旅行・地域

2005.01.13

三世代ツアー 小石川植物園、上野動物園

 やっと、やっと二〇〇五年一月五日から正月休みです。

 この日午前から国立大学法人東京大学大学院理学系研究科附属植物園にいきました。東京都文京区白山の小石川植物園のことです。
 メンバーは、弟、妻、娘、娘の二人の娘の計六人です。

 入口の左手に美しい花が咲いていました。
 シロヤブツバキでした。
 楚々とした美しい花です。

 そして、カンザクラ。
 メジロが二羽きていました。
 この近くでシーツを敷いて昼食。
 四歳五カ月のエミは、わが弟と走り回り、九カ月のユリは地べたに座り込んでわいわいやっていました。

 下の池のほうにいったら梅園がありました。
 もう咲き始めていました。

 帰ろうとしていたら弟が「あそこに写真を撮っている人がいるから花があるにちがいない」。
 正門の右手です。
 いってみるとソシンロウバイでした。

 遊ぶことについては疲れを見せないわが集団。続いて、上野動物園にいきました。
 
 ペンギンの つばさのワッカ 悲しいね
 水中ジャンプは
 野生のようだが

 この動物園のペンギンの片一方の翼には「認識票」のようなワッカがついていました。
 なんだか、悲しくなりました。

 この日、孫たちと付き合って発見がありました。
 四歳のエミは、ずいぶん精神的に成長して「母や妹への思いやり」とか、「恥ずかしい」とか、「プライド」とか、いろんなことかわかるようになっているということです。
 すごいぞ、エミ!!!!

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2005.01.17

クジャクとの「交流」

20050117_050

 二〇〇五年一月十七日、休み。
 午前中から娘、娘の娘二人と東京都の多摩動物公園に。
 ここで好きなのは、クジャクが放し飼いされていて、彼らと「交流」できることです。
 それにしても、ここも、動物の写真を撮ろうとすると、いかにも「動物園で」という感じになってしまいます。
 もう少し「自然の中にいる」という演出ができないものでしょうか。
 ブツブツ…。

 顔も目も 一筆がきの まん丸で
 ほっぺは真っ赤
 四歳の孫娘(こ)よ

 紅葉手に 指あてがえば 握り締め
 丸い目で見る
 ゼロ歳の孫娘(こ)は

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阪神・淡路大震災十年

 二〇〇五年一月十七日が終わろうとしています。
 十年前の、この日早朝、電話で起こされました。
 「神戸が火の海だ。大地震だ」
 テレビをつけるとすごいことになっていました。
 関係者に電話をしまくりました。
 一息ついて、「京都の息子は、どうだったろうか?」。
 彼の部屋には電話がありませんでした。
 しばらくして、無事がわかりました。
 各地から救援、ボランティアの人が現地にかけつけました。
 大学生だった息子もボランティアに参加しました。
 「ボランティア元年」が始まりました。

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2005.01.24

野球の四国リーグ

 四国に野球の「独立チーム」をつくろうという計画が進んでいます。
 各県一球団の計四チームのリーグ戦。
 プロ野球オリックス元監督の石毛宏典さんの挑戦です。
 選手の月給十二万円。
 四月に開幕といいます。
 楽しみです。

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2005.01.27

宇高連絡船のうどんはおいしかったですね。

 東京に住み始めて三十七年になりますが、いまだに東京の店のうどんには、いまだになじめません。
 「からい」というか、「うどんの醤油漬づけ」のような感じだからです。
 でも、好物なので、しょっちゅう食べています。
 心の中で「なんで、こんな味なんだ」と、ブツブツいいながら……。

 おいしかったうどんといえば、宇高連絡船の船のデッキにあったうどん屋さんを思い出します。
 値段は手ごろで、つゆも、うどんも、具もOKでした。
 宇高連絡船は、岡山県の宇野駅と香川県の高松駅を約一時間で結ぶ航路でした。
 瀬戸大橋線の開業により、一九八八年四月月九日で廃止されました。
 高知大学に入って、学生自治会の執行委員、委員長になったころ、会議で京都市や東京都にいきはじめて、よく宇高連絡船に乗りました。
 二十歳で上京。高知への帰郷のときも、宇高連絡船でした。
 宇高連絡船の楽しみは、このデッキのうどん。

 これと同じ味のうどんを食べられる所が、いまあるでしょうか。
 知っているかた、教えていただければ幸いです。
 それと、東京で関西風の安くておいしいうどんを食べることのできる所を知っているかたも、ぜひ……。

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2005.02.01

土佐弁しかできない兄弟のフィリピン旅行 (再掲載)

 やっと、やっと二〇〇五年一月五日から正月休みです。
 この休み中の一月六日から十日まで高知県の「借地農民」の弟と二人でフィリピンにいく予定です。

 ●わおーっ。フィリピンにいくぞ●

 六日午後零時。
 ではフィリピンにいってまいります。
 できる言語は土佐弁のみという二人の海外旅行です。
 航空券とホテルだけは取っていますがガイドもなし。
 どうなることやら……。
 これはアドベンチャーです。
 まず最初の難関が入国ですが……。
 でも、思ったよりすんなりとマニラの空港から入国。
 まず、両替をしました。
 ホテルまでのタクシーを物色していたら、泊まることになっていたホテルのボーイと称する男性が出現。
 その男性の用意した「白タク」のようなのに乗ってのホテル入りしました。
 
 ●出合った花たちのこと●

 青空を 背景にして 咲き誇る
 ブーゲンビリアの
 透けるよな赤

 まずは、出合った花たちを紹介します。
 ☆ マニラのラサール公園、マラテ地区、コレヒドールなどで、いつも温室で見ている白い花が咲いていました。
 プリメリアです。
 キョウトウチク科プルメリア属。和名は、インドソケイです。
 この写真はマニラで。
 ☆ マニラ、コレヒドールなどでハイビスカスを見ました。
 アオイ科フヨウ属です。
 写真は、マニラで。
 ☆ ブーゲンビリアを、コレヒドールで撮りました。これも、いつも温室で見ている花ですが、青空の似合う花です。
 オシロイバナ科イカダカズラ属です。
 ☆ コレヒドールでパパイヤの花に出合いました。これは初めてです。
 パパイヤ科パパイヤ属です。

 ●セブンイレブンに銃を持った警備員●

 マニラでびっくりしたのは銃を持った警備員が、いろんな所にいたことです。
 七日午後、マラテ地区のコンビニエンスストア・ミニストップにいったら腰に銃を下げた男性の警備員がいて、ギョッ。なぜ、コンビニに……。
 八日早朝、高架鉄道のペドロヒル駅前のマクドナルドの店に入ったら、ここにも腰に銃を下げた男性の警備員がいました。
 近くのセブンイレブンに入ったら、ここも同様でした。
 さて、高架鉄道に乗ろうとしてペドロヒル駅に入ろうとしたら、入口で警備員が「待った」。
 「そこの机の上にバックを置いて、開けなさい」
 棒で中に入っているものを調べます。
 「これは? カメラ?」
 「そうです。カメラです」
 OKになって、やっと駅の中に入れました。
 この入口での検査は、首都圏鉄道でも同じでした。
 この遠出の帰りに、また、ペドロヒル駅前の中華の店「チョウキング」に入ったら、ここにも拳銃所持の警備員がいました。
 いやーっ、すごい街だなぁと思いました。
 泊まっているPホテルに向かっている途中にロビンソンデパートがあります。
 その前で車の整理をしている警備員は筒の長い銃を持っていました。同デパートに入ろうとすると、ここでも入口でバッグの中身を調べられました。
 すぐ近くのフィリピン総合病院の入口にも銃を持った警備員が…。
 うんざりもいいところです。
 極めつけは九日にアリストクラットという大衆レストランに入ろうとしたときのことです。
 ここはまわりに複数の筒の長い銃を持った警備員がいました。
 そして、入口にも銃を持った警備員がいて、バッグの検査をされました。
 どうなってるんだ!!

 ●日本の侵略の傷跡を見ておきたい●

 実は、このフィリピン旅行は、日本の侵略の傷跡を見ておきたいという意図でした。
 一九四一年十二月八日、日本軍によるマレー半島への上陸とハワイの真珠湾への攻撃で太平洋戦争が始まりました。
 真珠湾攻撃の十時間後、日本軍の編隊がフィリピンのルソン島中部のクラーク、イバのアメリカ軍基地の上空に達し、アメリカ軍戦闘機などを爆撃しました(当時は、アメリカがフィリピンを植民地支配していました)。日本軍は、同月二十二日にルソン島北西部のリンガエン湾から上陸。翌年一月二日、首都マニラに入城し、翌日、日本軍政を宣布しました。
 そして、四三年十月十四日、かいらい政権(「フィリピン共和国」)をつくりました。
 この間、フィリピン人抗日ゲリラが抵抗運動を続けます。
 四五年二月三日、アメリカ軍は、レイテ島から再上陸してマニラを奪回します。
 太平洋戦争中、戦争で亡くなったフィリッピン人は一説に百万人ともいわれます。
 戦争中、フィリピンで亡くなった日本人は軍民合わせて約五十一万八千人といわれます。「母の姉の夫の弟」も、その一人です。

 ●日本軍の憲兵隊本部や牢獄の跡●

 七日午前、マニラのサンチャゴ要塞にいきました。
 スペイン人が建てたものです。
 スペインが植民地支配した時代には牢獄、アメリカが植民地支配した時代にはアメリカ陸軍本部、日本の占領の時代には憲兵隊本部や牢獄として使われました。
 憲兵隊というのは陸軍の「警察」ですが、植民地では圧制の先頭に立ちました。
 フィリピン人の警備員が、僕たちを日本人と見て、地下牢の鍵を開けて内部を見せてくれました。
 当時の様子が人形や資料写真でわかるようになっていました。
 とにかく閉所恐怖症気味の僕には辛い見学でした。
 一九四五年二月、日本軍の残虐行為によって牢獄内で約六百人のフィリピン人とアメリカ人が死亡したといわれます。

 ●バスに乗ってカバナツアンへ●

 八日朝、マニラのエドウサ駅近くのバスターミナルからカバナツアンいきのバスに乗りました。
 「母の姉の夫の弟」が陸軍に召集され、この町で戦病死しているのです。
 くわしいことはわからないだろうが、どんな町だったのかだけでも見ておきたいという思いです。
 三時間以上かかりました。
 農業地帯の中のけっこうにぎやかな町でした。
 とにかく町を散歩。
 弟と二人で田植え風景を見ていると小学生くらいの女の子二人、男の子三人が「何してるの」「どこからきたの」と話しかけてきました。
 「日本から」というと「ジャパニーズ。ジャパニーズ」といって、いろいろ質問してきました。
 好奇心いっぱいのかわいい目をした子どもたちでした。
 まあ、ここは、いってきたというだけでしたが、ここにも日本の軍隊がきていたのかと複雑な気持ちでした。

 ●コレヒドールの元日本軍属のガイド●

 九日、コレヒドール島にいきました。
 多国籍の人々のツアーに参加しました。
 マニラからクルーズに乗り、島ではバスに分乗して移動しました。
 海が澄み切った美しい島でした。
 日本軍がフィリピンに侵攻する中、アメリカ極東軍最高司令官
ダグラス・マッカーサーやフィリピン独立準備政府大統領のマヌエル・ケソンが、この島に逃れ、指揮をとりました。
 一九四一年十二月に十九日から、この島の空襲を開始。この島の北西にあるバターン半島を攻略し、翌四二年五月、この島に激しい攻撃を加えて上陸。一万三千人余りいたアメリカ、フィリピンの軍人と民間人を捕虜にしました。
 マッカーサーやケソンは、その前に魚雷艇や潜水艦で別々にこの島を脱出しています。
 四五年二月、連合軍は、空と海からの攻撃で、この島に再上陸を果たしました。
 この時の戦闘で、この島を防衛中の日本軍約六千人の大半が戦死。連合軍も二百二十五人の死者、行方不明者を出しました。
 十数人の日本人のバスのガイドはフィリピン人男性・ウイリーさん(七十七歳)。
 「大和魂(やまとだましい)」
 「天皇陛下の軍人」
 「君が代の軍人」
 といった言葉が口をついて出ます。
 「君が代」、「海ゆかば」、「愛国行進曲」などを歌い、「軍人勅諭」を暗唱します。
 日本軍占領期に日本の軍属をしていたといいます。
 「英語を使うとビンタが飛んできた。すべて日本語だった」
 「日本軍の軍票を使わされたドルやゲリラの札を使うと死刑になった」
 この島で「日本帝国政府」が、当時、発行した軍票を十枚入手しました。

 もっと書きたいことがあったはずです。いつか「つづき」を書きたいと思っています。

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2005.02.02

東京都三宅島の避難指示解除

 ガスマスク 身近においての 生活か
 三宅の暮らし
 応援してるよ

 二〇〇五年二月一日夜、東京都三宅島(みやけしま)の避難指示解除。
 四年半ぶりに住民が島に帰ることができるようになりました。
 この日午後十時半過ぎ、東京の竹島桟橋から三宅島の人たちの第一陣が、船で三宅島に向かいました。
 明け方には島に着く予定です。

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2005.02.12

高知のブンタンをいただきました。

 土佐からの でかいブンタン 一つ切り
 甘い香りを
 さくさく食べる

 二〇〇五年二月十二日午前。
 高知市のOさんからブンタンをいただきました。
 早速、妻と二人で「わーっ、おいしい」。
 ありがとうございます。
 土佐市の西森貞男さんの農園でできたものでした。

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2005.02.16

東京都国分寺市のエックス山にいってきたよ。

20050215_025

 二〇〇五年二月十五日午後。
 出勤前に近くのお気に入りの食堂で昼食。そこで、ふと見た雑誌に東京都国分寺市の「エックス山」のことが出ていました。
 西恋ヶ窪三丁目だといいます。
 「エックス山」とは何? 国分寺に山はあったの?
 さっそくいってみました。
 スーパー・いなげ屋の裏の雑木林のことでした。(写真)
 そこに立っていた西恋ヶ窪緑地市民協議会、国分寺市環境部自然環境課の看板によると、正式には「西恋ヶ窪緑地」というそうです。
 「市内で最大の緑地」といいます。
 いいところです。
 でも、なぜ、「エックス山」というのでしょうか?

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2005.02.22

太陽色のブンタンが着きました。

 ふるさとの 光いっぱい たくわえた
 太陽色の
 ブンタンが着く

 二〇〇五年二月二十一日夜のことです。
 送ってくれたのは、高知市の高校一年生のときからの友人です。

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