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2013.07.08

【ニュース】毎日新聞が平和と戦争を考える資料展を報道しています。

 戦争と平和を考える資料展:高知大空襲の惨状伝える 写真や手記300点−−高知で10日まで /高知

 毎日新聞 2013年07月07日 地方版

 高知大空襲(1945年7月)の惨状を伝える資料などを集めた第35回「戦争と平和を考える資料展」が、高知10+件市桟橋通4の市立自由民権記念館で開かれている。10日まで。
 平和資料館「草の家」(高知市升形)などでつくる実行委が主催するイベント「2013ピースウェイブinこうち」の一環。空襲をうけて壊滅した市街地の写真や、空襲で落とされた焼夷(しょうい)弾の破片、特攻隊員の手記など約300点を展示する。
 7歳の長男と訪れた高知市鴨部3、公務員、高石昌諭さん(36)は「自分たちの世代は知識としてしか戦争を知らない。だからこそ、実際の資料に触れて戦争をリアルに想像することが大切だと思う」と感想を語った。(後略)
                                                                                                【最上和喜】

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2012.09.17

【大日本帝国の侵略の歴史】 平頂山住民虐殺事件とは 記念写真を撮ると住民をがけ下の一カ所にかり集めて……。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-09/2004-12-09faq.html

 2004年12月9日(木)「しんぶん赤旗」

 平頂山住民虐殺事件とは?

 (前略)平頂山事件とは、1932年9月16日、中国東北部の撫順市近郊にある平頂山集落において発生した住民虐殺事件です。
 当時、平頂山には、3000人以上の村民が住み、その多くは撫順炭鉱の労働者でした。日本軍は記念写真を撮るなどとだまし、住民をがけ下の一カ所にかり集めました。村民がカメラと思ったのは、実は機関銃でした。機関銃を覆っていた布が取り払われると、住民は逃げるまもなく機銃掃射にさらされました。一斉掃射の後、生存者がいれば銃剣で刺して回り、とどめを刺しました。遺体にガソリンをまいて焼き払い、最後は、がけを爆破して遺体を埋め、事件を隠滅しました。
 そのころ、中国東北部では、柳条湖事件(31年9月18日)に端を発した関東軍の占領に対し、抗日運動が日に日に激しくなっていました。そんな中、日本が占領していた撫順炭鉱が抗日ゲリラに襲撃される事件が起きました。日本軍は住民がゲリラと通じていると決めつけ、見せしめのために、平頂山の住民の皆殺しを図ったものでした。
 現場は発掘され、いまは「平頂山殉難同胞遺骨館」として展示されています。(中略)
 この事件で剣に突き刺されながらも奇跡的に命をとり止めた莫徳勝さんら3人が日本政府に損害賠償を求め、96年8月、東京地裁に提訴しました。
 02年6月、東京地裁は、平頂山事件の事実を認定したものの、戦前の国の違法な公権力行使は責任を問うことができないという「国家無答責」の原則を唯一の根拠として原告らの請求を棄却しました。
 国は、戦後においても事件を無視し続け、裁判でも事実認否すらしないという不誠実な対応に終始しました。地裁判決のなかで、事実を正面から認定した部分は評価できます。現在、東京高裁で控訴審がたたかわれています。 (喜)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-20/15_01.html

 2005年2月20日(日)「しんぶん赤旗」

 旧日本軍の大量虐殺 中国・平頂山事件 銃声と叫び声 いまも夢に 「人間として尊重を」 控訴審で生存者の楊宝山さん

 日本軍がアジア各地に侵略した戦争の終結から六十年。いまもなお、戦争被害者は人間としての尊厳回復を求めて裁判をたたかっています。十八日、その戦後補償裁判のひとつが東京高裁で結審しました。いまから七十三年前に起きた平頂山(へいちょうざん)事件の控訴審です。国の責任を問う被害者の思いとは―。 本吉真希記者
 控訴審最終弁論が開かれた東京高裁。この日のために来日した生存者の楊宝山さん(83)が意見陳述しました。当時十歳。事件で父、母、五歳の弟を亡くしています。
 「写真を撮ってあげるから」―。日本兵のこの言葉に集まった平頂山の村民約三千人。日本軍は無差別に銃撃し、生存者を銃剣で突きました。遺体にガソリンをまいて焼き払い、ダイナマイトを爆発させて証拠隠滅を図りました。事件が起きたのは、日本帝国主義が中国東北地方に侵略戦争を開始した「満州事変」の一年後。「抗日」運動が激しさを増したさなかの一九三二年九月十六日のことでした。場所は中国東北部の遼寧省撫順市の平頂山です。
 楊さんは当時の様子を語りました。「写真撮影は初めてのことだった。うれしくなって父母の手を引っ張って行った」
 住民は、がけ下の平地に集められました。「住民でいっぱいだった」と楊さん。そこには黒い布でおおわれた物が十数台ありました。カメラだと思った楊さんは「写真機の近くでよかったね」と父に話しました。父は黙ったままでした。
 一人の日本兵が軍刀を振り上げました。機銃掃射の合図でした。「黒い布がサッと取り払われ、すぐに火を噴いた。黒い機関銃だとわかった」
 楊さんの母親はすぐに楊さんをかばい、伏せました。父親は弟を引っ張り、逃げようとしました。周囲は叫び声と泣き声、銃声の音で充満しました。「私は母の胸の下で母を繰り返し呼んだ。そのときは小さな声で返事が返ってきた」。しかし二度目の機銃掃射のあと、返事が返ってくることはありませんでした。
 「母から滴り落ちてくる血が私の顔をぬらし、口に入った。しょっぱかったので血だとわかった。母が死んだのだと思った…」
 いまでも当時の夢を見て、つらい思いをする楊さん。平頂山にある遺骨館は当時のままです。おびただしい人骨が身を寄せ合うように折り重なっています。口を大きく開けた人骨。小さな胎児の骨が母親の腹部に残ったままのものもあります。
 楊さんはいいます。「物いわぬ遺骨のなかに肉親がいるかと思うと、止めど無く涙が流れてくる。生き残った者として犠牲者の無念をはらす責任がある」
 国はこの虐殺行為を否定し続けていますが、一審判決は虐殺の事実を認めました。しかし、「当時は国家賠償法がなく、国は責任を負わない」として、請求を棄却しました。
 最終弁論に立った川上詩朗弁護士は「人間の価値の尊さに違いがあるのか」と裁判官に迫りました。そして、一枚の幼児の写真を掲げていいました。「日本軍は殺す意思をもって、この幼子を銃剣で刺殺。そのまま空中に放り投げた。明確な殺害行為だ」。この幼児は原告の方素栄さん(76)の当時三歳の弟です。「一人の人間の価値は、明治憲法下でも日本国憲法下でも、違いなど全く無い」。国の不法行為の責任は当然問われるべきだ、という主張です。
 楊さんは最後に裁判官へお願いしました。
 「遺骨館に足を運んでほしい。自らの目で白骨を確かめてほしい。一人の人間として尊重されなければいけないのは、どこの国の人間もみな同じです。事実と向き合い、正しい判決をしてください」
 (後略)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-10-05/2010100514_01_1.html

 2010年10月5日(火)「しんぶん赤旗」

 旧日本軍、平頂山の住民虐殺 生存者ら、井上議員と懇談

 平頂山事件の生存者の一人・楊玉芬さん(87)と長男の張毓傑さん(63)ら11人が4日、日本共産党の井上哲士参院議員を訪問し、懇談しました。
 同事件の生存者・遺族は、▽日本政府が同事件の事実と責任を認めて、生存者・遺族に公式に謝罪する▽謝罪の証しとして、日本政府の費用による謝罪の碑の建立と供養の陵園の設置▽事件の事実究明と次世代への継承―を求めています。
 「平頂山事件」は、1932年9月16日、日本軍が中国東北部の遼寧省撫順市の平頂山で約3000人の住民を機銃掃射で虐殺した事件です。楊さんは当時8歳。母は殺されましたが、自身は奇跡的に父、妹と生き残りました。「写真を撮る」と集められた住民が機銃掃射で次々と殺された模様を話すと、井上議員は「つらいことだが、ぜひ長生きして、事実をたくさんの人に訴え続けてほしい」と励ましました。
 周学良撫順平頂山紀念館館長は、事件の生存者はわずか4人となり、いずれも80歳を超えていることを話しました。日本共産党のこれまでの国会内外での協力に感謝をのべるとともに、日本政府の謝罪など三つの要求の早期実現のため力をかしてほしい、と訴えました。
 井上議員は「歴史の真実に向かい合うことが、本当の友好になると思う。平頂山事件での日本政府の責任は明白であり、政府がその事実と責任を認めて謝罪せよとの要求は当然のこと。党派を超えて要望の実現を国に求めていきたい」と話しました。(後略)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-17/2012091704_02_1.html

 2012年9月17日(月)

 平頂山事件80年で式典 中国 “歴史の真実守ろう” 日中平和へ誓い新た

 【撫順(遼寧省)=小林拓也】1932年に旧日本軍が中国東北部の平頂山の住民約3000人を虐殺した平頂山事件から16日で80年になりました。同日、虐殺の現場である遼寧省撫順市内の平頂山虐殺事件記念館で追悼式典が行われ、約1000人の撫順市民と日本から訪れた参加者らが日中友好と歴史の真実を守ることを誓い合いました。
 生存者の一人で日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判の原告だった陽宝山さんの娘婿、劉伝利さんは「時間は傷口を癒やすが、私たちの心の傷は消えない。歴史を改ざんしようとするたくらみは、恥ずべきもので、受け入れられない」と語りました。
 裁判の弁護団を代表し、小野寺利孝弁護士が「日本政府が平頂山事件をはじめ過去の侵略戦争について、民衆の被害の事実と軍国主義による加害の実態を正しく見つめ、心からの反省と謝罪を行うことを希望する」とあいさつしました。
 日本政府に対する裁判は、2006年の最高裁の上告棄却で原告の敗訴が確定。現在、生存者らは日本政府に謝罪と記念碑の建設などを求めています。(後略)

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