入試を前にしたあせりで、ノイローゼとなり自殺したとこの中隊長の死を報じている。>

 <推察する処[日野中尉は]その殺人の責任を自ら背負ったものとおもわれる。この事件の当事者たちはまもなく出兵するが、若干のものはつながれて善通寺の師団本部にひらかれた軍法会議にかけられたときいている。>

 ここで、当時の軍隊内での動きについて史料をあたってみます。
 ○ 一九二八年十月十四日付、十六日付の土陽新聞に連載「逃亡兵 後日物語」の「二」、「三」が載っています。高知市朝倉村の陸軍歩兵四十四連隊のことです。「一ケ月に一人二人と云(い)う割合で、逃亡兵の濫造(らんぞう)を行つた高知連隊は一躍して日本一の逃亡連隊となつて了(しま)つた。」。逃亡兵のほとんどは連隊に連れ戻されているといいます。しかし、二度目の脱走中の「秋山二等卒」は、いまだに行方不明だといいます。
 ○ このころ、前出の陸軍歩兵第四十四連隊の兵士だった高橋繁義さんは「私は四十四連隊で軍事教練を受ける学生を教育しましたが、私たち兵士の言うことをきかない学生が多勢いました。ある時など学生に隊列を組ませて移動させていると、輪になって座っているグループがありました。私が注意すると学生たちは『おんちゃんそんなこといいやないか』などと答えてくるのです。」と、語っています(『続・高知県における共産主義運動 戦前の思い出』。治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部。一九九一年四月十五日)。
 ○ 一九三二年三月二十二日号の日本共産党中央機関紙「赤旗」の「日本軍隊内の動揺」から。
 「パリ 二月十七日
 『リユマニテ』の報道によれば、満州の日本占領軍と上海に於[お]ける日本軍部隊との間には不満の深刻な動きが見られる。
 同紙の報導によれば、二月八日多数の日本兵士は中国軍に対して進撃することを拒んだ。二百人以上の日本兵士は逮捕され、日本に送返された。
 上海への援軍の出発に際し、兵士達は、戦地に送られることに対して公然たる不満を表明した。
(プラウダ 二月十九日)」
 「上海 二月二十一日
 支那紙『ダワン・バオ』は、上海に到着せる日本兵士の間で中国軍との闘争のために最前線に出ることを拒んだといふ場合がしばしば屡々あつたと報じてゐる。
 一月二十九日二百人以上の兵士が命令に服従しなかつた。彼等は武装解除され、日本に送還された。
 二月十二日虹口(ホンキコー)地区に於(おい)て約二、三百人の兵士が集会を開かうと試みた。集会者の間には、中国兵士に対する戦争を拒絶せよ、中国侵略を妨害せよ、兵士大衆の間にこの煽動(せんどう)を行へと呼びかけた革命的兵士委員会の署名のある宣言が配布された。
 同紙は尚(なお)その後更(さら)に六百人以上の日本兵士が再び命令を拒否したと報じてゐる。その中百人余りが銃殺に処せられ、残余の者は内地に送還された。」
 「上海 二月二十二日
 上海日本紙『日々新聞』は、軍需品及び援兵を満載して到着した日本汽船『上海丸』は、『故郷忘れ難く、戦闘を欲しない』数十名の日本兵士を載せて日本に帰航する事となつたと報じてゐる。支那紙『イースタン・タイムス』は、最近到着した六百名の日本兵士が戦争を拒んだ事を報じてゐる。二月二十日植田司令官の命によりこれらの兵士は武装解除され巡洋艦に乗せられて日本に送還された。日本軍隊内には頻々(ひんぴん)として非戦伝単(反戦ビラ)が撒布されてゐる。」
 ○ 一九三二年四月十三日号の日本共産党中央機関紙「赤旗」の「十五連隊の兵士大挙して 将校宿舎を襲ひ 一名を狂人にす」の記事。
 「……三月八日の夜、第二次出兵を知つた[陸軍高崎]十五連隊の兵士達は、大挙して将校連の兵営内宿舎を襲ひ内部に乱入したが、この物凄(ものすご)ひ勢ひに恐れをなした将校ども共は日頃の威厳にも似ず悲鳴を挙げて狂奔し二階から飛下り大(おお)怪我(けが)をし、そのうち中一名はつい遂に発狂した。……」 
 ○ 大阪朝日新聞、一九三二年四月十四日付、「呉の赤い水兵公判」。
 「治安維持法違反による呉海軍赤化事件の公判は十七日午前八時五十分から裁判長太田大佐、裁判官鈴木法務官、検察官染川法務長係りで開廷、被告五名に對し裁判長から身許調べがあって審理にうつらんとするや検察官から事件の内容がら裁判長に傍聴禁止を求め、同十時五分裁判長は一般部外の傍聴を禁止して審理に入ったのち一旦休憩、午後一時再開四時すぎ第一回公判を終った。(呉)」
 ○ 新聞「兵士の友」(日本共産党。一九三二年九月創刊)、一九三三年三月十日号の「北満姫路師団兵士叛乱 二百名全部銃殺さる!」の記事。
 満州の姫路第十師団の中隊兵士たちが、除隊期日が過ぎても帰国できずにいることに反発し、即時帰国を要求、勝手に隊を解散し、単独帰国を始めました。師団司令部は、兵士らを包囲し捕えて銃殺しました。これらの兵士たちは、最後の一人になるまで抵抗をやめず「帝国主義戦争反対!」「中国から兵をひきあげろ!」と叫びました。
○ 一九三三年三月三十日、関東軍間島(かんとう)日本しちょう輜重隊員の伊田助男さんは、十万発の弾薬をトラックに積み間島(いまは中国吉林省延辺朝鮮族自治州)の小汪清抗日遊撃区に運んだのち 、つぎのような遺書を残し自殺します(『中国人民解放軍戦史 星火燎原〔4〕日中戦争(上)』。光岡玄編訳。新人物往来社)。
 「親愛なる遊撃隊の同志のみなさん
 わたしは、あなたがたが山あいにまいた宣伝物を読み、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました。あなたがたは、愛国主義者であり、また国際主義者でもあります。わたしはあなたがたにお会いし、ともに共同の敵を打倒したいと、切に思っています。しかし、わたしはファシストのけだものたちに取り囲まれていて、あなた方のところへ行くことができません。わたしはみずから命を絶つことにしました。わたしが運んできた十万発の弾薬は、あなたがたの軍隊に贈ります。どうかみなさん、日本のファシストをねらいうちしてください。わたしの身は死のうとも、革命の精神は生き続けます。神聖な共産主義の事業の一日もはやい成功を祈って。
 関東軍間島日本輜重隊 日本共産党員 一九三三年三月三十日 伊田助男」

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