やっと、やっと二〇〇五年一月五日から正月休みです。
この休み中の一月六日から十日まで高知県の「借地農民」の弟と二人でフィリピンにいく予定です。
●わおーっ。フィリピンにいくぞ●
六日午後零時。
ではフィリピンにいってまいります。
できる言語は土佐弁のみという二人の海外旅行です。
航空券とホテルだけは取っていますがガイドもなし。
どうなることやら……。
これはアドベンチャーです。
まず最初の難関が入国ですが……。
でも、思ったよりすんなりとマニラの空港から入国。
まず、両替をしました。
ホテルまでのタクシーを物色していたら、泊まることになっていたホテルのボーイと称する男性が出現。
その男性の用意した「白タク」のようなのに乗ってのホテル入りしました。
●出合った花たちのこと●
青空を 背景にして 咲き誇る
ブーゲンビリアの
透けるよな赤
まずは、出合った花たちを紹介します。
☆ マニラのラサール公園、マラテ地区、コレヒドールなどで、いつも温室で見ている白い花が咲いていました。
プリメリアです。
キョウトウチク科プルメリア属。和名は、インドソケイです。
この写真はマニラで。
☆ マニラ、コレヒドールなどでハイビスカスを見ました。
アオイ科フヨウ属です。
写真は、マニラで。
☆ ブーゲンビリアを、コレヒドールで撮りました。これも、いつも温室で見ている花ですが、青空の似合う花です。
オシロイバナ科イカダカズラ属です。
☆ コレヒドールでパパイヤの花に出合いました。これは初めてです。
パパイヤ科パパイヤ属です。
●セブンイレブンに銃を持った警備員●
マニラでびっくりしたのは銃を持った警備員が、いろんな所にいたことです。
七日午後、マラテ地区のコンビニエンスストア・ミニストップにいったら腰に銃を下げた男性の警備員がいて、ギョッ。なぜ、コンビニに……。
八日早朝、高架鉄道のペドロヒル駅前のマクドナルドの店に入ったら、ここにも腰に銃を下げた男性の警備員がいました。
近くのセブンイレブンに入ったら、ここも同様でした。
さて、高架鉄道に乗ろうとしてペドロヒル駅に入ろうとしたら、入口で警備員が「待った」。
「そこの机の上にバックを置いて、開けなさい」
棒で中に入っているものを調べます。
「これは? カメラ?」
「そうです。カメラです」
OKになって、やっと駅の中に入れました。
この入口での検査は、首都圏鉄道でも同じでした。
この遠出の帰りに、また、ペドロヒル駅前の中華の店「チョウキング」に入ったら、ここにも拳銃所持の警備員がいました。
いやーっ、すごい街だなぁと思いました。
泊まっているPホテルに向かっている途中にロビンソンデパートがあります。
その前で車の整理をしている警備員は筒の長い銃を持っていました。同デパートに入ろうとすると、ここでも入口でバッグの中身を調べられました。
すぐ近くのフィリピン総合病院の入口にも銃を持った警備員が…。
うんざりもいいところです。
極めつけは九日にアリストクラットという大衆レストランに入ろうとしたときのことです。
ここはまわりに複数の筒の長い銃を持った警備員がいました。
そして、入口にも銃を持った警備員がいて、バッグの検査をされました。
どうなってるんだ!!
●日本の侵略の傷跡を見ておきたい●
実は、このフィリピン旅行は、日本の侵略の傷跡を見ておきたいという意図でした。
一九四一年十二月八日、日本軍によるマレー半島への上陸とハワイの真珠湾への攻撃で太平洋戦争が始まりました。
真珠湾攻撃の十時間後、日本軍の編隊がフィリピンのルソン島中部のクラーク、イバのアメリカ軍基地の上空に達し、アメリカ軍戦闘機などを爆撃しました(当時は、アメリカがフィリピンを植民地支配していました)。日本軍は、同月二十二日にルソン島北西部のリンガエン湾から上陸。翌年一月二日、首都マニラに入城し、翌日、日本軍政を宣布しました。
そして、四三年十月十四日、かいらい政権(「フィリピン共和国」)をつくりました。
この間、フィリピン人抗日ゲリラが抵抗運動を続けます。
四五年二月三日、アメリカ軍は、レイテ島から再上陸してマニラを奪回します。
太平洋戦争中、戦争で亡くなったフィリッピン人は一説に百万人ともいわれます。
戦争中、フィリピンで亡くなった日本人は軍民合わせて約五十一万八千人といわれます。「母の姉の夫の弟」も、その一人です。
●日本軍の憲兵隊本部や牢獄の跡●
七日午前、マニラのサンチャゴ要塞にいきました。
スペイン人が建てたものです。
スペインが植民地支配した時代には牢獄、アメリカが植民地支配した時代にはアメリカ陸軍本部、日本の占領の時代には憲兵隊本部や牢獄として使われました。
憲兵隊というのは陸軍の「警察」ですが、植民地では圧制の先頭に立ちました。
フィリピン人の警備員が、僕たちを日本人と見て、地下牢の鍵を開けて内部を見せてくれました。
当時の様子が人形や資料写真でわかるようになっていました。
とにかく閉所恐怖症気味の僕には辛い見学でした。
一九四五年二月、日本軍の残虐行為によって牢獄内で約六百人のフィリピン人とアメリカ人が死亡したといわれます。
●バスに乗ってカバナツアンへ●
八日朝、マニラのエドウサ駅近くのバスターミナルからカバナツアンいきのバスに乗りました。
「母の姉の夫の弟」が陸軍に召集され、この町で戦病死しているのです。
くわしいことはわからないだろうが、どんな町だったのかだけでも見ておきたいという思いです。
三時間以上かかりました。
農業地帯の中のけっこうにぎやかな町でした。
とにかく町を散歩。
弟と二人で田植え風景を見ていると小学生くらいの女の子二人、男の子三人が「何してるの」「どこからきたの」と話しかけてきました。
「日本から」というと「ジャパニーズ。ジャパニーズ」といって、いろいろ質問してきました。
好奇心いっぱいのかわいい目をした子どもたちでした。
まあ、ここは、いってきたというだけでしたが、ここにも日本の軍隊がきていたのかと複雑な気持ちでした。
●コレヒドールの元日本軍属のガイド●
九日、コレヒドール島にいきました。
多国籍の人々のツアーに参加しました。
マニラからクルーズに乗り、島ではバスに分乗して移動しました。
海が澄み切った美しい島でした。
日本軍がフィリピンに侵攻する中、アメリカ極東軍最高司令官
ダグラス・マッカーサーやフィリピン独立準備政府大統領のマヌエル・ケソンが、この島に逃れ、指揮をとりました。
一九四一年十二月に十九日から、この島の空襲を開始。この島の北西にあるバターン半島を攻略し、翌四二年五月、この島に激しい攻撃を加えて上陸。一万三千人余りいたアメリカ、フィリピンの軍人と民間人を捕虜にしました。
マッカーサーやケソンは、その前に魚雷艇や潜水艦で別々にこの島を脱出しています。
四五年二月、連合軍は、空と海からの攻撃で、この島に再上陸を果たしました。
この時の戦闘で、この島を防衛中の日本軍約六千人の大半が戦死。連合軍も二百二十五人の死者、行方不明者を出しました。
十数人の日本人のバスのガイドはフィリピン人男性・ウイリーさん(七十七歳)。
「大和魂(やまとだましい)」
「天皇陛下の軍人」
「君が代の軍人」
といった言葉が口をついて出ます。
「君が代」、「海ゆかば」、「愛国行進曲」などを歌い、「軍人勅諭」を暗唱します。
日本軍占領期に日本の軍属をしていたといいます。
「英語を使うとビンタが飛んできた。すべて日本語だった」
「日本軍の軍票を使わされたドルやゲリラの札を使うと死刑になった」
この島で「日本帝国政府」が、当時、発行した軍票を十枚入手しました。
もっと書きたいことがあったはずです。いつか「つづき」を書きたいと思っています。
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