● 【連載 父は水中の特攻隊員でした】 26 水中特別攻撃訓練の島、広島県の倉橋島では……。
【水中特別攻撃訓練の島、広島県の倉橋島では……】
「今日限り貴様達の命は、俺が預[あず]かった」
矢野統一たちの新しい任地、広島県の倉橋島に、矢野たちより前に上陸してみましょう。
かつて、特殊潜航艇(二人乗り)で真珠湾攻撃に参加したのは一九四〇年(昭和十五年)十一月採用の第一期の士官二人、一九四一年(昭和十六年)四月採用の士官十人、下士官十二人の中から選抜された人々でした。
訓練は愛媛県三机湾などでやられました。
このときの特殊潜航艇は、甲標的甲型でした。
その後、一九四二年(昭和十七年)には四十馬力の発電機を装備した三人乗りの甲標的乙型が完成しました(試作品で一艇のみ)。
そして、甲標的丙型が量産建造されました。
一九四三年(昭和十八年)三月、ここ倉橋島の大浦に海軍第六艦隊第一特別基地隊(P基地)が操業開始しました。
この年の末、坂口忠次(一九一八年一月生まれ)は、ここに赴任します。
和歌山市生まれの坂口は一九三六年(昭和十一年)、海軍に志願し入団。水兵科。軍艦天龍、駆逐艦白雲、駆逐艦雪風、駆逐艦浜風に乗り組み日中戦争、真珠湾攻撃、ミドウエイ海戦、ガダルカナル島からの撤退作業にも参加しました。
その後、一九四三年(昭和十八年)六月、第六艦隊の呉潜水艦基地隊勤務になります。
この基地隊は、呉市の呉海兵団の隣にありました。第六艦隊の司令部は呉港に浮かぶ客船・筑紫丸[つくしまる]でした。
そして、その年の秋、再度の命令で特殊潜航艇の第六期講習員としてP基地に赴任したのです。講習員は数十人でした。
「私達を乗せた、一見漁船のような工廠[こうしょう]の船が、音戸の瀬戸を通過する。……禿[は]げた赤土の小高い段丘、その麓[ふもと]、山肌を削って建てられた艇庫や、艇揚収用のグレーンが、何か重苦しい。海岸にポツンと建てられた二棟が、庁舎兼宿舎であろう。岸壁近くのブイに、玩具[がんぐ]のような艇が、司令塔だけ水上に見せて二、三隻浮いている。
第一印象は静かな基地であったが、入隊第一歩、度肝[どぎも]を抜かれた。庁舎前で一人の青年士官が、つかつかと出てくるなり『俺[おれ]は講習員隊長の黒木である』。妻の有無、年齢等の質問の後、『今日限り貴様達の命は、俺が預[あず]かった。終り』。の挨拶[あいさつ]である。私達は『今更[いまさら]、預かって貰[もら]わなくても、とっくの昔に、祖国に捧げていますわい』と思ったが、静かな基地の風物にくらべ、基地の空気は、なかなかであるらしい。
兵舎なき基地、私達は、工員宿舎に身を落ち着ける。……」(『青春の軌跡』。坂口忠次。編集者・坂口艶子。発行者・坂口益美)。
グレーンは、クレーンのことです。
黒木というのは岐阜県益田郡川西村(いまは下呂町)出身の黒木博司海軍少佐(一九二一年九月十一日生まれ)のことです。
海軍機関学校卒業後、戦艦・山城に乗り組み、その後、潜水学校普通科学生に採用され、一九四二年(昭和十七年)十二月、特殊潜航艇甲標的第五期講習員としてP基地に着任していました。
黒木少佐は仁科関夫少尉とともに、日本、アメリカの隔絶した工業力から、日本、アメリカの艦隊決戦においては有人の水中兵器による敵艦隊撃滅以外に勝利はあり得ないと人間魚雷構想を上申していました。
このP基地で坂口は、甲標的甲型、甲標的乙型、甲標的丙型の講習員として訓練しました。
六期講習員のほとんどが艦上経験者ばかりであり、簡単な机上の理論学から標的の構造へと、急ピッチでした。艇内のすべてが電気応用学であり、構造上特にその修得に力が入れられました。
クモの巣のような線路図に頭を悩まします。
体力の養成も毎日課せられ、凹凸[おうとつ]の隊の周[まわ]りを駆け足し、排球(バレーボール)、ラグビー、武道や精神統一もやられます。
毎日の一定時間は潜航訓練で、狭い艇内で空気まで制限されます。忍耐のうえにも忍耐を要求されていきます。
ある時は海底に突っ込んだり、目標艦と衝突したり危険を冒しながら訓練が続行されました。
一日の潜航訓練から浮上して、大きな口を開けて、汚れた空気、高温、高気圧の狭い甲標的のハッチを開きます。まず、ほんの少しあけて高圧の空気を出してから全部開きます。一気にやると鼓膜が破れるほどの痛さが走るのです。
大きく胸を張って外気を吸った瞬間、人間の住む世界が尊いものに思われます。
「この反面一番待遠しい外出は、月に二回くらいであり、私達はP基地を『鬼ヶ島』と名づけた。戦地を偲[しの]べば何のこともないが、安易さからくる贅沢心[ぜいたくしん]でもある。ただ『死ぬ為[ため]、かくまでも訓練せねばならぬのか。かくまでしなくても死ねるはずだが』と、疑心が湧[わ]くのであった。
……死につながるたゆまざる精神修養と訓練であった。最善をつくして闘[たたか]う。この陰には幾多大小の犠牲の伴[ともな]うのは必然であるが、一日でも生を得て日本の終幕を見たい望もあった。しかし、私達には、生きて日本の勝敗をみられようとは思っていなかった。特別攻撃隊に続く為[ため]、一種の光栄燃える祖国愛に、そして又[また]、心の一隅には、『路傍の石ころ』の如[ごと]く捨てられて行く事を自覚せぬでもなかった………」(前出)
黒木隊長は、たえず、国内の危急を吐露[とろ]しました。
「国敗れて何が山河だ。皇国護持が何だ。敗れてしまえば、国家も親兄弟もない。喜んで国難に殉じよう。そして、航空機の増産充実まで、われわれ水中特攻隊によって危機を切り抜ける。現在つくられつつある丁型標的[蛟竜[こうりゅう]]によって、南は豪州〔オーストラリア〕海域に進出、敵輸送路攻撃をやるのだ」
その抱負を語る黒木隊長の目のキラキラ光る目には涙がありました。
「講習員たちが呉に上陸(休暇で遊びに行くこと)したことがあります。一人が訓練の出発時間に遅れました。黒木隊長は、その講習員全員に『丘に登って故郷に向かってあいさつせよ』と命じました。その講習員が丘を降りてきたところで、講習員全員が横二列に並ばされました。連帯責任ということでグーのビンタを一発ずつくらいました。
私が黒木隊長にビンタをくらったのはこの時が最初で最後です。
黒木隊長は熱血漢で人情味のある人でした。
黒木隊長とは夏の暑い時、酒を飲んで裸で抱き合って踊ったこともあります」
坂口の述懐です。
この島の大入[だいにゅう]には呉海軍工廠[こうしょう]の分工場があって、そこは魚雷専門で回天をつくっていました。
一方、一九四三年(昭和十九年)七月、回天が二隻試作されました。魚雷の本体に外筒をかぶせて、一人乗りのスペースと潜望鏡を設けていました。炸薬量は一・五トンでした。搭乗員は潜望鏡で敵艦の位置を確認し、潜航操舵、敵艦へ突入します。搭乗員が乗ったら外からハッチを閉めます。中からは開かない仕組みになっていました。人間魚雷、的[てき]、〇六[まるろく]の別称もあります。回天という名は、「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いを込めて名づけられました。
黒木博司少佐、仁科関夫少尉が提唱していた兵器です。
坂口は、倉橋島に陸揚げされていた回天を見たことがあります。
全身黒色で、司令塔の左右に白で菊水がえがかれていました。
坂口も乗ってみました。操縦席は狭く、座ったらいっぱいという感じで、ちょっと冷たい感じがしました。
八月、回天が、正式に兵器として採用されました。
一九四三年(昭和十九年)九月一日、山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島に回天大津島基地が開隊しました。
倉橋島の講習員も何人か志願し、この基地に移っていました。
坂口は志願しませんでした。「そんなに死に急ぐことはないわい」と、いう思いでした。
九月七日、樋口孝海軍大尉、黒木博司海軍海軍大尉は、ここの黒髪島沖で回天第一号の航走訓練中に海底に突入して死亡しました。
一九四四年(昭和十九年)三月ころ、坂口たちは、P基地での講習を終えました。
四月、坂口たちの甲標的丙型はトラック島基地進出を命じられます。
乗組員たちは「トラック島へ行くより、靖国神社[やすくにじんじゃ]へ行くほうが早いわい」と、いいあいました。
靖国神社というのは、東京都にある神社です。祭神は近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争で朝廷側および日本政府側で戦役につき戦没した軍人・軍属らです。対象となる人物の国籍については、日本国民および死亡時に日本国民であった(日本領であった台湾・朝鮮半島などの出身者を含む)者に限られています。当初は祭神は「忠霊」「忠魂」と称されていたが、日露戦争後に「英霊」と称されるようになりました。内務省が人事を、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が祭事を統括しました。
トラック島基地への進出が開始されました。
新造船・昭建丸(千数百トン)が甲標的丙型を曳航[えいこう]します。
五月三十日夜十時半ころ、敵の魚雷が昭建丸に命中しました。
坂口は、海に逃れます。炎上し沈没する昭建丸……。
坂口は、翌日朝七時ころ、水雷艇千島に救助されます。
そして、サイパン島に上陸します。
六月五日、内地から「甲標的隊員生存者は、至急に内地へ帰投せよ」の電報がありました。坂口たちは、日本に向かいます。またP基地に戻ってきました。
「 わずか二カ月足らずであったが、基地は兵舎が増築され、次の講習員と、学業半ばで国難に殉じようとする多くの予備学生の張り切った姿が見られた。『別府温泉で静養してもよい。』との許可も出たが、散っていった友を思い断った。はやる心は次の訓練であり、人に知られぬP基地は、今や祖国愛に純情を捧げる若者達が、奇蹟[きせき]のない限り生還を望めぬ死への訓練に、安芸灘[あきなだ]の水中を潜[もぐ]るのであった」(前出)
十月一日、海軍第十三期甲種予科練習生出身の横井順一たちは、山口県の大竹潜水学校から倉橋島大迫のQ基地(大迫支隊)に到着します。
十一期講習生です。
ここでの様子を横井が書いています(『嗚呼[ああ] 特殊潜航艇 標的の仲間たち』)。
兵舎の一階は、回天を受講中の要員の居住区でした。要員は、横井と同じ三重海軍航空隊奈良分遺隊の十三期甲種予科練習生出身者でした。
横井たちは、この二階を宿舎にあてられました。
回天の要員との会話は厳禁されました。彼らは、間もなく山口県光市の基地へ転隊していきました。
横井たちは、特殊潜航艇の機構についての座学を受けます。
P基地にいって艇の実物で勉強します。
横井たちの搭乗するのは五人搭乗の蛟竜[こうりゅう]でした。
十月末、上官が「艇付[ていづき]四名、気の合った者同士でペアを組め!」と、いわれました。
横井は、同じ香川県出身の多田康男、加藤幹夫、中北照彦とペアになりました。加藤が水雷、多田が内火、中北が電信、横井が航海(後で電気に変更)を担当しました。
十一月一日、横井たちは、入隊十一か月目に任官。五つボタンの下士官服を支給されました。二等飛行兵曹です。
多田兵曹は工機学校へ、中北兵曹は通信学校へと、高等科専修のために出発しました。
横井兵曹、加藤兵曹は操縦訓練を始めました。艇長は、十二期の安田[やすだ]勝行少尉です。
訓練の日は、早朝、大発動艇[だいはつどうてい]でP基地に行き、訓練艇に搭乗し決められた海域に出て潜航訓練をします。
この間、先輩の遭難事故がありました。八十五号艇でした。
十二月二十三日、横井は横須賀海軍工機学校高等科専修生として学ぶため横須賀市に向かい出発しました。学校は一九四五年(昭和二十年)二月下旬までです。
(藤原尋子・義一)
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