日記・コラム・つぶやき

2005.02.02

酒屋の店先で父がのんでいたコップ酒。 The glass of sake which the father was drinking at the storefront of the liquor store

 2005年2月2日夜。

 風邪をひいて、いつもより早めに帰宅しました。
 家の近くまで帰りつきました。
 近所の焼き鳥さんに、まだ灯りがついています。
 中で愉快そうに酒をのんでいる男性の姿が見えました。
 おいしそうです。

 ふと、五十年も前のシーンを思い出しました。
 場所は、高知県伊野町(いまは、いの町)。酒屋です。
 もう夕方です。
 酒屋の中には、仕事着のままの父がいます。
 カウンターのようなものがあります。
 その上におかれた皿のようなものの上にガラスのコップ。
 酒屋の主人が、一升瓶を持ち上げて、そのコップにとくとくと酒を注ぎます。
 酒は、コップからあふれて、皿のようなものに流れ落ちます。
 それを、おいしそうにのむ父。

 僕は、小学校の低学年だったでしょうか。
 僕が、なぜ、そこにいたのかわかりません。
 しかし、父がコップから酒をのむゴクゴクという音を聞いていたような気がします。
 思い出すと、なんだか涙が出るほど懐かしいシーンです。


 February 2nd night in 2005

 It caught a cold and it went home, being always earlier.
 It was returned near the house.
 The light is still under the grilled chicken in the neighborhood.
 The appearance of the man who is drinking alcohol, that it seems that it is pleasant in could have been seen.
 It seems that it is delicious.
 Short, it remembered a scene in front in 50.
 The place is Kochi Prefecture Ino-cho.
 It is a liquor store.
 It is the evening already.
 There is a father as the overall in the liquor store.
 There is one like the counter.
 It is a glass glass on the one like the plate which was put on it.
 The master of the liquor store lifts a sho bottle and pours liquor into the glass proudly.
 Liquor overflows a glass and is dropped in the thing boiling like the plate.
 The father who drinks it, that it seems that it is delicious
 Will I have been the lower grades of the elementary school?
 It doesn't find why I was there.
 However, there is a feeling as the father heard the sound to say gulpingly which drinks alcohol from the glass.
 When remembering, tears flow more somehow, it is the dearer scene.

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2005.02.14

二〇〇五年二月十ニ日夜、西武池袋駅。

 二〇〇五年二月十ニ日夜。

 妻、息子の三人で西武池袋線の池袋駅で待ち合わせました。
 何か不思議な気持です。

 一九六八年十月に高知市から上京し、しばらくしてから、この線の江古田駅の近くのアパートに住み始めました。
 池袋駅がデパートに直結していることに驚いて、そのことを詩にしたこともあります。

 七〇年三月、高知市から「彼女」が上京しました。
 江古田駅の近くのアパートに住みました。
 そして、その年の十月に「彼女」と結婚しました。

 僕たち夫婦と息子が降り立ったのは、この線の清瀬駅。
 息子の「彼女」の家にいき、「彼女」と、「彼女」の父母と、食べ、飲み、語りました。
 二人は結婚するといいます。
 息子が、「言葉だけでない真の民主主義者」として、彼女と真の民主主義者にふさわしい関係を築いていくのを楽しみにしています。
 フレー、フレー。
 二人の人生に幸あれ。

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2005.02.21

およよ。二十三日には僕は五十八歳です。

 二〇〇五年二月二十一日夜。

 妻が、本日朝の僕の「作品」について、
 「あなただったら、もっと書けるはずです」
 と、不満たらたらです。
 ちくしょうめーっ!

 ところで、
 「きょうは何日?」
 と、妻に問うと、
 「二十一日」
 「じゃあ、二日後は?」
 妻は、なかなか気づいてくれません。

 僕は、二月二十三日には五十八歳を迎えます。

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2005.02.23

カサブランカの絵の入ったマグカップ

 二〇〇五年二月二十三日。
 夜中に家に帰り着いたら、妻が誕生日のお祝いを構えて待っていてくれました。
 ユリの、カサブランカの絵の入った有田焼のマグカップでした。
 感謝。

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2005.03.13

小金井市役所の駐車場のツバキの花

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 二〇〇五年三月十三日。
 午後から夕方まで東京都小金井市ウオーキング。
 おかげで二万歩を超えました。
 小金井市役所の駐車場のツバキの木の花が奇麗に咲いていました。
 つぼみがたくさんあって、まだしばらく楽しめそうです。
 排気ガスの中、美しく咲き誇るツバキの花たち。
 感激。

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東京都小金井市の「湧水(ゆうすい)の道」

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 二〇〇五年三月十三日。つづき。
 東京都小金井市貫井南町四丁目の野川沿いにさしかかると「湧水(ゆうすい)の道」がありました。
 小川がさらさら流れていました。
 いい感じです。
 以前にはみかけませんでした。
 いつ整備されたのでしょうか。

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2005.03.16

「屋上温室」のシャクナゲの花。

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 二〇〇五年三月十六日。
 泊まり明けの午後、東京都国分寺市のJR国分寺駅の丸井デパート屋上に花見にいきました。
 ここは食堂街ですが、中央に植物も植えられています。
 暖房のため温室状態です。
 シャクナゲの花が一つだけ咲いていました。
 ツツジ科ツツジ属の常緑低木です。五月ごろ咲くのですが……。
 でも、なんだか、ものすごく得した気分になりました。

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東京都立井の頭自然文化園の「花吹雪」。

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 東京都三多摩の都立井の頭自然文化園に北村西望の作品を展示しています。
 この写真は、「花吹雪」という作品です。
 この写真を撮った日は、土砂降りでしたが、いつか、花吹雪の中で、この彫刻を撮ってみたいものです。

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2005.03.17

エミ(四歳)とユリ(一歳)。

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 二〇〇五年三月十七日。休み。
 午後から娘と二人の孫娘に会いに行きました。三カ月ぶりでしょうか。

 ● エミ 四歳 ●

 ☆ひらがなの文章を読めるようになっています。
 しかし、助詞の「は」を「わ」と読めず「は」と読んでいます。
 カタカナは、まだです。

 ☆お気に入りのテレビ番組は日曜日午前八時半からのテレビ朝日の「プリキュアマックスハート」。
 番組のホームページによると、こんな番組です。
 <新学期。美墨なぎさと雪城ほのかもいよいよベローネ 学院女子中等部の最上級生。
 メップルとミップル、ポルンは眠りにつき、ふたりは 普通の女の子として、部活や勉強に大忙しの学校生活 を送っていた。
 そのころ「光の園」では、ジャアクキングとの戦いで 傷ついたクイーンが分裂し、どこかへ消え去ってしま った。時を同じくして、撃退されたはずの邪悪な闇の力「ザケンナー」がなぎさとほのかを襲う!
 バージョンアップした「コミューン」にハートのカードを差し込むと、再びふたりはプリキュアに変身!しかも前より断然パワーアップしてる!?
 記憶を失い、姿形も変わってしまったクイーンを元に戻すため、なぎさとほのか、パワーアッ プして目覚めたメップルやミップル、ポルンたちが、不思議な少女・九条ひかりと共に、未来 を信じて、今、立ち上がる!!
 はたしてプリキュアはクイーンを元の姿にもどすことができるのか!?>
 エミはテレビの前で変身の格好をして乗りのり。

 ☆僕が帰るときには「遊んでくれてありがとう」「楽しかったね」。

 ● ユリ 前日一歳になりました ●

 ☆瞬間的に立つことができます。
 まだ、歩くことはできません。

 ☆以前は人見知りしていましたが、今回はなついてくれました。

 ● 発見 ●

 「高知のおばあちゃん」(正確には、ひーおばあちゃん)からの女の子の人形が増えていました。
 どれも目がぱっちり、横にすると目を閉じるものです。
 写真の人形は、中国製でした。

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2005.03.19

開店前のパチンコ屋前の青年の群れ。

 何ごとか 開店前の パチンコ屋
 青年ばかりが
 群れている朝

 二〇〇五年三月十八日午前。
 出勤途上の国分寺駅駅南口近くで見たシーンです。
 開店前のパチンコ屋前といえば、群れているのは、おじさん、おばさんが中心というのが数年前のシーン。
 このごろは、いたるところで青年が群れているというシーンが見られるそうです。
 ど、どうなってるんだ!!

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ロックのCDをかけて出勤準備しています。

 ロックかけ 出勤準備しています
 「さぁ、泊まりだよ」
 気張っていこう

 二〇〇五年三月十九日午後。
 庭のアンズが赤いつぼみをつけているのを発見。
 動かなくなっていた二五〇CCのオートバイを、やっと直しました。
 OKです。
 桜の花が咲くころから、またツーリングを始めようと思っています。
 オッシ!!
 ロックのCDをかけて気合を入れながら出勤の準備。きょうは泊まり勤務です。

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2005.03.20

赤松のハートの形の傷が語りかけること

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二〇〇五年三月二十日午後。
 東京都武蔵野市の東京都立井の頭自然文化園で見た赤松の傷です。
 同じようなハートの形の傷のある赤松が計三本あります。
 なんでしょうか。
 教えてもらって、「これがそうなのか!!」。

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口開けて寝ている妻のかわいさ。

 口開けて 寝ている妻の かわいさよ
 憎まれ口も
 忘れてしまう

 二〇〇五年三月二十日夜。
 妻は、このところ猛烈に忙しいせいか、機嫌が悪い。
 僕と話しているときは、「しかりとばしている」といった口調です。
 「罪のないヒツジをうつな」と、抗議すると「外では怒れないでしょう。あなただからいえるのよ」。
 まったく迷惑なやつだ。
 出会ったころ、というのは妻が十八歳のときですが、そのころの楚々とした純な感じはどこへいったのでしょうか……。
 何てえのは、のぞむほうが無理だとは思いますが。
 なんせ、もう五十七歳なのですから。
 でも、寝ているときは、いい感じ。
 僕はといえば、かたわらで、妻の安らかな寝顔を見ながら、パソコンに向かって遊んでいます。

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2005.03.21

驚異の二万七千歩

 二〇〇五年三月二十一日。
 午前中から夕方まで「小金井市ウオーキング」。
 おかげで、きょうは二万七千歩を超えました。
 二月からは最高です。

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2005.03.24

アネモネ・シルベストリスの美

 街中(まちなか)の
 喧騒(けんそう)なんぞ ものとせず
 花屋の店先 アネモネ、静か

 二〇〇五年三月二十三日。
 泊まり明けの午後、職場の近くのスーパーの花屋に、白い美しい花の鉢が置いてあるのを見つけました。
 長い花茎の先端に、一つだけ白い花が咲いています。
 数センチの白色の弁が五つの花です。
 雨に濡れながら、魅入られてたたずみました。
 
 家に帰って調べました。
 アネモネ・シルベストリスと書いてありました。
 キンポウゲ科、アネモネ属の多年草です。
 花には花弁はなくて、花弁のように見える部分は萼片(がくへん)だそうです。

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満開のミモザ、青空に映えて

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 二〇〇五年三月二十四日。
 午後、仕事先の東京都練馬区上石神井台二丁目で満開のミモザを見ました(写真)。
 青空に映えていい感じでした。

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2005.03.25

東京都小金井市の野川沿いの桜

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 二〇〇五年三月二十五日。
 午前中から夕方まで「東京都小金井市ウオーキング」。
 この日、二万八千歩を超えました。

 歩いていて、季節は、いっきに「桜」に向かっていることを実感しました。
 写真は、野川沿いの前原町三丁目で見た桜です。

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ハクモクレンに胸きゅん

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 突然に 「私、ここよ!」と 声上げて
 ハクモクレンは
 姿現す

 二〇〇五年三月二十五日。
 東京都小金井市を歩いたら、あちこちにハクモクレンが咲いていました。
 見るものの胸が「きゅん」となるような美しい花ですね。
 写真は、前原町五丁目で見たハクモクレンです。

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ラッパズイセンの「綺麗でしょ」

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 二〇〇五年三月二十五日。
 写真は、東京都小金井市貫井南四丁目で見たラッパズイセンです。
 「綺麗でしょ」と、アピールしていました。
 ラッパズイセンは、ヒガンバナ科スイセン属です。

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「区立桜中学校」の卒業式。

 二〇〇五年三月二十五日夜。
 TBSテレビのドラマ「3年B組金八先生」の桜中学校の卒業式シーンを見てウルウルしました。

 卒業証書を渡す女性の校長 「桜中学校は、楽しかったですか?」
 女生徒 「楽しかったです」

 現実の中学校が、そんなふうであってほしいと思いました。

 卒業生代表の男子生徒の言葉も、いいせりふがいっぱいでした。
 「…みんなが仲間だと思えた」
 「もっと自分の気持ちをうまく伝えられたら…」
 「お前らのこと、いのちかけて守ってくれる先生がいるからなぁ」
 など。

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孫娘から電話を受けている妻。

 四歳の 孫の電話を 受けていて
 妻のしゃべりが
 でれっとなってる

 二〇〇五年三月二十五日夜の観察です。
 僕には、ぴしぱしとしゃべる妻なのですが…。

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2005.03.28

大砲の弾丸もあった散歩道 東大和駅前から小平市小川

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 二〇〇五年三月二十七日。
 休み。と、いいながら仕事になりました。しかし、休みなので、少し楽しみました。

 ● まず東京都の東大和市へ。
 西武線の東大和市駅近くの東京都薬用植物園の温室で、キョウオウの花に出合いました。(写真)
 キョウオウは、ショウガ科ウコン属の多年草。別名は、ハルウコン。熱帯アジア原産で、インドでは自生しているとのこと。

 ● そして、歩いて小平市小川に。
 小川用水が流れています。(写真)。
 小川用水は、小川村の開拓のため玉川上水から分水したものです。
 玉川上水が完成して四年後の一六五七年に完成しています。

 ● 小川町一の二五七三の小平神明宮にいきました。
 入ってすぐの右手に大きな「戦捷紀念碑」。その右手に大きな大砲の弾が置かれています。碑には「希典書」。
 日露戦争の記念碑で書は乃木希典(のぎ・まれすけ)だそうです。
 乃木希典は、一八四九年十一月十一日ー一九一二年九月十三日。
 明治天皇の侵略戦争の先頭にたった人です。
 日清戦争で旅団長になり、戦後、台湾総督。
 日露戦争が始まると第三軍司令官として旅順攻撃をしました。

 午前零時前、小金井市から楽しい便りがありました。

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2005.03.29

「英語でしゃべらナイト」

 英語など しゃべるつもりは ないくせに
 「しゃべらナイト」を
 見続ける妻

 二〇〇五年三月二十八日夜。

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庭のアンズが満開です。

 二〇〇五年三月二十九日。
 庭のアンズが満開になりました。
 数年前に高知県いの町(ちょう)の弟が植えていったものです。
 今年の夏、強風で倒れましたが、また根付きました。

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2005.03.30

「政治は……幸福になるためにあるんだ。」

 「政治は、みんなでささえあい、助けあい、いっしょに幸福になるためにあるんだ。」
 二〇〇五年三月二十九日にJRの車内で見た総務省・財団法人明るい選挙推進協会の「じぶんの一票が、誰かを幸福にする」という吊り広告のフレーズです。
 いいフレーズですね。
 この前には、こんなフレーズがありました。
 「政治は、人を救ったり守ったりしている。家族のためにがんばる人を、手助けする制度がある。安心して働くために、たいせつな法律がある。」
 総務省さん、ここは現政権のことだとしたら、美化しすぎではないでしょうか。
 実際は、つぎのようなことではないでしょうか。
 「政治は、人を救ったり守ったりすべきだ。家族のためにがんばる人を、手助けする制度をつくるべきだ。安心して働くために、たいせつな法律をつくるべきだ。」 

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2005.03.31

コブシの花たち青空に舞う

 すいーっと ひきよせられて あおぎみる
 コブシの花たち
 青空に舞う

 二〇〇五年三月三十一日午前。
 東京都国分寺市の東元町三丁目交差点の近くの民家のコブシの花のことです。

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2005.04.02

東京のソメイヨシノの開花宣言

 二〇〇五年三月三十一日。
 午前。東京都国分寺市の市立第一小学校のグラウンドの桜の一つが咲いていました。
 この日、東京のソメイヨシノの開花宣言。
 仕事で調布市へ。
 美しいハクモクレンを見ました。

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やっほー、「殿ヶ谷戸庭園パスポート」を入手したよ。

 二〇〇五年三月三十一日朝。
 カタクリが咲いていますという表示を見て、東京都立殿ヶ谷戸庭園(東京都国分寺市)に入りました。
 出勤の電車までの余裕は三十分。
 足早にカタクリの所へいってパシャ、パシャ…。しかし、どうもうまく撮れません。
 そのうち、再挑戦しなくては。
 コブシの花も綺麗でした。

 ところで、ここに入るときに、「殿ヶ谷戸庭園パスポート」を買いました。
 六百円也。
 顔写真をはらなくてはなりませんが、これで一年間、この庭園に入ることができます。
 一回百五十円ですから、僕にとってはだいぶお得です。

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2005.04.03

カタクリの花を撮ったよ。

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 二〇〇五年四月三日午後。
 東京都府中市を自転車で散歩。
 ムラサキハナナ。
 コブシ。
 桜。
 と撮って、帰ろうとしたら、地元の男性が「一箇所だけですが、カタクリが咲いていますよ」。
 案内してくれました。
 ちょっと見つからない所です。
 花が四つ咲いていました。
 写真です。

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コブシの花は微笑んで咲く。

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 みずからの 白い花びら 敷き詰めて
 四月のコブシ
 微笑んで咲く

 二〇〇五年四月三日午後。
 東京都府中市を自転車で走ると、あっちにも、こっちにもコブシの花が咲いていました。

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2005.04.04

ぽかぽかの翌日の花冷え。

 ぽかぽかの 翌日、一転 花冷えで
 何着ていくか
 探してる朝

 二〇〇五年四月四日朝。数度しかないようです。
 昨日は、すごいぽかぽかの陽気だったのに…。

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2005.04.05

ハナモモ・ゲンペイってすごーい。

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 二〇〇五年四月五日。
 泊まり明けの午後、東京都の新宿御苑へ。
 平日だというのにいっぱいの人です。
 中国語が飛び交います。
 「わーっ」と声を上げたのはハナモモ・ゲンペイ(花桃・源平)。
 白、桃、紅と一本の木から異なる色の花が咲いています。
 ハナモモ・ゲンペイは、バラ科。落葉高木です。中国原産。

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ヨウコウを愛でるヨウコさん。

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 「すごいわね。ヨウコウだって。
 私はヨウコ、きれいねえ」
 見入る人々

 二〇〇五年四月五日午後。東京都の新宿御苑。
 紅紫、一重咲きのヨウコウ(陽光)がみごとでした。
 バラ科サクラ属。カンヒザクラ群の園芸品種。アマギヨシノとカンヒザクラを交雑して作出したものです。

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このツバキ、すごいでしょう。

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 二〇〇五年四月五日午後。東京都の新宿御苑。
 あのツバキ(椿)が咲いていました。
 温室の近くです。
 大きくて、鮮やかです。このツバキのファンです。
 ツバキは、ツバキ科の常緑高木。
 「春」に花の咲く「木」が名前の由来だといいます。

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ハナニラ、ハナニラ、ハナニラ…。

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 二〇〇五年四月五日午後。東京都の新宿御苑。

 ハナニラ(花韮)が咲いていました。
 ユリ科の球根植物です。
 メキシコからアルゼンチンにかけてが原産。葉がニラに似ていることが名前の由来だといいます。

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やっほー。 ムラサキハナナです。

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 二〇〇五年四月五日午後。東京都の新宿御苑。
 やっほー。 ムラサキハナナ(紫花菜)です。
 アブラナ科です。別名、ショカッサイ、オオアラセイトウ。
 中国原産で江戸時代に渡来しました。菜の花と同じアブラナ科の植物で、紫色の花の咲く菜の花が名前の由来です。

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新しいオートバイがやってきた。

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 二〇〇五年四月五日夕方、近くのオートバイ店に頼んであった二五〇CCのオートバイを取りにいきました。
 ホンダのFTRです。
 家まで引いてきて、早速、試乗しました。
 いい音。いい乗り心地。
 いいまでのオートバイと仕様が違うので、運転には少しとまどいますが、すぐに慣れると思います。
 こいつと走りぬくぞ!!!!

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2005.04.07

韓国映画「純愛中毒」の展開

 二〇〇五年四月七日。
 DVDで韓国映画「純愛中毒」を見ました。
 スリラー恋愛映画というのでしょうか。
 意外な展開に、「そ、そうなるのか…」。
 女性を魅惑する若い男優イ・ビョンホンさんの演技におうところの多い作品でした。

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2005.04.08

「桜花(おうか)」という名の人間爆弾。

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 二〇〇五年四月七日。
 写真は、午後、JR横浜線の淵野辺駅南口で見た桜です。
 すごく綺麗でした。

 ところで、数年前から、桜といえば、「桜花(おうか)」を思い起こすようになってしまいました。
 「桜花」は、一九四四年に開発された人間爆弾です。
 頭部に爆弾。一人分の操縦席。翼。火薬ロケット推進のエンジン。
 爆撃機の腹に設置され、一人の操縦士を乗せて、放たれました。
 離着陸のための車輪はありません。
 ただ、「敵」にぶち当たって爆発するためにだけに放たれた人間爆弾でした。
 日本の侵略戦争の桁はずれた残虐さを示す兵器でした。

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オオイヌノフグリの二本の角(つの)

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 地に座り レンズくっつけ 撮っている
 二つ角(つの)持つ
 オオイヌノフグリ花

 二〇〇五年四月八日。休み。
 午前中からオートバイで東京都三多摩の野川公園へ。
 ずーっとうまくいかないオオイヌノフグリの花の撮影に挑戦しました。
 オオイヌノフグリは、ゴマノハグサ科クワガタソウ属。
 ヨーロッパ原産の帰化植物です。早春からコバルト色の花を咲かせます。花弁は四枚、雄しべは二本です。

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野川公園の桜と池との風景

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 手を広げ 桜吹雪を 走りぬく
 ピンクの花は
 幸せを呼ぶ

 二〇〇五年四月八日。東京都三多摩の野川公園で。
 この日、ここで見た桜で一番気に入ったものです。

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ミツマタの花。初めて見ました。

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 繊維状 ミツマタばかり 見慣れてて
 花は初めて
 五十八春

 二〇〇五年四月八日。東京都三多摩の野川公園で。
 ミツマタは、ジンチョウゲ科ミツマタ属。中国中南部・ヒマラヤ地方原産。江戸時代初期に渡来しました。枝が三つ又に分かれているのでこれが名の由来。樹皮には強い繊維があり、和紙の原料になります。

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東京・井の頭公園の夜は、花見の宴会でいっぱい。

 二〇〇五年四月八日夕。
 夕方六時半、東京都のJR吉祥寺駅前で妻と待ち合わせ。
 近くの井の頭公園で夜桜見物。
 し、しかし、これは何だ。
 飲んで、しゃべって、騒いでの花見客でいっぱい。すごいエネルギーです。
 二人で一回りして、すごすご帰ってきました。

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Zeroを聞きました。すごいですね。

 二〇〇五年四月八日夜。
 NHK衛星第二の「BS日本のうた」(再放送)で韓国のZero(男性)の歌を聞きました。
 「約束」。
 「Good bye」。
 すごく高い、いい声です。

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2005.04.10

クリスマスローズの楽しみ

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 二〇〇五年四月九日午前。
 妻のお誘いで東京・三多摩の神代植物公園に。
 ここにも花見客が押し寄せてきていました。
 押し寄せるだけの価値のはあります。素晴らしい桜の花です。
本日の収穫は、いろんな種類のクリスマスローズ。
 初めて見ました。
 クリスマスローズは、ユキワリソウ、オキナグサ、オダマキなどと同じキンポウゲ科です。

 神代植物公園への交通。
 京王線「つつじヶ丘」から京王バス 深大寺行き 「神代植物公園前」下車
京王線「調布」から小田急バス 吉祥寺または三鷹行き 京王バス 深大寺行き 「神代植物公園前」下車
JR「三鷹」・「吉祥寺」から小田急バス 調布または深大寺行き 「神代植物公園前」下車

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テッセンの季節がやってきました。

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 二〇〇五年四月九日。
 東京・三多摩の神代植物公園。

 売店でテッセンを見ました。
 「わー、テッセンだ。うれしいな」
 という感じ。
 妻と京都市にいったとき初めて知った花です。
 花の名は、妻に教えててもらいました。
 テッセンは、ことしも、いろんな場所で、僕を楽しませてくれることでしょう。

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花吹雪を心につけて…。

 花吹雪 心につけて
 微笑んで
 泊まり勤務の わが席につく

 二〇〇五年四月九日午後。
 ある人に「どこどこの花見をしたの?」と「追及」されましたが、ことしは、まだ、新宿御苑、野川公園、井の頭公園、神代植物公園のみです。

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ハリミノウゼンの装い。

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 二〇〇五年四月十日午後。
 泊まり明け。
 東京都の新宿御苑へ。
 きょうは温室へ。
 ハリミノウゼンを撮りました。
 ノウゼンカズラ科です。
 原産地は、ブラジル南部,アルゼンチン
 つる性植物です。花は淡紅紫色です。

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ヒスイカズラの誘い。

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 二〇〇五年四月十日午後、東京都の新宿御苑の温室。

 いっぱいの客が、つぎつぎと「ヒスイみたい」「きれい」「気味が悪い」などの声を上げて見入っていきます。
 ヒスイカズラです。
 マメ科のつる植物。花は青緑色で、宝石の翡翠(ひすい)のようです。フィリピンの熱帯雨林に自生します。自生地でも数が減ってしまっている絶滅が危ぐされています。

 それはそうと、温室はいいにおいですが、さすがにこの季節は暑い。汗びしょになりました。

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「あの人と一緒に暮らして楽しかったね」

 このところ殊勝なことを考えています。

 僕が十九歳のときに知り合った、妻のことです。
 女性解放を唱え、「日本女性史の研究を一生の課題としたい」と、豪語する男性と結婚したのですが、実際は、家庭では女性解放にならなかったかもしれません。
 苦労をかけています。
 妻は、元気、元気です。
 一方、僕は、さえません。
 妻は、百歳以上生きることでしょう。
 僕は、あと何年かかもしれません。
 で、いま考えていることは、妻が「あの人と一緒に暮らして楽しかったね。よかった」というシーンを、できるだけたくさんつくっておきたいということです。
 その「思い出」が、長生きする妻の、なんかの支えになるかもしれないと思うからです。
 少し「妻孝行」しなければと思っている五十八歳です。

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2005.04.13

ジシバリの花に託して「生」を問う…。伊藤千代子の手紙。

 ジシバリの 花に託して 「生」を問う
 伊藤千代子の
 手紙読む朝

 二〇〇五年四月七日付の「しんぶん赤旗」日刊紙に、伊藤千代子の手紙が紹介されていました。
 一九二九年五月八日、夫・浅野晃の妹・淑子にあてたものです。

 <朝霧にぬれた麦畑や大根畑のひろびろとつづいた野方町からあの岡から谷の辺りはどんなに気持ちいいだろうと私も時々思い出します。ここではね今地しばりの花ざかりです。高い煉瓦(れんが)の塀に沿ってまるい黄色な頭を春風にユラユラゆすぶっています、淑ちゃんは地しばりをご存知じですか、強情な大変力のある面白い花ですよ。ダリアの畑へでも菊へでもおかまいなしにずんずん押し込んでいって肥料を横取りしてしまいます。
 田舎では野菜や桑を荒らすのでお百姓は眼の仇(かたき)にしていぢめています。命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね。生きようとするからこそ、その大切な命をも投げ出すのですね。……> 

 <生きようとするからこそ、その大切な命をも投げ出すのですね。>に、ぐっときました。

 伊藤千代子は、一九〇五年七月二十一日、長野県の諏訪の南真野の農家に生まれました。幼くして母と死別。湖南小学校から中州小学校へと転校し、祖父母の援助で諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)に学び、高島小学校の代用教員の後、仙台尚絅女学校から東京女子大に進みました。
 伊藤千代子は、生活に苦しむ人々に心をよせ、世の中の矛盾と不公平さを許せず、東京女子大学内でカール・マルクスの『資本論』を学ぶなど、社会諸科学研究会で中心的に活動しました。
 郷里では初の普通選挙をたたかう革新候補の藤森成吉を支援、岡谷の争議、山一林組の製糸工女らを激励しました。
 一九二八年二月末、日本共産党に入党。二十二歳でした。党中央事務局で文書連絡や印刷物の整理などの活動を始めました。
 同年三月十五日、党印刷所に出向いたところを特高警察に襲われて逮捕されました。
 治安維持法による野蛮な弾圧で逮捕、市ヶ谷刑務所に投獄されます。
 千代子は獄中での狂暴な拷問や虐待にも屈せず、同志を励ましたたかい続けました。
 はじめの手紙は、一九二九年五月八日、市ヶ谷刑務所からのものです。
 ジシハリは、キク科ニガナ属の多年草。別名は、イワニガナ、ハイジシバリ。
 細い茎が地面を這い、茎から根を下ろして増えるので地面を縛るように見えます。葉には柄があり、葉身は円形もしくは楕円形で長さ一~三センチメートル。花は黄色の頭花で直径二~二・五センチメートル。四月から六月にかけて花を咲かせます。
 伊藤千代子は、獄中で党員の夫の天皇制政府への屈服を知り、衝撃を受けますが、同調を拒否します。
 一九二九年八月、市ヶ谷刑務所で拘禁精神病を発症し東京の松沢精神病院に移送されます。そして、それから一カ月ちょっとで、肺炎で亡くなりました。
 一九二九年九月二十四日のことです。二十四歳でした。

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2005.04.14

人間爆弾「桜花(おうか)」」について 続き

 人間爆弾「桜花(おうか)」のことを、この間、少し書きました。
 もう少しくわしく調べてみました。

 ●特別攻撃の訓練をしていました●

 「しんぶん赤旗」日刊紙、二〇〇二年八月四日付に「俳優の江見俊太郎さん 特攻体験をトーク 『人間爆弾でした』 軍事で平和はつくれない」という記事が載っていました。
 <俳優の江見俊太郎さん(78)が、太平洋戦争中のみずからの特別攻撃(特攻)隊員としての体験と平和への思いをこの夏、語っています。
 これまでも、ことあるごとに平和の問題で発言してきた江見さん。二日には東京都府中市の「一九四五―二〇〇二 夏ふたり」の集いでサクソホン演奏の中川美保さんと共演し、二人の「トーク」で特攻隊員としての体験を語りました。
 江見さんは早稲田大学二年生のときの一九四三年十二月に学徒出陣。四五年二月からは福岡県の築城(ついき)海軍航空隊で特攻隊員としての訓練をしました。
 初めはロケット・桜花(おうか)に乗り組むことになっていました。桜花は、一式陸上攻撃機などの下部につるされて運ばれます。そして、アメリカ軍の艦艇に接近した所で空中発進され、体当たり攻撃するというものです。
 「人間爆弾でした」という言葉に、会場から「わーっ」という驚きの声が。
 一式陸上攻撃機が次々と撃墜されると、こんどは複葉(ふくよう)の屋根のない、赤トンボといわれる練習機に二百五十キログラムの爆弾を積んで特攻の訓練をしました。
 「私の日誌によると終戦の前日、八月十四日まで夜間の編隊訓練をしていました」
 江見さんは、この体験にもとづいた手記「消えない星」も朗読しました。戦争が引き裂いたむくな恋の物語です。会場の人々の目には涙が…。
 ……
 江見さんは「小泉首相は『備えあれば憂いなし』といって危ない有事法制三法案を通そうとしていますが、この『備え』というのは軍事力のことです。これは平和にはつながらない。本当の『備え』というのは戦争が起きないようにすることです。これからも聖戦といわれて侵略戦争に駆り出された体験を語っていきます」と抱負をのべています。>

 ●「桜花」がつくられるまで●

 「桜花」は、一九四四年五月一日、1081航空隊分隊長の大田正一少尉が、隊司令の菅原英雄中佐に構想を明かした人間爆弾です。
 同年五月か六月、大田少尉、菅原中佐の推薦により、構想を航空技術廠長の和田操中将に提案。中将は航空本部に進達。航空本部の伊東裕満中佐と軍令部の源田実中佐が協議して研究を進めることになりました。
 同年八月初旬、大田少尉が、あらためて民間技術者(東京大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所)の協力を得て作製した「人間爆弾の私案」を航空本部に提出しました。
 同月十六日、航空本部が、大田私案に「○大部品」の秘匿名称をつけ、航空技術廠に改正試作を下令しました。試作番号「MXY7」。
 同月中旬、第一線部隊を除く全国航空隊で、秘密裡に「生還不可能の新兵器」の搭乗員希望者を募集。航空技術廠、「MXY7」の単座練習機「K1」の試作を開始しました。
 同月十八日、軍令部第2部長黒島少将、軍令部会議で火薬ロケット推進の「○大兵器」を発表しました(「部品」が「兵器に変わりました)。
 同月下旬、航空本部、○大を「桜花」と命名。
 同年九月十五日、「桜花」を基幹とする特殊専門部隊の編成準備のため、準備委員長岡村基春大佐(341航空部隊司令)などを横浜航空隊付に発令しました。
 同年十一月十九日、及川軍令部総長が「桜花」計画について昭和天皇に上奏しました。

 ●開発の一端を担った人の証言●

 神奈川県相模原市の鈴木元夫さん(七十八歳)は、「桜花」の開発の一端をになったといいます(「しんぶん赤旗」、二〇〇五年四月十三日付)。
  <(一九)四四年一月から横浜市の海軍航空技術支廠(しょう)の爆撃部設計係になり、同年夏から「桜花(おうか)」の開発の一端をになっていました。
 「桜花」(全長六・〇六六メートル、翼幅五メートル)は、頭部に千二百キロの爆弾を装てんし、二つの翼と一人ぶんの操縦席をつけた、火薬ロケット推進方式の飛行機でした。離着陸のための車輪はありません。一式(いちしき)陸上攻撃機などの腹につるされ、放たれて「敵」にぶつかっていく人間爆弾でした。
 私は、「桜花」がどんな角度で「敵」に当たっても爆弾が爆発するような発火装置の設計を担当していました。>

 ●一式陸上攻撃機も改造されました●

 山本正夫さんが『岡山の記憶』第五号(二〇〇三年)に「回想記 無残な“死出の穴”づくり―海軍機一式陸攻の人間爆弾「桜花」―」を書いています。
 <……19年(記者注・一九四四年)2月に私は現倉敷市水島にあった3菱重工業水島航空機製作所に入所して海軍機の1式陸攻(G4M1~3)を作っていました。私は第2組立に属して胴体組立のうち爆弾倉を作り、いわゆる鋲打ち作業をやっていました。
 戦争は次第に熾烈となり、学徒動員の生徒や女子挺身隊を相棒に懸命に鋲打ち1筋に励み、毎日が残業々々の連続で、定時の5時から3時間半の残業を強いられていました。
 いつからだったか爆弾倉に設計の変更があり、機内の床より直接爆弾倉内に降りる穴を作ることになりました(注:爆弾倉内の爆弾を吊るす天井の上は機内の床になっています)。後にいわれた〝桜花装備〟(会社ではマルダイ装備)というもので、爆弾倉の中に特攻兵器の爆弾「桜花」を積み、この中に人が乗り込んで操縦し体当りをする人間爆弾に乗り込む穴です。この桜花は大きく、1式陸攻に取り付けると弾扉(だんぴ)を締めることができないので初めから取り付けられず、下から見ると弾倉は丸見えの状態でした。
 この桜花に乗り込むための死出の花道は、1辺500ミリの正方形、厚さ12、3ミリぐらいの穴でした。この500ミリの穴を作るために、誠に手数がかかりました。でも作りながら、この穴の中をいつかは若者が降りて、ふたたび帰って来ない旅に出るのだと思いながら胸をしめつけられるような気持で作っておりました。
 ……
 その後工場もB29の爆撃によって大半が被害を受け、やがて終戦となり1式陸攻の製作も終わりました。思えば「増産!増産!」と尻をひっぱたかれながら、何号機まで作ったであろうか。最初のG4M1の1号機から数えて、私の作った爆弾倉の号数は6百あるいは7百何十機分であったと思う。完成機は、とてもそれまでは出来てはいない。1機分の爆弾倉が出来れば、それに白墨で番号を書き込んでいたのでそのように思われる。
 マル大装備も中途からなので何機分を作ったか記憶はないが、完成されたものは何十機と言うくらいではなかったかと思われます。
 ……
 当時、従業員は男性が兵役で少なかったのか、女子挺身隊や学徒動員の女の子がたくさん入っていた。私のところにも岡山女子師範の生徒さんで津山出身の人が入ってきて1緒に鋲打ちをやった。……
 20年6月22日、水島の工場はアメリカ軍の爆撃を受けた。当日は工場が休みだったので出勤していなかったが、岡山の家でも「ドロドロ」という爆発の音が聞こえてきた。翌日出勤してみると、私が仕事をしていた爆弾倉の治具のあたりに大型爆弾が落ちたのか、直径十数メートルくらいの大穴があき、深さ5メートルくらいの底には水がたまっていた。
 ……
 以後は、工場の片づけばかりだった。1週間後の29日未明、今度は岡山市が大空襲をうけ、私は身重の妻と2人で逃げた。
 水島の工場の被弾でその前に置いてあった1機も爆風をうけて、リブ(骨組み)の間は全部内側にへこんでしまっていた。これでは使い物にならないが、この機がどうなったのか知らない。
 工場の片づけの最中の8月2日、第2回目の召集がきて、会社を辞め、入営した。今度は広島の工兵隊だった。8月6日の原子爆弾で、私は被爆した。>

 一式陸上攻撃機は、一九三七年に開発され、一九四一年四月に海軍に正式採用された双発の攻撃機です。搭乗員は七人です。
 燃料タンクにインテグラル式タンクを採用したことから、航空燃料を四千七百八十リットル搭載できました。インテグラル式タンクというのは、主翼内が燃料タンクになっているものです。その一方、燃料タンクには防弾設備が一切なく、敵戦闘機の機銃弾が一発命中しただけでも火を噴き、墜落していくという飛行機でした。
 「桜花」は、終戦時までに七百五十機が製造されたといいます。

 ●「桜花」の特別攻撃の実際●

 一九四四年十月一日、百里ヶ原基地(茨城県小川町)に、第721海軍航空部隊(神雷部隊)が新たに編成され、横須賀鎮守府に編入されました。「桜花」を主戦兵器とした最初の航空特攻専門部隊でした。
 同年十一月一日、茨城県鹿嶋市(現在の地名)の神之池基地に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられました。
 神雷部隊は、「桜花」パイロットの桜花隊、「桜花」を運ぶ陸攻隊、これらを援護する戦闘機隊の三つが基本的な要素。桜花隊員の募集は最初、一九四四年八月中旬、全国航空隊からその目的と生還不可能の条件を明示して隠密裏におこなわれれ、応募者の中から約二百人が十月から十一月にかけて721航空隊に着任し、十一月末には四個分隊編成となりました。
 母機の陸上攻撃機には精鋭の飛行隊をあて、援護戦闘機として二個飛行隊が配置されました。
 同年十一月二十九日、「桜花」五十機を搭載した空母「信濃」が米潜の雷撃で沈没(横須賀→呉)。
 同年十二月一日、連合艦隊司令長官が神雷部隊にレイテ攻撃を内示しました。
 同年十二月十九日、「桜花」五十機を搭載した空母「雲龍」が米潜の雷撃で沈没(佐世保→比島)。
 一九四五年一月八日、「桜花」五十八機を搭載した空母「龍鳳」が目的地をフィリピンから台湾に変更。
 同月二十日日、「桜花」隊第一陣が南九州(鹿屋、出水、宮崎、都城)に進出を開始しました。
 同年三月二十一日、第一回神雷「桜花」特別攻撃隊(「桜花」十五機、陸上攻撃機十八機、戦闘機三十機)は、鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、九州沖に向かいました。しかし、米機動部隊約五十機の待ち伏せにあいました。戦死百六十人(「桜花」十五人、陸上攻撃機百三十五人、戦闘機十人)。
 同年四月一日、第ニ回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」三機、陸上攻撃機三機)。
 同十二日、第三回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」八機、陸上攻撃機八機)。
 同月十四日、第四回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」七機、陸上攻撃機七機)。
 同月十六日、第五回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」五機、陸上攻撃機五機)。
 同二十八日、第六回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」一機、陸上攻撃機一機)。
 同年五月四日、第七回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」六機、陸上攻撃機六機)。
 同月十一日、第八回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」三機、陸上攻撃機三機)。
 同月二十五日、第九回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」三機、陸上攻撃機三)。
 同月二十五日、第一回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃に対する連合艦隊告示。「第一神風特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」の名称で発表。
 同年六月二十二日、第十回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」四機、陸上攻撃機四機)。

 「桜花」関係の戦死者は三百人を超えました。
 「桜花」特別攻撃の「戦果」は、駆逐艦「マンナート・L・エーブル」(「桜花」に突撃された時すでに航空特別攻撃により損傷していました)を一隻撃沈し、数隻に損害を及ぼしたに過ぎませんでした。

 ●千葉県にも「桜花」の遺跡が…●

 「しんぶん赤旗」日刊紙、二〇〇四年八月二十一日付、南関東のページには「千葉・館山/戦跡保存で全国シンポ/房総の特攻基地跡など見学 」が載りました。
 <第八回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会が二十日、千葉県で始まりました。初日は戦争遺跡を見学するフィールドワークが行われ、関東や沖縄、韓国などから百人以上が参加。茂原市の掩体壕(えんたいごう)群や、夷隅町、大原町に残る特攻基地跡などを見学しました。
 ……
 夷隅町に残る特攻機「桜花」基地跡は、草深い山奥に暗い口を開けていました。「桜花」は敵艦隊に体当たりするグライダー型「人間爆弾」で、本土決戦を想定していました。同基地跡は勤労奉仕でかりだされた住民が掘ったという証言もあります。
 参加者はツルハシの跡が残る壁面を触れ、「大本営は逃げる場所、特攻基地は死ぬ場所だ」と話していました。>

 次のような記事もありました。
 <(千葉県)内陸部の安房郡三芳村には特攻兵器「桜花」の基地があった。「桜花」といえば、大型攻撃機の腹に抱きかかえられ、目標近くで切り放される人間爆弾である。大戦末期には南房総の山中からカタパルト(射出機)で射ち出して、ロケット噴射で山を越え沖合の艦船に人間もろとも突入させようとしたのである。>(「しんぶん赤旗」日刊紙、一九九五年一月二十七日付、「朝の風 五十年後のフィールドワーク」、筆者「春」)。

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2005.04.15

ご近所の桜。青空に映えてすてきでした。

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 二〇〇五年四月十四日午前、東京都国分寺市東元町二丁目の民家の庭に咲いている、すてきな桜を見ました。
 道から見入っていると年配の気品のある女性が庭に出てきて、二人で桜談義。
 「撮っていいですか」
 「どうぞ」
 と、いうのが、この写真です。
 桜には、青空が似合いますねー。
 「お茶も出しませんで」
 「いえ、いえ」
 この後、仕事で神奈川県横須賀市にいったら、そこでは、もう桜たちは「また、来年ね」のあいさつをしていました。

 また、きっと 来春、会おうね 桜たち
 あいさつしながら
 散る花を見る

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「二人ぼっち」の日々。

 二〇〇五年四月十五日。

 三月に息子が結婚して、僕たちは、ついに「二人ぼっち」になりました。

 娘は、すでに結婚して、二人の孫娘がいます。
 娘からは、ときどき「遊びにきて」と声がかかります。

 しかし、息子夫婦のほうは、そんな声をかける余裕もなく、せかせかと生きています。
 といっても、もともと、息子は、十八歳から、ずーっと家を出て、年に何回か、わが家にやってくるという、「薄い関係」でした。

 本当は、家族間で、どんどんいききして、楽しい時を過ごしたいと思うのですが……。
 まぁ、それぞれの性格ですからね。

 さきほど、妻は、浴槽で「恍惚(こうこつ)の人」になっていました。
 もう一階でいびきをかいていることでしょう。
 僕は、二階で、こんなことを書いています。
 ところで、僕も、もう寝なくては……。
 一日は、なぜ、二十四時間しかないのでしょうか。

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2005.04.16

ハナニラは地上の星。

 ハナニラの 香りの中に 一人いて
 地上の星々
 写し撮ってる

 二〇〇五年四月十六日午後、東京都国分寺市東元町二丁目で。

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2005.04.17

ヤマシャクヤクの美しさ。

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二〇〇五年四月十六日。出勤前に東京都国分寺市の都立殿ヶ谷戸庭園に。
 ヤマシャクヤクを撮ることができました。
 なんだかいい気分です。
 ヤマシャクヤクは、ボタン科ボタン属の多年草です。

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ラクウショウの気根(きこん)の拳(こぶし)。

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 「生きるんだ!」
 そんな叫びが 聞こえそう
 ラクウショウの 気根(きこん)の拳(こぶし)

 二〇〇五年四月十七日午後、泊まり明け。東京都の新宿御苑へ。
 ラクウショウの気根を見ました。

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君の名は? 「オオアマナ」。

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 二〇〇五年四月十七日午後。東京都の新宿御苑で美しい花に出合いました。
 何という名前の花でしょうか?

 四月二十八日午後、一泊の出張の後の泊まり勤務の後です。
 しかし、めげずに新宿御苑に。
 おかげで、この花の名がわかりました。
 オオアマナでした。
 ユリ科アマナ属です。

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ムラサキハナナの群生

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 二〇〇五年四月十七日午後。東京都の新宿御苑。
 ムラサキハナナの群生を見ました。

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シャガは「めっちゃきれい」。

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 娘さん 「めっちゃきれい」と 叫んでる
 シャガさん、あなたを
 ほめてくれてる
 
 二〇〇五年四月十七日午後。東京都の新宿御苑。

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2005.04.18

ニュースです。ムサシノキスゲが咲き始めていますよ。

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 二〇〇五年四月十八日。休み。
 新しいオートバイは快調。
 妻がつくってくれていた弁当を持って東京都三多摩の東京都立浅間山公園(せんげんやまこうえん)、都立武蔵野公園にいってきました。
 浅間山は、標高八〇メートル。僕向きの山です。
 頂上の一つで弁当を食べました。おいしい!
 さてさて、「大ニュース」です。
 ムサシノキスゲが一本ですが、もう咲いていました。
 ムサシノキスゲは、ワスレグサ属です。
 もうすぐ、いっぱいのムサシノキスゲが咲きそろうことでしょう。
 世界中で、ここだけでしか見られないシーンです。
 五月になると、ここで「キスゲフェスティバル」が開かれます。
 浅間山公園にどうぞ。府中市浅間町四丁目、若松町五丁目。JR中央線武蔵小金井駅から京王バス府中行き、「浅間町」下車、徒歩三分。西武多摩川線多磨駅下車、徒歩十五分。

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ヤマブキがきれいです。

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 二〇〇五年四月十八日。東京都三多摩の東京都立浅間山公園(せんげんやまこうえん)。
 ヤマブキがきれいに咲いていました。
 美しい野の花がいくつも咲いていましたが、名前がわかりません。名前がわかったら書き込むつもりです。

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東京都立武蔵野公園の桜千本、いま盛り。

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 降る花を 両手を広げ 受けている
 遅咲き桜は
 ありがたきかな

 二〇〇五年四月十八日。東京都三多摩の東京都立武蔵野公園にやってきました。
 野川に沿って残る草原や雑木林を配した公園です。
 桜が約千本あります。ヤマザクラ、ソメイヨシノ、サトザクラなど。
 いまが盛りです。
 写真は、ウコンです。
 武蔵野公園は、ここです。
小金井市前原町二丁目、東町五丁目、府中市多磨町二丁目。JR武蔵小金井駅北口から京王バスの多麿霊園・多磨町行き、「多磨町」下車、徒歩三分。京王線調布駅北口から武蔵小金井駅行き、乗車二十五分「武蔵野公園」下車。JR武蔵小金井駅北口から調布駅行き乗車二十、「武蔵野公園」下車。

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ハナミズキがきれいでした。

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 二〇〇五年四月十八日。東京都三多摩の東京都立武蔵野公園。
 ハナミズキがきれいでした。写真。

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ニリンソウがたくさん咲いていました。

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二〇〇五年四月十八日。東京都三多摩の東京都立武蔵野公園。
 ニリンソウがたくさん咲いていました。写真。

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ツバキは赤いじゅうたんを敷いて…。

20050418_290

 みずからの 花を敷き詰め 咲き誇る
 胸刺すシーン
 ツバキの気迫

 二〇〇五年四月十八日。東京都三多摩の東京都立武蔵野公園で。

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ムラサキハナナとナノハナ

20050418_280

 二〇〇五年四月十八日。東京都三多摩の東京都立武蔵野公園。
 シーンは、ムラサキハナナとナノハナがつくりだしたシーンです。

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2005.04.20

ご近所の群れ咲くナノハナ、目に焼いて…

 ご近所の 群れ咲くナノハナ
 目に焼いて
 「よっし、出発」 出勤の道

 二〇〇五年四月十九日午前のことです。

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2005.04.21

加賀乙彦さんの長編小説『永遠の都』

 加賀乙彦さんの長編小説『永遠の都』を二〇〇五年二月二十八日から読み続けています。
 新潮文庫で七冊です。
 いま三冊目が終わろうとしています。
 一九三五年から四七年の時代の中の日本を描いています。
 その時代の葛藤に引き込まれていきます。
 僕が生まれたのは四七年。それ以前の時代の「感じ」がよくわかります。
 作者が、事実に歌わせた小説です。

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僕の「うそぶきの短歌」

 二〇〇五年四月二十一日のつぶやきです。

 妻に「ケチョンケチョンに」いわれたときなどに僕がつぶやく短歌は、「白鳥は かなしからずや 空の青 海の青にも 染まりただよふ」です。
 妻は「あんたは、その短歌が好きやねー」といいますが、彼女は、これが、若山牧水の原作と一字だけ違うのに気がついていないようです。
 原作は「白鳥は かなしからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ」です。

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2005.04.22

ヒメリンゴの微笑み

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 二〇〇五年四月二十二日朝。

 わが庭ではアンズは、すでに花が散り、実をつけはじめています。
 ハナカイドウが咲いたと思ったら、白いヒメリンゴの花も咲いてきました(写真)。
 ヒメリンゴは、バラ科 リンゴ属の落葉低木です。

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2005.04.24

ニリンソウのつもりでトリカブトを…。

 大変なニュースを知りました。
 二〇〇五年四月二十一夜、青森県の七十歳代の男性がトリカブトを食べて食中毒症状を起こし、二十三日午前一時ごろ、死亡したというのです。
 この男性は、ニリンソウのつもりで、このトリカブトを自宅近くの山林で採取したものです。
 家族四人であえ物にして食べ、近所の人にもおすそ分けしたといいます。
 食中毒症状患者は、亡くなった人を含め計六人に。全員が入院しました。四人は快方に向かい、一人は重症のままといいます。
 ニリンソウとヤマトリカブトは、同じキンポウゲ科です。インターネットで調べてみると、花が咲く時期は両者はよく似ています。
 以下の、サイトに両者の違いが詳しく載っていました。
 http://www.pharm.tohoku.ac.jp/~yakusoen/goshoku/goshoku.html

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憲法九条 忌野清志郎さん、かく語りき。

 すごい言葉と出合いました。

 「ロックの基本は、愛と平和だ。イエーイッ!」
 「一番の環境破壊は、戦争だと思う。戦争が一番の環境破壊なんだ。イエーイッ!」
 「この国の憲法を知っているか。戦争をしないんだ。戦争に加担しないんだ。愛と平和なんだ。まるでジョン・レノンみたいじゃないか。みんな。この国の憲法は、まるでジョン・レノンの歌みたいじゃないか。イエーイッ! なんで世界中に自慢しないんだ。イエーイ。日本の憲法を、世界中に自慢しようぜー」

 二〇〇五年四月二十四日午後、東京都の代々木公園のアースデーの舞台の演奏の合間に、ロック歌手の忌野清志郎(いまわの・きよしろう)さんが語ったことです。

 ジョン・レノンの歌というのは「イマジン」のことだと思います。
 そして、日本国憲法第九条をあらためて紹介します。

 第2章 戦争の放棄

 第9条

 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 「イエーイ。日本の憲法を、世界中に自慢しようぜー」

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2005.04.25

ヤマブキソウが輝いていました。

20050425_198

 二〇〇五年四月二十五日午後、東京都国分寺市の万葉植物園で見た花です。
 ヤマブキソウだとのことです。
 ケシ科クサノオウ属。
 花弁は四枚です。

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2005.04.28

ナノハナと青空と。

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 青空に ナノハナ入れて 撮っている
 マクロレンズで
 表現できたよ

 二〇〇五年四月二十五日午後、兵庫県姫路市の新中川橋の近くで。

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ツルニチニチソウ

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 気になっていた花の名前が二〇〇五年四月二十八日、わかりました。
 ツルニチニチソウでした。
 キョウチクトウ科です。
 写真などは、またアップします。
 いまは、とにかく「眠い!!」。

 写真アップしました。四月二十二日、東京都三多摩の井の頭公園で撮ったものです。

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2005.05.02

シランは飛行中。

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 飛んでいる シランのさまを 撮り終えて
 「よくやったぞ」と
 自分をほめてる

 二〇〇五年五月一日午前、東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園でシランを撮りました。

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2005.05.03

美しさを、どう文字で表現すればいいか。

 「美しさを、どう文字で表現すればいいか」。
 最近、ずーっと、このことを考えています。
 たとえば、タイサンボク(泰山木)の花の美しさです。
 モクレン科 モクレン属の常緑高木。
 原産地は、北アメリカ。
 五月から六月にかけて、次々と大輪の花を咲かせます。
 花は高い木の梢(こずえ)に上向きに咲きます。
 などと、データを並べてみても、「伝わらない」。
 そんなとき、加賀乙彦さんの小説『永遠の都 5 迷宮』に、こんな表現をみつけました。
 「泰山木を見上げる。真白に形よく出来上がった花弁には黄の模様がつき、さかんに芳香を発していた」
 う-ん、いいですねー。
 少し、いろんな本を読みあさって「賛美の表現」を研究してみようと思っています。
 美しいもの、美しい心には、美しい文字の表現をもってむくいてあげたいから…。

 二〇〇五年五月三日夜、憲法記念日の夜に。

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2005.05.04

ムサシノキスゲの盛りの一花

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 昨日の 輝きしかと たたみこみ
 盛りの一花(ひとはな)
 ムサシノキスゲ

 二〇〇五年五月四日。休み。午後三時までは「自分の時間」です。
 午前中から例によって東京都府中市の浅間山(せんげんやま)へ。
 ムサシノキスゲが、あちこちに咲いていました。

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キンランが満開になっています。

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 「この花は つぼみのほうが 綺麗よね」
 満開キンラン
 つむじ曲げてる

 二〇〇五年五月四日。東京都府中市の浅間山(せんげんやま)。
 もう一つのお目当てはキンラン。
 あちこちに咲いていました。
 ことしは例年より多いかもしれません。

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ニセアカシアは、いま風の中。

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 「やすやすと 撮らせてなんか あげないわ」
 ニセアカシアは
 いま風の中

 二〇〇五年五月四日。東京都府中市の浅間山(せんげんやま)。
 多磨霊園へのつり橋の所にニセアカシアが咲いていました。
 アップで撮ろうしました。しかし、強い風にザワワと揺れて、なかなか撮れませんでした。

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2005.05.05

ボタンの花は胸張って咲く。

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 「私ほど 美女はいないわ」
 それぞれに
 ボタンの花は 胸張って咲く

 二〇〇五年五月五日。
 仕事が午前中にかたづいたので、午後からは休み。妻に電話して「遊ぼ!」。
 結局、東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園にいくことになりました。
 満開のボタンが迎えてくれました。

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ヒトツバタゴの枝の薄雪。

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 高木に 「薄雪」いただき
 薫風に 揺れに揺れてる
 ヒトツバタゴは

 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園。
 うれしかったのはヒトツバタゴの花に出合えたことです。
 ヒトツバタゴは、モクセイ科ヒトツバタゴ属の落葉高木です。
 別名、ナンジャモンジャ。

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クロユリといえば「黒百合の歌」。

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 クロユリを
 見ればたちまち 口をつく
 小学時代の 熱愛の歌

 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都東京都薬用植物園。
 クロユリが咲いていました。
 クロユリといえば、瞬時に「♪黒百合は 恋の花…」ときます。
 「黒百合の歌」(作詞・菊田一夫、作曲・古関裕而)が頭に浮かびます。

 一、黒百合は 恋の花
   愛する人に 捧げれば
   二人はいつかは 結びつく
   ああ あああああ あああああああ
   この花ニシパに あげようか
   あたしはニシパが 大好きさ

 二、黒百合は 魔物だよ
   花の香りが 沁み付いて
   結んだ二人は 離れない
   ああ あああああ あああああああ
   あたしが死んだら ニシパもね
   あたしはニシパが 大好きさ

 三、黒百合は 毒の花
   アイヌの神の タブーだよ
   やがてはあたしも 死ぬんだよ
   ああ あああああ あああああああ
   ああああ ああああ あああああ
   ああああ ああああ  あああ あああ

 一九五四年、僕が小学校の低学年だったころ、織井茂子さんが歌いました。ラジオで、よく聞きました。
 NHKラジオのドラマ「君の名は」の主題歌の一つです。
 クロユリ、本州中北部の高山帯や亜高山帯の草地に見られます。
 北海道では平地の林内や平地に自生しているといいます。

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「母の日」プレゼントは、ブーゲンビリア。

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 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園の近くの花屋で、妻と二人で、妻の母への「母の日」プレゼントを選びました。
 ブーゲンビリアの鉢にしました。

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屋根にレンゲ畑のあるライブハウス。

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 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都東京都薬用植物園の近くの花屋で妻と別れて、僕は玉川上水沿いに玉川上水駅方面に散歩。
 途中、屋根にレンゲ畑のあるライブハウスがありました。
 ロバハウス(立川市幸町六の二二の三二)です。
 この日は、「谷川俊太郎+谷川賢作+ロバの音楽座」でした。
 三十分過ぎていましたが、入りました。
 最後に、「いつでも何度でも」の木村弓(きむら・ゆみ)さんが歌いました。
 うーん、うっとり。

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2005.05.09

アマリリスを見たよ。

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 二〇〇五年五月七日午後二時。泊まり明けの仕事を終えて、休み中の妻に電話。「出てこんかえ」。
 結局、東京都の新宿御苑で待ちあわせて、午後四時半にここがしまったら、新宿で映画をみようということになりました。
 妻のくるまでに新宿御苑の温室にいきました。
 アマリリスがきれいに咲いていました。(写真)
 周りの光を吸収し、その光を周りに放つような花ですね。

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オオモミジのプロペラ。

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二〇〇五年五月七日午後。東京都の新宿御苑で妻と会いました。
 二人で不思議なものに出合いました。オオモミジの木の桃色のプロペラのようなものです。(写真)
 どうも、この中に実が入っていて、プロペラのように回って、遠くへ飛んでいくようです。

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「うめぼしのうた」???

  「うめぼしのうた」というのが、あるそうです。

 で、ネットをさまよってみましたが、しかとは、その実体がわかりません。
 「梅干しの歌」
 「梅干しの詩」
 など、表記もさまざまです。
 どうも、こんな歌のようです。

 二月・三月花ざかり
 ウグイス鳴いた春の日の
 楽しい時も夢のうち

 五月・六月実が成れば
 枝からふるい落とされ
 近所の町へ持ち出され
 何弁何合量り売り
 もとよりすっぱいこの私
 塩に漬かってからくなり
 シソに染まって赤くなり

 七月・八月暑いころ
 三日三晩の土用干し
 思えば辛いことばかり
 それでも世のため人のため
 しわは寄っても若い気で
 小さい君等の仲間入り
 運動会にもついてゆく
 ましていくさのその時に
 なくてはならない
 このわたし

 九月・十月秋の日々
 山はもみじやかえでが色づいて
 里の庭々秋の声
 ふたたび仲間は
 おにぎりやシソに
 巻かれて旅に出る
 わたしはさびしく樽の中

 十一月・十二この月に
 山には雪がちらちらと
 里には木枯らし吹き荒れて
 庭ではペッタンペッタン餅をつき
 樽の中ではブルブルと
 私はふるえて年を越し

 正月元旦年明けて
 書き初め 羽根つき
 コマまわし
 家で家族が笑顔で雑煮たべ
 梅のがふくらんで
 花の香りを待ちながら
 私は樽の中より
 おめでとう

 どうも「ましていくさのその時に/なくてはならない/このわたし」がいいたいようです。

 ネットでは、こんな記事もありました。

 1873年【明治6年】
 徴兵令が発布。施行とともに軍需用に梅干の需要が伸びる。
 1904年【明治37年】
 二月に日露戦争が始まり、軍需品として梅干の需要が伸びる。
「日の丸弁当」はこの頃生まれた言葉。
 1910年【明治43年】
 尋常小学校の国語教科書に「梅干の歌」が記載。
 1937年【昭和12年】
 七月に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まる。軍需用梅干の需要拡大。

 「尋常小学校の国語教科書」を探し出して、正確な詩の内容、作者、背景などを書き込みたいと思っています。

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2005.05.10

シロツメグサいっぱいの野原

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 二〇〇五年五月十日。休み。
 朝から娘、その四歳の娘・エミ、一歳の娘・ユリと東京都三多摩の神代植物公園隣の自由広場へ。エミの幼稚園の遠足です。僕は、写真係、ユリ係。
 花の収穫は、そこいらじゅうに咲いていたシロツメグサ(白詰草)です。(写真)
 マメ科シャジクソウ属。別名は、ワイトクローバー、オランダゲンゲ。

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キリの花が落ちる音。

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 「ポットン」と 
 キリの一花 落ちる音
 聞いてしまった 大木の下
 
 二〇〇五年五月十日、
東京都三多摩の神代植物公園隣の自由広場から帰って国分寺市東元町二の六の生産緑地のキリの花を撮りました。
 ことしは、いい時期に出合えました。

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2005.05.17

マンジュシャゲの球根のまんじゅう

 二〇〇五年五月十三日、十四日が休みになり、ぽんと高知県にいきました。
 僕の高校一年生のときの数学の先生の妹さんに会うためです。
 十三日午後から夕方にかけて、じっくりと戦中、戦後の体験を聞かせていただきました。
 そのなかにマンジュシャゲの球根を食べた話がありました。
 その前に、少し前置きをします。
 彼女は、一九四五年八月の終戦後、高知県中村の高知県立中村高等女学校に入りました。
 四六年十二月二十一日の南海大地震(マグニチュード八・一)で中村高等女学校の校舎、白藤寮、コンクリート塀が大破しました。
 四七年、六・三制実施で高知県立中村高等女学校が、高知県立中村女子高等学校となりました。併設中学校設置しました。
 四八年、新学制実施により高知県立中村女子高等学校として発足しました。
 彼女のマンジュシャゲの話は、併設中学校のあったころだったといいます。
 とにかく食糧難の時代でした。
 教師に「マンジュシャゲの球根を集めてきなさい」といわれ、生徒たちでマンジュシャゲの球根を採りにいきました。
 球根は、粉にして、まんじゅうのように握ってふかしました。
 「これがマンジュシャゲの球根のおなんじゅうよ」と、いわれました。
 陶器のようにつるつるした感じのまんじゅうでした。
 食べました。
 しかし、そのまずいこと、まずいこと。「これだけは、なんともいただけなかった」と、彼女は述懐していました。
 マンジュシャゲには、リコリンという毒があります。特に球根の部分は毒性が強く、口にすると吐き気や、下痢、中枢神経の麻痺を起こし、死に至ることもあります。
 しかし、リコリンは水によく溶けるので、
球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きすることで良質のデンプンを得ることができます。
 彼女たちが、マンジュシャゲの球根で、おまんじゅうをつくるときにも、きっと、球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きするという工程があったことでしょう。
 僕の生まれたのは一九四七年二月二十三日。マンジュシャゲの球根のおまんじゅうのころでした。

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2005.05.21

柿の花、初めて気がつきました。

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 二〇〇五年五月二十日。
 いい月が出ていました。夜中に帰ったら高知県いの町の弟が着いていました。
 「庭の柿に花が咲いている」
 翌朝見たら、「なるほど」。
 緑っぽい花です。(写真)
 初めて見ました。

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キンケイギクたちが、そよいでいました。

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 二〇〇五年五月二十一日。休み。
 弟に手伝ってもらって、故障中の古いオートバイをバイク店に持っていきました。
 そして、東京農工大学構内を散歩。
 キンケイギクが奇麗でした。
 家に帰って玄関の前の一畳くらいのスペースに花壇をつくりました。
 新しくハイビスカス三本とキイチゴを三本植えました。

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息子の描いた「反戦」ポスター。

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 二〇〇五年五月二十一日。
 あすは三十歳の息子の結婚パーティー。
 掃除をしていたら彼の中学二年生のときの絵がでてきました。
 「反戦」のポスターです。
 当時の彼のお得意の主人公が、軍艦、戦車、ミサイルなどを封じ込めています。(写真)
 うーん、すごい。傑作です。

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2005.05.22

わが家の花壇のハイビスカスの花。

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 二〇〇五年五月二十二日朝。
 昨日つくった、わが家の花壇にハイビスカスの花が咲きました。

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2005.05.23

ダイズとペリー提督との関係。

 二〇〇五年五月二十四日、上京していた弟が高知に帰りました。

 上京中、彼とトウフの話をしていてダイズの話になりました。
 そのとき、彼から「ダイズは日本固有のもの、ペリーの……」という話を聞いて、「へーっ。ダイズは日本の……」。

 インターネットで調べてみました。

 中央農業総合研究センターのホームページ。
 <ダイズ 大豆
 [ 花 ]
 英名: soybean
 科名: マメ科
 学名: glycin max Merrill
 種類: 豆類食用、飼料、油料
 起源
 原産地は中国東北部と考えられ,約5千年前には存在していた.わが国へは約2千年前に渡来したと推定されている.
 作物的特徴
 1年生の種子繁殖作物で,短日性でその程度により生態型が区分される.約40%の蛋白質と約20%の脂肪を含み世界的に重要な油料及び蛋白資源である.
 用 途
 国産大豆は主に豆腐,納豆,味噌,煮豆などの食品に用いられている.このほか枝豆として利用される.わが国の大豆の消費量の約82%は油であるが,これは目下のところ輸入品で賄われている.
 生産地
 世界の総生産量約9千万トンのうち6割以上をアメリカで生産し,次いでブラジル,中国の生産が多い.わが国では水田転換畑における基幹的な作物になっているが,自給率は5%に過ぎない.>

 キッコーマンの一九九三年元日の新聞広告から。
 <……いま、全世界の大豆の約1/2は米国産ですが、その先祖は日本から行った品種です。でもそれは、いつ、どうやって、渡っていったのでしょうか。もっとも、有力視されている説はこうです。
 ペリー提督が蒸気船で江戸にやってきたとき、その掃りに大豆を積んでいっ帰った、というもの。一八五四年、……ペリー提督は日本の大豆二品種をサンプルとして船に積み、アメリカヘ帰国します。そして、これを「ソヤ・ビーン」として(ソヤ、またはソイ、とは英語でしょうゆのこと)つまり、しょうゆ豆という名で役所に提出。これが各地に配られて、本格的な栽培がばじまった、というのです。(大豆供給安定協会の資科による)アメリカ中西部で、大豆が飛躍的な増産に入るのは一九二〇年以降ですが、いまでは世界最大の大豆王国アメリカに成長しました。……>

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2005.05.27

朝風呂に入って「新品」になる。

 二〇〇五年五月二十七日。

 二十五日は朝八時から千葉県までいき、職場にいってから泊まり勤務。家に帰ったのは二十六日午後四時。
 ベッドに寝転んでDVDで韓国の映画を見始めましたが途中でダウン。
 朝起きたら、だるい、腰が痛い。妻に腰をもんでもらい少し楽になりました。
 さーて、風呂。そして、髪を洗って、シャワー。
 やっと生き返りました。風呂に入って、シャワーをして…で、やっと新品になった感じになります。
 本日は休日。たまたま妻も休みです。思いっきり遊ばなくては……。

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2005.05.28

ヤマホウシが奇麗です。

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 二〇〇五年五月二十七日、夫婦して休み。
 二人で「お出かけ」のときに、東京都国分寺市の都営東元町一丁目アパートで見たヤマホウシです。

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ホウセンカの種をまきました。

 二〇〇五年五月二十八日朝。
 前日に買ってきたホウセンカの種を「小さな花壇」にまきました。
 さて、咲いてくれるでしょうか。

 さて、出発。本日は仕事で神奈川県にでかけます。

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2005.05.30

太平洋戦争のとき、花作りが禁止されました。

 二〇〇五年五月二十九日夜、『あわ・がいど ① 戦争遺跡 南房総の傷跡をみる。』(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム)を読んでいて、「えーっ!」と思わず声をあげました。
 こんな記述があったからです。
 <花作り禁止令
 花栽培が盛んだった(千葉県の)南房総であるが、戦局(せんきょく)の悪化にともない、食糧物資が乏しくなったことで、食糧生産が一番の目標とされ、農作物の作付(さくつ)け割当(わりあて)が強制された。そのため千葉県と長野県では、花を禁止作物に指定したので、花づくりの農家は壊滅的(かいめつてき)な打撃をうけた。戦争末期、7万人の兵士が配置されていた房総南部では食糧供給優先のため、花作りに対する取り締まりが一層厳しくなっていた。花の苗(なえ)は焼却(しょうきゃく)し、栽培中の花は全部抜き取ることを命じられ、花をつくる農民は「国賊(こくぞく)」といわれたという。青年団などが畑や納屋(なや)を監視(かんし)し、花畑はサツマイモと麦畑に変えられていった。>

 このことについて、少し調べてみました。

 一九九一年八月十一日付、朝日新聞朝刊に「花栽培禁止令(46年目の戦跡 語りかける歴史:8) 千葉」が載りました。
 <花栽培禁止令。
 史実に当たってみようと、千葉市の県庁そばの県文書館を訪ねた。
 書庫に保存してある古い県報の中に、「農地作付統制細則」があった。日付は1941年12月12日。スイカ、落花生などと一緒に、「花卉(かき)」を不要不急の作物に指定した、とある。
 この時から栽培制限が始まり、43年には一層厳しい禁止令が出て、花作りは出来なくなった。国家総動員法に基づく統制の1つだったという。
 戦後、作家田宮虎彦が女性栽培家を主人公に花禁止令のことを小説「花」にかいている。
 「花」の主人公、枝原ハマのモデル、故川名りんさんの里、和田町を訪ねてみた。黒潮洗う温暖な地で、花の路地栽培農家が多い。長男の武さん(63)が花栽培を引き継ぎ、石で築いた段々畑を守っていた。
 武さんによると、禁止令が南房総まで来るのに時間がかかり、徹底したのは終戦の1年前だった。家に残る、すっかり茶色になった「荷出売上簿」の「昭和19年5月12日」のページには、「ナデヒコ250本、デジー300本、セントランス180本、売上7円、東京生花(市場)」と記され、この日で戦争中の記載は終わっている。
 禁止令が出ると農家は苗を抜き取り、浜で焼いたり山奥へ持って行って埋めたりした。ハマさんが、1キロも山奥の杉林に生けた水仙、アイリスなどが戦後25年間も木の間に自生していた。
 川名家の「荷出売上簿」は終戦から1年半近くたった「昭和22年1月25日」の日付でまた始まる。初日は「エーリカ(木花)16束、小菊110本」売れた。手近の木花や、菊の花が、空襲で焼け出され、荒廃した東京の人たちの心を和ませた。
 花栽培農家を長年指導してきた元県園芸課長の石井寛さん(62)は「当時の農業生産統制令などを読むと、国は(直接、手を下さず)計画樹立、統制品目選びなどを地方長官や市町村長に転嫁している。米の生産調整の時の手法と全く同じ」と話す。>

 一九九九年二月八日付の「読売新聞」に「咲き誇る春は平和の花(和田=千葉)」という千葉県房州の花作り発祥の地、和田町を紹介する記事(浅見恭弘記者)が載っていました。
 <「花はね、自分が死ぬ心配がある時、早く花を咲かすもんです。ここは傾斜地で雨が降ってもじき土が乾燥するでしょう。南向きで日当たりもよく、冬、花を咲かすのにちょうどいいんですよ」
 切り花栽培業の川名武さん(70)は母、りんさん(故人)とともに、かつて作家・田宮虎彦から房州の花作りについて、何度も何度も詳細な取材を受けた。りんさんは、房州で花作りを始めた先駆者、間宮七郎平に直接薫陶を受け、戦前から栽培に取り組んだ女性。
 大戦末期、食料にならない花の栽培が禁止されたころの苦労話などを材料に創作したのが田宮の小説「花」。この作品のラスト近くでヒロインは、終戦の詔勅を聞いて間もなく、「おれはすぐ花をつくるだ」と叫ぶ。
 きれいな花だな、と当たり前のように喜べるのも、平和があってこそなのだ。>
 和田町までは、東京からJR内房線特急で千倉、または外房線特急で安房鴨川までともに約二時間、両駅から各駅停車で和田浦まで十数分とのことです。
 二〇〇二年六月二十六日付の新聞「農民」(発行・農民運動全国連合会)には、「“有事立法農業版”農水省が具体化 戦時中、禁じられた花作り」という記事が載りました。
 <太平洋に面した段丘に畑が広がる、ここ千葉県安房郡和田町は、「日本の花の露地栽培発祥の地」(産業課)です。戦争になると、この花の産地が一変します。『和田町史』はこう記しています。「昭和16年12月、太平洋戦争に入ると同時に、全国各府県で花きは制限作物として、食糧に切換えとなりました。千葉、長野の二県は花きを禁止作物として制定したため、これを作る者は非国民といわれ、ほとんど終息しました。このような状況下、種を保存しようとした一農婦がいました……」
 この一農婦は、和田町真浦の川名武さん(73)の母親、りんさんです。田宮虎彦の小説『花』の主人公のモデルにもなりました。
 「母は、スイセンの球根を掘り出し、わざわざ一キロほど離れた杉山に持っていって捨てていました。焼いてしまうには忍びなかったのでしょう」
 終戦後、スイセンは杉山の日陰の中で咲いていました。それを目にした母が「ここへ捨てておいたからなあ」と、うれしそうにつぶやくのを川名さんは耳にします。
 「そこなら人目につかない。それに、球根も生きているにちがいない。また花を作れるようになる。そう信じていたようです」
 川名さんの家は当時、農業のかたわら父親は漁師を、母は冬になると魚の加工場で働いていました。寒い吹きっさらしのところで魚を開く作業で、腰から下は冷え切り、手もかじかんで包丁さえ握れません。
 「ほかに何か仕事はないか」。そう考えて訪ねたのが、花作りの先駆者、間宮七郎平さんでした。
 しかし、りんさんの実の母でさえ「食われもしないものを植えて、何するんだ」と、畑を貸そうとしません。近所の人も「あんなものを畑に植えて」と、笑いものにしたそうです。
 ところが、畑の隅に植えたキンセンカが、売れました。「魚の開き」作業より、収入はよかった、といいます。
 花作りはたちまち広がり、新しい駅も開業して、大正十二年には三十一人で和田浦生花組合を結成するまでになります。出荷最盛期には臨時貨物列車も走り、通常でも普通列車に花き専用貨車が連結されるほどでした。
 和田町の畑という畑は、花で埋められました。校長の月給が百円という時代で、年間の売り上げは一軒当たり四千円くらいになっていました。それが、「食用でない」からと、普通作畑に転換させられたのです。花作り農民は、一瞬にして現金収入の道を断たれました。
 「私は子どものころから花の中で育ってきました。いまでいう小学校を卒業してからは、畑を手伝いながら農学校に通っていました。花き栽培の教科書も買ったのに、食糧増産の役に立たないからと、その授業は一日もありませんでした」と、川名さん。
 ………>

 いろんなホームページを見ていると、どうも、これは千葉県、長野県だけのことではないように思えてきました。

 東京都中央卸売市場のホームページに、こんなことが書かれてありました。
 <昭和6年から昭和20年までは、満州事変(昭和6年9月)、日中戦争(昭和12年7月)、太平洋戦争(昭和16年12月)が起こり、日本は戦争に突入した暗い時代で、食糧増産の要請が強まり、それとともに花きの生産資材の入手が困難となり、花きの生産が減少した。特に、昭和16年9月不要不急作物付制限規則が施行されてから花きも統制を受けたので、花き卸売市場は休業状態に追いこまれたものと思われる。
 昭和25年になると、戦争中の経済統制規則が全面的に解除され、花きの生産は平和産業の一つとしてさかんになり、花き卸売市場に活気がみなぎるようになった。>

 株式会社フラワーオークションジャパンのホームページの花の文化史の年表の一九四一年の項に、こんな記述がありました。
 <花き生産は非国民とされ、温室は光るため取り壊される。>

 財団法人地域活性化センターの「伝えたいふるさとの100話」というサイトに「富山県(砺波市(となみし)) 戦時中も密(ひそ)かに守り育てたチューリップの原種で夢を咲かせる 水野豊造(みずのぶんぞう)」という話が載っていました。
 <村の若者の多くが農閑期(のうかんき)(農作業のひまなとき)になると、土木工事などの出稼ぎで現金収入を得ているなか、家計も苦しく、生まれつき体が弱かった水野豊造(みずのぶんぞう)は、家で小菊や牡丹(ぼたん)の栽培、養鶏(ようけい)、畳(たたみ)替えなどをして収入を得ていました。
 「出稼ぎだけに頼っていては、いつまでたっても農家の暮らしはよくならん。農民は農業でもうけてこそ本物だ。農業をすることで、きっと出稼ぎ以上の働きをしてみせるぞ」
 豊造の農業に生きるという決意は固く、小学校六年を卒業してから夜学の農業補習学校へ通い、農事講習会には必ず出かけていました。豊造は周りの悪口など一向に気にもとめず、相変わらず好きな花を植え、野菜や苺(いちご)を育てていました。
 大正七年(一九一八年)夏。豊造は、種や苗を専門につくっているところから送られたカタログを見て、チューリップという花を初めて知りました。
 「値段は高いがきれいな花のようだ。ひとつ試しにつくってみるか」
 翌年四月、山にはまだ残雪が見られるころ、畑のすみに植えられたチューリップが、真っ赤なかわいらしい花を付けました。さっそく豊造が切り花を朝市へ持っていくと、大変めずらしがられ一本五銭(せん)というびっくりするほどの高い値段で売れました。
 喜んだ豊造は、毎年のように球根を買い入れ、チューリップの花を咲かせ、チューリップ栽培への思いをますます強くしました。
 そんなある年の六月、豊造は、花の咲かなかった株や花の傷んだ株を掘り起こしてみてびっくりしました。見事な球根ができていたのです。
 「これは不思議だ。東京から買ったものより立派な球根もあるぞ。これなら、球根を増やして球根を売ったほうがよいかもしれん」
 豊造は、チューリップの球根づくりについていろいろ調べて、水田の裏作(うらさく)でも球根栽培ができることを発見しました。砺波地方(となみちほう)の冬の厳しい寒さと雪が球根を一定の状態に保ち、比較的晴天の続く春がチューリップの花をいっせいに開かせる大切な条件になっていたことが分かったのです。農家に願ってもない仕事が見つかりました。
 花よりも球根を売ってもうけ始めた豊造に、村人たちも次第にまじめな目を向け始めました。そして、本格的なチューリップの球根生産に取りかかった豊造は、大正十三年(一九二四年)に仲間たち一三人とともに球根栽培の組合をつくり、生産の拡大に努めました。
 昭和二年(一九二七年)、新潟県ではチューリップ球根のアメリカに向けた輸出を始めます。それを知った豊造は富山でも何とか輸出したいと考えるようになりました。「富山の球根を世界へ」との豊造の夢はふくらみます。
 昭和十三年(一九三八年)、豊造は初めてアメリカへ球根三万球を輸出することができました。しかし、評価は厳しいものでした。
 豊造はチューリップの本場オランダから、五四品種一万球の種球を輸入して栽培し、昭和十五年(一九四〇年)夏、再びアメリカ向けに四○万球を輸出して待望の夢を果たします。
 こうしてようやく順調になった栽培でしたが、昭和十六年(一九四一年)太平洋戦争が起こり、球根の輸出が突然できなくなってしまいました。さらに、日本では主食以外の作物の栽培が禁止されました。花の栽培は非国民のやることだと非難されたのです。
 「一人一品種でもいい。畑の片すみに原種を育て守ろうではないか。またつくれる日がきっと来るはずだ」
 豊造たちは毎年畑のすみにこっそり球根を植え、花の栽培を続けました。目立たないようにつぼみのうちに花をつむなどの苦労をしながら、一五〇の品種を守り続けたのです。
 長い戦争が終わり、豊造はさっそく球根生産の立て直しにかかりました。チューリップのこととなると、自分の家のことを忘れて駆け回り、栽培農家を引っ張っていく豊造を「人間機関車」と呼ぶ人もいました。その後も品種の改良に熱心に取り組み、昭和二十五年(一九五〇年)に栽培法について書いた「チューリップ栽培法」という本を発刊し、組合活動とともにチューリップの栽培普及に努めたのです。
 「どんな花が咲くか来春でなければ分からない球根を売っているということは、信用を売っていることになる。だから誰々の畑のチューリップではなく、富山のチューリップをすべてよくしなくては」
 生涯をチューリップ栽培に注いだ豊造の言葉は、今も富山県砺波地方で栽培を続ける人たちの心のなかに生きています。>

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2005.05.31

ハイビスカスは雨を得て輝く。

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 雨を得て ハイビスカスが 輝いて
 「元気になって」と
 歌っているよ

 二〇〇五年五月三十日。
 風邪をひいてダウン。
 寝巻きのまま庭にでると、黄色のハイビスカスが奇麗でした。
 種をまいたばかりのホウセンカの芽がいくつも出ていました。

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2005.06.01

花づくり禁止の続き

 二〇〇五年五月三十一日、戦争中の花栽培禁止令のことを友人に話したら、『草の根の反戦・抵抗の歴史に学ぶ』(歴史教育者協議会編、平和文化)を見せてくれました。
 愛沢伸雄さんの「花を守った人びと」が載っていました。 

 <1941(昭和16)年、戦争の勃発とその後の戦勝で花の需要は増え、(房総半島南端の千葉県)安房の花栽培は景気がよく、作付けは450ヘクタール、出荷は40万俵、組合数も20組合になった。当時は金せん花やストック、寒菊などが多く作付けされていた。
 しかし、戦況が変わると食糧物資が乏しくなり、食糧生産が農政の第一目標になった。農家には農産物の作付け割当てが強制され、なかでも千葉県と長野県では花卉(かき)が禁止作物に指定されたため、花栽培農家は壊滅的な打撃をうけることになる。
 ところで、1938 (昭和13)年の「国家総動員法」第1条の「戦時に際し、国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及び物的資源を統制する」を受け、まず41年の「臨時農地管理令」によって、地方長官は必要なときに「農作物の種類その他の事項を指定して作付けを命ずることができる」と、花栽培を制約した。そして、42年の「農業生産統制令」では「地区内に於いて生産されるべき農作物の種類、数量または作付面積……に関して生産計画をたて、地方長官に届け」ることとし、結局花栽培を禁止した。いわゆる「花禁止令」は「食糧管理統制令」の一環として発令され、軍需物資と食糧増産が政策の第一におかれ、不要の作物とされた花の作付けは禁止されたのであった。他府県では種菌程度のものは残させたものの、とくに千葉県や長野県では徹底的に抜き収りが強制されたという。
 こうして、アジア太平洋戦争の激化のなか、食糧増産のかけ声のもとで花栽培農家に圧力をかけ、一切の花作りを消し去ることになる。……>

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2005.06.05

ジョン万次郎の直筆

 二〇〇五年六月五日夜。
 風邪で三日間休みましたが、ようやく回復基調です。

 本日、高知県の知人から手紙が届きました。
 その中に彼女の家にあるジョン万次郎の直筆の額のことが書かれてありました。

 天と地
 月日は流れ
 地上の川や海に
 風流る
            1853・2・12
               ジョン マン

 味わいのある文章です。
 なぜ、彼女の家にということも書かれてありましたが、それは、いつか紹介します。

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2005.06.08

真夜中の刺身盛り合わせの値段。


   真夜中の刺身盛り合わせの値段。


 仕事の帰り。
 JR国分寺駅南口に降り立つ。
 午後十一時半か。

 仕事に空きがなくて、晩飯が食えなかった。
 家に電話する。
 妻しかいないので、妻が出る。
 「食べるもの。飲み物。ある?」
 「なんにもない」

 「まぁ、家事は妻なんて、そんなことはないよなー。僕は平等主義者なんだもんね」
 つぶやきながら、駅前のスーパーに向かう。
 地下の食料売り場では、店員の一人が刺身のパックにシール張りの最中。
 シールを張り終わった刺身盛り合わせを取り上げる。
 「千二百八十円」だったのが
 「四百五十円」になっている。
 買った!!

 家に帰ると妻の寝所は真っ暗。
 「刺身を買ってきたけど、食べないかい」
 「もう、いい」
 今夜も、遅くまで走っていたんだろう。
 買ってきた焼きそばを料理して、
 刺身をおかずに、むしゃむしゃと独りで食べ始める。
 「四百五十円」の味だ。
 
 食べ終わって刺身の賞味期限を見たら、あと四時間になっていた。
 加工日は、昨日六月七日の三時四十二分。
 ふーんと思って、
 「四百五十円」のシールをはがしてはがしみみたら
 「半額」が、出てきた。
 その下を一つはがしてみたら、
 「二百円引き」と、あった。
 この刺身盛り合わせの短い間の価格の歴史を見てしまった。

 価格といえば、
 一昨日、社会保険業務センターから、
 頼んでおいた「年金見込み額のお知らせ」がやってきた。
 あと一年と八か月、厚生年金料を払い続けて必要がある。
 六十歳。ここで、僕は定年の予定。
 はい、あなたは「百十三万一千四百円」、年金がもらえます。
 ただし、これは年間の価格。
 十二で割ると、
 ふーーっ。
 これで生活を支えていくのか。
 その日暮らしの、いまの生活を数分の一に圧縮しなくていけない。

 しかし、六十三歳になると、年間の価格が増えまーす。
 「百九万六千三百円」でーす。
 十二で割ると、
 ………

 僕が厚生年金に加入したころには、
 四十年も働けば、
 それなりに暮らしていける額が支給されることになっていたはずだった。
 それを、けちけちと切り刻んできた人たちがいる。
 このうらみは、たっぷり晴らしてやる。
 いまに待ってろ。

 踏みつけられた憤りには時効はないし、
 人間の人生には賞味期限なんてないのだから。

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2005.06.14

ビヨウヤナギ、素敵でしょ。

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二〇〇五年六月十二日午後。休み。
 三十分あいたので東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園にかけこみました。
 少しですがビヨウヤナギが咲いていました。
 いろいろ撮ってみましたが、うまく撮れません。
 また、挑戦してみようと思います。

 十日、東京も梅雨入り。
 そのせいかむしむしと暑いですね。
 たまりきれず十二日夜、ことし初めて扇風機のお世話になりました。

 二〇〇五年六月十三日午前。こんな写真が撮れました。

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2005.06.16

キンシバイは雨に打たれて

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 二〇〇五年六月十五日。
 泊まり明け。
 東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目の千鳩(ちはと)児童遊園地に向かいました。
 昨年のこの時期、キンシバイがたくさん咲いていたからです。
 うわーっ。雨に打たれて奇麗に咲いていました。
 じっくり楽しんで家へ。
 そのまま寝てしまい、起きたら十六日午前八時半でした。
 さて、出勤です。

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2005.09.23

四国、よいとこ 42 「たっすいがは、いかん!」の仕掛け人。

 キリンビール株式会社高知支社が「たっすいがは、いかん!」キャンペーンをしています。
 と、いっても二〇〇五年七月末に高知市にやってきてから気づいたことです。
 のれんもあります。
 「たっすいがは、いかん! キリンラガービール」
 と、いうやつです。
 同支店のホームページに、このキャンペーンのことが書いてあります。
 「たっすい」というのは土佐弁で「弱い」というような意味です。
 「おまんは、たっすいねや」といわれれば、やっぱりカチンときます。
 二〇〇五年九月二十三日夜、高知市の自宅で、「キリンラガービール 生」の缶を飲んでいますが、要するに、これより「たっすい」他社のビールを批判しながら、「うちのは、たっすうのうてうまいど」といっているのでしょう。
 強くありたい高知の男や女たちは、やっぱり「たっすい」のはいやです。
 で、それならキリンラガービールを……という作戦でしょうが、心憎いばかりにすごいコピーです。
 このコピーを思いついた人に乾杯。
 僕のような「たっすい」男も、心身ともに強い男になりたいと思っているのです。

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四国、よいとこ 43 電動生ごみ処理機を買いにいきました。

 二〇〇五年九月二十三日。

 夜、高知市内の大型電器店で電動生ごみ処理機を買いました。
 安くはありませんでした。
 首尾はどうか。
 また、ご報告します。
 いま「グーン」という音をたてながら働いてくれています。
 「独り暮らし」の中年男の環境への挑戦です。

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四国、よいとこ 44 弟が育てたサツマイモ。

 二〇〇五年九月二十三日夜。

 昨夜、高知県いの町の弟が、自分が育てたサツマイモを持ってきてくれました。
 これを四つ丸焼きにして、遅い夕食にしています。
 うまい。
 農のいとなみに乾杯。

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2005.09.24

四国、よいとこ 45 高知県南国市(なんこくし)十市(とうち)の石土池

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 二〇〇五年九月二十四日。

 仕事で午前六時半に高知市を出発して南国市に。午後十二時半にようやく事務所に帰ってきました。
 途中、高知県南国市(なんこくし)十市(とうち)の石土池を見ました。
 池にホテイアオイが咲いていました。
 美しい風景でした。
 ホテイアオイは、ミズアオイ科ホテイアオイ属です。南米原産の帰化植物だそうです。

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四国、よいとこ 46 韓国映画「英語完全征服」。

 二〇〇五年九月二十四日。

 夕方になると、さすがに疲れてしまいました。
 午前五時半に起きて走り回ったのですから。

 この無気力感は「映画失調」だと気づきました。
 で、DVDを買いに走りました。

 やっぱり韓国映画になりました。
 「英語完全征服」。
 主役の女優の勝利ですね。
 いわゆる美女の彼女が、普通のどじな女性を演じきれるのはすごい。

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2005.09.25

四国、よいとこ 47 新高(にいたか)ナシの高知市針木にやってきて…。

 二〇〇五年九月二十五日。

 仕事で高知市針木にいきました。
 針木は、いま新高(にいたか)ナシの収穫の季節です。
 新高ナシは、高知県で昔から栽培されていた「今村秋」と新潟県の「天の川」のかけ合わせてでき、高知の「高」と新潟の「新」をとり、一九二七年に命名公表されました。
 高知県の新高ナシの果実は大きくて、重さは一キログラムを越えるものが珍しくありません。

 針木といえば、後に私たちの母になる・冨士子が戦中に結婚していた男性の母が住んでいました。新高ナシの農家でした。
 高知市の旭小学校の同級生だったそうです。冨士子は和紙の紙すきをし、夫は大工をしていたといいます。
 夫は陸軍にとられ、銃剣術の試合中に胸をつかれたのが元で徳島県の陸軍病院で亡くなったといいます。
 長男もいましたが赤ん坊のとき、栄養失調でなくなったといいます。
 冨士子は、その後、付き添いの看護婦をやっていましたが、無理やり風船爆弾用の紙をすかされていました。
 そして、戦後、新しい結婚をし、僕たち兄弟が生まれました。

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四国、よいとこ 48 高知市朝倉の「たこ焼き喫茶店」

 二〇〇五年九月二十五日。

 高知市朝倉に「たこ焼き喫茶店」があるのを「発見」しました。
 喫茶店前の左手に「たこ焼き」の屋台があって、たこ焼きを買うと喫茶店で食べられるようになっています。
 たこ焼き十個とアイスコーヒーで、この日の朝・昼食終わり。

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四国、よいとこ 49 わーい。明日から、かなり遅い「夏休み」です。

 二〇〇五年九月二十五日。

 わーい。明日から、かなり遅い「夏休み」です。
 
 今夜は弟が高知市のわが家にきています。
 あす朝から二人でオートバイでツーリングをする予定です。
 高知県、愛媛県。そして、九州へ。

 引き続き、勝手に、ご報告します。

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2005.09.26

四国、よいとこ 50 オートバイのツーリングのはじまりはじまり。

 二〇〇五年九月二十六日。

 午前七時半、高知市の自宅を出発。弟と二人のオートバイのツーリングです。
 まずは海岸線から。
 桂浜、宇佐、春野、須崎と約一時間走って須崎市内のガストで朝食。
 温かい上着を着てきてよかった。
 汗はぜんぜんかきません。
 とってもいい季節に、季節の中を走っています。

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四国、よいとこ 51  「青空を 流れに抱いて ゆったりと…」。

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 二〇〇五年九月二十六日。つづき。

 午後十二時半、愛媛県の松野の「駅の道」で昼食。
 窪川町、大正町、十和村、四万十市と走ってきましたが、やっぱり四万十川は美しい。
 最初の写真は、窪川町の野地橋から大正町に向けて撮ったものです。

 青空を 流れに抱いて ゆったりと
 四万十川は
 農の中いく

 二つ目の写真は、十和村の沈下橋でイダを釣る少年。

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四国、よいとこ 52 「手を広げ 体いっぱい 太陽(ひ)を受けて…」 

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 二〇〇五年九月二十六日。つづきのつづき。

 愛媛県の西予市明浜町を八幡浜市に向けて走りました。
 左が海側。切り立った高いがけの所が多いので、ぞくぞくしながら走ります。僕は高所恐怖症です。
 でも、宇和海はきれい。
 がけを利用したミカン畑がたくさんありました。

 手を広げ
 体いっぱい 太陽(ひ)を受けて
 ぎらぎら光る 宇和海、左

 午後五時過ぎ、八幡浜市着。ビジネスホテルに落ち着きました。
 明日は三崎港からフェリーで大分県へ。

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2005.09.27

四国、よいとこ 53 ひよっとして「瀬戸の花嫁」の…。

 二〇〇五年九月二十七日。

 午前七時半、愛媛県八幡浜市を出発。三崎に向かいます。
 途中、左手に伊方原発がありました。
 そういえば、前日、最初に「泊まらせて」といた旅館では「きょうは伊方原発の定期検針があって人がいっぱいきていますから、部屋はありません」と断られました。
 ここも、がけがミカン畑になっています。

 がけ開き ミカンを植えて
 営々と 暮らし築くか
 三崎の人は
 
 急に「瀬戸の花嫁」(作詞・山上路夫)の歌が口をついてでました。

 瀬戸は日暮れて 夕波小波
 あなたの島へ お嫁に行くの
 若いと誰もが 心配するけれど
 愛があるから だいじょうぶなの
 だんだん畑と さよならするのよ
 幼い弟 行くなと泣いた
 男だったら 泣いたりせずに
 父さん母さん だいじにしてね

 岬まわるの 小さな船が
 生まれた島が 遠くになるわ
 入江の向うで 見送る人たちに
 別れ告げたら 涙が出たわ
 島から島へと 渡ってゆくのよ
 あなたとこれから 生きてく私
 瀬戸は夕焼け 明日も晴れる
 二人の門出 祝っているわ

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四国、よいとこ 54 国道九四フェリー

 二〇〇五年九月二十七日。つづき。

 午前八時四十分、三崎到着。近くに佐田岬灯台があるそうです。
 九州の佐賀関への国道九四フェリーは出たばかり。次は午前九時半です。三十一キロを七十分でいくとのことです。
 切符を買ったら次のような注意書きがついていました。
 「船内では、事項(?)防止の為ロープ等で自動二輪車を固定致します。
 その旨、御了承の上御乗船下さい。
 御乗船後、一切の異議は申し致しません」
 なんというきっぱりとした表現でしょう。

20050927_004

 この写真の右、僕たちのオートバイです。

20050927_020

 僕たちの乗るフェリーがやってきました。

 フェリーが着きました。
 オートバイが先です。
 定員八十人。乗客のほとんどは年配の人。観光バスの人たちでした。
 せっかく僕が寝ているのに、女性、男性たちは、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃよくしゃぺります。
 妻も、よく、仲間の女性たちで東北旅行をしてますが、こんなにしゃぺっているのでしょうか。
 僕と旅行するときは、「静かなること岩のごとし」ですが。

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四国、よいとこ 55 下半身を欠く臼杵(うすき)の石仏

 二〇〇五年九月二十七日。つづきのつづき。

 三崎を出る前に決めた行き先・大分県臼杵市(うすきし)深田の石仏群へ。
 いつころのものかはっきりしないようです。
 天然の凝灰岩の岩壁に彫りこんだものです。
 六十余体が現存しているといいます。

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 伝説の一つにつぎのようなものがあります。
 奈良時代に、この地に黄金の鉱石を溶解して中国、朝鮮にまで送り出していた炭焼古五郎という者がいました。
 亡くなった娘を供養するため、中国から彫刻僧を呼び寄せ百余体の石仏をつくらせたといいます。

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 身を溶かせ
 国家の悪政 いさめたか
 臼杵(うすき)石仏 下半身欠く

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四国、よいとこ 56 「健康が一番です。一億円の宝くじにあたるよりいい」

 二〇〇五年九月二十七日。つづきのつづきのつづき。

 大分県佐伯市(さいきし)。
 歯が痛くなって薬屋へ。
 薬剤師と、おばあちゃんが話していました。
 「健康が一番です。一億円の宝くじにあたるよりいい」
 僕は、心の中で「健康で、一億円の宝くじにあたったら、もっといい」といっていました。
 一億円当たったら、目の前に海がある山の中腹に、「図書室」のある家をつくって妻と二人で住みたいと思っています。
 ま、無理でしょう。宝くじも買っていないので…。

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四国、よいとこ 57 「オートバイでよかった」

 二〇〇五年九月二十七日。つづきのつづきのつづきのつづき。

 国道10号で宮崎入り。
 いい感じの道路でした。
 山の中。起伏と適当なカーブに富む一車線の道路。
 「オートバイでよかった」という感じです。

 日向市(ひゅうがし)でビジネスホテルに。午後五時です。
 ホテル「付属」のうどん屋で夕食をとって、ホテルの部屋でビールタイム。
 それにしても、このホテル、いいです。
 昨日の部屋より少し明るい(もっとぱーっと明るいほうがいいとおもうのですが、ホテルはどこも暗い…)。トイレと風呂が別。トイレはウォッシュレット。部屋は広い。テレビにはコントローラーがついている。全体として豪華なつくり。
 値段は似たようなものなのですが…。
 ちなみに、このビジネスホテルは「ルミエール日向」です。

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四国、よいとこ 58 「前を向いて行きましょう!」

 二〇〇五年九月二十七日。つづきのつづきのつづきのつづき…です。

 キリンビール高知支社に「たっすいがは、いかん!」キャンペーンのいわれについて問い合わせをしていましたが、この日、支社長の宮本典晃さんから返事がきました。一部を紹介させていただきます。

 いつもラガービールをはじめとする、キリン製品のご愛飲を頂きましてありがとうございます。
 お問合せを頂きました件で、メールさせて頂きます。
 まず、ご意見頂きました「たっすいがは、いかん!」の件でございますが、
 2003年末より、たっすいがは、いかん!キャンペーンをスタートいたしており、この9月で第7弾を迎える事が出来ました。
 おかげ様で「たっすいがは、いかん!」とたくさんの高知の皆さまにご支持を頂いており、高知支社一同心から感謝しております。
 この「たっすいがは、いかん!」という言葉ですが、「たっすい」とは、土佐弁にすると「か弱い」などの意味になります。
 その言葉に「がは、いかん!」とつける事によって「前を向いて行きましょう!」「元気に行きましょう!」と表現させて頂きました。
 高知の皆さんにもっともっと元気になって頂きたいという思いから考えついた言葉です。
 また、芯のある、高知県民の皆さまにはぴったりな言葉だと思っております。

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2005.09.28

四国、よいとこ 59 宮崎県日向市 えっ、皇紀二六〇〇年

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 二〇〇五年九月二十八日。

 午前八時前、宮崎県日向市(ひゅうがし)のビジネスホテルを出て、同市の美々津町に。
 驚きました。
 皇紀二六〇〇年(一九四〇年)関連の巨大な碑と錨(いかり)が、飾られていたのです。碑は「日本海軍発祥之地」、錨は「両爪錨」というものです。
 ここは神武天皇東征水軍進発の地だという神話の記述をもとにしています。
 皇紀二六〇〇年を祝って、大阪毎日新聞社、日本海軍協会、大日本海洋少年団の主催で、軍船「おきよ丸」を造船し、ここ美々津港から大阪市の中ノ島まで神武天皇の東征の跡を巡航し、奈良県の橿原神宮(かしはら)に「神盾」を奉献したとのことです。
 そして、皇紀二六〇〇年記念事業で一九四二年九月十日に、この巨大な碑と錨(いかり)がつくられたのです。
 碑文には「昭和十五年十一月 紀元二千六百年宮崎県奉祝会」「内閣総理大臣 海軍大将 米内光政 書」と彫りこまれています。
 現地の「日本海軍発祥之地」碑顕彰保存会の看板の記述によると、戦後、アメリカ軍によって碑文が破壊されたものを、一九六九年九月十二日、地元有志の要望、防衛庁などの協力で復元されたといいます。

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2005.09.29

四国、よいとこ 60 宮崎県高鍋町 県農業科学公園のいい風

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 二〇〇五年九月二十八日のつづき。
 
 さて、宮崎県高鍋町の宮崎県農業科学公園にやってきました。
 広い芝生がありました。
 その中の大きな木の下で仰向けになって風に吹かれて寝ました。
 少し強めの秋風がわたって気持ちがいいこと。

 温室もありました。
 ブーゲンビリアを手の届くような低い所で咲かせていました。

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四国、よいとこ 61 宮崎市 国道220号のヤシ並木

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 二〇〇五年九月二十八日のつづきのつづき。

 宮崎市の国道220号に入ってから気がついたのですが、街路樹に背の高いヤシの木を植えています。
 みごとな風景です。

 ヤシ並木 マンジュシャゲ赤
 マッチして
 220号 ゆるやかカーブ

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四国、よいとこ 62 宮崎市 青島(あおしま)の波状岩(はじょうがん)

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 二〇〇五年九月二十八日のつづきのつづきのつづき。

 宮崎市の青島(あおしま)にやってきました。
 本当に島なんですね。
 島を取り巻くような波状岩(はじょうがん)がすごい。何枚も写真に撮りました。
 ハマユウが実をつけていました。
 青島には、高校三年生のときの修学旅行できたと思っていましたが、こんな所とは…。ここにはきていなかったのでしょうか…。
 おみやげはハマユウの種。
 青島への道の所にある宮崎県立青島亜熱帯植物園にもいきました。
 「さぁ、次へ」と思っていたら雨。午後二時ごろ近くのホテルに入りました。
 このホテル、夕食も朝食もバイキングでしたが、メニューの多いこと、多いこと。
 貧乏性なので「刺身てんこ盛り」など元をとってしまいました。

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四国、よいとこ 63 鹿児島県鹿屋市(かのやし)の特別攻撃の歴史

 二〇〇五年九月二十九日。

 雨。午前七時半、宮崎市を出発。国道220号を一路南下。
 行き先は鹿児島県の鹿屋市(かのやし)です。百十キロメートルかなたです。
 午前十一時前に目的地の鹿屋航空基地史料館着。
 戦中の空の特別攻撃の史料を見て、関連の本を買いました。
 ある人の出撃日、死亡日、死亡場所を知りました。

 青年に 遺書書かしめて 死なしめた
 統帥(とうすい)思う
 特攻基地跡

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四国、よいとこ 64 鹿児島市 桜島の退避壕(たいひごう

 二〇〇五年九月二十九日のつづき。

 鹿児島市に向かう途中。食堂で昼食。まわりで年配の男女が楽しそうにかたらっていました。
 何を話しているのかと聞き耳を立てましたが、ちっとも意味がわかりませんでした。
 日本は、どんがい広い。
 さて、鹿児島市。桜島にいきました。
 溶岩だらけの、すごい景色です。
 まわりに、いくつも退避壕(たいひごう)があります。

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 写真の右下にも退避壕があります。

 活火山なのです。
 売店でドラゴンフルーツを買って食べました。

 そして、桜島港にいき、桜島フェリーに乗船。鹿児島本港までです。
 二十四時間航行しているんですね。すごい。
 デッキから見ると軍艦らしい船もいきかっていました。どこの国のものでしょうか。
 戦争をしない、軍隊を持たない日本のものでしょうか……。

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四国、よいとこ 65 鹿児島県川内市(せんだいし)といえば…。

 二〇〇五年九月二十九日のつづきのつづき。

 ひたすら鹿児島県川内市(せんだいし)へ。
 きょうは、ここで泊まります。

 弟が映画で知ったまちだといいます。
 調べてみると「釣りバカ日誌9」(松竹。一九九七年)のことでした。
 横浜営業所長から営業部長に抜てきされハマちゃんの上役となった男性(小林稔侍さん)を軸に話が展開します。
 営業部長、バツイチで高校生の息子と暮らしています。
 彼は、密かにスナックのママ(風吹ジュンさん)に心を寄せるがいます。
 ママは、スナックを閉め、いなか(センダイ市)に帰ることとなります。
 失意の営業部長は、問題を抱える息子とやりなおすためにも会社を辞めるといいだします。
 そんな彼に、鹿児島県川内市に「ふるさと文学館」を建設する仕事がきました。
 実は、ママのいなかのセンダイ市は、東北の仙台市ではなく鹿児島県の川内市でした。
 で、……。

 僕のほうは川内市といえば、以前、「しんぶん赤旗」日刊紙の昨年八月六日付の「終戦59年目読者の手記/いま語る平和の誓い/大阪府堺市小宮征夫(67歳)/遊戯にも〝兵隊さん〟が…」を思い出しました。
 <ラジオは毎日、大本営発表の帝国陸海軍の戦果を流していた。新聞には日本軍が占領した中国や東南アジアの版図が描かれ、そこに日の丸の旗が立っていた。太平洋戦争中の一九四二年、鹿児島県の大きな川沿いのまち、川内市に住んでいた私は、五歳だった。
 菓子も配給制になり、幼稚園の遊戯にも兵隊さんが登場した。「♪兵隊さん兵隊さん旗を立てて 今日はどこへ行きますか お国のために 強い兵隊さんになれる子どもを呼びにいく」(題は不明。歌詞は、こうだったと思うが…)。私たち園児が木銃をかついで行進しながら合唱するのだった。
 「♪肩を並べて 兄さんと きょうも学校へ ゆけるのは 兵隊さんのおかげです…」(「兵隊さんよありがとう」)。そんな歌とともに川内国民学校一年生になった。
 校門をくぐると、まず、天皇の写真をまつったほこら・奉安殿に最敬礼。朝礼では直立不動の姿勢で皇居の方向にまたもや最敬礼。訓話の最中はトイレにいってはならない。何人もの児童が立ったまま「おもらし」をした。私も、その一人で上級生に付き添われ、汚れた服のままとぼとぼと家に帰った。母の顔を見るなり「わっ!」と、泣き出してしまった。
 四五年、二年生。授業そっちのけで防空壕への避難訓練だ。「♪イヤな所だよ 軍隊は 金の茶碗に 金の箸 仏さまでも あるまいに 一ぜん飯とは情けなや…」(「軍隊ストトン節」)。ひそかにはやっていた歌をうたっていたら、母がくちびるに手を当てて「しっ!」と、私をにらんだ。
 そして川内空襲。家を焼かれ、米軍機の銃爆撃にさらされて家族が逃げまどった日々。空襲で私を除く家族全員が負傷。五歳の妹は左足を切断された。
 叔父四人のうち三人は白木の箱で帰国した。
 「…億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成する…」と開戦した天皇は「…堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び…」と、降伏した。無責任な話だ。でも私はスーッと体が軽くなった。>

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2005.10.01

四国、よいとこ 66 鹿児島県長島町の棚田

 二〇〇五年九月三十日。

 午前七時半、鹿児島県川内市(せんだいし)のホテルから出発。
 同県長島町へ。
 棚田を見てまわりました。
 手前に棚田、向こうにというシーンを撮りました。

20050930_1_041

 長島海峡横断フェリーに乗って熊本県牛深市へ。

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四国、よいとこ 67 天草の隠れキリシタン

 二〇〇五年九月三十日のつづき。

 熊本県牛深市から河浦町へ。
 崎津カトリック教会(天主堂)を見ました。

20050930_2_007

 同教会の庭に立っていた「由来記」を載せます。

20050930_2_001

 河浦町から天草町へ。
 まず大江天主堂へ。
 ここはキリシタン解禁後にできたものです。
 そして、近くのキリシタン資料館・天草ロザリオ館へ。豊臣政権、徳川政権のキリシタンのへ弾圧、それにたいする民衆の武装蜂起、武装蜂起失敗後の長く続くキリシタン弾圧…がよくわかります。
 天草のキリシタンは一六三七年の天草・島原の乱の敗北で壊滅的な打撃を受けたかに見えました。
 徳川政権は、踏絵などのキリシタンあぶり出し制度で人々を監視してきました。
 しかし、乱から百七十年後の一八〇五年、天草下島の西筋に五千人余の隠れキリシタン信者が発覚しました。
 心を引かれたのは数々のマリア観音です。

 子を抱く 観音像の 背を見れば
 十字の印
 「隠れ」の信仰

 そして、苓北町(れいほくまち)の富岡城跡へ。

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 このとりで 落とせず死んだ
 四郎らの 無念を思う
 富岡城跡

 有明町には「四郎ケ浜」がありました。

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四国、よいとこ 68 熊本県三角町(みすみまち)の三角西港近くの海沿いの旅館で。

 二〇〇五年九月三十日のつづきのつづき。

 ここは熊本県三角町(みすみまち)の三角西港近くの旅館の二階にいます。もう午後五時半です。
 すぐ前が海で、その向こうが普賢岳。左手は中神島。
 夕日の下を漁船がいきかっています。

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 旅館のおかみさん(七十歳)は「いまどき漁師だけでは生きていけない」。
 この旅館には、船舶試験を受けにきた人たちが泊まるといいます。
 普賢岳が噴火した時は「普賢岳が真っ赤になりました」「灰がひどくて、どこもかしこもコンクリートを吹きつけられたようになりました」。

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2005.10.02

四国、よいとこ 69 熊本県・阿蘇山 「いつでもね。噴火する気は、あるんだよ」

 二〇〇五年十月一日。

 午前七時半、熊本県三角町(みすみまち)から出発。
 阿蘇山を走り回りました。

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 牛を放牧している所を見ました。

20051001_002

 放牧の 牛の背中に
 三ケタの 数字を記す
 所有の悲しさ

 火口を見にいきました。
 なぜか韓国語の客がいっぱい。
 ライダーもいっぱい。
 僕と同じホンダのマグマ二五〇ccに乗ってきた男性と立ち話。
 何年前だったか、売り出してからすぐに買ったそうです。しかし、オートバイはピカピカ。後ろにがんじょうな荷物入れをつけ、盗難装置もつけています。「プラス二十万円かかっています」
 北九州のナンバーでした。
 おっと、火口の話でした。
 すごいですねー。

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 「いつでもね。噴火する気は、あるんだよ」
 阿蘇の火口の
 硫黄の煙

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四国、よいとこ 70 熊本県白水村(はくすいむら) 水源のおいしい水。

 二〇〇五年十月一日のつづき。

 熊本県白水村(はくすいむら)の白川水源にいきました。
 入場料百円也。
 こんこんと水がわき出ています。
 たくさんの人々が容器を持って、ここの水をくみにきています。
 おいしい水です。  
 この写真を見てください。

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 ここの近くの店でおみやげを買い、宅配便を頼みました。
 リュックサックのものもだいぶ、それに入れたので楽になりました。
 そして、同村の竹崎水源へ。
 ここもすごくきれい。
 川底の砂を押し上げるようにして何カ所から水がわき出ています。

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 のむと、これもおいしい。
 地元の男性は「白川水源より、こっちのほうが水量が多い」といっていました。
 この周辺に何カ所も、水源があるようです。
 一度、ゆっくりすべてをまわってみたいとおもいました。
 本日は帰りのフェリーの時間があり断念。

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四国、よいとこ 71 熊本県白水村(はくすいむら) 荷物いっぱいのオートバイの主は…。

 二〇〇五年十月一日のつづきのつづき。

 熊本県白水村(はくすいむら)の白川水源の入口の手前に、荷物てんこ盛りのオートバイがとめてありました。沖縄の弦楽器も積んでいます。
 「どんな人だろう。テントを張って寝ているようだけど…。一か月単位のツーリングをしているようだな」
 気になりました。
 そのオートバイとライダーが白水村の出口の所の休憩していました。若い女性でした。
 「好奇心の強い男」である僕は、当然、話しかけました。
 「広島市を出発しました。船で沖縄県にいき、ゆっくりまわってきた、いま広島市に帰るところ。出発して五カ月目。野宿生活です。きのうは寝ていないので、眠い。イラストをかいて、それを売って生活の足しにしてきました」
 すごい女性がいるものです。感動!!
 別れ際に「気をつけてね」と、声をかけてくれました。
 貴女も気をつけていい旅を。

 僕らのほうは夕方、大分県佐伯市(さいきし)に到着。
 佐伯港から夜八時出発の宿毛フェリーで高知県宿毛市に。

 寝転んで 波の思いを 聞いている
 まどろみの中
 フェリー、宿毛(すくも)に

 夜十一時、宿毛着。
 宿毛市のホテルに泊まりました。
 このホテルのサービスは、ペットボトルの「四万十水」。
 ホテルで弟が僕の短歌評。つまり、批評不可能なほどの低レベルということのようです。

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四国、よいとこ 72 あの高知県立高知追手前(おおてまえ)高校三年生のときの九州一周修学旅行は…。

 二〇〇五年十月一日のつづきのつづきのつづき。

 あの高知市の高知県立高知追手前(おおてまえ)高校三年生のときの九州一周修学旅行は、どこを見たんだっけ…。
 記憶がほとんどない僕は、一緒にいった友人にメールで問い合わせました。
 すぐに、返事がきました。
 「(宮崎市の)青島ではラクダに乗った記憶があります」
 「別府の地獄谷を見て、青島、鹿児島へ。
 鹿児島では桜島の溶岩と西郷隆盛が自刃した岩穴が印象に残っています。
 鹿児島からはたしか、雲仙、阿蘇山火口、熊本、長崎へ。
 長崎ではグラバー邸を見た記憶があります。
 その後の記憶は定かではないですが、長崎の原爆ドーム(?)が印象に残っています」
 すごい記憶力です。
 僕は、今回、青島、桜島、阿蘇山火口にいきましたが、いずれも「初めてきた所」でした。
 記憶がなくなっているのです。恐ろしいことです。
 もっとも、あれは十七歳のときのことで、僕は、いま五十八歳。無理もないか……。

 この旅行で、また書きたいことがあります。
 一つは天草の子守唄のこと。

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四国、よいとこ 73 軍に抵抗した人の碑を見て、一週間のツーリング、終了

 二〇〇五年十月二日。

 高知県宿毛市(すくもし)を出発。
 四万十市のトンボ自然公園。
 ホテイアオイに会えました。

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 弟は、この花について「母が、伊野町の家に池をつくって、この花を咲かせていた」といいます。
 僕は、覚えがありません。
 その母が亡くなって、ずいぶんとたちます。

 そして、大方町の入野松原。
 「堀内雍喜頌徳(しょうとく)碑」がありました。

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 「堀内雍喜頌徳碑建設委員会 昭和四十九年六月二十六日」とあります。
 「堀内雍喜氏顕彰碑文
 一億玉砕の叫ばれた太平洋戦争の末期 本土決戦を呼号する防衛軍は敵の上陸作戦を阻止するため名勝入野松原伐採の計画をたて之が実行を強要した。時の中村営林署長堀内雍喜氏は国家百年の大計を論じ身命を賭して軍の計画に反対し遂にその無謀な企てを断念させることができた。当時絶対的権力を奮った軍の圧力に屈せず断乎として信念を貫き松原の危機を救った堀内署長の功績は讃えてもなお余りあるものがあり、吾々(われわれ)大方町民の感謝措(お)く能(あた)わざるところ、ここに顕彰の碑を建てその遺徳を伝える所以(ゆえん)である」
 裏には「堀内雍喜頌徳(しょうとく)碑建設委員会 昭和四十九年六月二十六日」とあります。
 一九四五年、陸軍がアメリカ軍の上陸を阻止するための防衛陣地構築用資材に入野松原伐採計画を立てた時、堀内署長が身を賭してこれに反対したというのです。

 この二カ所を訪問した後、一路、高知市の自宅に。
 午後四時到着。
 一週間のオートバイのツーリングが終わりました。

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2005.10.03

四国、よいとこ 74 高知市 朝倉ゼミナールのすごさ。

 二〇〇五年十月三日。

 高知市に朝倉ゼミナールというムーブメントがあります。
 これが、すごいものです。
 どこがすごいかというと…。
 インターネットを検索してみたら、ホームページがありました。

 http://hb4.seikyou.ne.jp/home/asazemi/

 ここです。
 一度、訪れてみてください。

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2005.10.04

四国、よいとこ 75 高知市 唐人町って…。

 二〇〇五年十月三日。

 夜、高知県いの町の弟が野菜を持って、わが家にやってきました。
 「あの、おまんく(妻の実家)にいくところの天神橋の手前に唐人町ってあるろう。あれは、豊臣時代に強制連行してきた朝鮮人と関係ある町名やと」
 頭がスパークしました。豊臣。二度の朝鮮侵略。高知。そんな言葉がいきかいました。
 弟もくわしいことは知りません。
 「調べなくては」
 くわしいことを知っている人、いませんか。

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四国、よいとこ 76 温かいご飯にナスの丸焼き。

 二〇〇五年十月四日。

 仕事で南国市へいきました。
 そして、高知市に戻って「ものもいわず」仕事、仕事。
 だいぶはかどりました。

 夜は早い目に切り上げてオートバイ用品の店に。
 タンクに乗せるバッグとグローブを買って悦に入っています。

 家に帰って、風呂、洗濯、食事の用意。
 温かいご飯で、おかずはナスを丸焼きのみ。
 いいんだよねー。これが。
 実は、高知にきてから食生活を改善中。
 「肉をできるだけ排して魚に」「野菜をできるだけとる」が基本です。

 生活時間も変わりました。
 以前は午前十時とか午後二時に起きることの多い仕事でしたが、こっちにきてからは切り替えました。
 いつも午前六時には起きています。
 階段を忌避していましたが、階段を見つけると「嬉々として」上るようにしています。
 そて、その成果は……。

 東京の妻に電話したら、「まだ、仕事中」。
 彼女も自由に羽ばたいています。
 めでたし、めでたし…………。

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2005.10.06

四国、よいとこ 77 いの町、安芸市、高知市でロケした映画。

 二〇〇五年十月五日。

 夜、高知市の人、太田紘志さんの『ようたヒロシの ふれあい時間』(リーブル出版)というエッセイ集を手に入れました。
 なかなかのものです。
 その中で、高知県でロケされた映画で、高知市民図書館で視聴することができる映画が紹介されていました。
 その中の一つ、「あなた買います」は、いの町、安芸市、高知市でロケしたということです。
 近々、見ようと「決意」しています。

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四国、よいとこ 78 巡礼を迎え入れるか、紫のキキョウ鮮やか…。

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 二〇〇五年十月六日。

 巡礼を 迎え入れるか
 紫の キキョウ鮮やか
 ここ、土佐国分寺

 巡礼の 道との表示
 あぜのよな でこぼこ道を
 バイクでたどる

 快晴。
 仕事で高知市から南国市へ。
 昼休みに、南国市の国分寺に寄りました。
 そのおかげか、きょうも快活に仕事できました。

 弥生の集落。
 戦国時代の金堂。
 太平洋戦争のときのトーチカ。
 ……
 このまちには、いろんなものが残っていますね。 

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四国、よいとこ 79 高知 ダイコンの「抜き菜」がおいしい。

 二〇〇五年十月六日。

 高知県いの町の弟が持ってきてくれたダイコンの「抜き菜」がおいしい。
 これは高級食品ですね。
 いためたり、おじやの具につかったりで堪能しました。
 弟によると、塩を振った半日漬けも「うまい!」とのこと。

 「仕事の虫」もおさまらないが「遊びの虫」もおさまらない僕。
 九日、十日は休みをもらいました。
 弟、三連休を利用して東京からやってくるわが妻と三人で、高知市から山越えて徳島県の剣山のふもとを通って、兵庫県の淡路島にいく予定です。
 車を運転できるのは弟だけ。よろしくお願いいたします。

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2005.10.08

四国、よいとこ 80 「僕の彼女を紹介します」。やっぱり、いいですね。

 二〇〇五年十月七日。

 「僕かの」(韓国映画「僕の彼女を紹介します」)を
 見てる中年 涙して
 「こんな映画を つくってみたいよー」

 夜、DVDで韓国映画「僕の彼女を紹介します」を見ました。
 劇場でも見ましたから二回目です。
 
 「『ごめん』くらいいったらどうなんだ」
 「私の辞書には、そんな言葉はないの」
 「『ごめん』って名前にしたらどう。そうしたら、『ごめーん』ってやるから」
 すごい、一度、いってみたいせりふです。
 
 見進むうちに涙が出てきます。

 それにしても、主演の彼女、いろんな表情ができて、表情を見ているだけであきませんね。

 それはそうと、JRで高知にくだってくると、「大歩危(おおぼけ)」という駅があって、どやされた感じ。「はい。すみません。反省します」という感じ。
 そして、しばらくすると、「後免(ごめん)」という駅があります。

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四国、よいとこ 81 高知市文化プラザの「戦争」

 二〇〇五年十月八日。

 高知市の、わが家の近くに高知市文化プラザがあります。
 そこの周辺に、こんなメモリアルがあります。
 
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 近くに、こんな表示がありました。

20051007_022

 目を閉じてみましょう。
 ここは一九四五年、太平洋中の高知市、菜園場(さえんば)橋。
 「あっ、アメリカの、皆殺し戦闘機が急降下してきます。パイロットの白人の目が笑っています。……」

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2005.10.10

四国、よいとこ 82 兵庫県の小豆島の由良要塞の跡

 二〇〇五年十月十日。

 八日、東京都の妻が高知市にやってきました。
 九日、十日と僕も休みをとって、いの町の弟と三人でドライブ。
 高知県の早明浦(さめうら)ダム、同県本山村の大原富枝文学館、そして、兵庫県の小豆島にわたり、洲本市由良のエトワール生石(おいし)という研修施設に泊まりました。
 前が海です。
 裏の山の上に戦前の由良要塞の跡があると聞いて、十日朝は、そこに直行。
 その後、洲本市立淡路文化資料館に。
 そして、バスセンターで妻とバイバイ。

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四国、よいとこ 83 「僕かの」の紙飛行機に泣いている。

 二〇〇五年十月十日。

 ぎこちなく 暗い空気が 流れてる
 恋人だろう?
 君たち、しっかり

 「僕かの」の
 紙飛行機に ないている
 なんて優しい 彼氏なんだろ

 最初は、現実の世界。
 次は、韓国映画「僕の彼女を紹介します」の世界。

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2005.10.14

四国、よいとこ 84 高知市 「体が右にまがっちゅう」の指摘。

 二〇〇五年十月十四日。

 七月に理髪店にいったきりだったので、いくらなんでもと思って高知市はりまや町の理髪店にいきました。
 頭を洗う段になって、頭を出したら、
 「頭を、ぐっと、左に寄せてください」
 洗い終わって理髪師さんがいいました。
 「真っ直ぐに頭を出しているとおもうちょったでしょう。ところが、右の端やった。あんたは、体が右にまがっちゅう」
 「えーっ」と、いう感じでした。
 しかし、思い当たることがいくつかあります。
 ありがたい指摘でした。
 治すにも、自分が欠点を自覚していないと、そうしようとも思いません。
 高知の人はモノをはっきりいうてくれるがで助かります。

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四国、よいとこ 85 高知市 「帯パラ」は、みんなに優しい。

 二〇〇五年十月十四日。

 夕方、高知市帯屋町商店街の「帯パラ」にいきました。
 雨が降ったりやんだり。
 で、ここで「帯パラ」が活躍。
 ここに、円形のベンチが三つあります。この上に大きなパラソルがついていて、雨が降り出すとぱーっと開いて雨をさえぎってくれるんです。
 優しいベンチです。
 この夕は、この下でイラク戦争反対のアピール行動がやられていました。
 「命に国境がない」ことを十九歳の女性のロック歌手がうたっていました。

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四国、よいとこ 86 高知、東京 電話のない数日間。

 二〇〇五年十月十四日。

 「何日も 電話なかった」
 妻がいう
 自分も何も いってこないで

 妻「も」、結構、自己本位です。
 似た者夫婦だから、しかたないか。

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2005.10.15

四国、よいとこ 87 高知県土佐山田町 JR土佐山田駅構内のに映画の宣伝。

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 二〇〇五年十月十五日午前。

 高知県土佐山田町のJR土佐山田駅の上り線のホームにいます。
 ひょいと見たら、構内に映画の宣伝の看板がありました。
 「カチューシャ物語」です。「愛すればこそ別れゆく乙女の悲しさよ!……」
 ポスターの男女二人の絵が、なんだか戦後初期の筆致で懐かしい。
 それにしても、いつまでやっているんだろう。書いていません。場所は「ゑびす昭和横丁」。
 で、インターネットで探してみたらありました。
 映画館の宣伝ではありません。
 この町で八回かやってきた、催しの看板でした。
 この「横丁」に月光仮面が出現し、宇高連絡線のデッキのうどん屋が再現され、山口百恵さんの映画のポスターが飾られ…ということのようです。
 あのうどん屋さん。しょううまかった。味も当時のままでしょうか。
 次回は十二月十日、十一日(偶数月の第二土日開催)の予定とか。いってみようか……。

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四国、よいとこ 88 高知県大豊町 JR大杉駅の駅舎は「地元営」!?

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 二〇〇五年十月十五日午前。

 高知県大豊町のJR大杉駅にいます。
 真新しい駅舎です。
 二〇〇四年一月二日に焼失。
 しかし、そのままにされていました。
 地元の住民が運動し、県が五百万円、JRが五百万円出し、町が地元の力を借りて駅舎をつくりました。
 駅舎はできましたが、JRは人員を配置せず。地元の人たちが「とまレール大杉の会」をつくり、ボランティアで運営しています。
 週三日は女性が午前六時から午後六時まで勤務。週四回は、松下健一さん(65)が午前六時から午後七時まで勤務。
 切符売り、そして、売店の運営もします。
 駅前の食堂、喫茶店は、建物はあるものの開いていません。
 いまの政治の中で切り捨てられていく「地方」、そうはさせまいと懸命の努力をする住民たちの姿を見る思いでした。
 駅舎で本山町いきのバスを待っていると、松下さんがコーヒーをいれてくださいました。

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四国、よいとこ 89 農民に酒を飲むことを禁止した野中兼山という男。

 二〇〇五年十月十五日夜。

 最近、高知県のいの町、春野町、高知市、宿毛市、本山町、土佐山田町をまわっていると野中兼山(のなか・けんざん)の名前をよく見ます。
 江戸時代の高知の山内藩の奉行職をしていた人です。
 この日朝、高知駅のデパートで小川俊夫さんの『野中兼山』(高知新聞社)という本を買いました。
 わかりやすく、リアルな本でした。
 農民に酒を飲むことを禁止するなど彼の悪辣非道な政治家ぶりが浮き彫りになっています。
 彼を利用するだけして、都合が悪くなるとぽんと捨てて、兼山の死後、野中一族を長期に宿毛に流した山内のトノサマもひどい男です。
 と、いまさらながら怒っています。

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2005.10.16

四国、よいとこ 90 徳島市 「セルフ」の、うどん店。

 二〇〇五年十月十六日。

 三日前に風邪をひいてしまいました。
 絶不調ながらバスで高知市から徳島市へ。
 「歴史と向き合い未来を準備する美しい若者の姿」(高知新聞、二〇〇四年十二月九日付の「楽」さんの「閑人調」の言葉)を見ました。

 仕事を一応終えて、徳島駅前で「セルフ」の看板を探しました。
 「あっ、あった」
 うどんの「セルフ」です。
 お盆と皿を取って、それにおでん、てんぷら、おにぎりなどをとり、最後に、うどんをもらいます。
 気軽だし、お腹の態勢に合わせることができます。
 香川、徳島にいったら「セルフ」を探している、きょうこのごろです。

 さいたま市の高校の同級生(男性)からメールをいただきました。
 う・れ・し・い。

 東京都の妻からは電話。
 「荷物、届いた?」
 長袖のシャツも入っていました。
 うるうる。

 午前零時前、仕事の「つづき」がやっと終わりました。
 さぁ、シャワーして、寝るか。

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2005.10.18

四国、よいとこ 92 高知市 温泉はあるんですか?

 二〇〇五年十月十七日。

 わが高知市に温泉はないものか。
 インターネットを見たら、こんなデータがありました。
 一つひとつ「検証」してみたいと思っています。

 ● 三翠園温泉 088-822-0131 高知市鷹匠町 天然高温泉 塩泉 露天風呂 大浴場 旧山内家公邸跡に建つ歴史の宿 
 ● 城西館 088-875-0111 高知市上町 トロン温泉大浴場
 ● 湯の川ファミリー温泉 088-822-1935 高知市円行寺 立ち寄りのみ
 ● 円行寺温泉精養軒 088-872-3898 高知市円行寺 硫化水素泉
 ● 冨久美味 088-842-2933 高知市浦戸 大浴場
 ● 国民宿舎桂浜荘 088-841-2201 高知市浦戸 公営 全室より太平洋を一望
 ● サンピア高知 088-866-7000 高知市高須 炭酸カルシウム温泉 大浴場 素泊りOK

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四国、よいとこ 93 ジョン万次郎の書いた色紙。

 二〇〇五年十月十八日。

 休み。
 オートバイで高知県の春野町の知人宅へ。
 ジョン万次郎の書いた色紙を見せてもらいました。

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2005.10.19

四国、よいとこ 94 高知市 高知大学教育学部付属幼稚園のキンモクセイ。

 二〇〇五年十月十九日。

 おお、かくも 「私、ここよ」と 主張する
 キンモクセイに
 誘われてきた
 
 一週間ほど前からオートバイで高知市内を走っていてもキンモクセイのかおりがしていました。
 事務所にも、いいかおりが入ってきているので、きょうの昼休み、その発生源を探してみました。
 すぐそこの高知大学教育学部付属幼稚園の庭でした。
 ちょっと数えただけでも九本のキンモクセイが咲いていました。
 本当にいいかおりです。
 胸いっぱいに吸い込んで短い散歩を終えました。

 夜九時過ぎ、関東地方で地震。
 東京の、わが家に電話しましたが、妻は、まだ帰宅していませんでした。

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四国、いいとこ 95 高知県南国市(なんこくし) 七つの掩体壕(えんたいごう)が語りかけること。

 高知県南国市(なんこくし)には太平洋戦争の時のコンクリート製でドーム状の掩体壕(えんたいごう)が七基残っています。田んぼの中の市有地にある七つのこんもりした掩体壕。一番大きい掩体壕は高さ八・五メートル、幅四十四メートル、奥行き二十三メートル、コンクリートの厚さは五十センチはあります。

   ☆  ★ 

 掩体壕は、航空機をアメリカ軍の空襲から守るための格納庫です。同市内にコンクリート製九基、土などでつくられたもの三十二基の計四十一基がありました。
 土などでつくられたものは敗戦後に解体され、コンクリート製のものも二基が壊されました。
 太平洋戦争の最中の一九四四年三月十五日、偵察搭乗員の訓練をおもな任務とする高知海軍航空隊が開隊し、士官百六十人、兵員三百六十人、機上作業練習機「白菊」(乗員五人)五十五機が配置されました。
 これらの掩体壕は、この航空隊の関連施設としてつくられたものです。
 当時、どの掩体壕にも中央の滑走路からそれぞれの掩体壕までは東西三本、南北四本の幅約四十メートルの誘導路がはりめぐらされていました。

   ☆  ★ 

 かつて、ここには香美郡三島村がありました。
 帝国海軍は、一九三九年、三島村に飛行場を建設することを決定。四一年一月二十三日、このことを発表しました。
 西村豊馬村長は、村民有志を三島小学校講堂に集めて高知県知事の通達を伝えました。
 「三島村に、海軍航空隊の飛行場をつくることが決定した。田の中に赤い旗が立てられている範囲内の者は、みんな立ち退いてもらわんといかんことになった。誠に急なことで村民に申し訳ないが、戦争に勝つために協力してもらい、本日承認ねがいたい。直ちに立ち退きに取りかかってほしい」
 誰も反対できる人はいませんでした。
 接収面積は約二百十二ヘクタール、三島村の七割に上ります。接収地域には村役場や三島小学校など三島村の中心施設も含まれていて、村は消滅しました。
 三島小学校が解体され、児童たちは、二人がけの机を隣の立田村の立田小学校に運びました。
 津波、洪水の時に村人が避難し、命山と呼んでその信を集めた室岡山(命山。標高二八・二メートル)には、坑道が掘られ、爆弾で崩されました。豊かな農をもたらした秋田川も埋め立てられました。
 飛行場建設の最中の四一年十二月八日、昭和天皇はアメリカ、イギリスなどとの戦争を始めました。
 いま、南国市の高知龍馬空港の外の南側に日章開拓農業協同組合が一九八五年三月にたてた「開拓記念碑」がたっています。
 そこには三島村接収の時のことが刻まれています。
 「この地は…元の三島の里である 沃土は農を興し、黒潮に恵まれて文化の香り高く、県下屈指の優良村として栄えた。…(その三島村が海軍の基地建設用地になり)総面積二千百八十四反を接収、二百六十三戸、千五百余の住民ら急遽(きゅうきょ)撤去を命ぜられる。人々互いに別れを惜しみ父祖の霊位を抱き、慌ただしく村を去る」 

   ☆  ★ 

 一九四四年六月、いまの南国市の前浜地区、久枝地区の五十七万四十二平方メートルも接収されました。高知海軍航空隊の掩体壕と誘導路(幅約四十五メートル)を建設するためです。
 掩体壕や誘導路の建設には、地元の女性、高知市内の中学校の生徒、高知刑務所の受刑者、強制的に日本に連れてこられていた朝鮮人も駆り出されました。
 掩体壕と誘導路は網の目状に結び、航空隊内の滑走路に通じさせました。
 いま、地元では南国市の七基の掩体壕に番号をつけています。
 七号掩体壕は、大湊(おおみなと)小学校(元・前浜国民学校)のすぐ北にあります。
 動員されていた高知市の私立土佐中学校の三年生の生徒たちは、この掩体壕づくりの作業をしました。
 高知海軍航空隊の兵舎に泊り込んで作業しました。
 兵舎の廊下を拭く作業をサボっていたら「海軍精神注入棒」が尻にとんできました。
 掩体壕は、こうしてつくりました。
 土で掩体壕と同じ大きさの小山をつくります。そして、大勢の人々がその上にあがって踏み固めます。固めた土の上に、むしろやセメント袋などを敷き詰めます。土の上にセメントを流し込み、塗り固めます。セメントが固まったら、中の土をすべて取り除きます。こうして掩体壕ができあがります。
 いま、この掩体壕の内側には、つくったときの、むしろとセメント袋の跡がはっきり残っていす。
 この掩体壕は、農道と農業用水路の真上につくられました。
 海軍高知航空隊は、この水路のかわりに直径約二十センチメートルの土管を設置しようとしました。
 それでは雨天のときの水はけが悪く、上流の田んぼに支障が出そうでしたので、地元の農民たちが海軍航空隊側に、もっと大きな径の管に取りかえてほしいと申し出ました。
 相手の技術責任者は「何をいうか、お前たち。敵は一刻も待ってくれないぞ。そんなことが聞けるか。お前たちは非国民か。二度というな。帰れ」と、農民たちを追い返しました。
 戦後、農民たちは、この掩体壕の後部を打ち抜いて、道と水路を通しています。

   ☆  ★ 

 南国市に残る小山のような七つの掩体壕は、いまの私たちにいろんなことを語りかけてくれます。
 一号掩体壕は、アメリカ軍のグラマン艦上攻撃機によって激しい機銃掃射を受けた大小合わせて約六十個の弾の跡がついています。
 一九四五年三月十九日、アメリカ軍のグラマン艦上攻撃機が三波にわたって高知海軍航空隊を空襲しました。
 この掩体壕の近くの畑で野菜を手入れしていた男性の農民二人、動員されていた生徒約三十人は掩体壕に逃げ込みました。
 グラマン機は掩体壕すれすれに飛んできてバリバリ、バリバリと機関銃を撃ちました。弾が掩体壕に当たってチュン、チュンと不気味な音をたてます。
 そして、近くの前浜国民学校の玄関前、講堂と校舎の西に爆弾を投下しました。
 前浜国民学校(現在・大湊小学校)は休校でした。同校に出勤していた猪野信意校長、教師の永吉高秀さんは、この爆撃の中、同校の「御真影」(昭和天皇と皇后の写真)、「教育勅語」などの勅語を持って逃げました。
 高知海軍航空隊では戦死傷数人、一式陸上攻撃機と陸上攻撃機銀河が破壊され、格納庫、庁舎、兵舎が一部損傷しました。
 掩体壕(えんたいごう)と誘導路を建設する工事に動員されていた高知市の県立高知城東中学校三年生たちの「合宿飯場小屋」も炎上しました。
 当時、同校三年生だった高橋道久さんは「私もグラマンの一番機に銃撃され、横飛に避けて生まれて初めて赤鬼のような顔の米軍パイロットと相互に目礼しあったしまつでした」と記しています(『高知追手前高校百年史』、発行・高知県立高知追手前高校校友会)。
 南国市は七回、アメリカ軍のB29爆撃機、空母艦載機グラマンの攻撃を受けました。
 高知海軍航空隊には高射砲はありませんでした。七・七ミリ旋回機銃と二五ミリ機銃で応戦しました。
 機関銃を構えるコンクリート製のトーチカは一基でした。
 これは南国市物部の物部川堤防に現存しています。高知高専の南東に当たる場所で、直径一メートルの円筒形。コンクリートの厚さは二十センチです。
 アメリカ軍機三機の撃墜を確認したといいます。
 うち一機のプロペラとエンジンが沖合の海底で見つかり、いまは香美郡吉川村の吉川村天然色劇場で展示されています。

   ☆  ★ 

 高知海軍航空隊の当初の目的は偵察搭乗員の養成でしたが、一九四五年春、アメリカが沖縄県に上陸すると、特別攻攻隊員としての訓練が中心となりました。
 同航空隊に特別攻撃隊「菊水部隊白菊隊」が編成されました。「赤トンボ」と呼ばれていた機上作業練習機「白菊」(乗員は、操縦、偵察の二人)に二百五十キロ爆弾二つを搭載して沖縄のアメリカ艦船に体当たりするためでした。機関銃も装備せず、燃料は片道分だけでした。
 五月二十四日から六月二十五日までの間、「白菊」二十六機が鹿児島県の鹿屋(かのや)基地を経由して沖縄に向け出撃。搭乗員五十二人が戦死しました。
 五月二十七日午後六時四十八分から七時三十七分にかけて十五機の「白菊」が鹿屋基地を発進しました。

   ☆  ★ 

 高知海軍航空隊による被害は、一九四五年八月十五日の終戦後も続きました。
 高知海軍航空隊の送信所(三・七ヘクタール)は、飛行場の北方約五キロメートルの南国市陣山にありました。
 終戦後、同通信所の敷地には、香長平野に駐屯していた約六万五千人の「四国防衛軍」の武器、弾薬が集積されました。
 県の指示、アメリカ占領軍の監督のもと勤労奉仕の人たちが弾丸の中の火薬を抜き取り少しずつ焼却する作業をしました。
 十一月十九日午前、その解体作業中、勤労奉仕の人が一度に多量の火薬をほうりこみました。この火が枯れ草に広がり大きな炎になって燃え広がりました。そして、大爆発がおきました。
 五戸が全壊、四戸が全焼、約千七百戸が半壊しました。
 (二〇〇五年十月十九日)

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2005.10.23

四国、よいとこ 102 高知市 朝晩が冷え込んできましたね。

 二〇〇五年十月二十三日。

 夜中に仕事先からオートバイで自宅に帰っていると、もう寒くて、寒くて…。
 高知市も冬のムードになってきました。
 もっとも本日は昼間は初夏のように暑かったのです。
 どうも、体の調節がうまくいきません。
 それはそうと、わが家は暖房器具なし。
 そろそろ何か手に入れなくては…。

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2005.10.24

四国、よいとこ 103 松山市 「おつかれ」と 鏡の自分に いってやる…。

 二〇〇五年十月二十四日。

 「おつかれ」と 鏡の自分に いってやる
 ここ松山の
 ビジネスホテル

 午前七時半、高知駅前発の高速バスで松山市へ。
 懸命に仕事をして終わったのが夜九時過ぎ。
 仲間の予約してくれた市内のビジネスホテルへ。
 ここで、パソコンをひらいて、もう一仕事。
 小さな机の前にすわったら目の前に鏡がありました。
 うーん、太陽(ひ)に焼けた、けっこう引き締まった顔をしています。
 なんちゃって。

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2005.10.25

四国、よいとこ 104 高知市の「つくし」という居酒屋の機関紙の縮刷版。

 二〇〇五年十月二十五四日。

 高知市の「つくし」という居酒屋の機関紙の縮刷版をいただきました。
 一九七〇年十月号から九六年六月号までです。
 ちょうど僕が高知にいなかった時期です。
 高知大学の同級生の父・富永三雄さん。高知の陸軍に反戦ビラをまいた人です。
 宮本正心さん。彼の娘さんと一緒に仕事をしました。
 日和崎宣夫さん。電話だけですがつきあいがありました。
 浜田文平さん。お世話になりました。
 奈路広さん。本人は忘れているだろうけど、一度、四万十川の船の上で一緒に漁の写真を撮りました。
 山原健二郎さん。お世話になりました。巨星でした。

 このつづきはどうなっているのでしょうか。
 いつか、じっくり、「つづき」も読んでみたいものです。

 ところで、はからずも、本日、兵庫県の住職夫妻と電話で話すことができました。
 二人とも高知大学で同じ時期に学んだ人です。
 そうか、僕が高知大学を辞めたのは一九六八年二月。上京したのが同年十月。
 ずいぶんと僕も人生のベテランになりました。
 実態は、まだ子どものようだけど…。

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2005.11.29

四国、よいとこ 158 木から花びらと花のかおりがふりそそいできます。

 二〇〇五年十一月二十九日。

 ふりそそぐ 花のかおりの 中に寝て
 本読む時を
 夢見ているよ

 いい夢を見ました。

 木から花びらと、花のかおりがふりそそいできます。
 桜かな。
 そうではないようです。
 白い小さな花が無数にふりそそいできます。
 「いい気持ち。こんな所ですごしたかったんだ」

 そう思ったとたん目覚ましが鳴って…。

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2005.11.30

四国、よいとこ 160  わがチングのこと

 二〇〇五年十一月二十九日。

 君のこと
 僕はチング(長く親しい友)と 思ってる
 生き抜いてくれ 一杯やろうな

 この日夜、ブルーハーツとプリンセス・プリンセスを歌うチャンスがありました。
 わが青春の歌です。

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2005.12.04

四国、よいとこ 166 ちょっと遅い冬支度

 二〇〇五年十二月四日。

 とにかく冷やくなりました。
 ということで、きょうは冬支度。
 ● ストーブ。
 ● 暖かいズボン。
 ● 暖かい上下の下着。
 そして、なぜか、ご飯炊き用の内ぶたのある土鍋。

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